夜番札は、今夜も影の浅いところで呼吸している。
笠の裏に小さく吊った三枚は、低い二拍のたびにわずかにふくらみ、しぼむ。そこへ白檀の薄い匂いが風に混ざって、眠りの道をなぞるように流れ込む。
狐面は、影から半歩だけ表へ出ていた。
面の房は整っている。歩幅も崩れていない。けれど、声はまだ一割と少し。
「……泊まる」
掠れた声が、常夜灯の柱に沿って下りてくる。
「面の仮名で、家に」
私は頷き、掲示の右下――〈仮名の家〉の棟に細い朱を打つ。
> 用:声が戻るまで
> 仮名:狐
> ※責の隣(し・ら)
白川が少し離れたところで、気配だけで会釈した。責は、隣に泊まり客がある夜の寒さを知っている。
「礼」
狐面は面の額を棟に寄せ、小さな拍を一つ置いた。
礼は十分だった。
拍の温度で棟がわずかに鳴る。
泊まると働くの境が、今夜はきれいに線引きされた。
凪の店は、今夜も白湯の支度が整っていた。
瓶の影の隣――凪の手紙どおり、小さな仮名の家ができている。棟の朱は極小、柱は短く、屋根は紙片。
> 用:落ち着くまで
> 仮名:おきゃく
> ※礼は白湯へ
「礼は白湯へ」の注記が、ひどく凪らしい。礼はことばだけでなく、湯気でも置ける、と彼女はいつも言う。
狐面が椅子に腰掛ける。面の角度は正面を向いたまま、掌が白湯の湯呑みに輪を作る。
湯気が面の下へ入って、出ていく。入っていくとき、面の内側の湿りを受け取り、出ていくとき、店の空気の芯を温める。
「白湯は、言い訳がいらない」
凪が静かに言って湯瓶を傾ける。
「噂は、言い訳から始まる。白湯は、礼から始まる」
狐面は掠れた声で短く笑い、それから黙って湯を飲んだ。
湯気が、面の内側で生まれて消える。その消え際に、彼の声の端が少し潤う。一割と少しが、一割と半分に近づく。
「……告白は、湯気が運ぶ」
凪が誰にも聞かせない声で続ける。
「冷める前に、少しだけ置きな」
狐面は湯呑みを持ち直し、面の口をわずかに下げた。
「退屈は、俺の職だ。――嫉妬は、俺の病だ」
湯気がかすかに揺れる。
「君たちが働かせ続けるたび、舞台が減る。……良い減り方だ。良いのに、病が、拗ねる」
私は湯呑みを両手で持ち、胸の皿の縁をなぞった。
嫉妬があると聞いて、楽にはならない。ただ、働かせ方が見える。
「礼→用→名」
私はゆっくり言う。
「礼は、拗ねにも置ける。用は、病の名前を守る。名は、病に居場所を作る」
狐面は面の内側で黙り、湯気をひとつ息で崩した。
崩れた湯気が、仮名の家の屋根のほうへ上がっていく。
「病の居場所」
掠れた声が、今度は少し近い。
「面の仮名の隣に、病の仮名も」
凪が白湯に白檀をほんの一滴落とし、紙片に小さく書いた。
> 〈病の家〉
> 用:拗ねが眠るまで
> 仮名:やきもち
> ※面の仮名の隣
狐面の面の房が、かすかに鳴った。
礼は、届いた。
斎庭では、別の隣で小さなほころびが生まれていた。
仮名の家の屋根の下、見習いの芽生が、居心地悪そうに立っている。隣にはえま(十)。
えまは、背伸びするようにして棟の朱をじっと見上げ、芽生の袖を引いた。
「居ても、いい?」
芽生は躊躇い、棟の注記を指さす。
> 用(しばらく居る理由を一行)
「用を、書いて」
えまは唇を結び、筆を持って震えた。
> こわいから
字が小さく、曲がっている。
用にしては、短い。
用にしては、誰の、何のためかわからない。
芽生は困って、棟の礼の点に触れない距離で、指を宙に浮かせた。
そこへ、白川が来て、隣の欄に仮名を書いた。
> し・ら(責)
「隣にいる」
白川の言葉はそれだけ。
えまは息をひとつ吐いて、もう一行、書き足した。
> わたしが、ここで、ふるえないように
紙が呼吸した。
