朝の白檀は、凪の手紙どおり少し濃かった。
路地を抜けるたび、香りが肩甲骨の間に重ね塗りされる。上塗りと違うのは、香りが皮膚の下まで染みてゆくこと、そして、剝がそうと思えば水で落ちることだ。礼の層は、逃げ道を残す。
斎庭の掲示板の前には、早起きの学生と写字生が輪を作っていた。昨夜貼り替えた「退屈の注記」はそのまま保たれている。
> 退屈=暇 ではない。
> 暇=休む権利。
> 退屈=用の外の穴。
> 穴は掃除で埋める。
札の右下に打った礼の朱が、朝日に淡く脈打って見えた。
「免疫、効いてる」
凛が短く言い、私はうなずく。
注釈は、風邪みたいなものだ。流行り癖があるし、油断すると喉から入る。礼の朱はうがいの位置を教える。飲み込まない、吐き捨てる。そのための筋肉を、毎朝少しずつ育てる。
「王都の掲示は?」
真朱の問いに、控え所から走ってきた写字生が息を整えた。
「二ヶ所、礼が残り、三ヶ所、用の言い換えが通り、名の記入欄が増えました」
「名の欄?」
「注釈責任者の仮名を添える欄です。……白川が提案、通ったと」
名は、行き先をつける。注釈の底に名の行き先があれば、紙は働ける。無名の善意が薄める世界を、少し重くできる。
白川は掲示板の端で、仮名の帳面を抱えて立っていた。目の下の影は薄くなり、指の角度が昨日より迷わない。
「達は?」
私が問うと、白川は小さく頷いた。
「今朝、裏庭に『訂正願』を置いていった。仮名は書かず、『たつ』を端に」
「端?」
「自分の端を、もう一度見るためだと思います」
たぶん、そうだ。端は、退屈の住み処であり、同時に、自分の癖を見直せる境界線でもある。
午前の講義が終わると、王都から小走りの使いが来た。灰色の布包みではなく、今日は細長い木筒。
「運用通達・草案。掲示の注釈は、『礼→用→名』の順で記入すること。注釈責任者欄(仮名可)を新設」
真朱が木筒から草案を引き出し、凛が一読して頷く。
「働く草案。……ただ、ひとつ。礼の文言が固い」
凛は筆を取り、脇に小さく書く。
> 礼=『ありがとう』でよい。
> 定型句より、人の呼吸で。
礼は儀式だが、定型に閉じない。呼吸で置く。
「王都に通す」
使いは草案を抱え、うなずいて走り去った。背中の拍が速い。用の拍だ。
ふと、朔弥が面の下で低く言った。
「狐面は?」
「……眠っているはず」
昨夜、狐面は低い二拍を一枚、受け取っていった。退屈の皮が剝がれた後に生まれた空白は、眠りで埋めるのがいちばん早い。
「代償が来る」
朔弥は面の紐に触れ、結び目をやわらかく押した。
拍の貸し借りは、いつだって体のどこかから支払う。皮膚か、声か、歩幅か。狐は声をよく削る。
午後、掲示室。
「注釈運用、実地訓練」
凛が机の上に札を並べ、書記局の若手と王都の掲示役を呼び込む。
> ケース1:『退屈=善』の言い換え
> ケース2:『自由に』の注記格下げ
> ケース3:『迎え入れ』の右払い
練習札の前に、白川が立つ。彼の左隣には、見習いの少女――紐の先をよく結び忘れる癖のある芽生(めい)が緊張した顔で並び、右手に刷毛を持っている。
「順、言える?」
凛の問いに、芽生は喉を鳴らし、でも、言った。
「礼→用→名」
「礼は?」
「『ありがとう』。……紙に向けて」
「用は?」
「誰の、何のためか。――掲示を見る人のために、穴を塞ぐ」
「名は?」
「注釈責任者。……書くのが怖いときは、仮名で」
白川が横目で小さく頷く。
芽生は刷毛で札の縁を軽く掃き、朱で礼を点じ、細い字で用を書いたあと、震える手で『芽』とだけ書いた。
「働く」
凛の評価は簡潔だった。
