灯の海を背に、私たちは丘を上った。
祭の喧噪は遠ざかり、風鈴の輪唱は薄い霞になって耳の奥へ沈む。契り堂の前に立つと、夜の匂いが変わった。紙と墨に、わずかに鉄――乾いた血の記憶が混ざる。
「入るぞ」
朔弥が扉を押し、先に影になった。白い狐面が、堂内の薄光で浮かぶ。
床板は猫のように静かで、壁一面に古い契りの文書が息を潜めていた。朱印は枯れ、黒は鈍い艶を保ったまま時を越えている。私は前に見つけた場所――上塗りの鮮やかすぎる朱の前へ立った。
紙の端に指を掛け、ほんのわずかに持ち上げる。
下に隠れていた文は、やはり私の婚家の紋を抱いていた。朱の輪郭は古く、しかし裂け目は新しい。そこに別の朱が重なり、血の匂いを上書きしている。
私は振り返り、朔弥に目をやった。
「これ、前から――あなたの血判?」
「俺の名の“片割れ”だ」
面越しの声音は乾いていた。
「名は裂ける。均衡のために、裂いて使うことがある。……だが裂かれた名は、必ず代償を払う。片方は“守り”に強く、片方は“縛り”に傾く。ここに置いたのは、俺の“縛り”だ」
「誰に?」
「王家と狐王家の間に横たわる、古い秤(はかり)に」
言葉は理解できた。けれど、胸の奥はうまく追いつかなかった。
私の婚約破棄が、その秤に載せられた“ひとつの錘(おもり)”だったのだとしても――どうして、その錘の形が、わたしの名でなければならなかったのか。
「更」
名前を呼ばれ、視線が合う。面の穴から覗く目は、闇に慣れてなお、静かな熱を帯びていた。
「均衡は、人を守るためにある。だが、均衡そのものが目的になったとき、人は置き去りにされる。……俺は、それが嫌だ」
「だから、上塗りを剝がす?」
「上塗りは“合理のふりをした怠惰”だ。剝がせるものなら剝がす。剝がせないなら、上塗りごと、塗り替える」
朔弥は袖の中から細い刃を取り出し、紙の角、古い朱と新しい朱の境目を探った。刃先がごく小さく鳴き、紙の繊維がひと筋ほどける。
その瞬間、堂の空気がわずかに震え――耳の奥に、囁きが戻った。
――さらさ。
指の根が冷たくなる。
今度の囁きは、前より低い。押し殺した息が、紙の裏から滲むみたいにじっとりしている。
「来る」
私が呟くより早く、朔弥は刃を収め、指で印を結んだ。
堂の四隅――柱の根から細い光が立ち上がり、天井で四角を結ぶ。小さな檻(おり)が形になる。
「内と外を入れ替える。ここを“外”にする」
「外?」
「喪は境の薄い方へ集まる。堂を外側にひっくり返せば、喪は堂の外を内だと思って近づく。……動くな」
外の風鈴が一斉に鳴り、薄い影が敷居を這った。
灯篭祭の灯の輪から零れ落ちた黒が、薄く伸び、扉の隙間から舌を差し入れる。
セミの羽のような音――紙の端が震える。喪の舌が契り文書に触れるたび、朱が小さく疼く。
私は呼吸を短くして耐えた。
喉の奥で、名が呼ばれる。
――さらさ。
その音は、今度はまるで名前の形をしていない。紙を擦る音、墨の乾く匂い、血に薄めた朱の舌触り。身体が“名の記憶”で満たされていく。
「更」
朔弥の声が、糸を通して届くみたいに細く、それでも確かにある。
「目を閉じて、聞こえた音を“別の字”に変えろ。さら、ではなく、さらう、でもない。お前が選ぶ、別の線」
私は暗闇の中で、筆を持つ指の感覚を思い出した。
墨の匂い、紙の毛羽、筆の腹。
“更”。切って読む。切り口を、少しだけ斜めにする。
――“皿”。
私の中で、名が別の形に立ち上がった。
皿は受け皿。呼ばれた音は底へ滑り、こちらの芯には届かない。
囁きはまた、距離を失った。紙魚(しみ)の足音みたいに、意味を剝がされて部屋の隅へ散った。
「いい」
面の奥の目が、細く笑った気がした。