用になった。
礼→用→名の順は、時々段を踏み直す。
礼が先に届いて、用が後から追いつく夜もある。
私は少し離れた場所でそれを見ていて、胸の内の皿に滑らかな痛みを置いた。
切なさは、こういうとき、働く。
えまの字は、上手じゃない。でも、行き先が書けている。
隣の家は、屋根を分け合い、雨音を半分ずつ聞く。
夜半。
王都の掲示室の前に、小さな行列ができた。
責の隣に仮名の家を借りたい人たち――見習い、書記局の下働き、町の若者。
列は長くはない。けれど、待つ時間がゆっくり積もって、空気に温度が出る。
「居座りが増える、と言った人は?」
凛が文官の姿を探す。
昼間の年配の文官――た・け(文)は、列の最後尾にいた。
彼は自分の仮名をそっと棟の下に置き、隣の欄に礼を点じた。
> た・け(文)
> ※礼
「礼だけ、置きに来た」
文官は照れ隠しのように言い、すぐに列から離れた。
礼だけの宿泊。
泊まらずとも、屋根は強くなる。
棟に点が増えるたび、仮名の家は街に近づく。
その空気の中で、ほころびはもうひとつ生まれた。
列の中ほどで、達が、見知らぬ若者と肩をぶつけた。
若者は苛立って仮名も書かず屋根へ手を伸ばし、棟を指で叩いた。
朱が揺れ、点が滲む。
白川が一歩前に出、達がその腕を掴んで止める。
「棟は、叩かない」
達の声は小さいが、芯がある。
若者は腕を振りほどきかけ、えまの、たどたどしい字に気づいた。
> わたしが、ここで、ふるえないように
若者は、手を降ろした。
そして、棟の横に小さく仮名を置いた。
> り・く
えまが袖の中で小さく拍を打った。
隣の意味を、身体で覚える瞬間だった。
店に戻ると、凪が白湯の湯気を見送るようにして立っていた。
狐面は椅子に座ったまま、面の奥で眠っている。
湯呑みは空。
白湯の輪郭は湯呑みの内側に薄く残り、そこへ凪が箒の先で小さく朱を置いた。
「礼」
彼女は誰にも言わず言い、湯呑みを棚に戻した。
「面の仮名の隣に、『やきもち』の家、広げてもいい?」
私は頷いた。
嫉妬は居候に向いている。
居候は、隣を知っている。
隣を知っている者は、やがて礼を覚える。
朔弥が面の紐に触れ、いつもの問いを目で示す。
「返さない」
言葉にする前に、結び目が鳴る。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
やり取りに、白湯の湯気の名残が混ざる。
湯気は、言葉の角を丸くする。
角が丸い言葉は、細く編める。
私は白布を半折りにし、彼の向かいに座った。
「細く編むの、続けてもいい?」
「毎日」
面の下の声は少し低く、少し遠く、しかし近い。
胸の内で、薄い屋根が増える音がした。
屋根の棟には、小さな礼。
柱には、用――「側にいる」。
表札には、名――「更/朔弥」。
今夜はその前に、もう一枚。
> 狐(仮名)
> 用:声が戻るまで
> ※やきもち(仮名)の隣
狐面の寝息が、面の内側で笑う。
笑いは音にはならず、湯気の形で屋根へ登っていく。
白湯の蒸気は、告白を運び終えて、静かに天井板でほどけた。
夜が浅くなり、常夜灯が遠くで低く鳴いた。
斎庭では、仮名の家の棟に点が増え、紙の街がもう一段、街に近づいた。
掲示室では、責の隣に新しい欄が増え、見習い注釈の札が並んだ。
店では、湯呑みの内側に残る白湯の輪郭が、礼の形に乾いていった。
切なさは、今夜も働いた。
働いた切なさは、眠りの前に礼になる。
私は胸の皿に掌を置き、低い二拍をひとつだけ落とす。
礼→用→名。
隣に置く。
家を建てる。
細く編む。
面の仮名は、今夜、静かに泊まる。
――更。
呼べば、返事は迷いなく戻ってきた。
湯気の残り香と、夜番札の軽い鳴りを連れて。
