学院に入って三日。
 私はまだ、自分が“学んでいる”のか“潜り込んでいる”のか、判別できずにいた。授業の板書は丁寧で、先生方は親切だ。けれど、その親切の隙間から、いつも“別の目的”が覗いている――学院が守ろうとしているもの、隠そうとしているもの、そして、私自身の秘密。

 灯篭祭の準備が本格化すると、そんな迷いは一旦、棚に上がった。
 灯篭祭は、朧学院にとって一年で最も大きな行事だ。中庭一面に灯篭を浮かべ、校舎の縁側から渡り廊下に至るまで、術札を織り込んだ灯の海で覆い尽くす。灯篭は単なる飾りではない。人とあやかしが共に暮らす「場」を一夜で再定義する、儀礼の要だ。灯は道を照らすだけでなく、名を守り、境を定める。
 ――名は力。境は約束。どちらも、破られてはならない。

 準備の一環として、生徒たちは各々の得意分野に配された。術式の得意な者は下地を引き、手先の器用な者は灯篭の組み上げ、音に敏い者は風鈴の調律を任される。私は、術札の下絵の確認を担当した。墨の濃淡のわずかなズレで、灯は別の意味を帯びてしまう。呼ぶべきものではないものを呼んでしまうことだってある。
 凪から託された細工筆と、朔弥にもらった仮の護符を懐に、私は中庭の端で紙束を捲(めく)っていた。

 「更、手は止めるなよ」
 声をかけてきたのは、同級の羽根のある少年だった。まだ名乗っていないけれど、彼はいつも気さくに話しかけてくる。
 「止めてないわ。止まりたくても、止まらない」
 「いい返し方だ」
 軽口を交わしながら、私は紙の端に違和感を見つけた。線の一本が、他の線よりもわずかに痩せている。乾き方も不自然。墨の下に、薄く擦れた別の線――呼符。
 喉の奥で舌が乾く。私は筆先でその部分をそっと撫で、袖口で影を作って目を凝らす。
 やはり。灯の結び目が、わずかに“喪神(もがみ)”寄りに傾いている。これでは、灯篭祭の夜、結界の呼吸が乱れ、喪の屑(くず)を遠ざけるどころか、寄せてしまう。
 「誰が、こんな……」

 独り言は、風に拾われやすい。
 背後で、鈴の音に似た空気の震えがした。振り向くと、灯の陰で、輪郭を持たない黒がじっと地面に貼りついている。濡れた紙のように薄いのに、目があるとしか思えない気配。
 「喪神だ!」
 羽根の少年の声が上ずる。黒は地面から剝(は)がれると、低い草を舐めるようにこちらへ伸びてくる。
 私は札束の一番上を抜き取り、息を短く、低く吐いた。
 「“灯(あかし)”」
 札が白く弾け、黒が一瞬だけ薄まる。しかし完全には退かない。むしろ、薄皮一枚を残して、こちらの動きを観察している。
 ――観察? 喪神は本能で動くはず。
 考えるより先に、耳元に囁きが落ちた。
 ――さらさ。
 血の温度が、足の裏から抜けた。
 私の本当の名前。
 「更、下がれ!」
 誰かの声が重なる。次の瞬間、風が横から駆け、狐火のような光が地面を走った。黒が歪(ゆが)み、影の輪郭が崩れる。
 「離れろ」
 低い声。聞き覚えのある調子。
 朔弥が、面越しに私を見た。
 「囁きを聞いたな」
 頷くと、彼は一歩、前へ出た。手の中で朱の紐が短く鳴り、地面に“繋ぎ”の印が結ばれていく。
 「喪は、名の隙間に入り込む。名を固めろ。仮の名でいい、今だけはそれを本名と思え」
 「更は更。私は、私」
 自分に言い聞かせるように繰り返す。喉の震えが、少し収まった。
 朔弥は黒い影に向き直り、掌を下ろす。
 「誰がここへ招いた」
 返事の代わりに、影は少しだけ膨らみ、周囲の灯の輪を舐めた。灯は白く瞬き、すぐに持ち直す。
 「祭の下絵が一部、書き換えられてる」
 私が言うと、朔弥は短く頷いた。
 「やはりだ。……生徒会に報せを回す。更、お前は一歩も下がるな」
 「下がらないの?」
 「そうだ。逃げる灯の背を喪は追う。前で受けて、掴んで、捻る。――やれるか」
 やれるか、と問う声は、命令に酷似していた。私は頷き、袖から細工筆を抜く。紙の端に、修正のための細い線を入れる。線は呼吸だ。太くも細くもなく、灯の脈に合わせて流す。
 影が私の手元に気づき、するりと寄ってくる。
 ――来い。
 私は筆先で、あえて一瞬、灯の結びを解いた。影がそこへ吸い込まれた瞬間、朔弥が地面を叩く。
 乾いた音。結界の糸が一斉に顔を上げ、影の周囲に小さな輪をいくつも作った。輪は糸でできた檻。喪は絡まり、もがく。
 「今だ」
 朔弥の声に重なるように、私は修正線を一息に引き、結び目を元に戻した。輪の糸が収束し、影は紙を焼くような匂いを残して弾ける。黒い屑が、夜風にほどけた。