「“更”を切ったな」
「切った。少し、斜めに」
「上手い」
喪の舌の届かないところへ呼吸が戻ったとき、扉の外側で、乾いた拍子木の音がした。
祭の合図ではない。
これは――学院の緊急連絡。
朔弥が面をわずかに反らし、視線だけで外気の流れを読む。
「生徒会へ戻す信号だ。……誰かが“印璽(いんじ)”に触れた」
「印璽って、王家の?」
「学院で保管している“夜の複印(ふくいん)”。影に押す判だ。喪に喰われると、結界が落ちる」
拍子木が二度、三度。切迫の間。
堂を包む四角が細くなりはじめる。外の“外”を装っていた壁が、内へ戻ろうとしている。
「行ける?」
朔弥が短く問う。
「行ける」
迷わず答えたのは、嘘ではない。足はまだ震えていない。指先は冷たいけれど、筆は握れる。
「ここは後で俺がやる。印璽が落ちれば祭は崩れる」
「落ちる前に、縫い直す」
私の口が、勝手に言った。
「“祭りの灯は、縫い目の灯”。祖母の口癖」
「覚えておく」
扉を開けると、灯の風がぶつかった。
庭いっぱいに広がっていた灯の海は、ところどころで渦になり、暗い溝を作っている。風鈴は鳴り続けているのに、音の骨格が歪んでいる。
「印璽は、学舎中央の“影中庭(かげなかにわ)”だ」
朔弥は面の下から朱の紐を引き、私の手首に結び直した。
結び目は二重。ほどけないように、ひと結び、もうひと結び。
「……痛くない?」
「痛い。でも、ちょうどいい」
「ちょうどよく、しておけ」
二人で走る。
庭の輪と輪の隙間を踏まないように、灯の息継ぎを聴きながら。
途中、灯の影から伸びる細い喪が足首を掠めるたび、朱の結びが熱を返した。私の脈と、朱の脈と、灯の脈が合う。
中庭の手前――柱廊の角を曲がったところで、狐面が立っていた。
遠目に見た“別の狐面”。
今度は逃げない。
そいつは、こちらへ一歩踏み出し、わずかに面を傾けた。
「ようこそ、夜の心臓へ」
声は若かった。男とも女ともつかない、乾いた喉の音。
「誰」
私が問うと、狐面は肩を竦めた。
「狐は名乗らない。名乗るのは人間の礼儀だろう?」
朔弥が一歩、前へ出る。
「“礼儀知らず”を装うのは、礼式を知っている者の癖だ」
面の下で笑いが零れる。
「さすが会長。……影の印をいただきに来ただけだ。返すよ、すぐにはね」
狐面が袖から何かを見せた。
小さな箱。黒漆。蓋の金具が影の形をしている。
印璽。
「返す、って?」
「喪に一度、舐めさせてから返す。きみたちが“奪い返す”という正義を手に入れられるように、舞台を整えてあげるんだ」
芝居がかった声音。
「あなたが、私の名を書いたの?」
私の問いに、狐面の首がわずかにしなる。
「さあ、どうだろう。読めるかな、この字」
袖から白い札がふわりと落ちた。
墨の濃淡。筆圧。癖のない、丁寧な、教本のような字。
私の胸の奥で、何かが冷たく縮む。
「これ……学院の“手”の字だ。書記局の」
「正解」
狐面は軽く拍手をした。
「“内”の手を借りるのが、いちばん早い。会長、きみが守ろうとする秩序を、別の秩序が守っている。均衡、ってやつだ」
朔弥の体温が、隣でわずかに下がる気配がした。
「書記局の誰だ」
「名はあげない。あげたら、つまらないから。……だが、ヒントをひとつ。
“誰かが正しい仕事をしているとき、その手元はきれいすぎる”」
狐面は箱をひと撫でし、背後――影中庭の方へと軽く身を引いた。
「印璽は返す。喪の舌が触れた痕(あと)つきで。そうすれば、灯は少し低く揺れる。結界は一度、膝を折る。君たちは走り、縫い直す。……英雄譚の段取りだ」
「戯言だ」
朔弥が吐き捨てる。
狐面は肩をすくめ、面の口をひとつ笑わせた。
「戯言でも、舞台は回る」
