朝は、きのうよりも白檀が薄かった。
 凪の手紙どおり、眠りの道は軽く、常夜灯の笠はひと息ごとに影をやさしくゆるめる。
 斎庭には露の匂い。石の目地が冷たく、足裏に「今日」の輪郭を押し返してくる。押し返されるたび、胸の内の皿が、静かに位置を確かめ直す。

 掲示板の下に、短い列。
 列の先頭には、昨日の子どもの字――えま(十)。
 その右隣に、し・ら(白川)。
 さらに、今朝はもうひとつ、小さな仮名が並んでいた。
 > え・ま(見習い)
 > し・ら(責)
 > た・つ(端)
 隣に置く。
 隣は、支え合う距離で、干渉しすぎない距離でもある。
 私は「礼」の朱を点じ、低い声で読み上げる。
 「礼→用→名。隣に置く運用、今日も、働く」

 白川が控えめに手を挙げた。
「達が、朝いちで手順書を見に来ました。『仮名の家』を、掲示の端に作りたいと」
 「仮名の家」
 凛が筆先を持ち上げる。
 「名をまだ出せない人の仮の宿。責の隣に立つ小屋。――欄ではなく、小屋にするのね」
 欄は線で区切る。家は影で包む。
 欄は立ち止まらせる。家は、とどまる時間を許す。
 違いは、時間に宿る。

 真朱が指で掲示板の右下を叩く。
 「あの空白の一角を小屋にしよう。礼は小点。用は『しばらく居てもよい理由』。名は仮名のみ」
 「責の隣に」
 私は重ね、白川に視線を向けた。
 白川は真面目な首肯をひとつ、微かに崩して笑った。
 「責がひとりで寒がらないように、家を建てます」

 午前、掲示室。
 板の端に、小さな屋根を描く。線は薄く、角は丸く。
 > 〈仮名の家〉
 > 用(しばらく居る理由を一行)
 > 仮名
 > ※責の隣に限り設置
 > ※礼の朱(右下小点)
 凛が屋根の棟に礼の点を打つと、紙がほんの少し呼吸した。
 「家は礼で立つ」
 凛が言い、芽生が頷く。
 芽生は昨日より刷毛が素直に動いた。怖さは残っているが、順を口の内側で反芻する癖がついてきた。

 そこへ、達。
 井戸端より少し緊張した顔。爪はきれいなまま。
 「仮名の家、端にひとつ。用は、『戻り先を探すまで』」
 「礼は?」
 「小点」
 彼は棟に朱を置き、たつと書いて、息を吐いた。
 「責の隣に居る。……寒くない」
 白川の仮名の横で、家の影がいちだん濃くなった。
 責は、隣で温度を分け合える。
 名は、隣で輪郭を失わない。

 「紙の端にも家が建つなんて」
 芽生が感心して言うと、凛は穏やかに笑った。
 「紙は、街になる。欄は通り、注記は路地、礼は灯。家があっていいじゃない」
 紙が街になる――それは、切なくも温かい想像だった。
 街は誰かが去るための道も持つし、誰かが戻るための軒も持つ。
 上塗りの街は表だけきれいだが、礼の街は、雨のあとも匂いがよい。

 昼、斎庭の端。
 常夜灯の影は短く、夜番札は軽い寝息を保ったまま。
 狐面は現れなかった。
 代わりに、灯の影から拍がひとつ。
 ――一割。
 凪の手紙を思い出す。二日で一割。
 戻ってくる声は少し低く、少し遠く、しかし近いはず。
 待つことは、切なさの中でもいちばん働く所作だ。
 私は胸の皿を両手で支え、低い二拍を一度だけ落とした。
 落とすたび、皿の底に薄いひびの線が見える気がした。
 ひびは欠陥ではない。器が器であるための履歴だ。

 「更」
 朔弥が面の紐に触れる。
 問いを持ち上げる前に、私は先回りして笑った。
 「返さない」
 彼は少しだけ目を細めるように面を傾け、喉の奥で困るを転がした。
 「……毎日、困る」
 「毎日、選び直す」
 結び目は今朝も薄い。
 薄いと、昼の光で透けて見える。透けるのは、こわい。
 けれど、透けると、細く編める。
 太い紐は結ぶだけ。細い糸は編める。
 編むには時間がいる。余白がいる。
 余白は罠にも契りにもなるけれど、私は今日、それを編むために使いたかった。

 午後の講義は、「隣」が主題になった。
 凛は板書に大きく二字。
 > 隣
 「隣は、代替じゃない」
 凛の声は乾いて澄んでいる。
 「上や下や端ではない。並ぶこと。――責の隣に仮名の家を置くのは、責を軽くするためじゃない。孤立させないため」
 真朱が続ける。
 「反発は、孤立で硬くなる。隣に置くと、声が出る。――用の声に」
 芽生が小さな手を挙げる。
 「隣に礼は必要?」
 「必要」
 私は答えた。
 「礼は、境界を柔らかくする。――隣に置くって、境界を一緒に持つことだから」
 境界を一緒に持つ。
 それは、朔弥と私の結び目に似ている。
 薄く結び直すから、境界を押しつけ合わずに分け持てる。
 分け持てるぶん、細く編める。

