斎庭の常夜灯が、夜の底で大きく鳴った。
笠の下に、影の字がくっきりと浮かぶ。
沈黙を税に払い続けたせいで、もう隠しきれないのだ。
狐面の足元から伸びた影は、布に触れて名前を描く。
――遥。
その二文字が光り、棟木に重なる。
ざわめきが広がる。
「本名……」
「狐の……」
けれど誰も声を荒げなかった。
長い沈黙の代償として、この街は「名」を迎える準備ができていた。
私は胸の皿を押さえ、涙のように揺れる声で言った。
「……礼」
白布に朱の点を置く。
「用。――あなたが、ここにいるため」
「名。……遥」
その瞬間、狐面は面を外した。
白檀の香りが吹き抜け、面の奥から出た声はもう掠れていなかった。
「……俺は、遥。退屈を仕掛けるために残されていた。だけど……君たちの隣に置かれた。……困る」
涙交じりの笑いが、斎庭の屋根に響いた。
群像の声が重なる。
「隣に置く!」
「礼を並べる!」
「用を分け合う!」
市場で、学び舎で、紙の街で暮らしてきた人々が一斉に拍を打つ。
礼→用→名。
拍が三度重なったとき、紙の街は本当に街になった。
仮名の家は屋根を持ち、通りを持ち、隣を持つ。
夜の片隅、白布の下で。
朔弥が面を外し、私をまっすぐ見た。
「……返す?」
いつもの問い。
私は首を振る。
「返さない」
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
今夜は、それで終わらなかった。
私は彼の手を取り、細く編んできた糸を結び目に重ねた。
「――困る、の先を。……一緒に家を建てたい」
朔弥の瞳がわずかに揺れ、やがて強く頷いた。
「細く編むだけじゃ足りないな。……お前と屋根になる」
胸の皿が震え、涙のようにひびを光らせた。
切なさはまだ残る。
でも、その切なさは今夜、確かに「家」になった。
最後の拍。
遥――かつて狐面と呼ばれた男が、静かに言った。
「礼→用→名。……俺もやっと、街に住める」
常夜灯が二度鳴り、夜の底にやわらかな余白を残した。
(完)
笠の下に、影の字がくっきりと浮かぶ。
沈黙を税に払い続けたせいで、もう隠しきれないのだ。
狐面の足元から伸びた影は、布に触れて名前を描く。
――遥。
その二文字が光り、棟木に重なる。
ざわめきが広がる。
「本名……」
「狐の……」
けれど誰も声を荒げなかった。
長い沈黙の代償として、この街は「名」を迎える準備ができていた。
私は胸の皿を押さえ、涙のように揺れる声で言った。
「……礼」
白布に朱の点を置く。
「用。――あなたが、ここにいるため」
「名。……遥」
その瞬間、狐面は面を外した。
白檀の香りが吹き抜け、面の奥から出た声はもう掠れていなかった。
「……俺は、遥。退屈を仕掛けるために残されていた。だけど……君たちの隣に置かれた。……困る」
涙交じりの笑いが、斎庭の屋根に響いた。
群像の声が重なる。
「隣に置く!」
「礼を並べる!」
「用を分け合う!」
市場で、学び舎で、紙の街で暮らしてきた人々が一斉に拍を打つ。
礼→用→名。
拍が三度重なったとき、紙の街は本当に街になった。
仮名の家は屋根を持ち、通りを持ち、隣を持つ。
夜の片隅、白布の下で。
朔弥が面を外し、私をまっすぐ見た。
「……返す?」
いつもの問い。
私は首を振る。
「返さない」
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
今夜は、それで終わらなかった。
私は彼の手を取り、細く編んできた糸を結び目に重ねた。
「――困る、の先を。……一緒に家を建てたい」
朔弥の瞳がわずかに揺れ、やがて強く頷いた。
「細く編むだけじゃ足りないな。……お前と屋根になる」
胸の皿が震え、涙のようにひびを光らせた。
切なさはまだ残る。
でも、その切なさは今夜、確かに「家」になった。
最後の拍。
遥――かつて狐面と呼ばれた男が、静かに言った。
「礼→用→名。……俺もやっと、街に住める」
常夜灯が二度鳴り、夜の底にやわらかな余白を残した。
(完)