注釈の癖は、怖がりに寄り添う言葉を覚えさせると、ほどける。
「ケース3」
真朱が小さく咳払いし、迎の払いを指した。
「右払いは長すぎても短すぎても、運げ入れに見える。礼で間を留めてから、用で『捨てないために迎える』を添える。名は迎える側の印」
迎える側の印――私たちの責だ。
私は朱を極細に解いて、右払いの末端に息ひとつぶんの点を置いた。
紙が軽く鳴る。
「紙は礼で、人は用で、名は責で、働く」
凛がまとめ、部屋の空気が少し緩んだところで、扉の陰から小さく拍が一つ。
狐面の拍だ。
私は胸の内で皿を撫でる。
眠ったはずの彼が、起きてしまったか。
狐面は姿を現さなかった。拍だけが、戸口の木に触れて、浅く跳ねて消えた。
借りた拍の返済が始まる合図――声が削れはじめているのだろう。
私は板書を片づけ、斎庭へ向かった。常夜灯に、眠りの礼を置く必要がある。
夕刻。
王都の掲示前には、「注釈責任者」の仮名欄が増設され、白川の筆で小さく礼が点じられていた。
> 注釈責任者(仮名可)
> 礼の朱(右下に小点)
> 用の一行(目的を明記)
通行人が足を止め、仮名の欄にそこはかとない安心を漂わせる。責が孤立しない配置は、人の背中を少しだけ前に押す。
「達、どう?」
白川に尋ねると、彼は掲示板の下を指した。
> たつ(端)
小さく、控えめに書かれている。名を出すことの怖さと、名を出さないことの怖さの間で踏ん張る字だった。
「間があるうちは、働く」
真朱が小さく言い、朱の瓶を一度だけ傾けた。
そのとき、掲示の端で、咳が一つ。
狐面の真似ではない。喉を削った咳。
角の陰に、狐面がいた。
面の房は乱れておらず、姿勢も崩れていない。だが、声が薄い。
「……返事、遅れる」
面の内側から掠れた声。
「拍、返す。少しずつ」
「礼」
私は低く言い、常夜灯のほうへ顔を向ける。
狐面は面の口をわずかに上げ、掲示の仮名欄に白い指を添えた。
「名は、行き先だ。俺は長いこと、行き先なしで踊ってきた。……眠りの行き先がないと、起きてしまう」
眠りの行き先。
それは、思ってもみなかった言い方だった。
眠りにも行き先がいる。礼と用が揃っていれば、眠りはそこへ落ちる。
「落ちる先、作る」
朔弥が面の下で言う。
「低い二拍を、夜番の札に縫い込む。狐面の眠りは、常夜灯の影へ」
狐面は面の房を弾き、笑う代わりに短く咳いた。
「……助かる」
彼はそれだけ言い、二歩だけ後ずさって影へ溶けた。
拍の貸し借りは、札で清算できる。札は、働く。
夜。
常夜灯の下に白布を半分だけ広げ、「夜番札」を三枚、薄い紐で結ぶ。
> 夜番札(一)
> 低い二拍が眠りの場所へ落ちる
> 夜番札(二)
> 礼の朱、右下に
> 夜番札(三)
> 名の欄(仮名可)
札を灯の笠の裏に、影へ向けて吊るす。
「狐面」
私は声に出さず、胸で呼ぶ。
返事は、拍で返ってきた。
灯の影で、二度、低く。
眠りの行き先はできた。
返済は、ここで進む。
その場に、達が現れた。
影ではなく、表から。
昼間見た井戸端の男と同じ、細い肩と、綺麗な爪。
「礼を置きに」
彼は言い、白布の端に掌を置いた。
「善を載せるの、気持ちよかった。――働かなかった。……返す」
「返したら、何が残った?」
私の問いに、彼は少し考え、目尻を下げた。
「暇。休むの、怖さ。……でも、怖さは用に変えられる」
凛がそっと紙を差し出す。
> 注記訂正『善』→『休む権利』
> 仮名:たつ
> 礼:小点
「名は?」
「今日は、仮名で」
彼は紙を受け取り、小さく頭を下げた。
「毎日、選び直す」
言い方はぎこちないが、間は真っ直ぐだった。
