夜番札の拍は、夜明けとともに軽くなった。
笠の裏で震えていた繊維が、朝露に濡れたようにしっとりと沈む。狐面は影から身を起こし、面の房を一度だけ鳴らした。声はまだ掠れていたが、昨日よりも深みを帯びている。二割。戻るたびに低くなり、胸の奥でよく響く声になっていく。
「朝」
短いひとこと。
それだけで、斎庭の空気が澄む。
私の胸の皿に小さく波が立った。礼を置かれたときの、あのやわらかい痛みだ。
王都の市場は、早朝からざわめいていた。
露の匂い、干し草の束、柘榴を割る音。人々は「礼」を繰り返す。
「ありがとう」――商品を受け取る声。
「またどうぞ」――手を振る声。
その礼の合間に、用と名が自然に生まれる。
「この子に食べさせたい」
「こぼれた実を拾ったリクが」
礼が拍を作り、用が方向を与え、名が重さを加える。
市場は、それで回る街だった。
凛は布を肩に掛け、市場の一角を指差した。
「紙の街と、市場は似ている。礼があれば、どこでも街になる」
芽生がうなずき、白川が手帳に書き留める。
その横で、えまが小さな声で言った。
「仮名の家も……市場みたい」
「どうして?」
私が尋ねると、えまは棟を思い出すように指で空をなぞった。
「誰かの隣で、自分の理由を書けるから。……買い物の代わりに」
えまの比喩はぎこちないが、胸に響いた。
買い物は、礼を言う稽古。仮名の家も、礼を置く稽古。
稽古が重なれば、街になる。
午前の掲示室には、最初の正式な異議が届いていた。
文官たちの筆で書かれた注記。
> 〈異議〉
> 仮名の家は礼を乱す恐れあり。
> 責の隣に設置するのは不適切。
墨は固く、線は重い。
市場の礼とは違い、こちらは反発に近い響きを持っていた。
凛は筆を取らず、静かに目を細める。
「並べて、直そう」
真朱が頷き、紙の下に新しい欄を作る。
> 〈異議〉
> 〈応答〉
文官の異議をそのまま写し取り、隣に空白を置いた。
そこへ白川が進み出て、仮名を記す。
> し・ら(責)
> 用:孤立を減らすため
> 礼:小点
達も隣に立ち、ぎこちなく筆を走らせる。
> た・つ(端)
> 用:戻り先を探すまで
> 礼:棟
異議と応答が並ぶ。
消さない。
押し込まない。
ただ並べる。
「上に置けば対立になる。隣に置けば対話になる」
凛の言葉に、文官たちの顔が揺れた。
異議は残る。
応答も残る。
どちらも消えないまま、紙に街の道が一本増えた。
午後、狐面が斎庭に現れた。
声は二割。
低く、遠く、しかし近い。
「……紙の街。俺の退屈より、賑やかになった」
掠れた笑い。
「退屈の罠は、もう効かない」
私は胸の皿に手を置き、拍をひとつ落とした。
「効かなくても、隣に置ける。退屈も、嫉妬も」
狐面は面の房を揺らし、棟の隣に小さく点を置いた。
> 仮名:きつね
> 用:隣に居る
> 礼:点
それだけで、紙の街に屋根がもう一つ増えた。
街は、音のないところから音を集め、音のあるところに沈黙を運ぶ。
沈黙は罠ではなく、礼になった。
夕刻。
市場の片隅で、えまが震える手で果物を並べていた。
隣には芽生。
「売れなかったら、どうしよう」
えまが呟く。
芽生は小さく答える。
「隣にいる。――ふるえないように」
二人の間に小さな礼が置かれ、果物が一つ売れた。
売れた瞬間、えまの肩が少しだけ下がる。
それを狐面が遠くから見ていた。
声はまだ二割。でも、その沈黙は、街を静かに支えていた。
夜。
斎庭に戻ると、夜番札が低い二拍を鳴らした。
狐面は影に腰を下ろし、掠れた声で問う。
「返す?」
私は白布を半折りにし、胸の皿を支えながら答える。
「返さない」
結び目が鳴る。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
そのやり取りが、今日も市場の礼と紙の街の道に重なっていく。
困ることは、街を回す拍になる。
切なさは、困ることを通して働く。
働く切なさが、街をやさしく大きくしていく。