動いたのは、その瞬間だった。
狐面の背後――影中庭から、黒い水面のような陰が盛り上がり、印璽の箱をひと舐めする。
灯の音がひと拍、遅れた。
空気が、沈む。
「ダメ――!」
私が駆け出すより早く、朔弥が跳ぶ。
面の下で息が鋭く切れ、指が空の印を掴む。
狐面がするりと身を引き、箱をこちらに投げた。
「返すと言ったろう」
黒漆の箱が空気を裂き、私の胸の前へ来る。
私は反射的に両手で受けた。
重い。
中で印が鳴る。
喪の舌の残り香が、箱の隙間からふわりと上がった。
同時に、庭の灯が一斉に低くなる。
風鈴の音が半音、落ちる。
結界が、膝を折った。
「更、開けるな」
朔弥が即座に言う。
「箱の外だけで十分だ。灯に印の形を写し取る。喪の舌が触れた痕を“別の線”に」
「やる」
私は膝をつき、箱の輪郭に筆を走らせた。
禍々しい黒を、そのまま写さない。
黒の中に、微かな金の欠片――狐火が残した温を拾って線に混ぜる。
“写し”は“移し”。
印の影を、灯の輪の縁へ、そっと置く。
風鈴が、少しだけ高く戻った。
「もう一息」
朔弥が低く囁き、面の下から吐息を落とす。
彼の手が、私の手の上に重なった。
温い。
火ではない。血の温度。
「俺の“守り”の片割れを、貸す」
朱の紐が、音もなく緩み、私の手首から彼の手首へと渡された。
片方の名を、仮に結ぶ。
「代償は?」
「あとで返せ。祭が終わってからでいい」
「約束」
短い言葉が、結び目に染みる。
筆が走る。
灯の輪が、もう一重、強くなる。
箱の喪の匂いが、薄くなる。
風鈴が、元の音程に戻った。
庭の空気が、膝から立ち上がる。
「戻ったな」
朔弥が息を整える。
狐面は、こちらを見て、手を叩いた。
「美しい。――やはり、舞台は回る」
「まだ終わっていない」
朔弥が面を相手へ向ける。その角度は、斬るための角度だ。
「書記局に手があるなら、名を出せ。俺が裁く」
「裁きは観客の糧になるが、演者の糧にはならない」
狐面はそう言って、灯の陰へ後退した。
「会長、きみも知っている通り、均衡はひとつじゃない。……“彼女(きみ)の名”を、きれいに守りたければ、きみの名をもう一度、裂くしかない」
「しない」
「するさ。優しさはいつだって、身を裂く手順だからね」
狐面は、ひらりと袖を翻し、影の渦に自分の姿を混ぜた。一陣の風。
次に灯が揺れたときには、その姿は、もうどこにもなかった。
静けさが、遅れて落ちてくる。
私は胸の前に箱を抱えたまま、呼吸を整えた。
「ありがとう」
振り返ると、朔弥は首を横に振った。
「礼は、灯篭祭の夜明けに」
それは、最初の夜に聞いた言葉と同じ調子だった。
少しだけ違うのは、面の下の声が、私の名の切り口に合わせて柔らかくなっていること。
影中庭の中央に、印璽を“返す”。箱の外から灯に写した印の影を、ゆっくりと置く。
結界の骨がまっすぐに伸び、風鈴は正しい高さで鳴った。
私は箱から手を離し、手首の朱の結びを見下ろした。
彼の“守り”の片割れ。
緩み方も、締り方も、私には初めての形だ。
「……ねえ、朔弥」
呼ぶと、彼は短く返事をした。
「あなたの名は、どれくらい裂かれているの」
面がわずかに横を向く。灯が頬の線をかすめた。
「半分。残り半分は、俺の“外”に置いた。学院のどこかに、俺の“守り”の片方がある」
「それが、さっきの“貸し”?」
「そうだ」
「返す」
「返せ。……俺が倒れると、学院の均衡は倒れる」
冗談めかして言ったのに、声は冗談の温度ではなかった。
「倒れさせない」
私が言うと、彼は面をこちらに戻し、短く頷いた。
風鈴の音が、遠くでまた輪唱を始める。
祭は続く。
