沈黙の税が終わった翌朝、斎庭には奇妙な影が落ちていた。
屋根でも棟でもない、紙にも描かれていない影――それは、狐面の足元からゆるやかに伸び、掲示の白布にかすかに字を映していた。
「……字?」
芽生が震える指で示した。
白布に浮かんでいたのは、見たことのない曲線。
礼や用の筆跡ではなく、仮名の家にも記されたことのない、誰かの“名”の影だった。
白川が慎重に筆を走らせ、浮かんだ影の形を写す。
「これは……仮名じゃない。……本名の影です」
凛が低く言った。
「沈黙を税に払ったからこそ、声の底に隠れていた名が影を落としたんだわ」
狐面は面を少し傾けた。
声はまだ三割、掠れている。
「……本名は、戸口だ。開ければ、退屈は消える。けれど……戻れなくなる」
面の奥で笑ったように見えた。だが、その笑みは痛みに似ていた。
斎庭の人々がざわめく。
本名の影を見れば、狐面の正体が露わになる。
仮名の家に泊まる客ではなく、一人の名を持った人になる。
それは街にとって祝福であると同時に、脅威でもあった。
「……どうするの?」
芽生の問いに、誰もすぐには答えられなかった。
えまが小さく言う。
「隣に置けば……いい」
その声は幼かったが、糸を震わせるほどまっすぐだった。
私は胸の皿に手を置き、狐面を見た。
「……返す?」
問いかけると、狐面は首を横に振った。
声は出なかった。沈黙が答えになっていた。
「返さない」
私が代わりに言うと、結び目が鳴った。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
困るたび、糸は細く編まれる。
細く編まれた糸は、影の字にまで届く。
夜。白布の下で、影の字をもう一度映した。
その輪郭は揺れていた。
「……狐、これが、あなたの名?」
問いに、狐面は沈黙のまま面を伏せた。
凛が低く言った。
「戸口に立ったんだわ。――入るかどうかは、自分で選ぶしかない」
狐面は面を上げた。
掠れた声で、やっとひとこと。
「……困る」
それは否定ではなく、同意でもなく、ただの在り方。
困ることそのものが、戸口の鍵なのだと感じられた。
私は胸の皿を支え、白布に浮かんだ影の字の隣に、小さな点を打った。
「礼」
街が息をした。
本名の影が、礼と並ぶことで少し柔らかくなった。
「隣に置く」
私は囁いた。
狐面の声が震え、三割から四割へ――ほんの少し、戸口が開いた。
(つづく)
屋根でも棟でもない、紙にも描かれていない影――それは、狐面の足元からゆるやかに伸び、掲示の白布にかすかに字を映していた。
「……字?」
芽生が震える指で示した。
白布に浮かんでいたのは、見たことのない曲線。
礼や用の筆跡ではなく、仮名の家にも記されたことのない、誰かの“名”の影だった。
白川が慎重に筆を走らせ、浮かんだ影の形を写す。
「これは……仮名じゃない。……本名の影です」
凛が低く言った。
「沈黙を税に払ったからこそ、声の底に隠れていた名が影を落としたんだわ」
狐面は面を少し傾けた。
声はまだ三割、掠れている。
「……本名は、戸口だ。開ければ、退屈は消える。けれど……戻れなくなる」
面の奥で笑ったように見えた。だが、その笑みは痛みに似ていた。
斎庭の人々がざわめく。
本名の影を見れば、狐面の正体が露わになる。
仮名の家に泊まる客ではなく、一人の名を持った人になる。
それは街にとって祝福であると同時に、脅威でもあった。
「……どうするの?」
芽生の問いに、誰もすぐには答えられなかった。
えまが小さく言う。
「隣に置けば……いい」
その声は幼かったが、糸を震わせるほどまっすぐだった。
私は胸の皿に手を置き、狐面を見た。
「……返す?」
問いかけると、狐面は首を横に振った。
声は出なかった。沈黙が答えになっていた。
「返さない」
私が代わりに言うと、結び目が鳴った。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
困るたび、糸は細く編まれる。
細く編まれた糸は、影の字にまで届く。
夜。白布の下で、影の字をもう一度映した。
その輪郭は揺れていた。
「……狐、これが、あなたの名?」
問いに、狐面は沈黙のまま面を伏せた。
凛が低く言った。
「戸口に立ったんだわ。――入るかどうかは、自分で選ぶしかない」
狐面は面を上げた。
掠れた声で、やっとひとこと。
「……困る」
それは否定ではなく、同意でもなく、ただの在り方。
困ることそのものが、戸口の鍵なのだと感じられた。
私は胸の皿を支え、白布に浮かんだ影の字の隣に、小さな点を打った。
「礼」
街が息をした。
本名の影が、礼と並ぶことで少し柔らかくなった。
「隣に置く」
私は囁いた。
狐面の声が震え、三割から四割へ――ほんの少し、戸口が開いた。
(つづく)



