西の端へ向かう渡り廊下は、灯の帯がところどころ千切れていた。
灯篭が吐き出す息が乱れ、風鈴の音が半音だけ低い。均衡が傾くと、音の“骨”がまず折れる。折れた骨は鳴り方を忘れる。鳴り方を忘れた場所へ、喪は寄ってくる。
「更、ここで一度、呼吸を合わせる」
朔弥が立ち止まり、手首の朱の結び目をそっと押さえた。私の脈と、朱の脈と、灯の脈。三つが揃うまで、数を数える。
「三、二、一」
息が合う。足の裏の温度が戻る。走る。
西庭は、祭の中心から外れているぶん、人気(ひとけ)が薄い。灯の海は浅く、陰は濃い。古い楠(くす)の根元で、灯の面が一枚、破れていた。和紙が湿ったように沈み、縁に細い裂け目が走る。
「破り目が“内から外”だ」
朔弥が膝をつき、指先で和紙の端を持ち上げる。
「内側にいる奴が、外へ抜けた」
「内側……学院の誰か」
「そうなる」
土の匂いに、別の匂いが混ざっていた。墨ではない。火でもない。薬。
私は自分の袖を嗅ぎ、首を横に振った。
「この薬は、私のところでは扱っていない」
「匂いがわかるのか」
「凪の店で、間違い探しは鍛えられたから」
木の根に鼻を寄せる。甘いのに、底に金属の苦味がある。舌先が痺れる種類。
「“落色(らくしき)”だわ。墨の黒をわずかに薄める薬。上塗りにも使う」
「……上塗りの匂いだな」
私たちは目配せし、破り目の向こう――校舎の西翼へ入った。廊下の板は猫の背のようにしなり、壁に掛けられた図版の端が微かに揺れている。
この棟に、学院の書記局がある。儀礼の記録、出納、諸規則の改訂、そして祭礼用の下絵の保管。“正しい仕事”の中心。
扉の前で足が止まった。
静かすぎる。
紙の匂いが薄い。
夜の書記局なら、紙の匂いが濃くて当たり前だ。薄いということは、どこかに紙が移動している。あるいは、匂いごと覆っている。
「入る」
朔弥が指で印を切り、錠が音もなく緩む。扉が開いた。
中は整然としていた。机は磨かれ、筆は穂先を揃えて伏せられ、帳簿は背表紙の高さが揃えられている。美しい。
美しすぎる。
「“誰かが正しい仕事をしているとき、その手元はきれいすぎる”」
狐面の声が、耳の奥で嘲るように蘇る。
私は机を覗き込み、筆洗(ひっせん)をそっと持ち上げた。水は澄んでいる。祭の夜に、ここまで澄んでいるはずがない。
「片付けが早いのではなく、手をつけていない」
言葉が喉を抜けると同時に、背筋の冷えが増した。
「御用の方?」
背後から声。
振り返ると、淡い褐色の髪を結い上げた上級生が立っていた。書記局の紋を襟元につけている。涼しい目をした、綺麗な人。
「局は閉局のはずだけれど」
「生徒会長の臨検だ」
朔弥が狐面越しに告げる。
「祭礼図版の保管棚を見せろ」
「鍵は局長の腰です」
「その局長は?」
「――行方が知れません」
私たちは視線を交わした。
上級生はおびえた様子もなく、必要以上の説明もしない。声は落ち着いている。落ち着きが、少しだけ過剰だ。
「あなたのお名前は?」
「掟により、名乗りは致しません。局の者、とだけ」
「“正しい仕事”の人ね」
私が言うと、彼女は一瞬だけ目を大きくして、それから笑った。
「あなた、面白い人」
「あなたも」
朔弥は棚の前に立ち、印で鍵を開けた。
中にあるべき巻物が、一本だけ空(から)になっていた。
灯篭祭・中庭・影印配置図――空の軸だけが残り、紙巻きは抜き取られている。
「印璽の箱と同じ“黒漆の匂い”がする」
私は軸に鼻を近づけ、ひくく呟いた。
「局長が持ち出したのでしょう。あなた方が探している“裏切り者”は局長だと、皆が噂している」
上級生の口調は淡々としている。
「皆?」
「“皆”という言葉は便利です。名を出さずに責任を分散できるから」
皮肉とも提言ともつかない言い方。
私は彼女の指先を見た。
爪に墨がない。掌にペンだこも、筆だこも薄い。書記局の者の手とは思えないほど、きれいだ。
――“誰かが正しい仕事をしているとき、その手元はきれいすぎる”
狐面のヒントが、またここで輪郭を持つ。
「あなたは“書く”人ではないのね」
問うと、彼女はわずかに首を傾げた。
「私は“整える”人。紙の向き、墨の濃淡、印の位置。そういうものを“正しく”する係」