(つづく)
笠の裏に小さく吊った三枚は、低い二拍のたびにわずかにふくらみ、しぼむ。そこへ白檀の薄い匂いが風に混ざって、眠りの道をなぞるように流れ込む。
狐面は、影から半歩だけ表へ出ていた。
面の房は整っている。歩幅も崩れていない。けれど、声はまだ一割と少し。
「……泊まる」
掠れた声が、常夜灯の柱に沿って下りてくる。
「面の仮名で、家に」
私は頷き、掲示の右下――〈仮名の家〉の棟に細い朱を打つ。
> 用:声が戻るまで
> 仮名:狐
> ※責の隣(し・ら)
白川が少し離れたところで、気配だけで会釈した。責は、隣に泊まり客がある夜の寒さを知っている。
「礼」
狐面は面の額を棟に寄せ、小さな拍を一つ置いた。
礼は十分だった。
拍の温度で棟がわずかに鳴る。
泊まると働くの境が、今夜はきれいに線引きされた。
凪の店は、今夜も白湯の支度が整っていた。
瓶の影の隣――凪の手紙どおり、小さな仮名の家ができている。棟の朱は極小、柱は短く、屋根は紙片。
> 用:落ち着くまで
> 仮名:おきゃく
> ※礼は白湯へ
「礼は白湯へ」の注記が、ひどく凪らしい。礼はことばだけでなく、湯気でも置ける、と彼女はいつも言う。
狐面が椅子に腰掛ける。面の角度は正面を向いたまま、掌が白湯の湯呑みに輪を作る。
湯気が面の下へ入って、出ていく。入っていくとき、面の内側の湿りを受け取り、出ていくとき、店の空気の芯を温める。
「白湯は、言い訳がいらない」
凪が静かに言って湯瓶を傾ける。
「噂は、言い訳から始まる。白湯は、礼から始まる」
狐面は掠れた声で短く笑い、それから黙って湯を飲んだ。
湯気が、面の内側で生まれて消える。その消え際に、彼の声の端が少し潤う。一割と少しが、一割と半分に近づく。
「……告白は、湯気が運ぶ」
凪が誰にも聞かせない声で続ける。
「冷める前に、少しだけ置きな」
狐面は湯呑みを持ち直し、面の口をわずかに下げた。
「退屈は、俺の職だ。――嫉妬は、俺の病だ」
湯気がかすかに揺れる。
「君たちが働かせ続けるたび、舞台が減る。……良い減り方だ。良いのに、病が、拗ねる」
私は湯呑みを両手で持ち、胸の皿の縁をなぞった。
嫉妬があると聞いて、楽にはならない。ただ、働かせ方が見える。
「礼→用→名」
私はゆっくり言う。
「礼は、拗ねにも置ける。用は、病の名前を守る。名は、病に居場所を作る」
狐面は面の内側で黙り、湯気をひとつ息で崩した。
崩れた湯気が、仮名の家の屋根のほうへ上がっていく。
「病の居場所」
掠れた声が、今度は少し近い。
「面の仮名の隣に、病の仮名も」
凪が白湯に白檀をほんの一滴落とし、紙片に小さく書いた。
> 〈病の家〉
> 用:拗ねが眠るまで
> 仮名:やきもち
> ※面の仮名の隣
狐面の面の房が、かすかに鳴った。
礼は、届いた。
斎庭では、別の隣で小さなほころびが生まれていた。
仮名の家の屋根の下、見習いの芽生が、居心地悪そうに立っている。隣にはえま(十)。
えまは、背伸びするようにして棟の朱をじっと見上げ、芽生の袖を引いた。
「居ても、いい?」
芽生は躊躇い、棟の注記を指さす。
> 用(しばらく居る理由を一行)
「用を、書いて」
えまは唇を結び、筆を持って震えた。
> こわいから
字が小さく、曲がっている。
用にしては、短い。
用にしては、誰の、何のためかわからない。
芽生は困って、棟の礼の点に触れない距離で、指を宙に浮かせた。
そこへ、白川が来て、隣の欄に仮名を書いた。
> し・ら(責)
「隣にいる」
白川の言葉はそれだけ。
えまは息をひとつ吐いて、もう一行、書き足した。
> わたしが、ここで、ふるえないように
紙が呼吸した。
用になった。