 肩の力が抜ける。
 けれど、終わっていない。私の耳の奥では、まだどこかで囁きの尾がささやいている。
 ――さらさ。
 誰かが、私の本名を持っている。学園のどこかで、それを囁いている。喪神は本能で“音”を追う。音の元に、人がいる。

 「更」
 朔弥が呼ぶ。面の奥の視線は、私の手の震えに気づいているようだった。
 「……大丈夫」
 強がりではなく、確認だった。まだ立てる。まだ筆が握れる。
 「今の修正、誰に習った」
 「凪。従姉。薬舗の裏で、ずっと練習したの」
 「良い手だ」
 短く褒められると、張り詰めていた糸が一つ、ほどけた。
 朔弥は振り返り、生徒会の下級生に指示を飛ばす。書き換えられた下絵の回収、見回りの強化、灯篭の配置の再確認。命令は簡潔で速い。
 視界の端で、羽根の少年が私に親指を立て、安堵の笑みを向けた。私は笑い返しながら、胸の奥の鈍痛を撫でた。
 婚約破棄の痛みとは別のもの――名を侵されかけた痛み。
 名は力。
 なら、奪われた名は、奪い返す。

 夜が深まり、準備は山場を越えた。
 灯篭の骨組みはすべて立ち上がり、和紙が張られ、墨の線が揺るぎなく座った。生徒たちの足音が少しずつ軽くなり、笑い声が戻る。
 そんな中、私は一人、学園の外れにある「契り堂」へ向かった。
 契り堂は、小高い丘の上、木立の間に隠れるように建っている。扉には鍵がかかっていない。儀礼のために、いつでも誰でも入れる。ただし、入る者は皆、礼を払う。
 私は敷居の手前で一礼し、靴音を殺して中へ。
 堂内は薄暗く、四方の壁に古い契りの文書が掛けられていた。人と妖の取り決め、守るべき言葉、破れば流れる血の量。乾いた紙の匂いに混じって、鉄の匂いが微かに漂う。昼間、朔弥のそばで嗅いだ匂いだ。
 ――彼はここに何かを隠している。
 そんな噂を思い出しながら、私は文書の並びを目で追った。どれも古いが、一枚だけ、紙の質が新しい。朱の印が鮮やかすぎる。
 近づくと、墨の黒がわずかに光った。上塗り。
 私は指先で紙の端を撫で、爪先でほんの少し、角を持ち上げた。下に、別の紙。
 そこに刻まれた印章の紋は、私がよく知っている家のものだった――婚約者の家。
 心臓の鼓動が、紙の隙間に流れ落ちるように聞こえた。
 なぜ、ここに。
 婚約破棄は、単なる家同士の都合の産物だと思っていた。けれど、違う。学院と、狐一族と、王家と、そして私の婚家が、一本の糸で結ばれている。
 その糸は、血で濡れている。

 「何をしている」
 背後から声がして、息が止まった。
 振り返ると、狐面がそこにあった。朔弥。
 「……ごめんなさい、勝手に」
 謝ると、彼は面の下で短く息を吐いた。叱責ではない、逡巡の音。
 「見たな」
 「見た。あなたの血判と、婚家の紋。……どういうこと」
 問いは刃だ。彼を切りたくて投げたわけではない。でも、刃は刃として届く。
 朔弥は扉の方へ視線を流し、堂の内と外の気配を確かめると、私に背を向け、文書の前で立ち止まった。
 「学院は、王都と狐王家の間に立っている。どちらにも傾けば、どちらかがこぼれる。契りは、均衡のために作られる。……その均衡を保つための血判に、俺は名を置いた」
 「あなたの名?」
 「俺の名は、ここに縫い留められている」
 淡々と語る声の下で、何かが擦り切れている気配がした。
 「婚約破棄に、私の家は関わっているのね」
 「関わっている。お前の婚家の紋は、俺の血判の隣にある」
 短い沈黙。
 「お前を学院に入れたのは、俺だ」
 「……え?」
 驚きで言葉が滑る。
 「王都の夜会の前から、お前のことは知っていた。名前は知らなかったが、顔は――昔、一度、見ている」
 「狐火の夜?」
 灯篭の海の下で囁かれた記憶が、音を立てて蘇る。幼い日の夜、迷子になった私の手を引いた、あの温い掌。
 朔弥は面の下で目を閉じたように見えた。
 「契りを変えるには、契りの内側から手を入れるしかない。俺は学院の内、狐王家の端。お前は王都の人間の端。二つの端が、同時に端を握る。……それが、均衡を変える唯一の手だ」
 「私を、駒にしたの?」
 問う声が、想像より硬かった。
 「駒に“する”つもりはない。駒に“される”前に、手を取らせたかった」
 言葉は矛盾の上で均衡を取ろうとしている。
 私はそれ以上、何も言えなかった。
 扉の外で、風鈴が鳴る。風が変わった。夜が少し深くなった。