「つまり、上塗りも“整え”のうち?」
彼女の瞳に、小さな皺が寄った。
「言葉は選ぶべきだと思うけれど」
「選んだわ。私は“上塗り”と言ったの」
空気が硬くなる。廊下の風鈴の音が遠くなった。
朔弥は面を少しだけ傾け、私の前に出た。
「局長の所在と、最後に会った時刻を言え」
「夕刻。印璽の確認のために中庭へ、と」
「同行したか」
「していません」
「鍵は?」
「――預かっています」
彼女は懐から古い真鍮の鍵を出した。
「あなたは賢いから、まず鍵を疑うと思って。これがここにある限り、局長が犯人ではない、そう言えるでしょう?」
「鍵はひとつとは限らない」
「ええ。ですから、“誰でも犯人になれる”。それが均衡の作法です」
均衡。
狐面の語彙。
私の足の裏が、すり硝子の上に立ったみたいにざらついた。
「聞くわ。――あなたは、私の名を“書いた”?」
彼女は一瞬だけ呼吸を止め、それから丁寧に首を横に振った。
「私は“書かない”係。書くのは、局長。……もっとも、局長が“書かない”日もある」
「誰が書く?」
「“正しすぎる”手」
「あなたは誰の側?」
「正しい側」
その言い方が、いちばん怖い。
正しさは刃だ。向ける相手次第で、救いにも罰にもなる。
私は一歩、彼女に近づいた。
「正しさで、人は守れる?」
「均衡は守れます」
「人は?」
「均衡が守られれば、人はどこかで守られます」
どこか。
私は、その“どこか”から漏れている。
空気の重心が、わずかに傾いた。
廊下の先で、羽音がした。
「更!」
羽根の少年が駆け込んできて、息を弾ませた。
「中庭の南側、**喪が二重(ふたえ)**に。術札が一部、裏返しに貼られてる!」
「裏返し?」
「誰かが、触れる側を外に向けた」
上塗りではない。反転。
私は書記局の上級生を見た。彼女は表情を変えない。
「行く」
朔弥が踵を返し、廊下へ躍り出た。
私は一歩、遅れて続く。
「あなたは?」
振り返って問うと、上級生は肩をすくめた。
「局は動かない。正しさは動揺を嫌うから」
「――嫌いだわ、そういう言い方」
「知っています。そういう顔をしているもの」
走りながら、私は羽根の少年に並んだ。
「見た?」
「貼り直しの“手”は見てない。でも、匂いが――薬」
落色。
「君、鼻がいいのね」
「羽根の分、耳と鼻に回ってるのかも」
軽口を交わす間にも、風鈴の骨が折れる音が近づいてくる。
南の中庭は、灯の輪があちこちで“裏返し”になっていた。術札の裏面の繊維が表に出ており、墨の線は地面側に隠れている。
「表裏をひっくり返すと、意味が変わる」
私は膝をつき、札の端に細工筆を差し込んで、そっと起こした。裏面に薄い薬が塗ってある。触れた指先が痺れる。
「“触れた者だけ”が痺れて指を離す。貼り直しをさせないための罠」
「貼り直しは俺がやる」
朔弥が割り込むように膝をつき、素手で札を掴んだ。
「ダメ、毒が――」
言いかけたときには、もう遅かった。
彼の指先に、薄い金の毛がわずかに立つ。耳の根が、面の下でぴくりと動く。半妖の反射だ。
「っ……」
薬が、彼の指先で焼けた。
匂いが変わる。金属の痺れが、狐火の熱で鈍る。
彼はためらいなく札を剥がし、正しい面を表にして押し返した。
指先の皮膚が赤くなり、爪の間からわずかに血が滲む。
「朔弥!」
呼ぶと、彼は首を振った。
「平気だ。あとで返す」
返す――貸しを。
羽根の少年が、別の札を指さした。
「これ、裏返した上に線が一本足りない!」
私は筆を取り、失われた線を補った。線は呼吸。崩れた呼吸に、別の拍を与える。
瞬間、地面の下で何かが鳴いた。
喪の屑が、押し出されて、灯の上へ浮かぶ。
浮かんだ影の表面に、文字が走った。
墨の薄い跡。誰かの手。
それは名前ではない。
真名に至る手前――呼び名だ。
モノ……
「――“モノヱ”」
口が、先に読んだ。
瞬時に、影が震える。
喪が、顔を持つ。
「やめろ、更!」
朔弥の声が落ちる。
「真名を掴むのは刃の柄だ。握り方を間違えるな」
「握れる」
私の喉に、あの夜から続く冷たさが入ってきた。
婚約破棄の宣明。