灯の海は修復されたが、今夜の“穴”はまだすべて塞がっていない。
狐面の“演者”は、またどこかで幕を開けるだろう。
書記局の“手”。きれいすぎる手元。
――誰だ。
字の癖は消されていた。教本のように整っている字ほど、書き手の個性は隠れる。
隠せるほどの訓練。
“正しい仕事”。
私は胸の内で、名簿のない名を、一つずつ並べていった。
「更」
朔弥が、不意に近づいた。
面の影が、鼻先まで落ちてくる。
「なに」
「顔色が悪い」
「あなたのせい」
「それは困る」
面の口元が、少しだけ笑った。
「夜明けまで、まだある。……そばにいろ」
命令の形で、お願いの温度。
私は頷いた。
「うん」
「よし」
彼は朱の結び目を一度確かめ、それから、面のひもに手をかけた。
「――仮契りを、もう少し強くする。お前の名の切り口に、俺の“守り”を合わせる」
「面を外すの?」
「外さない。だが、耳は出る」
冗談、のはずだった。
けれど、次の瞬間、面の端から覗いたのは、夜の金より薄い、狐の耳の先だった。
私の喉は、笑うべきか、固まるべきか、判断を保留した。
「見たな」
「見た」
「秘密」
「守る」
短い言葉で、もう一度、結び目ができる。
そのとき――
風鈴の高さがまた、半音、揺れた。
遠く、学院の西の端。
灯の面が、ひとつ、落ちた。
「二の穴だ」
朔弥が声を低く落とす。
「行くぞ」
「うん」
返事は、先ほどより速かった。
私は仮契りの熱を手首に抱え、走り出した。
夜の学園の“縫い目”は、まだ、ほどけていない。
婚約破棄の夜に始まった私の“切り口”は、今日、別の角度でまた切られた。
でも――切り口は、縫える。
縫い目は、灯で見える。
見えるものは、掴める。
掴めるものは、守れる。
私は走りながら、自分の名を、もう一度、心の内で呼んだ。
――更。
返事は、胸骨の裏から、揺らぎなく返ってきた。
(つづく)
祭の喧噪は遠ざかり、風鈴の輪唱は薄い霞になって耳の奥へ沈む。契り堂の前に立つと、夜の匂いが変わった。紙と墨に、わずかに鉄――乾いた血の記憶が混ざる。
「入るぞ」
朔弥が扉を押し、先に影になった。白い狐面が、堂内の薄光で浮かぶ。
床板は猫のように静かで、壁一面に古い契りの文書が息を潜めていた。朱印は枯れ、黒は鈍い艶を保ったまま時を越えている。私は前に見つけた場所――上塗りの鮮やかすぎる朱の前へ立った。
紙の端に指を掛け、ほんのわずかに持ち上げる。
下に隠れていた文は、やはり私の婚家の紋を抱いていた。朱の輪郭は古く、しかし裂け目は新しい。そこに別の朱が重なり、血の匂いを上書きしている。
私は振り返り、朔弥に目をやった。
「これ、前から――あなたの血判?」
「俺の名の“片割れ”だ」
面越しの声音は乾いていた。
「名は裂ける。均衡のために、裂いて使うことがある。……だが裂かれた名は、必ず代償を払う。片方は“守り”に強く、片方は“縛り”に傾く。ここに置いたのは、俺の“縛り”だ」
「誰に?」
「王家と狐王家の間に横たわる、古い秤(はかり)に」
言葉は理解できた。けれど、胸の奥はうまく追いつかなかった。
私の婚約破棄が、その秤に載せられた“ひとつの錘(おもり)”だったのだとしても――どうして、その錘の形が、わたしの名でなければならなかったのか。
「更」
名前を呼ばれ、視線が合う。面の穴から覗く目は、闇に慣れてなお、静かな熱を帯びていた。
「均衡は、人を守るためにある。だが、均衡そのものが目的になったとき、人は置き去りにされる。……俺は、それが嫌だ」
「だから、上塗りを剝がす?」
「上塗りは“合理のふりをした怠惰”だ。剝がせるものなら剝がす。剝がせないなら、上塗りごと、塗り替える」