 灯篭祭の本番は、刻一刻と迫っている。
 堂を出ると、渡り廊下で羽根の少年が手を振った。
 「更、こっち! 風鈴の音律、合わせたいんだ」
 私は頷き、朔弥に一礼して、走った。体は指示に従い、心は置いていかれたまま。

 風鈴の調律は、思ったより難しい。吊り糸の長さ、輪の角度、舌(ぜつ)の硬さ。音が強すぎれば結界が硬直し、弱すぎれば喪が潜る。音色は境の柔らかさを作る。
 「更、耳がいいな」
 「あなたほどじゃない」
 「いや、俺は羽根があるだけだよ」
 笑い合った瞬間、耳の奥でまた、微かな囁きがした。
 ――さらさ。
 風鈴の音に紛れて、誰かが呼ぶ。
 私は風鈴の舌を指で止め、囁きの方角を感じ取ろうとした。
 西。中庭の西端。灯篭の一角。
 「ちょっと行ってくる」
 「一人で?」
 「すぐ戻る」
 自分でも驚くほど、声が軽かった。
 西へ向かう途中、私は袖の中の護符をそっと撫でた。朱の温度は、まだ失われていない。
 灯篭の影が濃くなる。灯の輪が重なり、地面に幾重もの円を描いている。その中心に、何かが立っていた。
 白い。
 白い影。
 私と同じくらいの背丈で、顔のない女の人の形をしている。白い紙でできたように薄く、風にそよぎ、灯の光で透ける。
 「誰」
 問うと、白は首を少し傾けた。
 ――さらさ。
 囁きは、私の喉を震わせる音程で返ってきた。女の人の形は、私の仕草を真似るように、首の傾きを戻す。
 鏡。
 違う、鏡ではない。
 “写し”。
 喪神は形を持たない。けれど、中には、人の形の残滓を纏(まと)って動くものがいる。誰かがそこへ“私の名”を流し込めば、喪は私を写して近づく。
 私は一歩、踏み込んだ。
 白は一歩、下がる。
 「私の名を、誰が渡したの」
 白は答えない。
 代わりに、紙で擦ったような音を出し、両手を胸の前で合わせた。祈る仕草。
 「祈らないで」
 思わず、言葉が荒れた。
 祈りは、私の領分ではない。私が欲しいのは、理由と、線と、結び目だ。
 白は祈りの手を解き、今度は足元の灯の輪を指す。輪の一部が、薄く破れていた。
 罠。
 ここに足を入れれば、名は灯に吸われ、灯は喪に吸われる。
 ――誰が、ここまでやる。
 足音。
 背後で乾いた音が重なり、私は反射的に身を捻った。
 「更!」
 朔弥が走ってくる。面の下で息が荒い。
 「離れろ。そこは、薄い」
 「わかってる」
 言いながら、私は灯の輪の破れに細工筆を滑らせた。
 筆先が微かに引っかかる。破れは紙ではない。音の層。風鈴の音が、ここだけ異質に響いている。
 私は鞄から、小さな風鈴を出した。凪がくれた、薬舗の棚の奥に眠っていた古いもの。舌は弱く、音は細い。
 白い影が、初めて揺らいだ。
 「これ、嫌い?」
 問いは虚空に落ちる。
 私は風鈴を指で弾き、破れの縁に音を馴染ませた。破れは一瞬、硬くなり、次の瞬間、溶けた。
 白い影が、にじむ。
 「今」
 朔弥の声が重なる。地面の糸が起き上がり、白の足首を縛る。白は抵抗しない。抵抗できないのではなく、抵抗しないことを選んでいるように見えた。
 「名を返して」
 私は言った。
 白は、胸のあたりを掴む仕草をする。紙の胸から、薄い札が一枚、はらりと落ちた。
 拾い上げると、そこには墨の濃淡で、私の本名が書かれていた。
 誰かの手。
 誰かが、私の名を書いた。癖のある筆圧。急いで書いたにしては、線に迷いがない。
 「これ、誰が書いたか、わかる?」
 白は首を振る――のではなく、わずかに傾けた。否定とも肯定ともつかない角度。
 「更」
 朔弥が呼ぶ。
 「それを“灯”に溶かせ。お前が“更”である限り、名は奪われない」
 私は頷き、札の端に火をつけた。火は小さく、すぐに消える。墨は煙になり、夜の上層へ消えていく。
 ――さらさ。
 囁きが、ひどく遠くなった。
 白い影は、風に薄まり、灯の輪に溶けていく。
 「ありがとう」
 私は小さく呟いた。白は最後に、祈るように指を合わせ、消えた。