(つづく)
笠の裏で震えていた繊維が、朝露に濡れたようにしっとりと沈む。狐面は影から身を起こし、面の房を一度だけ鳴らした。声はまだ掠れていたが、昨日よりも深みを帯びている。二割。戻るたびに低くなり、胸の奥でよく響く声になっていく。
「朝」
短いひとこと。
それだけで、斎庭の空気が澄む。
私の胸の皿に小さく波が立った。礼を置かれたときの、あのやわらかい痛みだ。
王都の市場は、早朝からざわめいていた。
露の匂い、干し草の束、柘榴を割る音。人々は「礼」を繰り返す。
「ありがとう」――商品を受け取る声。
「またどうぞ」――手を振る声。
その礼の合間に、用と名が自然に生まれる。
「この子に食べさせたい」
「こぼれた実を拾ったリクが」
礼が拍を作り、用が方向を与え、名が重さを加える。
市場は、それで回る街だった。
凛は布を肩に掛け、市場の一角を指差した。
「紙の街と、市場は似ている。礼があれば、どこでも街になる」
芽生がうなずき、白川が手帳に書き留める。
その横で、えまが小さな声で言った。
「仮名の家も……市場みたい」
「どうして?」
私が尋ねると、えまは棟を思い出すように指で空をなぞった。
「誰かの隣で、自分の理由を書けるから。……買い物の代わりに」
えまの比喩はぎこちないが、胸に響いた。
買い物は、礼を言う稽古。仮名の家も、礼を置く稽古。
稽古が重なれば、街になる。
午前の掲示室には、最初の正式な異議が届いていた。
文官たちの筆で書かれた注記。
> 〈異議〉
> 仮名の家は礼を乱す恐れあり。
> 責の隣に設置するのは不適切。
墨は固く、線は重い。
市場の礼とは違い、こちらは反発に近い響きを持っていた。
凛は筆を取らず、静かに目を細める。
「並べて、直そう」
真朱が頷き、紙の下に新しい欄を作る。
> 〈異議〉
> 〈応答〉
文官の異議をそのまま写し取り、隣に空白を置いた。
そこへ白川が進み出て、仮名を記す。
> し・ら(責)
> 用:孤立を減らすため
> 礼:小点
達も隣に立ち、ぎこちなく筆を走らせる。
> た・つ(端)
> 用:戻り先を探すまで
> 礼:棟
異議と応答が並ぶ。
消さない。
押し込まない。
ただ並べる。
「上に置けば対立になる。隣に置けば対話になる」
凛の言葉に、文官たちの顔が揺れた。
異議は残る。
応答も残る。
どちらも消えないまま、紙に街の道が一本増えた。
午後、狐面が斎庭に現れた。
声は二割。
低く、遠く、しかし近い。
「……紙の街。俺の退屈より、賑やかになった」
掠れた笑い。
「退屈の罠は、もう効かない」
私は胸の皿に手を置き、拍をひとつ落とした。
「効かなくても、隣に置ける。退屈も、嫉妬も」
狐面は面の房を揺らし、棟の隣に小さく点を置いた。
> 仮名:きつね
> 用:隣に居る
> 礼:点
それだけで、紙の街に屋根がもう一つ増えた。
街は、音のないところから音を集め、音のあるところに沈黙を運ぶ。
沈黙は罠ではなく、礼になった。
夕刻。
市場の片隅で、えまが震える手で果物を並べていた。
隣には芽生。
「売れなかったら、どうしよう」
えまが呟く。
芽生は小さく答える。
「隣にいる。――ふるえないように」
二人の間に小さな礼が置かれ、果物が一つ売れた。
売れた瞬間、えまの肩が少しだけ下がる。
それを狐面が遠くから見ていた。
声はまだ二割。でも、その沈黙は、街を静かに支えていた。
夜。
斎庭に戻ると、夜番札が低い二拍を鳴らした。
狐面は影に腰を下ろし、掠れた声で問う。
「返す?」
私は白布を半折りにし、胸の皿を支えながら答える。
「返さない」
結び目が鳴る。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
そのやり取りが、今日も市場の礼と紙の街の道に重なっていく。
困ることは、街を回す拍になる。
切なさは、困ることを通して働く。
働く切なさが、街をやさしく大きくしていく。
(つづく)



