紙の街は、仮名の家で賑わっていた。
屋根はまだ仮の線にすぎないのに、子どもも商人も、筆を持つ者も持たない者も、そこに礼を置き、用を綴り、名を残していった。
屋根と屋根の間を渡る糸は、昼の光に透けて銀のように輝き、そこを伝って白檀の香が広がるたび、街はひとつ息をした。
――けれど、その呼吸に、重く硬い音が混じりはじめた。
午後の斎庭。
掲示室の前に、青年が立っていた。
仮名を書いた紙片を握りしめ、屋根の棟を睨んでいる。
「……礼なんて、いらない」
声は低いが鋭く、集まった人々の耳に刺さる。
「俺はただ、名を書きたい。誰の隣にも置かずに」
白川が一歩前に出る。
「礼→用→名の順が街を守るんです」
「そんな順番、押しつけられる筋合いはない!」
青年は叫び、棟を叩いた。
朱が揺れ、糸が一瞬きしむ。
反発の声が、紙の街に穴を穿とうとしていた。
えまが身を縮め、芽生の袖を握る。
「……こわい」
芽生も震えていたが、小さな声で応えた。
「隣に……置けるかな」
二人の囁きは、揺れる糸を細く繋ぎ止めていた。
達が青年の前に立つ。
「……俺も、前はそう思った。礼が怖かった。居場所を奪われる気がして」
青年は眉をひそめる。
「でも……仮名の家に隣ができたら、怖さは半分になった。……叩かなくても、書ける」
ぎこちない言葉。それでも、拍の順を守っていた。
そのとき、狐面が影から現れた。
声は三割を超え、掠れながらも輪郭を持つ。
「……反発は、街を割る。だが、隣に置けば、働く」
青年が振り返る。
「隣に置いて、何になる!」
「隣に置くと、礼を持たなくても居られる」
狐面の声は低く、遠く、しかし近い。
「礼を拒む声の隣に、礼を置けばいい。礼を押しつけるのではなく、隣に並べる」
狐面は面の房を揺らし、棟の横に仮名を書いた。
> 仮名:きつね(仮)
> 用:隣に居る
> 礼:点
「俺の声も、仮だ。仮だから、隣に置ける」
青年の肩が少し落ちた。
彼は筆を持ち、震える字で書いた。
> 仮名:りょう
> 用:言いたいことを言う
礼の欄は空白のまま。
だが、棟は沈まなかった。
狐面の隣に置かれたからだ。
夜。
白布の下で、更と朔弥は向かい合っていた。
「……礼を拒む声も、街に置けるのね」
私が言うと、朔弥は面の紐に触れ、低く答える。
「お前が隣に置いてくれるからだ」
「返す?」
「返さない」
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
やり取りの拍は、今日も胸の皿を鳴らす。
切なさは消えない。
だが、隣に置けば、働く。
狐面の声が三割に届いた今、切なさもまた街を支える力になっていた。
(つづく)
屋根はまだ仮の線にすぎないのに、子どもも商人も、筆を持つ者も持たない者も、そこに礼を置き、用を綴り、名を残していった。
屋根と屋根の間を渡る糸は、昼の光に透けて銀のように輝き、そこを伝って白檀の香が広がるたび、街はひとつ息をした。
――けれど、その呼吸に、重く硬い音が混じりはじめた。
午後の斎庭。
掲示室の前に、青年が立っていた。
仮名を書いた紙片を握りしめ、屋根の棟を睨んでいる。
「……礼なんて、いらない」
声は低いが鋭く、集まった人々の耳に刺さる。
「俺はただ、名を書きたい。誰の隣にも置かずに」
白川が一歩前に出る。
「礼→用→名の順が街を守るんです」
「そんな順番、押しつけられる筋合いはない!」
青年は叫び、棟を叩いた。
朱が揺れ、糸が一瞬きしむ。
反発の声が、紙の街に穴を穿とうとしていた。
えまが身を縮め、芽生の袖を握る。
「……こわい」
芽生も震えていたが、小さな声で応えた。
「隣に……置けるかな」
二人の囁きは、揺れる糸を細く繋ぎ止めていた。
達が青年の前に立つ。
「……俺も、前はそう思った。礼が怖かった。居場所を奪われる気がして」
青年は眉をひそめる。
「でも……仮名の家に隣ができたら、怖さは半分になった。……叩かなくても、書ける」
ぎこちない言葉。それでも、拍の順を守っていた。
そのとき、狐面が影から現れた。
声は三割を超え、掠れながらも輪郭を持つ。
「……反発は、街を割る。だが、隣に置けば、働く」
青年が振り返る。
「隣に置いて、何になる!」
「隣に置くと、礼を持たなくても居られる」
狐面の声は低く、遠く、しかし近い。
「礼を拒む声の隣に、礼を置けばいい。礼を押しつけるのではなく、隣に並べる」
狐面は面の房を揺らし、棟の横に仮名を書いた。
> 仮名:きつね(仮)
> 用:隣に居る
> 礼:点
「俺の声も、仮だ。仮だから、隣に置ける」
青年の肩が少し落ちた。
彼は筆を持ち、震える字で書いた。
> 仮名:りょう
> 用:言いたいことを言う
礼の欄は空白のまま。
だが、棟は沈まなかった。
狐面の隣に置かれたからだ。
夜。
白布の下で、更と朔弥は向かい合っていた。
「……礼を拒む声も、街に置けるのね」
私が言うと、朔弥は面の紐に触れ、低く答える。
「お前が隣に置いてくれるからだ」
「返す?」
「返さない」
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
やり取りの拍は、今日も胸の皿を鳴らす。
切なさは消えない。
だが、隣に置けば、働く。
狐面の声が三割に届いた今、切なさもまた街を支える力になっていた。
(つづく)