名は、行き先にたどり着くまでの仮の宿を持てばいい。仮名は、そのためにある。
講義の終わり、狐面はいなかった。
代わりに、夜番札が低く一度鳴る。
眠りの重さが、灯の笠へ落ちた合図。
私は胸の皿に掌を重ね、静かに礼を置いた。
生徒会室へ戻ると、机の上に凪の短い紙がもう一枚。
> 白檀、今夜は薄め。
> 眠りの道、重くすると、起きにくい。
「眠りにも、用がある」
凛が感心して笑う。
「用は、働きの入口。眠りも働く」
私は頷き、椅子に腰を下ろした。
疲れが、いまさらやって来る。
欠伸が、喉の奥で丸くなる。
狐面の言葉が胸のどこかで転がる――美しいあくびは舞台を壊す。
ならば今夜は、舞台ではないここで、静かにあくびをひとつ。
誰にも見せない美しさを、皿の底に。
ひっくり返さないように、そっと。
「返す?」
いつもの声。
朔弥が面の紐に触れ、結び目を軽く押す。
「返さない」
答えるより先に、結び目が鳴った。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
笑いは小さく、深い。
契りは、毎日薄く結び直す。薄いほど、ほどけやすい。ほどけやすいほど、結び直しが上手になる。
それは、上塗りの逆だ。剝がれる前提で、続ける。
窓の外で、常夜灯が低く鳴った。
王都の掲示室の札も、灯の影で寝息を立てているだろう。狐面の寝息も、そこへ紛れているだろう。
注釈の癖は、人の癖だ。癖は、礼→用→名の順で、毎日少しずつ変えられる。
名の行き先は、人の行き先だ。行き先は、仮名からでも始められる。
私たちは、明日もまた、掃除から始める。
礼を点じ、用を声にし、名を呼ぶ。
退屈の穴を道に、噛み跡を道標に。
――更。
呼ぶと、返事は迷いなく戻ってきた。
それが今日の終わりの合図だった。
(つづく)
路地を抜けるたび、香りが肩甲骨の間に重ね塗りされる。上塗りと違うのは、香りが皮膚の下まで染みてゆくこと、そして、剝がそうと思えば水で落ちることだ。礼の層は、逃げ道を残す。
斎庭の掲示板の前には、早起きの学生と写字生が輪を作っていた。昨夜貼り替えた「退屈の注記」はそのまま保たれている。
> 退屈=暇 ではない。
> 暇=休む権利。
> 退屈=用の外の穴。
> 穴は掃除で埋める。
札の右下に打った礼の朱が、朝日に淡く脈打って見えた。
「免疫、効いてる」
凛が短く言い、私はうなずく。
注釈は、風邪みたいなものだ。流行り癖があるし、油断すると喉から入る。礼の朱はうがいの位置を教える。飲み込まない、吐き捨てる。そのための筋肉を、毎朝少しずつ育てる。
「王都の掲示は?」
真朱の問いに、控え所から走ってきた写字生が息を整えた。
「二ヶ所、礼が残り、三ヶ所、用の言い換えが通り、名の記入欄が増えました」
「名の欄?」
「注釈責任者の仮名を添える欄です。……白川が提案、通ったと」
名は、行き先をつける。注釈の底に名の行き先があれば、紙は働ける。無名の善意が薄める世界を、少し重くできる。
白川は掲示板の端で、仮名の帳面を抱えて立っていた。目の下の影は薄くなり、指の角度が昨日より迷わない。
「達は?」
私が問うと、白川は小さく頷いた。
「今朝、裏庭に『訂正願』を置いていった。仮名は書かず、『たつ』を端に」
「端?」
「自分の端を、もう一度見るためだと思います」
たぶん、そうだ。端は、退屈の住み処であり、同時に、自分の癖を見直せる境界線でもある。
午前の講義が終わると、王都から小走りの使いが来た。灰色の布包みではなく、今日は細長い木筒。