書記局の“正しい手”。
狐面の笑い。
全部を、一本の線に束ねる。
「モノヱ」
呼ぶのではない。
たたむ。
“ヱ”の腹を、少しだけ閉じる。
枝を抜いて、“口”を残す。
呼び名を、器にする。
器は、皿――“更”の切り口と、同じ形。
喪の影が、皿に流れ込むみたいに、灯の輪の内側へ沈んだ。
「いける……!」
羽根の少年が息を呑む。
「“モノヱ”は、“ものの残り”の意。器に入れれば、残りは残りに戻る」
私の声は不思議と落ち着いていた。
喪は抵抗した。皿の縁でざらざらと擦れ、文字の形が崩れかける。
誰かが、私の名を呼ぶ音を背に乗せて、皿から逃がそうとする。
「呼ばせない」
私は袖から凪の風鈴を取り出し、皿の縁で鳴らした。
細い音。
正しすぎない音。
音は、皿の縁を滑らかにし、喪の残りを中へ落とした。
灯の輪が、一度だけ高く鳴る。
“モノヱ”は、器となり、名を失った。
残ったのは、黒い薄片と、ひとつの筆癖。
私は薄片を指で摘み、光に透かした。
「この癖、どこかで――」
書記局の机に並んでいた、教本の字。
個性を消し、正しさだけを残す字形。
「やっぱり、内側」
呟くと、背後から拍手の音がした。
狐面。
いつからいたのか、廊下の柱の影にもたれている。
「いいね。真名の“呼吸”をたたむのは、勇気のいる仕事だ」
朔弥が一歩、前へ出る。
「舞台は降りろ。観客をやめろ」
「観客でいられるなら、どれだけ楽か。――ところで、会長。耳が出ている」
狐面の視線が、面の端から覗く狐耳の根へ滑った。
周囲にいた生徒たちの息が、一瞬、固まる。
「見たこと、忘れろ」
朔弥の声は低く、それでいて礼式の形を保っていた。
「会長の命令だ」
「命令は、劇的だ」
狐面は肩を揺らし、視線を私へ。
「君が“皿”で受けた残り、返しに来るよ。舞台の都合上ね」
「いらない」
即答すると、狐面は面の口を笑わせた。
「正しい。だが舞台は、君の“いらない”を欲しがる」
次の瞬間、狐面は柱の影に紛れ、灯の層の間に消えた。
残ったざわめきが、遅れて私たちを包む。
朔弥は面の紐を指で確かめ、淡々と言った。
「――露見したな」
「隠すつもり、あったの?」
「いつもは、ある」
「今日は?」
「ない」
面越しでもわかるくらい、声が笑った。
羽根の少年が、私たちを見比べて、困ったように笑う。
「会長、かっこよかったです。……痛くないですか」
「痛い。だが、ちょうどいい」
同じ言葉。
私の胸の奥で、どこかの結び目がひとつ、固くなる。
祭はまだ終わっていない。
“モノヱ”の残りが皿に沈んでも、書記局の手はどこかで紙を整え、均衡を都合よく保とうとする。
私たちは書記局へ戻ることにした。足音は速いが、心は急がないようにした。急ぐと、見逃す。
机。筆洗。鍵。
何も変わっていないようで、ひとつだけ変わっていた。
空だった巻物の軸に、新しい紙が巻かれている。
「戻した?」
「いや、誰かが“別の紙”を入れた」
朔弥が巻き始めを掴む。
紙は清潔で、墨は薄い。落色の薬が混ざっている。
そこには、丁寧な字で、こう記されていた。
> 均衡のための上塗り
> 影印は、一度、喪に触れさせよ。
> その後、正しさで塗り潰せ。
> 人はどこかで守られる。
署名はない。
けれど、正しすぎる手の匂いが、紙の繊維の奥に沈んでいる。
「“局長”じゃない」
気づいた自分の声が、少し震えた。
「局長なら、もっと慌てた字を書く。これは、誰かの“練習”の字。ずっと、ここで練習していた人の」
視線を上げる。
そこに立っていたのは、さっきの上級生だった。
涼しい目。きれいな手。
彼女は微笑み、丁寧に一礼した。
「いらっしゃい」
「あなたね」
「いいえ。私は書かない。整えるだけ」
「でも、“整え”は、書いた者よりも深く、紙の中に残る」
彼女は目を細め、初めて言葉を選ぶのに迷った。
「……あなたの言葉は、刃ね」
「あなたの正しさも」
沈黙。
朔弥が口を開く。
「局長の所在」
「契り堂」
即答。
「“外”を“内”にした、あのときから、戻れていない」
「助ける気は」
「あります。正しいから」
正しさが、ここではじめて救いの形をとる。