 静けさが戻る。
 ただし、それは本当の静けさではない。
 囁きは遠のいたが、誰かが私の名を書いた事実は、近くに残った。
 朔弥は面をわずかに傾け、地面の糸を解いた。
 「お前の名は、お前のものだ」
 「わかってる」
 「わかっていないから、言う」
 刺すようでいて、温い。
 「お前の名を使って動かしている者がいる。灯篭祭の夜、学院は“開く”。向こうから来るだけじゃない。こちらから“見える”ものも増える」
 「見えるようになったら、掴める?」
 「掴める。だから――」
 彼は短く言い淀み、面の下で何かを飲み込んだ。
 「だから、今だけは俺のそばにいろ」
 心の奥で、音が鳴った。
 命令に似た申し出。申し出に似た命令。
 私は頷いた。
 「わかった」
 「よし」
 彼の声が、ほんの少し柔らかくなる。

 祭の始まりの刻限が、鐘楼から降りてきた。
 灯篭に一斉に火が入る。灯の海が、庭を満たす。風鈴が、ひとつ、またひとつ、順に鳴る。輪唱のように、音が広がる。
 私は朔弥の隣に立ち、灯の波を見た。
 灯は美しい。
 それは、私が学びたいと願ったすべての理由のように美しくて、同時に、すべての罠のように美しい。
 遠くで、生徒たちの歓声が上がる。
 私は胸の前で手を組んだ。祈りの仕草ではない。血の温度を確かめる仕草だ。
 ――さら。
 自分の名を、心の内だけで呼ぶ。
 返事は、静かに、確かに、胸骨の裏側から返ってきた。
 私は、私だ。
 仮の名であっても、今この場では本当の名だ。

 灯の海の向こう側で、人影が動いた。
 狐面。
 朔弥ではない。
 遠目に見ても、立ち方が違う。視線の運び方が違う。
 狐面の人物は、私を見ていた。まっすぐに。
 喉の奥で、古い紙が擦れる音がした。
 ――さらさ。
 囁きは戻っていない。
 でも、視線が、同じ音程で私の皮膚をなぞる。
 私が一歩踏み出すと、狐面は一歩、退いた。
 「更?」
 朔弥の声が近づく。
 私は振り返らず、短く答えた。
 「向こうに、狐面」
 「……行くな。俺が行く」
 言い終えるのと、私の足が動くのと、ほぼ同時だった。
 止まらなかった。
 止まり方を、知らなかった。
 狐面は、灯の陰へ消える。
 私は、灯の輪を踏み越えた。
 ……足首に、冷たい指が触れた。

 「更!」
 朔弥の叫びが、灯の上を滑ってきた。
 地面が微かに沈む。灯の輪が歪む。
 薄い影が、足首に巻きつく。
 喪神。
 さっきとは違う。細く、鋭く、狙いがはっきりしている。
 私は反射的に札を切り、声を吐いた。
 「“灯(あかし)!”」
 白い火花。影が緩む。
 朔弥が飛び込んできて、私の肩を抱え、輪の外へ引き戻した。
 「言ったはずだ」
 低い声が震えていた。怒りではない。恐怖に似たもの。
 「ごめんなさい」
 その言葉は、薄くなる前に、彼の手の温度に吸われた。
 狐面の姿は、もうない。
 灯の陰には、風が残っただけ。
 誰かが、私を見ていた。
 誰かが、私の名を、まだどこかに握っている。

 灯篭祭の音が、いっそう高く、遠くで重なる。
 学院は今、いちど“開いた”。
 開けば、見える。
 見えれば、掴める。
 掴めたものが、真実とは限らない。
 それでも――掴みに行くしかない。

 朔弥が、私の手首の朱の紐を確かめる。
 温い。
 まだ、守りは効いている。
 その温度に、私は息を整えた。
 「行こう」
 「どこへ」
 「契り堂。――祭の最中が一番、人目が散る。あそこで、もう一枚、“上塗り”を剝がす」
 朔弥は一拍置いてから、頷いた。
 「いい目だ」
 褒める声は短く、それでいて、灯より長く残った。

 私たちは灯の海を抜け、夜の奥へ向かった。
 狐面の誰かが、そこで待っている気がした。
 囁きの尾は消え、代わりに、別の音が胸の内側で生まれていた。
 ――更。
 私が私を呼ぶ音。
 それはきっと、喪には届かない。
 でも、私には届く。
 それで十分だ。
 灯篭祭の夜は、まだ、はじまったばかりだ。