影の市場に落ちた偽札は、翌朝も残っていた。
朱は黒く滲み、紙は湿ったように重い。
礼を偽ったその痕は、まるで街の皮膚に付いた傷のようで、糸にさえ鈍い影を落としていた。
「……剥がさなきゃ」
白川が低く言う。
「放っておけば、他の棟にまで広がる」
凛が頷き、刷毛を手にした。だが、刷毛の毛先が偽札に触れた瞬間、重さが手首に食い込む。
「……重い」
刷毛を振っても離れない。まるで、嘘が本物に寄生するように張り付いていた。
斎庭に人々が集まった。
芽生は怖そうにしながらも、えまの袖を握って離さなかった。
「剥がすのは、礼の順を守れる人がいい」
真朱が言った。
「礼→用→名を声にできる者の指じゃないと、札は剥がれても、跡が残る」
達が一歩前に出た。
「……俺、やる」
彼の指は細くて力もない。けれど、礼を怖れた経験を持っている。
「偽札の重さは……あの頃の俺に似てる。俺なら、触れる」
白川は迷いを見せたが、凛がうなずいた。
「触れる者の指が必要だ」
達が札の端に指を掛けた。
黒い朱が爪に滲む。
「……礼」
小さな声で言った。
「用は……戻り先を探すため」
声が震えたが、確かに次の段を踏んだ。
「名は……達」
札の角がわずかに剥がれた。
だが、重さが肩にのしかかり、達の息が乱れる。
「……足りない」
彼の声が掠れた瞬間、えまが横から声を重ねた。
「わたしが、ここで、ふるえないように!」
言葉は短く強く、札を引き裂くように響いた。
黒点がひとつ、砕け落ちる。
狐面が影から歩み寄った。
面の房を揺らし、低い声で言った。
「……困る」
その一言だけで、残りの黒い朱が震えた。
「返さない」
私も声を重ねる。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
結び目の拍が、札に染み込んでいく。
嘘で塗られた層が、礼の拍に耐えられず、音を立てて剥がれた。
札を剥がした跡には、かすかな線が残った。
完全には消えない。
凛はその線に細い糸を渡した。
「剥がした跡も編む。跡を隠すのではなく、跡を支える糸にする」
芽生が震えながらも筆を持ち、小さく点を打つ。
「礼」
その一点で、跡が街の一部に変わった。
夜。
白布の下で、私は朔弥と向かい合った。
「偽札を剥がすの、怖かった」
「お前の声が……支えた」
面の紐に触れる手が、ゆっくり結び直される。
「返す?」
「返さない」
結び目が鳴る。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
困るたびに、糸は増える。
剥がした跡も、編まれた糸も、切なさの働きになる。
街はまだ揺れている。狐面の声も三割に止まったまま。
それでも、私たちの指は細く編み続ける。
跡の上に屋根を増やすために。
(つづく)
朱は黒く滲み、紙は湿ったように重い。
礼を偽ったその痕は、まるで街の皮膚に付いた傷のようで、糸にさえ鈍い影を落としていた。
「……剥がさなきゃ」
白川が低く言う。
「放っておけば、他の棟にまで広がる」
凛が頷き、刷毛を手にした。だが、刷毛の毛先が偽札に触れた瞬間、重さが手首に食い込む。
「……重い」
刷毛を振っても離れない。まるで、嘘が本物に寄生するように張り付いていた。
斎庭に人々が集まった。
芽生は怖そうにしながらも、えまの袖を握って離さなかった。
「剥がすのは、礼の順を守れる人がいい」
真朱が言った。
「礼→用→名を声にできる者の指じゃないと、札は剥がれても、跡が残る」
達が一歩前に出た。
「……俺、やる」
彼の指は細くて力もない。けれど、礼を怖れた経験を持っている。
「偽札の重さは……あの頃の俺に似てる。俺なら、触れる」
白川は迷いを見せたが、凛がうなずいた。
「触れる者の指が必要だ」
達が札の端に指を掛けた。
黒い朱が爪に滲む。
「……礼」
小さな声で言った。
「用は……戻り先を探すため」
声が震えたが、確かに次の段を踏んだ。
「名は……達」
札の角がわずかに剥がれた。
だが、重さが肩にのしかかり、達の息が乱れる。
「……足りない」
彼の声が掠れた瞬間、えまが横から声を重ねた。
「わたしが、ここで、ふるえないように!」
言葉は短く強く、札を引き裂くように響いた。
黒点がひとつ、砕け落ちる。
狐面が影から歩み寄った。
面の房を揺らし、低い声で言った。
「……困る」
その一言だけで、残りの黒い朱が震えた。
「返さない」
私も声を重ねる。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
結び目の拍が、札に染み込んでいく。
嘘で塗られた層が、礼の拍に耐えられず、音を立てて剥がれた。
札を剥がした跡には、かすかな線が残った。
完全には消えない。
凛はその線に細い糸を渡した。
「剥がした跡も編む。跡を隠すのではなく、跡を支える糸にする」
芽生が震えながらも筆を持ち、小さく点を打つ。
「礼」
その一点で、跡が街の一部に変わった。
夜。
白布の下で、私は朔弥と向かい合った。
「偽札を剥がすの、怖かった」
「お前の声が……支えた」
面の紐に触れる手が、ゆっくり結び直される。
「返す?」
「返さない」
結び目が鳴る。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
困るたびに、糸は増える。
剥がした跡も、編まれた糸も、切なさの働きになる。
街はまだ揺れている。狐面の声も三割に止まったまま。
それでも、私たちの指は細く編み続ける。
跡の上に屋根を増やすために。
(つづく)