彼女は机の最下段から小さな木箱を取り出した。中には、細い筆と、金の粉が少し。
「“均衡の金”です。狐王家から伝わる微粉。上塗りの薬を鈍らせる」
「どうして、私たちに」
「あなたたちが“舞台”を嫌うから。……わたしは舞台が嫌いではない。でも、観客に仕立てられるのはいや」
狐面の“観客/演者”の語彙が、別の意味でここに着地する。
私は木箱を受け取り、深く一礼した。
「ありがとう」
「礼は、朝に」
同じ言い方を、彼女もした。
“正しい側”にも、人がいる。
契り堂へ戻る道は、行きよりも暗くなっていた。灯の密度は回復しつつあるのに、影の音が濃い。
堂の前で、私たちは足を止めた。
扉は閉じている。
ノックすると、しばらくして、中から乾いた拍子木。
「局長!」
返事はない。
朔弥が印を切り、扉を押した。
中に入ると、最奥の壁の前に、人影が膝を抱えて座っていた。
白髪混じりの、細い肩。
「局長」
私が呼ぶと、彼は顔を上げた。乾いた目。
「すまない」
たった一言。
「私は“正しい”と思った。影印に喪を触れさせ、均衡の強さを証明するべきだと」
「誰にそう言われた」
「誰にも。自分がそう書いた」
彼は壁の紙を指さした。
そこには、先ほどと同じ文言が、少し乱れた字で綴られていた。
似ている。
でも、違う。
私は膝をつき、紙と彼の指先を見比べた。
「あなたの字は“焦り”がある。あの清潔な紙に書かれた字は、練習の字」
局長は目を伏せた。
「私にも、整えてくれる“手”がいた」
書記局の上級生。
彼女は“書かない”。ただ“整える”。
整えた正しさが、誰かの正しさより強くなるときがある。
「局長。――あなたは犯人ではなく、舞台装置」
言いながら、自分の言葉に寒気がした。
狐面の“舞台”は、いつの間にかここにも敷かれている。
朔弥は局長の手を取り、指先の冷えを確かめた。
「外へ出る。……均衡は、人の外に置くな」
「はい」
局長の返事は、少しだけ、泣いていた。
堂を出ると、夜の骨がわずかに軋んだ。
風鈴の音が、一瞬、すべて止んだ。
「――来る」
朔弥が呟いた。
灯の海の向こうで、狐面が立っていた。
ひとりではない。
二人。
もう一枚の狐面は、面の口に黒い糸を渡し、面の奥の喉を縫い留めている。
「舞台の口上を省略しよう」
彼らの間から、乾いた声。
「君の“皿”に残った“モノヱ”の残り、今、返す」
黒い糸が切れ、面の奥から囁きが溢れた。
――さらさ。
皿の縁が、喉の奥で鳴る。
私は風鈴を握りしめ、朱の結び目を、きつく締め直した。
「返さなくていい」
「返すのが正しい。ねえ、会長?」
狐面が、朔弥へ首を傾げる。
朔弥は面を外さず、一歩、前へ出た。
「正しいかどうかは、俺が決める」
彼は面の端に指をかけ、ひと呼吸だけ置いた。
灯が、一枚、落ちる。
次の瞬間、彼の耳が面の外へ露わになった。
金の毛が風を裂く。
「――守る」
短い宣言が、灯の海の骨を元に戻す。
朱の結び目が、掌の中で熱くなった。
返される“残り”は、皿の縁で跳ねた。
私は風鈴を鳴らし、金の粉を唇で少しだけ湿らせ、筆先へ移した。
皿の縁を塗る。
正しすぎない線で、包む。
“返し”は、皿の底で眠り、灯の輪へ溶けた。
狐面が一歩、退く。
「……つまらない結末を、よくこんなに美しくする」
「結末は、まだ」
私が言うと、狐面は面の口を笑わせた。
「そう。――まだ、始まりだ」
祭の鐘が、遠くで三度、鳴った。
夜明けの一刻前。
風鈴の音が、少しずつ高くなる。
狐面は背を返し、灯の層へ沈んだ。
残った空気の温度が、ゆっくりと人間の温度に戻る。
朔弥が、私の手首から朱の結びをほどいた。
「返す」
「……もう少し、貸して」
我ながら、わがままだと思った。
けれど、彼は短く笑って、結び直した。
「朝まで」
「約束」
“モノヱ”の真名は、皿の底で眠っている。
書記局の“正しい手”は、どこかで次の上塗りを整えるだろう。
でも私は、もう待たない。
婚約破棄の夜に切れた線を、私は自分の手で縫い始めている。
灯の縫い目が、夜明けの光でひと針ずつ浮かびあがる。
私は小さく息を吐き、心の中で、自分の名を呼んだ。
――更。
返事は、胸骨の裏から、前よりも近く返ってきた。