 講義の終わり、王都の掲示前に小さな綻び。
 仮名の家の屋根の下で、年配の文官が眉を寄せている。
 「家など建てたら、居座りが増える」
 白川が前に出るか迷って一歩すべり、達が先に口を開いた。
 「居るのは、追い出すより、働く」
 言い方は拙いが、線はまっすぐ。
 文官の眉間にもう一本、別の皺が生まれる。
 「働く?」
 「名の行き先ができる。端で絡まった言葉のほどき方を、一緒に覚えられる」
 凛が屋根の棟の礼を指し示す。
 「礼が棟。用が柱。名が表札。――家は、隣があるから、出入りが覚えやすい」
 文官は深く息をして、札に視線を戻した。
 隣の欄にし・ら(責)。
 屋根の下にえ・ま(見習い)、た・つ(端)。
 そして棟の右下には、小さな礼。
 「……試す」
 文官は短く言い、仮名を残した。
 > た・け(文)
 切なさが、胸骨の内側でやわらかく疼いた。
 切なさは溶けない。
 でも、隣に置ける。
 隣に置けると、働く。

 日が傾き、常夜灯に影が長く戻る。
 夜番札は重さを受け取る準備を始めていて、笠の裏の糸が小さく鳴った。
 狐面は、影から現れた。
 面の房はきちんと揺れ、歩幅は乱れていない。
 「――」
 口が動き、声が少し出た。
 一割。
 低く、遠く、しかし近い。
 胸の内に置かれる声。
 「返事、遅くない?」
 掠れた冗談。
 私は笑って、礼を置いた。
 「遅いのは、眠りが働いたから」
 狐面は面の口をわずかに上げ、夜番札の棟に指を添えた。
 「家?」
 「仮名の家」
 「俺も、面の仮名で泊まっていい?」
 唐突に、切ない。
 狐面に行き先がない時間を、私は知っている。
 眠りの行き先は夜番札に用意した。
 面の行き先は――どうだろう。
 「礼→用→名」
 朔弥が低く促す。
 私は頷き、棟に小さな点を置いた。
 「礼。……用は、『声が戻るまで』。名は、狐」
 狐面は面の房を弾き、めずらしく躊躇した。
 「狐は仮名?」
 「仮名。――面の本名は、君が決める」
 面の奥の沈黙が、礼の温度に近づいた。
 狐面は棟に額を寄せ、短く拍を打った。
 泊まると、働くは、別の言葉で、時々同じ意味になる。

 その晩の斎庭は、人影が少なかった。
 夜番札が眠りの税を受け取り、狐面の返済は、ゆっくり進む。
 私は白布を半折りにして、朔弥と向かい合った。
 面の下の目は見えない。でも、距離が見える。
 「編む?」
 朔弥が指で空気の糸をすくう仕草をする。
 「細く」
 私は同じ仕草で返す。
 薄く結び直すことに慣れた私たちの指は、今夜、はじめて細く編む。
 礼の糸。
 用の糸。
 名の糸。
 太い紐で結ぶと、強いけれど、ひとつの方向にしか引けない。
 細い糸を編むと、弱そうに見えるのに、広く張れる。
 張り渡したところに、家が建つ。
 ――仮名の家じゃない。
 私たちの、薄い家。
 屋根は白布、棟には小さな礼。
 柱は、用――「側にいること」。
 表札は、名――「更」と「朔弥」。
 はじめて、並べて書く。
 薄いから、風で揺れる。
 揺れるから、切ない。
 切ないから、働く。

 「返す?」
 いつも通りに問われて、いつも通りに答える。
「返さない」
 結び目が鳴る。
 「困る」
 「困っていて」
 「……毎日、困る」
 やり取りの音が、いつもより低い。
 夜番札の拍に、私たちの呼吸が乗ったからだろう。
 低い拍は、眠りを呼ぶ。
 眠りは、税を受け取って、礼で返す。

 深夜。
 凪から短い紙が届く。
 > 仮名の家、棚にもひとつ。
 > 瓶の影の隣に。
 > 朝に見て。

 凪の店の棚。
 瓶の影の隣に、仮名の家。
 店にも、紙の街が生まれはじめている。
 噂が置かれずに、白湯の湯気が静かに立ちのぼる家。
 誰かが眠り、誰かが起きる家。
 切なさが、夜の底で温まる家。

 私は白布の端に指を置き、常夜灯の低い二拍を一度、落とす。
 狐面の寝息が、札の向こうで薄く笑った気がした。
 戻ってくる声は一割。
 足りない分は、隣で埋める。
 隣に置く。
 家を建てる。
 細く編む。
 働きの言葉は増え、上塗りの言葉は薄れる。
 噛み跡は、道標へ。
 仮名は、家へ。
 責は、隣へ。
 切なさは、働くへ。

 ――更。
 胸の内で名を呼ぶ。
 返事は、今夜もまっすぐ戻ってきた。
 仮名の家の屋根に当たる音で。
 遠く、近く、低く、高く――胸の皿でよく響く音で。

(つづく)