「運用通達・草案。掲示の注釈は、『礼→用→名』の順で記入すること。注釈責任者欄(仮名可)を新設」
真朱が木筒から草案を引き出し、凛が一読して頷く。
「働く草案。……ただ、ひとつ。礼の文言が固い」
凛は筆を取り、脇に小さく書く。
> 礼=『ありがとう』でよい。
> 定型句より、人の呼吸で。
礼は儀式だが、定型に閉じない。呼吸で置く。
「王都に通す」
使いは草案を抱え、うなずいて走り去った。背中の拍が速い。用の拍だ。
ふと、朔弥が面の下で低く言った。
「狐面は?」
「……眠っているはず」
昨夜、狐面は低い二拍を一枚、受け取っていった。退屈の皮が剝がれた後に生まれた空白は、眠りで埋めるのがいちばん早い。
「代償が来る」
朔弥は面の紐に触れ、結び目をやわらかく押した。
拍の貸し借りは、いつだって体のどこかから支払う。皮膚か、声か、歩幅か。狐は声をよく削る。
午後、掲示室。
「注釈運用、実地訓練」
凛が机の上に札を並べ、書記局の若手と王都の掲示役を呼び込む。
> ケース1:『退屈=善』の言い換え
> ケース2:『自由に』の注記格下げ
> ケース3:『迎え入れ』の右払い
練習札の前に、白川が立つ。彼の左隣には、見習いの少女――紐の先をよく結び忘れる癖のある芽生(めい)が緊張した顔で並び、右手に刷毛を持っている。
「順、言える?」
凛の問いに、芽生は喉を鳴らし、でも、言った。
「礼→用→名」
「礼は?」
「『ありがとう』。……紙に向けて」
「用は?」
「誰の、何のためか。――掲示を見る人のために、穴を塞ぐ」
「名は?」
「注釈責任者。……書くのが怖いときは、仮名で」
白川が横目で小さく頷く。
芽生は刷毛で札の縁を軽く掃き、朱で礼を点じ、細い字で用を書いたあと、震える手で『芽』とだけ書いた。
「働く」
凛の評価は簡潔だった。
注釈の癖は、怖がりに寄り添う言葉を覚えさせると、ほどける。
「ケース3」
真朱が小さく咳払いし、迎の払いを指した。
「右払いは長すぎても短すぎても、運げ入れに見える。礼で間を留めてから、用で『捨てないために迎える』を添える。名は迎える側の印」
迎える側の印――私たちの責だ。
私は朱を極細に解いて、右払いの末端に息ひとつぶんの点を置いた。
紙が軽く鳴る。
「紙は礼で、人は用で、名は責で、働く」
凛がまとめ、部屋の空気が少し緩んだところで、扉の陰から小さく拍が一つ。
狐面の拍だ。
私は胸の内で皿を撫でる。
眠ったはずの彼が、起きてしまったか。
狐面は姿を現さなかった。拍だけが、戸口の木に触れて、浅く跳ねて消えた。
借りた拍の返済が始まる合図――声が削れはじめているのだろう。
私は板書を片づけ、斎庭へ向かった。常夜灯に、眠りの礼を置く必要がある。
夕刻。
王都の掲示前には、「注釈責任者」の仮名欄が増設され、白川の筆で小さく礼が点じられていた。
> 注釈責任者(仮名可)
> 礼の朱(右下に小点)
> 用の一行(目的を明記)
通行人が足を止め、仮名の欄にそこはかとない安心を漂わせる。責が孤立しない配置は、人の背中を少しだけ前に押す。
「達、どう?」
白川に尋ねると、彼は掲示板の下を指した。
> たつ(端)
小さく、控えめに書かれている。名を出すことの怖さと、名を出さないことの怖さの間で踏ん張る字だった。
「間があるうちは、働く」
真朱が小さく言い、朱の瓶を一度だけ傾けた。
そのとき、掲示の端で、咳が一つ。
狐面の真似ではない。喉を削った咳。
角の陰に、狐面がいた。
面の房は乱れておらず、姿勢も崩れていない。だが、声が薄い。
「……返事、遅れる」
面の内側から掠れた声。
「拍、返す。少しずつ」