礼→用→名の順は、時々段を踏み直す。
礼が先に届いて、用が後から追いつく夜もある。
私は少し離れた場所でそれを見ていて、胸の内の皿に滑らかな痛みを置いた。
切なさは、こういうとき、働く。
えまの字は、上手じゃない。でも、行き先が書けている。
隣の家は、屋根を分け合い、雨音を半分ずつ聞く。
夜半。
王都の掲示室の前に、小さな行列ができた。
責の隣に仮名の家を借りたい人たち――見習い、書記局の下働き、町の若者。
列は長くはない。けれど、待つ時間がゆっくり積もって、空気に温度が出る。
「居座りが増える、と言った人は?」
凛が文官の姿を探す。
昼間の年配の文官――た・け(文)は、列の最後尾にいた。
彼は自分の仮名をそっと棟の下に置き、隣の欄に礼を点じた。
> た・け(文)
> ※礼
「礼だけ、置きに来た」
文官は照れ隠しのように言い、すぐに列から離れた。
礼だけの宿泊。
泊まらずとも、屋根は強くなる。
棟に点が増えるたび、仮名の家は街に近づく。
その空気の中で、ほころびはもうひとつ生まれた。
列の中ほどで、達が、見知らぬ若者と肩をぶつけた。
若者は苛立って仮名も書かず屋根へ手を伸ばし、棟を指で叩いた。
朱が揺れ、点が滲む。
白川が一歩前に出、達がその腕を掴んで止める。
「棟は、叩かない」
達の声は小さいが、芯がある。
若者は腕を振りほどきかけ、えまの、たどたどしい字に気づいた。
> わたしが、ここで、ふるえないように
若者は、手を降ろした。
そして、棟の横に小さく仮名を置いた。
> り・く
えまが袖の中で小さく拍を打った。
隣の意味を、身体で覚える瞬間だった。
店に戻ると、凪が白湯の湯気を見送るようにして立っていた。
狐面は椅子に座ったまま、面の奥で眠っている。
湯呑みは空。
白湯の輪郭は湯呑みの内側に薄く残り、そこへ凪が箒の先で小さく朱を置いた。
「礼」
彼女は誰にも言わず言い、湯呑みを棚に戻した。
「面の仮名の隣に、『やきもち』の家、広げてもいい?」
私は頷いた。
嫉妬は居候に向いている。
居候は、隣を知っている。
隣を知っている者は、やがて礼を覚える。
朔弥が面の紐に触れ、いつもの問いを目で示す。
「返さない」
言葉にする前に、結び目が鳴る。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
やり取りに、白湯の湯気の名残が混ざる。
湯気は、言葉の角を丸くする。
角が丸い言葉は、細く編める。
私は白布を半折りにし、彼の向かいに座った。
「細く編むの、続けてもいい?」
「毎日」
面の下の声は少し低く、少し遠く、しかし近い。
胸の内で、薄い屋根が増える音がした。
屋根の棟には、小さな礼。
柱には、用――「側にいる」。
表札には、名――「更/朔弥」。
今夜はその前に、もう一枚。
> 狐(仮名)
> 用:声が戻るまで
> ※やきもち(仮名)の隣
狐面の寝息が、面の内側で笑う。
笑いは音にはならず、湯気の形で屋根へ登っていく。
白湯の蒸気は、告白を運び終えて、静かに天井板でほどけた。
夜が浅くなり、常夜灯が遠くで低く鳴いた。
斎庭では、仮名の家の棟に点が増え、紙の街がもう一段、街に近づいた。
掲示室では、責の隣に新しい欄が増え、見習い注釈の札が並んだ。
店では、湯呑みの内側に残る白湯の輪郭が、礼の形に乾いていった。
切なさは、今夜も働いた。
働いた切なさは、眠りの前に礼になる。
私は胸の皿に掌を置き、低い二拍をひとつだけ落とす。
礼→用→名。
隣に置く。
家を建てる。
細く編む。
面の仮名は、今夜、静かに泊まる。
――更。
呼べば、返事は迷いなく戻ってきた。
湯気の残り香と、夜番札の軽い鳴りを連れて。
(つづく)



