白檀の香りが街に馴染みはじめたころ、別の匂いが混ざった。
焦げた墨と鉄の錆。
それは、斎庭から少し離れた路地――“影の市場”と呼ばれる薄暗い一角から流れてきた。
紙の街の広場で子どもたちが遊ぶ声が聞こえる一方で、影の市場には低いざわめきがあった。
札が並んでいる。
見た目は仮名の家の屋根とよく似ている。だが、棟に打たれた朱は粗く、礼の点は黒く滲んでいた。
「……偽札」
白川が小さく吐き捨てるように言った。
「礼を真似してるけど、働かない。――いや、働いたふりをする」
影の市場で札を売る男は、にやにや笑っていた。
「礼を置いたことにすれば、仮名がなくても泊まれる。理由なんか要らない。名前さえ書けば、隣に居られる」
人々は迷った顔で耳を傾けている。
本物の仮名の家に入るには、礼と用の順が要る。
それを飛ばしたい者に、偽札は甘い誘いになる。
芽生が震える声で私に囁いた。
「……もし皆が偽札を使ったら、礼→用→名が崩れる」
「崩れたら、街は……?」
「……倒れる」
言葉にするだけで、胸の皿が冷えた。
そのとき、狐面が現れた。
声は三割を超えたばかり。
だが、今夜は不思議に沈黙が長かった。
面の房は揺れるのに、声が出ない。
「……狐?」
私が呼ぶと、面の奥からかすれた音が漏れた。
「偽札は、退屈より厄介だ。……退屈は待つが、偽札は急がせる」
狐面の声は、ほんのひとことだけで途切れた。
沈黙が、斎庭に重く降りる。
胸の皿が軋み、私の心臓まで引き込まれる。
人々はざわめき、影の市場の男に流れそうになった。
「礼を置いたふりでいいじゃないか」
「用なんて後からつけ足せばいい」
反発の声が積み重なる。
札の黒点が棟に広がり、本物の糸を侵しかけていた。
そのとき、達が前へ出た。
「……俺は、礼が怖かった」
彼は自分の札を掲げた。
> た・つ(端)
> 用:戻り先を探すまで
> 礼:隣へ
「でも、礼を置いてから、怖さは半分になった。――偽札じゃ、半分にならない」
言葉は拙かったが、糸のひと筋が震え、黒い滲みを押し返した。
えまが小さな声を重ねる。
「……ふるえないようにって書いたら、本当にふるえなかった」
> え・ま(十)
> 用:わたしが、ここで、ふるえないように
> 礼:棟
その声は細いけれど、礼の順を守っていた。
黒点がまた一つ、消える。
狐面は影の奥に佇んだまま、声を出さなかった。
その沈黙が、かえって強かった。
面の房が揺れるたび、沈黙のなかにかすかな拍が混じる。
それは礼ではなく、ただの在り方。
――沈黙さえ、隣に置ける。
私は胸の皿に指を置き、深く息を吐いた。
「礼→用→名」
声に出すと、糸が震え、黒い偽札が一枚、紙から剥がれ落ちた。
剥がれた瞬間、狐面がようやく声を出した。
「……困る」
掠れた声は短かったが、胸の皿を震わせるのに十分だった。
夜。白布の下で、私は狐面の隣に座った。
「偽札は……これからも出る?」
問いに、狐面は答えなかった。
面の房を揺らし、沈黙で返す。
けれど、その沈黙は冷たくなかった。
「……返す?」
私が尋ねると、狐面は小さく首を振る。
「返さない」
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
切なさが、沈黙を支える糸になっていた。
狐面の声は三割で止まったまま。
けれど、街は偽札を剥がし、仮名の家を守った。
困ることは、まだ続く。
それでも、困りながら進む拍こそが、街を生かすのだと信じた。
(つづく)
焦げた墨と鉄の錆。
それは、斎庭から少し離れた路地――“影の市場”と呼ばれる薄暗い一角から流れてきた。
紙の街の広場で子どもたちが遊ぶ声が聞こえる一方で、影の市場には低いざわめきがあった。
札が並んでいる。
見た目は仮名の家の屋根とよく似ている。だが、棟に打たれた朱は粗く、礼の点は黒く滲んでいた。
「……偽札」
白川が小さく吐き捨てるように言った。
「礼を真似してるけど、働かない。――いや、働いたふりをする」
影の市場で札を売る男は、にやにや笑っていた。
「礼を置いたことにすれば、仮名がなくても泊まれる。理由なんか要らない。名前さえ書けば、隣に居られる」
人々は迷った顔で耳を傾けている。
本物の仮名の家に入るには、礼と用の順が要る。
それを飛ばしたい者に、偽札は甘い誘いになる。
芽生が震える声で私に囁いた。
「……もし皆が偽札を使ったら、礼→用→名が崩れる」
「崩れたら、街は……?」
「……倒れる」
言葉にするだけで、胸の皿が冷えた。
そのとき、狐面が現れた。
声は三割を超えたばかり。
だが、今夜は不思議に沈黙が長かった。
面の房は揺れるのに、声が出ない。
「……狐?」
私が呼ぶと、面の奥からかすれた音が漏れた。
「偽札は、退屈より厄介だ。……退屈は待つが、偽札は急がせる」
狐面の声は、ほんのひとことだけで途切れた。
沈黙が、斎庭に重く降りる。
胸の皿が軋み、私の心臓まで引き込まれる。
人々はざわめき、影の市場の男に流れそうになった。
「礼を置いたふりでいいじゃないか」
「用なんて後からつけ足せばいい」
反発の声が積み重なる。
札の黒点が棟に広がり、本物の糸を侵しかけていた。
そのとき、達が前へ出た。
「……俺は、礼が怖かった」
彼は自分の札を掲げた。
> た・つ(端)
> 用:戻り先を探すまで
> 礼:隣へ
「でも、礼を置いてから、怖さは半分になった。――偽札じゃ、半分にならない」
言葉は拙かったが、糸のひと筋が震え、黒い滲みを押し返した。
えまが小さな声を重ねる。
「……ふるえないようにって書いたら、本当にふるえなかった」
> え・ま(十)
> 用:わたしが、ここで、ふるえないように
> 礼:棟
その声は細いけれど、礼の順を守っていた。
黒点がまた一つ、消える。
狐面は影の奥に佇んだまま、声を出さなかった。
その沈黙が、かえって強かった。
面の房が揺れるたび、沈黙のなかにかすかな拍が混じる。
それは礼ではなく、ただの在り方。
――沈黙さえ、隣に置ける。
私は胸の皿に指を置き、深く息を吐いた。
「礼→用→名」
声に出すと、糸が震え、黒い偽札が一枚、紙から剥がれ落ちた。
剥がれた瞬間、狐面がようやく声を出した。
「……困る」
掠れた声は短かったが、胸の皿を震わせるのに十分だった。
夜。白布の下で、私は狐面の隣に座った。
「偽札は……これからも出る?」
問いに、狐面は答えなかった。
面の房を揺らし、沈黙で返す。
けれど、その沈黙は冷たくなかった。
「……返す?」
私が尋ねると、狐面は小さく首を振る。
「返さない」
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
切なさが、沈黙を支える糸になっていた。
狐面の声は三割で止まったまま。
けれど、街は偽札を剥がし、仮名の家を守った。
困ることは、まだ続く。
それでも、困りながら進む拍こそが、街を生かすのだと信じた。
(つづく)