(つづく)
灯篭が吐き出す息が乱れ、風鈴の音が半音だけ低い。均衡が傾くと、音の“骨”がまず折れる。折れた骨は鳴り方を忘れる。鳴り方を忘れた場所へ、喪は寄ってくる。
「更、ここで一度、呼吸を合わせる」
朔弥が立ち止まり、手首の朱の結び目をそっと押さえた。私の脈と、朱の脈と、灯の脈。三つが揃うまで、数を数える。
「三、二、一」
息が合う。足の裏の温度が戻る。走る。
西庭は、祭の中心から外れているぶん、人気(ひとけ)が薄い。灯の海は浅く、陰は濃い。古い楠(くす)の根元で、灯の面が一枚、破れていた。和紙が湿ったように沈み、縁に細い裂け目が走る。
「破り目が“内から外”だ」
朔弥が膝をつき、指先で和紙の端を持ち上げる。
「内側にいる奴が、外へ抜けた」
「内側……学院の誰か」
「そうなる」
土の匂いに、別の匂いが混ざっていた。墨ではない。火でもない。薬。
私は自分の袖を嗅ぎ、首を横に振った。
「この薬は、私のところでは扱っていない」
「匂いがわかるのか」
「凪の店で、間違い探しは鍛えられたから」
木の根に鼻を寄せる。甘いのに、底に金属の苦味がある。舌先が痺れる種類。
「“落色(らくしき)”だわ。墨の黒をわずかに薄める薬。上塗りにも使う」
「……上塗りの匂いだな」
私たちは目配せし、破り目の向こう――校舎の西翼へ入った。廊下の板は猫の背のようにしなり、壁に掛けられた図版の端が微かに揺れている。
この棟に、学院の書記局がある。儀礼の記録、出納、諸規則の改訂、そして祭礼用の下絵の保管。“正しい仕事”の中心。
扉の前で足が止まった。
静かすぎる。
紙の匂いが薄い。
夜の書記局なら、紙の匂いが濃くて当たり前だ。薄いということは、どこかに紙が移動している。あるいは、匂いごと覆っている。
「入る」
朔弥が指で印を切り、錠が音もなく緩む。扉が開いた。
中は整然としていた。机は磨かれ、筆は穂先を揃えて伏せられ、帳簿は背表紙の高さが揃えられている。美しい。
美しすぎる。
「“誰かが正しい仕事をしているとき、その手元はきれいすぎる”」
狐面の声が、耳の奥で嘲るように蘇る。
私は机を覗き込み、筆洗(ひっせん)をそっと持ち上げた。水は澄んでいる。祭の夜に、ここまで澄んでいるはずがない。
「片付けが早いのではなく、手をつけていない」
言葉が喉を抜けると同時に、背筋の冷えが増した。
「御用の方?」
背後から声。
振り返ると、淡い褐色の髪を結い上げた上級生が立っていた。書記局の紋を襟元につけている。涼しい目をした、綺麗な人。
「局は閉局のはずだけれど」
「生徒会長の臨検だ」
朔弥が狐面越しに告げる。
「祭礼図版の保管棚を見せろ」
「鍵は局長の腰です」
「その局長は?」
「――行方が知れません」
私たちは視線を交わした。
上級生はおびえた様子もなく、必要以上の説明もしない。声は落ち着いている。落ち着きが、少しだけ過剰だ。
「あなたのお名前は?」
「掟により、名乗りは致しません。局の者、とだけ」
「“正しい仕事”の人ね」
私が言うと、彼女は一瞬だけ目を大きくして、それから笑った。
「あなた、面白い人」
「あなたも」
朔弥は棚の前に立ち、印で鍵を開けた。
中にあるべき巻物が、一本だけ空(から)になっていた。
灯篭祭・中庭・影印配置図――空の軸だけが残り、紙巻きは抜き取られている。
「印璽の箱と同じ“黒漆の匂い”がする」
私は軸に鼻を近づけ、ひくく呟いた。
「局長が持ち出したのでしょう。あなた方が探している“裏切り者”は局長だと、皆が噂している」
上級生の口調は淡々としている。
「皆?」
「“皆”という言葉は便利です。名を出さずに責任を分散できるから」
皮肉とも提言ともつかない言い方。
私は彼女の指先を見た。
爪に墨がない。掌にペンだこも、筆だこも薄い。書記局の者の手とは思えないほど、きれいだ。
――“誰かが正しい仕事をしているとき、その手元はきれいすぎる”
狐面のヒントが、またここで輪郭を持つ。
「あなたは“書く”人ではないのね」
問うと、彼女はわずかに首を傾げた。
「私は“整える”人。紙の向き、墨の濃淡、印の位置。そういうものを“正しく”する係」
