朝露がまだ石畳に濃く残っていた。
 斎庭に並ぶ仮名の家の屋根は、夜の間に点じられた朱で重くなり、棟木がきしむように見える。
 紙に描かれたはずの屋根が、まるで実際の木材のように息をしていた。
 ――街は、紙の上で呼吸を始めている。

 白川が棟を見上げ、困った顔で振り返った。
 「……重すぎます。礼が増えるほど、屋根が沈む」
 確かに。昨夜から今朝にかけて、泊まり客が多かった。
 狐面も「狐」という仮名で屋根の下に身を寄せ、嫉妬の家「やきもち」まで並んでいる。
 隣に置くはずの礼が重なり合い、街は沈黙の重さを抱え始めていた。

 そのとき、年配の文官が前に進み出た。
 昼間に異議を出した「た・け(文)」だ。
 彼は棟を指差し、声を荒げる。
 「これでは、倒壊する! 仮名の家は責を軽くするどころか、礼の重みで潰れる!」
 板の前にざわめきが走る。
 確かに、屋根は沈み、紙の線が揺らいで見える。
 「薄く結び直すだけでは、持たないのでは?」
 芽生が不安げに囁く。
 沈黙が長くなるほど、不安は反発に近づいてしまう。

 私は胸の皿に掌を添え、深く息をした。
 「……編む」
 その一言に、凛と真朱が頷く。

 白布を広げ、細い糸を描く。
 屋根と屋根を結ぶのではなく、隣り合う棟の間に糸を渡す。
 糸は細い。細いが、交われば網になる。
 「礼は、棟の上ではなく、隣の糸に置こう」
 私は朱を小さく打ち、糸の交差点に点を添えた。
 「礼を分け合えば、屋根は軽くなる。屋根そのものに積もらせず、隣に流せばいい」

 最初に応じたのは、達だった。
 彼は端に立ち、自分の仮名の横にもう一つ、細い糸を引いた。
 > た・つ(端)
 > 礼:隣へ
 朱点が小さく光り、棟の重さが少し和らぐ。

 えまも震えながら筆を持ち、芽生の隣に線を引いた。
 > え・ま(十)
 > 礼:隣と分け合う
 線は曲がっていたが、その分だけ強さがあった。

 白川が深呼吸して、異議の文官を振り返る。
 「責は、隣があるから、重さに潰れない」
 文官は黙り込み、棟を見上げた。
 重みが半分に分かれて、屋根の沈みが緩んでいるのを、誰もが見た。

 狐面が影から姿を現した。
 声は二割を超え、少しはっきりしていた。
 「……屋根の重さ。退屈が好む罠だ」
 掠れた笑みが混じる。
 「でも、君らは糸で逃げた。――退屈は、糸を嫌う」
 狐面の面の奥の沈黙は、確かに軽くなっていた。

 私は白布の端を指で撫で、狐面に問いかける。
 「返す?」
 彼は短く首を振り、面の房を鳴らす。
 「返さない」
 「困る」
 「困っていて」
 「……毎日、困る」
 屋根の綻びが糸で直ったように、私たちの結び目も、細く編まれていく。

 夜。
 仮名の家の棟には新しい注記が残された。
 > ※礼は棟に積まず、糸に渡すこと
 > ※隣を編むことで、街は沈まない

 市場で覚えた礼が、街の糸として働き始める。
 切なさはまだ胸骨に残っていたが、その切なさは今夜、軽く編まれた。
 重さを減らしたのではなく、重さを分け合ったから。
 切なさを分け合える街は、倒れない。

 私は胸の皿に手を置き、深い二拍を落とした。
 礼→用→名。
 隣に置く。
 糸で編む。
 街は、少しずつ未来を支える形になっていく。

(つづく)