朔弥は袖の中から細い刃を取り出し、紙の角、古い朱と新しい朱の境目を探った。刃先がごく小さく鳴き、紙の繊維がひと筋ほどける。
その瞬間、堂の空気がわずかに震え――耳の奥に、囁きが戻った。
――さらさ。
指の根が冷たくなる。
今度の囁きは、前より低い。押し殺した息が、紙の裏から滲むみたいにじっとりしている。
「来る」
私が呟くより早く、朔弥は刃を収め、指で印を結んだ。
堂の四隅――柱の根から細い光が立ち上がり、天井で四角を結ぶ。小さな檻(おり)が形になる。
「内と外を入れ替える。ここを“外”にする」
「外?」
「喪は境の薄い方へ集まる。堂を外側にひっくり返せば、喪は堂の外を内だと思って近づく。……動くな」
外の風鈴が一斉に鳴り、薄い影が敷居を這った。
灯篭祭の灯の輪から零れ落ちた黒が、薄く伸び、扉の隙間から舌を差し入れる。
セミの羽のような音――紙の端が震える。喪の舌が契り文書に触れるたび、朱が小さく疼く。
私は呼吸を短くして耐えた。
喉の奥で、名が呼ばれる。
――さらさ。
その音は、今度はまるで名前の形をしていない。紙を擦る音、墨の乾く匂い、血に薄めた朱の舌触り。身体が“名の記憶”で満たされていく。
「更」
朔弥の声が、糸を通して届くみたいに細く、それでも確かにある。
「目を閉じて、聞こえた音を“別の字”に変えろ。さら、ではなく、さらう、でもない。お前が選ぶ、別の線」
私は暗闇の中で、筆を持つ指の感覚を思い出した。
墨の匂い、紙の毛羽、筆の腹。
“更”。切って読む。切り口を、少しだけ斜めにする。
――“皿”。
私の中で、名が別の形に立ち上がった。
皿は受け皿。呼ばれた音は底へ滑り、こちらの芯には届かない。
囁きはまた、距離を失った。紙魚(しみ)の足音みたいに、意味を剝がされて部屋の隅へ散った。
「いい」
面の奥の目が、細く笑った気がした。
「“更”を切ったな」
「切った。少し、斜めに」
「上手い」
喪の舌の届かないところへ呼吸が戻ったとき、扉の外側で、乾いた拍子木の音がした。
祭の合図ではない。
これは――学院の緊急連絡。
朔弥が面をわずかに反らし、視線だけで外気の流れを読む。
「生徒会へ戻す信号だ。……誰かが“印璽(いんじ)”に触れた」
「印璽って、王家の?」
「学院で保管している“夜の複印(ふくいん)”。影に押す判だ。喪に喰われると、結界が落ちる」
拍子木が二度、三度。切迫の間。
堂を包む四角が細くなりはじめる。外の“外”を装っていた壁が、内へ戻ろうとしている。
「行ける?」
朔弥が短く問う。
「行ける」
迷わず答えたのは、嘘ではない。足はまだ震えていない。指先は冷たいけれど、筆は握れる。
「ここは後で俺がやる。印璽が落ちれば祭は崩れる」
「落ちる前に、縫い直す」
私の口が、勝手に言った。
「“祭りの灯は、縫い目の灯”。祖母の口癖」
「覚えておく」
扉を開けると、灯の風がぶつかった。
庭いっぱいに広がっていた灯の海は、ところどころで渦になり、暗い溝を作っている。風鈴は鳴り続けているのに、音の骨格が歪んでいる。
「印璽は、学舎中央の“影中庭(かげなかにわ)”だ」
朔弥は面の下から朱の紐を引き、私の手首に結び直した。
結び目は二重。ほどけないように、ひと結び、もうひと結び。
「……痛くない?」
「痛い。でも、ちょうどいい」
「ちょうどよく、しておけ」
二人で走る。
庭の輪と輪の隙間を踏まないように、灯の息継ぎを聴きながら。
途中、灯の影から伸びる細い喪が足首を掠めるたび、朱の結びが熱を返した。私の脈と、朱の脈と、灯の脈が合う。
中庭の手前――柱廊の角を曲がったところで、狐面が立っていた。
遠目に見た“別の狐面”。
今度は逃げない。
そいつは、こちらへ一歩踏み出し、わずかに面を傾けた。