「つまり、上塗りも“整え”のうち?」
彼女の瞳に、小さな皺が寄った。
「言葉は選ぶべきだと思うけれど」
「選んだわ。私は“上塗り”と言ったの」
空気が硬くなる。廊下の風鈴の音が遠くなった。
朔弥は面を少しだけ傾け、私の前に出た。
「局長の所在と、最後に会った時刻を言え」
「夕刻。印璽の確認のために中庭へ、と」
「同行したか」
「していません」
「鍵は?」
「――預かっています」
彼女は懐から古い真鍮の鍵を出した。
「あなたは賢いから、まず鍵を疑うと思って。これがここにある限り、局長が犯人ではない、そう言えるでしょう?」
「鍵はひとつとは限らない」
「ええ。ですから、“誰でも犯人になれる”。それが均衡の作法です」
均衡。
狐面の語彙。
私の足の裏が、すり硝子の上に立ったみたいにざらついた。
「聞くわ。――あなたは、私の名を“書いた”?」
彼女は一瞬だけ呼吸を止め、それから丁寧に首を横に振った。
「私は“書かない”係。書くのは、局長。……もっとも、局長が“書かない”日もある」
「誰が書く?」
「“正しすぎる”手」
「あなたは誰の側?」
「正しい側」
その言い方が、いちばん怖い。
正しさは刃だ。向ける相手次第で、救いにも罰にもなる。
私は一歩、彼女に近づいた。
「正しさで、人は守れる?」
「均衡は守れます」
「人は?」
「均衡が守られれば、人はどこかで守られます」
どこか。
私は、その“どこか”から漏れている。
空気の重心が、わずかに傾いた。
廊下の先で、羽音がした。
「更!」
羽根の少年が駆け込んできて、息を弾ませた。
「中庭の南側、**喪が二重(ふたえ)**に。術札が一部、裏返しに貼られてる!」
「裏返し?」
「誰かが、触れる側を外に向けた」
上塗りではない。反転。
私は書記局の上級生を見た。彼女は表情を変えない。
「行く」
朔弥が踵を返し、廊下へ躍り出た。
私は一歩、遅れて続く。
「あなたは?」
振り返って問うと、上級生は肩をすくめた。
「局は動かない。正しさは動揺を嫌うから」
「――嫌いだわ、そういう言い方」
「知っています。そういう顔をしているもの」
走りながら、私は羽根の少年に並んだ。
「見た?」
「貼り直しの“手”は見てない。でも、匂いが――薬」
落色。
「君、鼻がいいのね」
「羽根の分、耳と鼻に回ってるのかも」
軽口を交わす間にも、風鈴の骨が折れる音が近づいてくる。
南の中庭は、灯の輪があちこちで“裏返し”になっていた。術札の裏面の繊維が表に出ており、墨の線は地面側に隠れている。
「表裏をひっくり返すと、意味が変わる」
私は膝をつき、札の端に細工筆を差し込んで、そっと起こした。裏面に薄い薬が塗ってある。触れた指先が痺れる。
「“触れた者だけ”が痺れて指を離す。貼り直しをさせないための罠」
「貼り直しは俺がやる」
朔弥が割り込むように膝をつき、素手で札を掴んだ。
「ダメ、毒が――」
言いかけたときには、もう遅かった。
彼の指先に、薄い金の毛がわずかに立つ。耳の根が、面の下でぴくりと動く。半妖の反射だ。
「っ……」
薬が、彼の指先で焼けた。
匂いが変わる。金属の痺れが、狐火の熱で鈍る。
彼はためらいなく札を剥がし、正しい面を表にして押し返した。
指先の皮膚が赤くなり、爪の間からわずかに血が滲む。
「朔弥!」
呼ぶと、彼は首を振った。
「平気だ。あとで返す」
返す――貸しを。
羽根の少年が、別の札を指さした。
「これ、裏返した上に線が一本足りない!」
私は筆を取り、失われた線を補った。線は呼吸。崩れた呼吸に、別の拍を与える。
瞬間、地面の下で何かが鳴いた。
喪の屑が、押し出されて、灯の上へ浮かぶ。
浮かんだ影の表面に、文字が走った。
墨の薄い跡。誰かの手。
それは名前ではない。
真名に至る手前――呼び名だ。
モノ……
「――“モノヱ”」
口が、先に読んだ。
瞬時に、影が震える。
喪が、顔を持つ。
「やめろ、更!」
朔弥の声が落ちる。
「真名を掴むのは刃の柄だ。握り方を間違えるな」
「握れる」
私の喉に、あの夜から続く冷たさが入ってきた。
婚約破棄の宣明。
書記局の“正しい手”。
狐面の笑い。
