朝と夜の境目を踏み越えた朧学院は、私の想像よりもずっと静かだった。
高い校舎の壁は白漆喰に覆われ、廊下は磨かれすぎて、灯篭の明かりを鏡のように映す。人影と妖の影が同じ場所に並び、笑い声も囁きも、区別がつかない。
「ここから先は、学院の掟に従ってもらう」
狐面をかけたままの朔弥が言う。その声には冷たさと温さが入り混じり、聞く者に“従わざるをえない”気配を刻みつける。
掟――それは、互いを傷つけないこと。名を乱発しないこと。夜の約束を破らないこと。
私は頷きながら、自分の仮名「更(さら)」を胸の奥で反芻した。名は力。仮の名を生きるのは、初めての感覚だった。
教室の扉が開かれると、視線が一斉にこちらへ向いた。
角を隠さない鬼種の子、額に文様を刻む巫女の娘、羽音を忍ばせる半妖。人と妖が同じ机を並べる風景は、王都の夜会よりもはるかに鮮烈で、息を飲むしかなかった。
「新入りか」「人間だろう」「あの面は何だ」
囁きが、波紋のように広がる。
その波紋を朔弥の一声が断ち切った。
「彼(か)の者は俺の監督下にある」
狐面の奥の眼差しは笑っていなかった。
それでも、なぜか私はその言葉に少し安堵した。秘密を抱えているのは、私だけではない。学院全体が秘密の塊なのだと、そう感じられたから。
授業は“夜学”と呼ばれているだけあり、内容は王都の学院と違っていた。
初めの一時限は「名と力の相関」。次は「結界史」。その次は「混成社会の実務」。人と妖が同じ空間で生きるための術と知識を、体ごと叩き込まれる。
私は必死で筆を走らせた。婚約破棄の夜からまだ半日も経っていないのに、頭は情報でいっぱいになり、現実感が薄れていく。
「更、字がきれいだな」
隣の席の羽根のある少年が小声で言う。
私は曖昧に微笑み、筆を止めない。名乗らない。名を訊かない。掟の通り。
授業が終わると、朔弥が私を呼んだ。
「来い。案内する」
向かった先は、生徒会室。壁一面に地図や術式の図版が掛かり、机には帳簿が整然と積まれている。帳簿の表紙には墨で「契り」と記されていた。
「学院には規律がある。互いを傷つけるな。名を乱発するな。夜の約束を破るな。……名は、力だ」
「知ってる。古文書で読んだ」
「なら早い。お前の仮名は“更”だな。字は?」
「桂に同じ“更”。ただ、読みを切るだけ」
「賢い切り方だ」
朔弥は軽く頷き、帳簿の端に私の“印”を作ってくれた。朱が紙に沁みる。
そのとき、廊下を風が走った。紙の匂いがふっと消え、代わりに鉄の匂いがした。
朔弥は面も外さずに立ち上がり、扉へ目を向ける。
「誰かが、お前の名を囁いた」
「喪神?」
「そうだ。だが今の囁きは――“人”の舌の動きだ」
私の背中を冷たい汗がなぞる。
誰。私の本名を、誰が。
王都の夜会からここまで、私は凪としか言葉を交わしていない。道ですれ違った人々は私を見なかったはずだ。
朔弥は机の引き出しから小さな護符を取り出し、私の掌に載せた。薄い紙片は、人肌より少し温かかった。
「これは“灯篭祭”までの仮の鍵だ。祭の夜、学院はいちど“開く”。お前の名を喰うものが近づく。……でも、噛ませない」
「どうして、そこまでしてくれるの」
私が問うと、朔弥は面を傾け、少しだけ沈黙した。
答えは、簡単なのに、彼の口を出るまでに時間がかかった。
「お前は、助けられる側の顔をしていない」
「……どういう意味」
「助けられるふりをして、助ける準備をしている顔だ」
胸の奥で、何かが僅かに鳴った。
私は、救われたくてここへ来たのではない。ここまで来る間も、凪に支えられながら、いつだって自分の足で歩こうとしていた。
――それを、見抜く人がいる。見抜いた上で、手を貸すと言う人がいる。
「ありがとう」
やっと言えた。さっき喉でほどけた言葉。
朔弥は短く首を振った。
「礼は、灯篭祭の夜に。……それまで、お前の秘密は俺が預かる」
その約束の音は、静かに、確かに、私の耳の奥で灯になった。
授業と授業の合間に、私は学院の中庭を歩いた。
木々は王都のものより背が高く、葉は黒曜石のように光っている。枝に吊るされた灯篭の中で、小さな火が揺れていた。火ではなく、狐火かもしれない。
視界の端に、朔弥の姿が映る。彼は面をかけたまま、生徒会の書類を抱え、静かに誰かと話していた。
彼の声は低く、風に混じって届かない。
でも、確かに私の方を一度だけ見た。
学院のどこかに、私の本名を囁く者がいる。
灯篭祭の夜、学院はいちど“開く”。
そのとき、何が現れるのか。何を守り、何を失うのか。
仮の名を胸に、私は夜学の鐘の音を聞いた。
