夜番札は、眠りを少しずつ集(た)めていた。
 常夜灯の笠の裏、影の浅いところに三枚並べた札は、昼を見るとただの薄紙に見えるのに、夜になると気配が変わる。紙の繊維が、誰かのため息を覚えるように、細くゆっくり膨らむ。そこへ低い二拍が、落ち葉みたいに、ふう、と降り積もる。

 「札は、眠りの税を取る」
 凛が囁いた。
 「税は悪い言葉じゃない。払うからこそ、回る」
 「回る?」
 「眠れない人の眠りが、灯の影に回る」
 凛の指先は、夜番札の右下――礼の朱の小点に触れず、ただ空気を撫でるだけだった。触れない礼。近づき方の礼。
 「狐面は、どれくらい払ってる?」
 私が問うと、凛は肩越しに笑みを落とした。
 「声で払う。……今夜、その値段が出る」

 斎庭は静かで、静かだからこそ、遠くの拍がよく聞こえた。
 書記局の控えで紙が擦れる音、凪の店の棚が息をつく音、そして、王都の掲示室から、短い反発の音。
 注釈責任者欄に、墨の点が乱暴に置かれた。
 > 責任者:——
 線が引き消され、次の行に仮名(あかし)。
 その上から、別の筆で礼が、小さく、しかし確かに点じられる。
 白川の、落ち着く方の点だ。
 反発は、礼に弱い。
 礼は、反発の居場所を奪わない。狭めない。ただ、落ち着く場所を用意してしまう。
 反発はそこへ座る。座ると、拍が合ってしまう。合ってしまうと、働く。

 「達は来る?」
 真朱が低く訊く。
 「来る。……端は、いつも先に風を感じる」
 朔弥の面の内側の声は、夜の温度に合って柔らかい。
 私たちは白布を半折りにして灯の縁へ持っていき、夜番札の紐を結び直した。
 結び目は、薄く。ほどけやすいほど、結び直しが上手になる。
 それが、私たちの契りの道具立てだと、最近やっと胸の内で言葉になる。

 「更」
 呼ばれて振り向くと、井戸端から達が歩いてくるのが見えた。
 昼間より、肩が下がっている。
 下がる肩は、降参の形にも、休息の形にもなる。
 違いは、足の向きだ。
 彼の足はこちらへ向いている。
 「仮名で、名を置きに来た」
 達は夜番札の下で立ち止まり、掌を白布に載せて言った。
「善は、気持ちよかった。気持ちよさは、働かなかった。……休む権利は、怖かった。怖さは、働いた」
 彼の言葉の順番は、まだぎこちない。
 だけど、礼→用→名の間は守れている。
 凛が紙を差し出し、達は『たつ』とだけ書いた。
 端のひらがな。
 「眠れますか」
 私が訊くと、彼は、少し笑って頷いた。
「少し。……眠るのは、降参じゃない」
 その言い回しに、狐面の影が差す。
 達の背中から、狐面が抜けていく。
 退屈は、居候が上手い。
 居候は、お礼を言うと、意外と早く帰る。

 夜番札が二度、低く鳴った。
 眠りが落ちる音。
 灯の影に、柔らかい重さが増える。
 「……来た」
 朔弥がささやく。
 狐面は、面の房を解かずに現れた。
 歩き方に乱れはない。けれど、声がない。
 「――」
 口が、形だけ動く。
 拍は伝わる。
 礼も、目の奥にある。
 けれど、声が、出ない。
 返済は、ここで始まったのだ。
 拍の貸し借りの、利子はいつも、声に来る。
 狐は、声で生きる。
 だから、支払うとき、いちばん痛い。

 私は白布の端に指を置いた。
 礼の位置。
 「ありがとう」
 声に出す。
 狐面は、面の奥で瞬きをして、面の房を一度だけ弾いた。
 礼は、声でなくていい。
 息でも、拍でも、視線でも、置ける。
 置かれた礼は、眠りを引き寄せる。

 凛が筆を持ち直し、狐面の足元に小さな注記を置いた。
 > 拍の返済中
 > 声の節約を
 狐面は面の口をわずかに上げ、注記に指を添えた。
 働く注記。
 注記は、罰ではなく道具だ。
 道具は、用に合っていれば、誰の手にも馴染む。

 「眠りの行き先、灯の影に追加する」
 朔弥が夜番札の紐を持ち、面の下の息で拍を落とす。
 低い二拍が、札の繊維に染み込んでいく。
 狐面は、面の奥で目を閉じた。
 ――眠れ。
 声にしない声で、私は言った。
 眠りの税は、払う側だけのものじゃない。
 受け取る側にも、礼がいる。

 狐面は、二歩だけ後退して、常夜灯の影へ片膝を落とした。
 面の白が薄闇に溶ける。
 面の房が、微かに揺れた。
 眠ったのだ。

 その瞬間、斎庭の端で拍が一つ、乱れた。
 喪ではない。反発でもない。
 欠けだ。
 講義に出られなかった見習いが、掲示の前でひとり、噂の紙を手に迷っている。
 噂は、穴に落ちたままの言葉だ。
 救い上げるには、掃除の手順がいる。

 私は走らず、歩く拍で近づいた。
 「礼→用→名。順番、言える?」
 彼はびくつき、噂の紙を背中に隠した。
 「……礼は、『ありがとう』。用は、誰の、何のためか。名は、呼ぶときに」
 声は小さい。
 小さい声は、悪いわけじゃない。
 小さい声で置かれた礼は、夜番札の裏に残る。
 見えないから、効く。