「礼」
私は低く言い、常夜灯のほうへ顔を向ける。
狐面は面の口をわずかに上げ、掲示の仮名欄に白い指を添えた。
「名は、行き先だ。俺は長いこと、行き先なしで踊ってきた。……眠りの行き先がないと、起きてしまう」
眠りの行き先。
それは、思ってもみなかった言い方だった。
眠りにも行き先がいる。礼と用が揃っていれば、眠りはそこへ落ちる。
「落ちる先、作る」
朔弥が面の下で言う。
「低い二拍を、夜番の札に縫い込む。狐面の眠りは、常夜灯の影へ」
狐面は面の房を弾き、笑う代わりに短く咳いた。
「……助かる」
彼はそれだけ言い、二歩だけ後ずさって影へ溶けた。
拍の貸し借りは、札で清算できる。札は、働く。
夜。
常夜灯の下に白布を半分だけ広げ、「夜番札」を三枚、薄い紐で結ぶ。
> 夜番札(一)
> 低い二拍が眠りの場所へ落ちる
> 夜番札(二)
> 礼の朱、右下に
> 夜番札(三)
> 名の欄(仮名可)
札を灯の笠の裏に、影へ向けて吊るす。
「狐面」
私は声に出さず、胸で呼ぶ。
返事は、拍で返ってきた。
灯の影で、二度、低く。
眠りの行き先はできた。
返済は、ここで進む。
その場に、達が現れた。
影ではなく、表から。
昼間見た井戸端の男と同じ、細い肩と、綺麗な爪。
「礼を置きに」
彼は言い、白布の端に掌を置いた。
「善を載せるの、気持ちよかった。――働かなかった。……返す」
「返したら、何が残った?」
私の問いに、彼は少し考え、目尻を下げた。
「暇。休むの、怖さ。……でも、怖さは用に変えられる」
凛がそっと紙を差し出す。
> 注記訂正『善』→『休む権利』
> 仮名:たつ
> 礼:小点
「名は?」
「今日は、仮名で」
彼は紙を受け取り、小さく頭を下げた。
「毎日、選び直す」
言い方はぎこちないが、間は真っ直ぐだった。
名は、行き先にたどり着くまでの仮の宿を持てばいい。仮名は、そのためにある。
講義の終わり、狐面はいなかった。
代わりに、夜番札が低く一度鳴る。
眠りの重さが、灯の笠へ落ちた合図。
私は胸の皿に掌を重ね、静かに礼を置いた。
生徒会室へ戻ると、机の上に凪の短い紙がもう一枚。
> 白檀、今夜は薄め。
> 眠りの道、重くすると、起きにくい。
「眠りにも、用がある」
凛が感心して笑う。
「用は、働きの入口。眠りも働く」
私は頷き、椅子に腰を下ろした。
疲れが、いまさらやって来る。
欠伸が、喉の奥で丸くなる。
狐面の言葉が胸のどこかで転がる――美しいあくびは舞台を壊す。
ならば今夜は、舞台ではないここで、静かにあくびをひとつ。
誰にも見せない美しさを、皿の底に。
ひっくり返さないように、そっと。
「返す?」
いつもの声。
朔弥が面の紐に触れ、結び目を軽く押す。
「返さない」
答えるより先に、結び目が鳴った。
「困る」
「困っていて」
「……毎日、困る」
笑いは小さく、深い。
契りは、毎日薄く結び直す。薄いほど、ほどけやすい。ほどけやすいほど、結び直しが上手になる。
それは、上塗りの逆だ。剝がれる前提で、続ける。
窓の外で、常夜灯が低く鳴った。
王都の掲示室の札も、灯の影で寝息を立てているだろう。狐面の寝息も、そこへ紛れているだろう。
注釈の癖は、人の癖だ。癖は、礼→用→名の順で、毎日少しずつ変えられる。
名の行き先は、人の行き先だ。行き先は、仮名からでも始められる。
私たちは、明日もまた、掃除から始める。
礼を点じ、用を声にし、名を呼ぶ。
退屈の穴を道に、噛み跡を道標に。
――更。
呼ぶと、返事は迷いなく戻ってきた。
それが今日の終わりの合図だった。
(つづく)