「ようこそ、夜の心臓へ」
声は若かった。男とも女ともつかない、乾いた喉の音。
「誰」
私が問うと、狐面は肩を竦めた。
「狐は名乗らない。名乗るのは人間の礼儀だろう?」
朔弥が一歩、前へ出る。
「“礼儀知らず”を装うのは、礼式を知っている者の癖だ」
面の下で笑いが零れる。
「さすが会長。……影の印をいただきに来ただけだ。返すよ、すぐにはね」
狐面が袖から何かを見せた。
小さな箱。黒漆。蓋の金具が影の形をしている。
印璽。
「返す、って?」
「喪に一度、舐めさせてから返す。きみたちが“奪い返す”という正義を手に入れられるように、舞台を整えてあげるんだ」
芝居がかった声音。
「あなたが、私の名を書いたの?」
私の問いに、狐面の首がわずかにしなる。
「さあ、どうだろう。読めるかな、この字」
袖から白い札がふわりと落ちた。
墨の濃淡。筆圧。癖のない、丁寧な、教本のような字。
私の胸の奥で、何かが冷たく縮む。
「これ……学院の“手”の字だ。書記局の」
「正解」
狐面は軽く拍手をした。
「“内”の手を借りるのが、いちばん早い。会長、きみが守ろうとする秩序を、別の秩序が守っている。均衡、ってやつだ」
朔弥の体温が、隣でわずかに下がる気配がした。
「書記局の誰だ」
「名はあげない。あげたら、つまらないから。……だが、ヒントをひとつ。
“誰かが正しい仕事をしているとき、その手元はきれいすぎる”」
狐面は箱をひと撫でし、背後――影中庭の方へと軽く身を引いた。
「印璽は返す。喪の舌が触れた痕(あと)つきで。そうすれば、灯は少し低く揺れる。結界は一度、膝を折る。君たちは走り、縫い直す。……英雄譚の段取りだ」
「戯言だ」
朔弥が吐き捨てる。
狐面は肩をすくめ、面の口をひとつ笑わせた。
「戯言でも、舞台は回る」
動いたのは、その瞬間だった。
狐面の背後――影中庭から、黒い水面のような陰が盛り上がり、印璽の箱をひと舐めする。
灯の音がひと拍、遅れた。
空気が、沈む。
「ダメ――!」
私が駆け出すより早く、朔弥が跳ぶ。
面の下で息が鋭く切れ、指が空の印を掴む。
狐面がするりと身を引き、箱をこちらに投げた。
「返すと言ったろう」
黒漆の箱が空気を裂き、私の胸の前へ来る。
私は反射的に両手で受けた。
重い。
中で印が鳴る。
喪の舌の残り香が、箱の隙間からふわりと上がった。
同時に、庭の灯が一斉に低くなる。
風鈴の音が半音、落ちる。
結界が、膝を折った。
「更、開けるな」
朔弥が即座に言う。
「箱の外だけで十分だ。灯に印の形を写し取る。喪の舌が触れた痕を“別の線”に」
「やる」
私は膝をつき、箱の輪郭に筆を走らせた。
禍々しい黒を、そのまま写さない。
黒の中に、微かな金の欠片――狐火が残した温を拾って線に混ぜる。
“写し”は“移し”。
印の影を、灯の輪の縁へ、そっと置く。
風鈴が、少しだけ高く戻った。
「もう一息」
朔弥が低く囁き、面の下から吐息を落とす。
彼の手が、私の手の上に重なった。
温い。
火ではない。血の温度。
「俺の“守り”の片割れを、貸す」
朱の紐が、音もなく緩み、私の手首から彼の手首へと渡された。
片方の名を、仮に結ぶ。
「代償は?」
「あとで返せ。祭が終わってからでいい」
「約束」
短い言葉が、結び目に染みる。
筆が走る。
灯の輪が、もう一重、強くなる。
箱の喪の匂いが、薄くなる。
風鈴が、元の音程に戻った。
庭の空気が、膝から立ち上がる。
「戻ったな」
朔弥が息を整える。
狐面は、こちらを見て、手を叩いた。
「美しい。――やはり、舞台は回る」
「まだ終わっていない」
朔弥が面を相手へ向ける。その角度は、斬るための角度だ。