 噂の紙を彼の手から抜き取ることはしなかった。
 代わりに、白湯の場所を教えた。
 「白湯を飲む間、噂を机に置いて。戻ったら、用に書き換えよう」
 彼は、救われた顔で頷いた。
 噂は、置き場所さえ変えれば、用に変わることがある。
 置き場所を、用の側へ移す。
 その移動のためだけの礼が、世界には必要だ。

 夜が、一段深くなった。
 常夜灯の笠が、白い息をひとつ吐く。
 狐面の寝息は、灯の影へ紛れて、音にならない。
 音にならない安心。
 私は白布の端を撫で、胸の内の皿に、今日の税を置いた。
 眠りの税。
 声の税。
 目を閉じる税。
 どれも、小さく、しかし確かに払われた。

 「返す?」
 面の紐の感触が、肩口に落ちて、朔弥の問いが来る。
 面を外していないのに、彼の目の位置が、距離でわかる。
 「返さない」
 答えると、結び目が鳴った。
 「困る」
 「困っていて」
 「……毎日、困る」
 いつものやりとりは、今夜は少しだけ痛い。
 狐面の声が減った分、夜が静かで、私たちの息がよく聞こえるから。
 静かさは、切なさに拍を与える。
 拍を与えられた切なさは、働く。
 私の胸骨の裏で、切なさが道を探しはじめる。

 「痛い?」
 朔弥が訊く。
 「ちょっと」
 「ちょうどいい?」
 笑ってしまう。
 「やめるってば」
「代わりに言う。よくやった」
 「あなたも」
 「俺は、側にいただけだ」
 「側にいてくれるのが、いちばん働く」
 面の下で、彼の息が揺れた。
 「礼」
 「礼」

 結び目は、薄く結び直す。
 薄いほど、ほどけやすい。
 ほどけやすいほど、また結べる。
 上塗りと違って、剝がれる前提で続けるのは、勇気がいる。
 勇気は、税のように、毎日ちょっとずつ払えばいい。
 払った分だけ、回る。
 眠りも、声も、名も。

 夜番札が、一度、ほんのわずかに鳴った。
 狐面の眠りが、深くなった合図。
 札の繊維が、少しだけ沈む。
 沈むと、返済が捗る。
 返済が捗ると、声の戻りが来る。
 戻る声は、以前と同じではない。
 税を払った声は、少し低く、少し遠く、それでいて、近い。
 聞く側の体に、ゆっくりと置かれる声。

 「更」
 名を呼ばれた気がして、顔を上げる。
 呼んだのは、狐面ではなかった。
 凪だ。
 路地の向こうから、白檀の瓶を抱えて歩いてくる。
 「薄め、持ってきた」
 眠りの道が重くなりすぎないように、と昼に書いた短い紙の、その続き。
 凪は白布の端に瓶を置き、灯の影へ少しだけ香を流した。
 香は、涙の手前で止まる。
 泣かせない。
 泣けるけど、泣かせない。
 それが凪の香の働きだ。

 「狐、声、戻る?」
 凪は必要最低限しか訊かない。
 「戻る。――少しずつ」
 「税は、払った」
 凪は瓶の蓋を閉め、うなずいた。
 「税を払えるうちは、大丈夫」
 それは、慰めの形をしているのに、現実の言葉だ。
 現実は、礼で包むと、胸の内の皿に置ける。
 私は凪に礼を置いた。
 凪は顎で「朝に」と示し、いつもの店の歩幅で去っていった。

 夜が薄くなる手前。
 掲示室に、小さな反発がまた生まれた。
 注釈責任者欄に、子どもの字で名前が書かれている。
 > えま(十)
 札の高さからいって、子の背丈だ。
 白川が困っている。
 困るのは、いい兆候だ。
 困ると、用を探す。
 凛は「礼」の朱を点じ、子の字の下に小さく書いた。
 > ※見習い注釈
 > ※責任者の隣に置く
 白川が、隣の欄に自分の仮名を書き足す。
 > し・ら(白川)
 「隣に置く」
 真朱がうなずく。
 「上や端じゃなくて、隣。――注釈の癖は、隣で直る」
 子の字は、紙に残った。
 残って、働く。
 紙は、消すばかりが正しさじゃない。
 並べる正しさが、世界を柔らかくする。

 朝の気配が、白布の端に降りてくる。
 常夜灯が、ひとつ息を吐いて、夜番札を軽くする。
 狐面は、影の中でゆっくり身を起こした。
 声は――まだ、ない。
 でも、面の房が鳴った。
 拍で、礼を置いたのだ。
 私は胸の皿に手を当て、「礼」と返した。
 声が戻るまで、毎日、礼を置く。
 税は、毎日払う。
 払うたび、道が増える。
 道が増えるたび、切なさは、働く場所を得る。
 働く切なさは、寂しさとは違う。
 寂しさは、立ち尽くす。
 切なさは、歩く。

 「返す?」
 朔弥の問いが、今日も来た。
 「返さない」
 結び目が鳴る。
 「困る」
 「困っていて」
 「……毎日、困る」
 私たちのやりとりは、たぶん誰かから見れば、同じに見える。
 でも、毎夜、少しずつ違う。
 薄く結び直したから、違いがわかる。
 その違いが、切なさを生かす。

 夜番札が朝の色に薄まる頃、凪の手紙がもう一枚、白布の上に滑り込んだ。
 > 眠りの税、回収良好。
 > 狐の声は、二日で一割。
 > 朝の白檀、もう少しだけ薄め。

 二日で一割。
 数字は現実を冷やす。
 それでも、礼を置けば温度が戻る。
 私は白布の端に指を置き、朝の息で低い二拍をひとつ、置いた。

 ――更。
 名を、胸の内で呼ぶ。
 返事は、今朝も、迷いのない場所から返ってきた。
 それが、眠りの税を払い終えた私たちの、最初の収入だった。

(つづく)