全部を、一本の線に束ねる。
「モノヱ」
呼ぶのではない。
たたむ。
“ヱ”の腹を、少しだけ閉じる。
枝を抜いて、“口”を残す。
呼び名を、器にする。
器は、皿――“更”の切り口と、同じ形。
喪の影が、皿に流れ込むみたいに、灯の輪の内側へ沈んだ。
「いける……!」
羽根の少年が息を呑む。
「“モノヱ”は、“ものの残り”の意。器に入れれば、残りは残りに戻る」
私の声は不思議と落ち着いていた。
喪は抵抗した。皿の縁でざらざらと擦れ、文字の形が崩れかける。
誰かが、私の名を呼ぶ音を背に乗せて、皿から逃がそうとする。
「呼ばせない」
私は袖から凪の風鈴を取り出し、皿の縁で鳴らした。
細い音。
正しすぎない音。
音は、皿の縁を滑らかにし、喪の残りを中へ落とした。
灯の輪が、一度だけ高く鳴る。
“モノヱ”は、器となり、名を失った。
残ったのは、黒い薄片と、ひとつの筆癖。
私は薄片を指で摘み、光に透かした。
「この癖、どこかで――」
書記局の机に並んでいた、教本の字。
個性を消し、正しさだけを残す字形。
「やっぱり、内側」
呟くと、背後から拍手の音がした。
狐面。
いつからいたのか、廊下の柱の影にもたれている。
「いいね。真名の“呼吸”をたたむのは、勇気のいる仕事だ」
朔弥が一歩、前へ出る。
「舞台は降りろ。観客をやめろ」
「観客でいられるなら、どれだけ楽か。――ところで、会長。耳が出ている」
狐面の視線が、面の端から覗く狐耳の根へ滑った。
周囲にいた生徒たちの息が、一瞬、固まる。
「見たこと、忘れろ」
朔弥の声は低く、それでいて礼式の形を保っていた。
「会長の命令だ」
「命令は、劇的だ」
狐面は肩を揺らし、視線を私へ。
「君が“皿”で受けた残り、返しに来るよ。舞台の都合上ね」
「いらない」
即答すると、狐面は面の口を笑わせた。
「正しい。だが舞台は、君の“いらない”を欲しがる」
次の瞬間、狐面は柱の影に紛れ、灯の層の間に消えた。
残ったざわめきが、遅れて私たちを包む。
朔弥は面の紐を指で確かめ、淡々と言った。
「――露見したな」
「隠すつもり、あったの?」
「いつもは、ある」
「今日は?」
「ない」
面越しでもわかるくらい、声が笑った。
羽根の少年が、私たちを見比べて、困ったように笑う。
「会長、かっこよかったです。……痛くないですか」
「痛い。だが、ちょうどいい」
同じ言葉。
私の胸の奥で、どこかの結び目がひとつ、固くなる。
祭はまだ終わっていない。
“モノヱ”の残りが皿に沈んでも、書記局の手はどこかで紙を整え、均衡を都合よく保とうとする。
私たちは書記局へ戻ることにした。足音は速いが、心は急がないようにした。急ぐと、見逃す。
机。筆洗。鍵。
何も変わっていないようで、ひとつだけ変わっていた。
空だった巻物の軸に、新しい紙が巻かれている。
「戻した?」
「いや、誰かが“別の紙”を入れた」
朔弥が巻き始めを掴む。
紙は清潔で、墨は薄い。落色の薬が混ざっている。
そこには、丁寧な字で、こう記されていた。
> 均衡のための上塗り
> 影印は、一度、喪に触れさせよ。
> その後、正しさで塗り潰せ。
> 人はどこかで守られる。
署名はない。
けれど、正しすぎる手の匂いが、紙の繊維の奥に沈んでいる。
「“局長”じゃない」
気づいた自分の声が、少し震えた。
「局長なら、もっと慌てた字を書く。これは、誰かの“練習”の字。ずっと、ここで練習していた人の」
視線を上げる。
そこに立っていたのは、さっきの上級生だった。
涼しい目。きれいな手。
彼女は微笑み、丁寧に一礼した。
「いらっしゃい」
「あなたね」
「いいえ。私は書かない。整えるだけ」
「でも、“整え”は、書いた者よりも深く、紙の中に残る」
彼女は目を細め、初めて言葉を選ぶのに迷った。
「……あなたの言葉は、刃ね」
「あなたの正しさも」
沈黙。
朔弥が口を開く。
「局長の所在」
「契り堂」
即答。
「“外”を“内”にした、あのときから、戻れていない」
「助ける気は」
「あります。正しいから」
正しさが、ここではじめて救いの形をとる。
彼女は机の最下段から小さな木箱を取り出した。中には、細い筆と、金の粉が少し。