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高い校舎の壁は白漆喰に覆われ、廊下は磨かれすぎて、灯篭の明かりを鏡のように映す。人影と妖の影が同じ場所に並び、笑い声も囁きも、区別がつかない。
「ここから先は、学院の掟に従ってもらう」
狐面をかけたままの朔弥が言う。その声には冷たさと温さが入り混じり、聞く者に“従わざるをえない”気配を刻みつける。
掟――それは、互いを傷つけないこと。名を乱発しないこと。夜の約束を破らないこと。
私は頷きながら、自分の仮名「更(さら)」を胸の奥で反芻した。名は力。仮の名を生きるのは、初めての感覚だった。
教室の扉が開かれると、視線が一斉にこちらへ向いた。
角を隠さない鬼種の子、額に文様を刻む巫女の娘、羽音を忍ばせる半妖。人と妖が同じ机を並べる風景は、王都の夜会よりもはるかに鮮烈で、息を飲むしかなかった。
「新入りか」「人間だろう」「あの面は何だ」
囁きが、波紋のように広がる。
その波紋を朔弥の一声が断ち切った。
「彼(か)の者は俺の監督下にある」
狐面の奥の眼差しは笑っていなかった。
それでも、なぜか私はその言葉に少し安堵した。秘密を抱えているのは、私だけではない。学院全体が秘密の塊なのだと、そう感じられたから。
授業は“夜学”と呼ばれているだけあり、内容は王都の学院と違っていた。
初めの一時限は「名と力の相関」。次は「結界史」。その次は「混成社会の実務」。人と妖が同じ空間で生きるための術と知識を、体ごと叩き込まれる。
私は必死で筆を走らせた。婚約破棄の夜からまだ半日も経っていないのに、頭は情報でいっぱいになり、現実感が薄れていく。
「更、字がきれいだな」
隣の席の羽根のある少年が小声で言う。
私は曖昧に微笑み、筆を止めない。名乗らない。名を訊かない。掟の通り。
授業が終わると、朔弥が私を呼んだ。
「来い。案内する」
向かった先は、生徒会室。壁一面に地図や術式の図版が掛かり、机には帳簿が整然と積まれている。帳簿の表紙には墨で「契り」と記されていた。
「学院には規律がある。互いを傷つけるな。名を乱発するな。夜の約束を破るな。……名は、力だ」
「知ってる。古文書で読んだ」
「なら早い。お前の仮名は“更”だな。字は?」
「桂に同じ“更”。ただ、読みを切るだけ」
「賢い切り方だ」
朔弥は軽く頷き、帳簿の端に私の“印”を作ってくれた。朱が紙に沁みる。
そのとき、廊下を風が走った。紙の匂いがふっと消え、代わりに鉄の匂いがした。
朔弥は面も外さずに立ち上がり、扉へ目を向ける。
「誰かが、お前の名を囁いた」
「喪神?」
「そうだ。だが今の囁きは――“人”の舌の動きだ」
私の背中を冷たい汗がなぞる。
誰。私の本名を、誰が。
王都の夜会からここまで、私は凪としか言葉を交わしていない。道ですれ違った人々は私を見なかったはずだ。
朔弥は机の引き出しから小さな護符を取り出し、私の掌に載せた。薄い紙片は、人肌より少し温かかった。
「これは“灯篭祭”までの仮の鍵だ。祭の夜、学院はいちど“開く”。お前の名を喰うものが近づく。……でも、噛ませない」
「どうして、そこまでしてくれるの」
私が問うと、朔弥は面を傾け、少しだけ沈黙した。
答えは、簡単なのに、彼の口を出るまでに時間がかかった。
「お前は、助けられる側の顔をしていない」
「……どういう意味」
「助けられるふりをして、助ける準備をしている顔だ」
胸の奥で、何かが僅かに鳴った。
私は、救われたくてここへ来たのではない。ここまで来る間も、凪に支えられながら、いつだって自分の足で歩こうとしていた。
――それを、見抜く人がいる。見抜いた上で、手を貸すと言う人がいる。
「ありがとう」
やっと言えた。さっき喉でほどけた言葉。
朔弥は短く首を振った。
「礼は、灯篭祭の夜に。……それまで、お前の秘密は俺が預かる」
その約束の音は、静かに、確かに、私の耳の奥で灯になった。
授業と授業の合間に、私は学院の中庭を歩いた。
木々は王都のものより背が高く、葉は黒曜石のように光っている。枝に吊るされた灯篭の中で、小さな火が揺れていた。火ではなく、狐火かもしれない。
視界の端に、朔弥の姿が映る。彼は面をかけたまま、生徒会の書類を抱え、静かに誰かと話していた。
彼の声は低く、風に混じって届かない。
でも、確かに私の方を一度だけ見た。
学院のどこかに、私の本名を囁く者がいる。
灯篭祭の夜、学院はいちど“開く”。
そのとき、何が現れるのか。何を守り、何を失うのか。
仮の名を胸に、私は夜学の鐘の音を聞いた。
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