「書記局に手があるなら、名を出せ。俺が裁く」
「裁きは観客の糧になるが、演者の糧にはならない」
狐面はそう言って、灯の陰へ後退した。
「会長、きみも知っている通り、均衡はひとつじゃない。……“彼女(きみ)の名”を、きれいに守りたければ、きみの名をもう一度、裂くしかない」
「しない」
「するさ。優しさはいつだって、身を裂く手順だからね」
狐面は、ひらりと袖を翻し、影の渦に自分の姿を混ぜた。一陣の風。
次に灯が揺れたときには、その姿は、もうどこにもなかった。
静けさが、遅れて落ちてくる。
私は胸の前に箱を抱えたまま、呼吸を整えた。
「ありがとう」
振り返ると、朔弥は首を横に振った。
「礼は、灯篭祭の夜明けに」
それは、最初の夜に聞いた言葉と同じ調子だった。
少しだけ違うのは、面の下の声が、私の名の切り口に合わせて柔らかくなっていること。
影中庭の中央に、印璽を“返す”。箱の外から灯に写した印の影を、ゆっくりと置く。
結界の骨がまっすぐに伸び、風鈴は正しい高さで鳴った。
私は箱から手を離し、手首の朱の結びを見下ろした。
彼の“守り”の片割れ。
緩み方も、締り方も、私には初めての形だ。
「……ねえ、朔弥」
呼ぶと、彼は短く返事をした。
「あなたの名は、どれくらい裂かれているの」
面がわずかに横を向く。灯が頬の線をかすめた。
「半分。残り半分は、俺の“外”に置いた。学院のどこかに、俺の“守り”の片方がある」
「それが、さっきの“貸し”?」
「そうだ」
「返す」
「返せ。……俺が倒れると、学院の均衡は倒れる」
冗談めかして言ったのに、声は冗談の温度ではなかった。
「倒れさせない」
私が言うと、彼は面をこちらに戻し、短く頷いた。
風鈴の音が、遠くでまた輪唱を始める。
祭は続く。
灯の海は修復されたが、今夜の“穴”はまだすべて塞がっていない。
狐面の“演者”は、またどこかで幕を開けるだろう。
書記局の“手”。きれいすぎる手元。
――誰だ。
字の癖は消されていた。教本のように整っている字ほど、書き手の個性は隠れる。
隠せるほどの訓練。
“正しい仕事”。
私は胸の内で、名簿のない名を、一つずつ並べていった。
「更」
朔弥が、不意に近づいた。
面の影が、鼻先まで落ちてくる。
「なに」
「顔色が悪い」
「あなたのせい」
「それは困る」
面の口元が、少しだけ笑った。
「夜明けまで、まだある。……そばにいろ」
命令の形で、お願いの温度。
私は頷いた。
「うん」
「よし」
彼は朱の結び目を一度確かめ、それから、面のひもに手をかけた。
「――仮契りを、もう少し強くする。お前の名の切り口に、俺の“守り”を合わせる」
「面を外すの?」
「外さない。だが、耳は出る」
冗談、のはずだった。
けれど、次の瞬間、面の端から覗いたのは、夜の金より薄い、狐の耳の先だった。
私の喉は、笑うべきか、固まるべきか、判断を保留した。
「見たな」
「見た」
「秘密」
「守る」
短い言葉で、もう一度、結び目ができる。
そのとき――
風鈴の高さがまた、半音、揺れた。
遠く、学院の西の端。
灯の面が、ひとつ、落ちた。
「二の穴だ」
朔弥が声を低く落とす。
「行くぞ」
「うん」
返事は、先ほどより速かった。
私は仮契りの熱を手首に抱え、走り出した。
夜の学園の“縫い目”は、まだ、ほどけていない。
婚約破棄の夜に始まった私の“切り口”は、今日、別の角度でまた切られた。
でも――切り口は、縫える。
縫い目は、灯で見える。
見えるものは、掴める。
掴めるものは、守れる。
私は走りながら、自分の名を、もう一度、心の内で呼んだ。
――更。
返事は、胸骨の裏から、揺らぎなく返ってきた。
(つづく)



