朝。市場の屋根に露が乾く前に、風が吹いた。
白檀の香りを含んだ風だ。いつもは凪の店から斎庭へ静かに流れるだけの香が、この日は街の通り全体に混じり、屋根と屋根の間に編まれた糸を伝って広場へ巡っていった。
「……香が街を歩いてる」
芽生が小さな声で呟く。
糸は夜に張ったばかりだ。それなのに、香りは確かに棟から棟へ渡り、紙の街をひとつにしていた。
礼が重すぎて沈んだはずの屋根は、今朝は軽やかに鳴っている。
狐面が現れた。
面の房を一度だけ振り、胸の奥から声を出した。
「……三割」
掠れながらも、言葉がはっきり聞こえる。
低いが、柔らかい。遠いが、近い。
胸骨の内側に深く沈んで、皿を揺らす声だ。
「白檀が支えてる」
凛が小さく頷いた。
「眠りの税が返り、声の税が戻るとき、香が道を作る。……狐の声は、香と似ている」
狐面は短く笑い、面の口を少し傾けた。
「俺の声が香に似てるなら、街は匂いで回る」
「匂いは消えるのに?」
芽生が不安げに聞く。
「だからいい」
狐面は掠れ声で答えた。
「残らないものに、礼を置けるなら――街は倒れない」
そのとき、市場で小さなざわめきが起きた。
野菜籠を抱えた女商人が、屋根の棟の下で立ち止まったのだ。
彼女は仮名を書けない。文字を習わなかったからだ。
だが白檀の風に押されるように、手の中の大根を屋根の端に置いた。
「……これが、礼」
声は震えていたが、棟は確かに応えた。
大根の白い皮に、影の中の朱が移り、短い拍が鳴る。
「用は?」
私が促すと、女商人は涙ぐみながら言った。
「子どもが、眠れますように」
その一言で、紙の街はもうひとつ呼吸した。
礼→用→名。名はまだない。だが、願いが用を満たした。
「名は、どうする?」
白川が隣で問いかけた。
女商人は首を振り、筆を持たない指を擦り合わせた。
そのとき、狐面がゆっくりと歩み寄った。
「仮名を置くなら……俺の隣でいい」
狐面の声は三割になったばかり。それでも、その響きは人を導く。
面の房が鳴り、棟の隣に小さな影が映った。
> 仮名:こどものはは
女商人は驚いた顔をして、面を見つめた。
「……あなたが、名を?」
「仮名だ」
狐面は短く答える。
「仮名の家に泊まるのは、俺だけじゃない」
広場に風が巡り、白檀の香りがさらに強くなった。
香が糸を伝い、礼を運ぶ。
市場の子どもたちがその香を嗅ぎながら、声を合わせて歌った。
「ありがとう」「ただいま」「またね」――市場の日常の言葉。
だが、今はそれが礼として街に積もっていく。
「……街が回ってる」
真朱の声が低く震えた。
「狐の声が三割に届いた朝に、街も三割の姿になる」
確かに、街はまだ未完成だ。
屋根も糸も仮のもの。
狐面の声も完全ではない。
けれど、礼が香と共に広がったとき、街は確かに生きた。
夜。
斎庭に戻ると、狐面が面の房を揺らし、問いを置いた。
「返す?」
私は白布の端を撫で、胸の皿を支えながら答えた。
「返さない」
結び目が鳴る。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
困ることは、香と似ている。
残らないが、確かにある。
切なさは、その残らなさを働かせる。
私は目を閉じ、白檀の香を胸に吸い込んだ。
狐面の声と香は重なり、三割の街を支える。
次の一割が戻る日まで、細く編んだ糸を解かずに待とう。
(つづく)
白檀の香りを含んだ風だ。いつもは凪の店から斎庭へ静かに流れるだけの香が、この日は街の通り全体に混じり、屋根と屋根の間に編まれた糸を伝って広場へ巡っていった。
「……香が街を歩いてる」
芽生が小さな声で呟く。
糸は夜に張ったばかりだ。それなのに、香りは確かに棟から棟へ渡り、紙の街をひとつにしていた。
礼が重すぎて沈んだはずの屋根は、今朝は軽やかに鳴っている。
狐面が現れた。
面の房を一度だけ振り、胸の奥から声を出した。
「……三割」
掠れながらも、言葉がはっきり聞こえる。
低いが、柔らかい。遠いが、近い。
胸骨の内側に深く沈んで、皿を揺らす声だ。
「白檀が支えてる」
凛が小さく頷いた。
「眠りの税が返り、声の税が戻るとき、香が道を作る。……狐の声は、香と似ている」
狐面は短く笑い、面の口を少し傾けた。
「俺の声が香に似てるなら、街は匂いで回る」
「匂いは消えるのに?」
芽生が不安げに聞く。
「だからいい」
狐面は掠れ声で答えた。
「残らないものに、礼を置けるなら――街は倒れない」
そのとき、市場で小さなざわめきが起きた。
野菜籠を抱えた女商人が、屋根の棟の下で立ち止まったのだ。
彼女は仮名を書けない。文字を習わなかったからだ。
だが白檀の風に押されるように、手の中の大根を屋根の端に置いた。
「……これが、礼」
声は震えていたが、棟は確かに応えた。
大根の白い皮に、影の中の朱が移り、短い拍が鳴る。
「用は?」
私が促すと、女商人は涙ぐみながら言った。
「子どもが、眠れますように」
その一言で、紙の街はもうひとつ呼吸した。
礼→用→名。名はまだない。だが、願いが用を満たした。
「名は、どうする?」
白川が隣で問いかけた。
女商人は首を振り、筆を持たない指を擦り合わせた。
そのとき、狐面がゆっくりと歩み寄った。
「仮名を置くなら……俺の隣でいい」
狐面の声は三割になったばかり。それでも、その響きは人を導く。
面の房が鳴り、棟の隣に小さな影が映った。
> 仮名:こどものはは
女商人は驚いた顔をして、面を見つめた。
「……あなたが、名を?」
「仮名だ」
狐面は短く答える。
「仮名の家に泊まるのは、俺だけじゃない」
広場に風が巡り、白檀の香りがさらに強くなった。
香が糸を伝い、礼を運ぶ。
市場の子どもたちがその香を嗅ぎながら、声を合わせて歌った。
「ありがとう」「ただいま」「またね」――市場の日常の言葉。
だが、今はそれが礼として街に積もっていく。
「……街が回ってる」
真朱の声が低く震えた。
「狐の声が三割に届いた朝に、街も三割の姿になる」
確かに、街はまだ未完成だ。
屋根も糸も仮のもの。
狐面の声も完全ではない。
けれど、礼が香と共に広がったとき、街は確かに生きた。
夜。
斎庭に戻ると、狐面が面の房を揺らし、問いを置いた。
「返す?」
私は白布の端を撫で、胸の皿を支えながら答えた。
「返さない」
結び目が鳴る。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
困ることは、香と似ている。
残らないが、確かにある。
切なさは、その残らなさを働かせる。
私は目を閉じ、白檀の香を胸に吸い込んだ。
狐面の声と香は重なり、三割の街を支える。
次の一割が戻る日まで、細く編んだ糸を解かずに待とう。
(つづく)