「“均衡の金”です。狐王家から伝わる微粉。上塗りの薬を鈍らせる」
「どうして、私たちに」
「あなたたちが“舞台”を嫌うから。……わたしは舞台が嫌いではない。でも、観客に仕立てられるのはいや」
狐面の“観客/演者”の語彙が、別の意味でここに着地する。
私は木箱を受け取り、深く一礼した。
「ありがとう」
「礼は、朝に」
同じ言い方を、彼女もした。
“正しい側”にも、人がいる。
契り堂へ戻る道は、行きよりも暗くなっていた。灯の密度は回復しつつあるのに、影の音が濃い。
堂の前で、私たちは足を止めた。
扉は閉じている。
ノックすると、しばらくして、中から乾いた拍子木。
「局長!」
返事はない。
朔弥が印を切り、扉を押した。
中に入ると、最奥の壁の前に、人影が膝を抱えて座っていた。
白髪混じりの、細い肩。
「局長」
私が呼ぶと、彼は顔を上げた。乾いた目。
「すまない」
たった一言。
「私は“正しい”と思った。影印に喪を触れさせ、均衡の強さを証明するべきだと」
「誰にそう言われた」
「誰にも。自分がそう書いた」
彼は壁の紙を指さした。
そこには、先ほどと同じ文言が、少し乱れた字で綴られていた。
似ている。
でも、違う。
私は膝をつき、紙と彼の指先を見比べた。
「あなたの字は“焦り”がある。あの清潔な紙に書かれた字は、練習の字」
局長は目を伏せた。
「私にも、整えてくれる“手”がいた」
書記局の上級生。
彼女は“書かない”。ただ“整える”。
整えた正しさが、誰かの正しさより強くなるときがある。
「局長。――あなたは犯人ではなく、舞台装置」
言いながら、自分の言葉に寒気がした。
狐面の“舞台”は、いつの間にかここにも敷かれている。
朔弥は局長の手を取り、指先の冷えを確かめた。
「外へ出る。……均衡は、人の外に置くな」
「はい」
局長の返事は、少しだけ、泣いていた。
堂を出ると、夜の骨がわずかに軋んだ。
風鈴の音が、一瞬、すべて止んだ。
「――来る」
朔弥が呟いた。
灯の海の向こうで、狐面が立っていた。
ひとりではない。
二人。
もう一枚の狐面は、面の口に黒い糸を渡し、面の奥の喉を縫い留めている。
「舞台の口上を省略しよう」
彼らの間から、乾いた声。
「君の“皿”に残った“モノヱ”の残り、今、返す」
黒い糸が切れ、面の奥から囁きが溢れた。
――さらさ。
皿の縁が、喉の奥で鳴る。
私は風鈴を握りしめ、朱の結び目を、きつく締め直した。
「返さなくていい」
「返すのが正しい。ねえ、会長?」
狐面が、朔弥へ首を傾げる。
朔弥は面を外さず、一歩、前へ出た。
「正しいかどうかは、俺が決める」
彼は面の端に指をかけ、ひと呼吸だけ置いた。
灯が、一枚、落ちる。
次の瞬間、彼の耳が面の外へ露わになった。
金の毛が風を裂く。
「――守る」
短い宣言が、灯の海の骨を元に戻す。
朱の結び目が、掌の中で熱くなった。
返される“残り”は、皿の縁で跳ねた。
私は風鈴を鳴らし、金の粉を唇で少しだけ湿らせ、筆先へ移した。
皿の縁を塗る。
正しすぎない線で、包む。
“返し”は、皿の底で眠り、灯の輪へ溶けた。
狐面が一歩、退く。
「……つまらない結末を、よくこんなに美しくする」
「結末は、まだ」
私が言うと、狐面は面の口を笑わせた。
「そう。――まだ、始まりだ」
祭の鐘が、遠くで三度、鳴った。
夜明けの一刻前。
風鈴の音が、少しずつ高くなる。
狐面は背を返し、灯の層へ沈んだ。
残った空気の温度が、ゆっくりと人間の温度に戻る。
朔弥が、私の手首から朱の結びをほどいた。
「返す」
「……もう少し、貸して」
我ながら、わがままだと思った。
けれど、彼は短く笑って、結び直した。
「朝まで」
「約束」
“モノヱ”の真名は、皿の底で眠っている。
書記局の“正しい手”は、どこかで次の上塗りを整えるだろう。
でも私は、もう待たない。
婚約破棄の夜に切れた線を、私は自分の手で縫い始めている。
灯の縫い目が、夜明けの光でひと針ずつ浮かびあがる。
私は小さく息を吐き、心の中で、自分の名を呼んだ。
――更。
返事は、胸骨の裏から、前よりも近く返ってきた。
(つづく)



