白地図ほど正直な紙はない。
 狐面が置いていった掌大の紙には、王都・掲示室周辺の通路と扉、物置、清掃具の棚、それから清掃名簿の位置だけが簡潔に描かれていた。余白は大きい。書かれていないぶん、自分たちで埋められる。

 「裏欄……」
 凛が地図を指で押さえ、筆の柄で軽く叩く。
 「清掃名簿の裏に、順番の端が記される。見習いが『今日は余った人』を控える欄。退屈が住みつくのは、たいてい端」
 「端は、誰でも覗きやすいから」
 真朱が頷く。
 「覗きやすい場所は、上塗りしやすい。――行こう。掃除の準備をして」

 夕闇の温度が緩み、常夜灯の低い息が路地を撫でた頃、私たちは王都の掲示室へ向かった。
 表門からではなく、裏の配達口。凪が用意してくれた雑巾と刷毛、白檀を薄く含ませた水の瓶、礼の朱の小瓶。格好は掃除の人間。用は掃除。礼は持った。名は胸の中。
 廊下の石はよく磨かれているが、角の埃は夜に寄る。
 「端だけ、埃が残る」
 凪雪が囁く。
 「残った埃は、退屈のベッドになる」

 掲示室の扉は、音を立てない蝶番に取り替えられていた。
 内側は思ったより狭く、壁の半分を掲示板が占め、もう半分に机が三台。奥に、青い布をかけた清掃具の棚。棚の脇に、表向きの清掃名簿が革紐でぶら下がっている。
 凛が正面へ、真朱が奥へ、私は名簿の前へ。
 名簿の表は、きれいに整っていた。日付、担当、時間帯、備考。ここまでは正しい。
 「裏」
 凛が小さく合図を送る。
 私は名簿をそっと裏返す。
 裏欄には、鉛筆の薄い記号が列になっていた。
 ○、△、—。
 端に寄るほど、印が濃い。
 印の脇に、細く短い仮名がある。
 > み・お(白川)
 > た・つ
 > か・げ
 > ……
 「白川、操」
 昨夕もらった紙片の名が、ここにもあった。
 「『み・お』の隣の手が濃い」
 凛が身を寄せ、筆先で「た・つ」に触れる。
 「龍の字を避けた置き字。――『たつ』は竜胆の胆を嫌う書記局の手。型がある」
 「誰?」
 「差配の若手。名はまだ。名の外で働く手だ」

 「掃除、始める?」
 真朱が言う。
 「礼→用→名」
 私は頷き、礼の朱を指先に取り、名簿の四隅にそれぞれ点を置いた。
 四隅の礼は、紙の呼吸を揃える。
 次に、用。
 「本日の用は、埃落とし。注釈の付着を防ぐ」
 凛が短く読み上げ、白檀の水を刷毛に含ませて名簿の縁を軽く掃く。
 刷毛が端を通ると、鉛筆の○や△が微かに滲んだ。
 「……上塗りの上」
 凛の声が低くなる。
 「鉛筆の下に、消しゴムで消された別の印。――『ぜん』(善)の口の角度」
 名もなき正しい手が、ここで「善」を薄く試していた。
 試しては、消し、端へ寄せていた。
 端が濃いのは、そのせいだ。

 「名」
 私は最後の手順へ指をかけた。
 「『み・お』は白川 操。――会って、返す」
 「ここで、もうひとり」
 凛が裏欄の「た・つ」を指す。
 「達。名乗るときに達を避ける手。……達冴(たつさえ)か、辰生(たつお)か。筆致は、書記局の篠未に近い。親の癖」
 「誰かの下で動く手」
 真朱が言い、清掃具の棚の青布をそっと外した。
 棚の裏板に、小さな紙片が糊で貼ってある。
 > (ぜん)=民の暇
 > (おおやけ)=掲示
 > (みち)=注記
 >  ※朝に
 「……朝に」
 見覚えのある言い回し。
 「礼を朝に回す癖がある人の手」
 凛がこちらを見る。
 私はうなずいた。
 「白川だけじゃない。――朝の言い回しは、ここから流行した」

 「音」
 朔弥の声。
 扉の外から、規則正しい靴音が近づく。
 退屈の足音ではない。用の足音。
 私は礼の朱の小瓶を閉じ、名簿を表に返し、刷毛を揃え、雑巾を折った。
 礼・用・名の順に片付ける。
 扉が開き、掲示役の若い男――白川 操が顔を出した。
 目の下に薄い影。責任の影だ。
 「清掃、交代ですか」
 「掃除中です。――礼から」
 私が会釈すると、彼は戸惑い、すぐに深く頭を下げた。
 「昨夕、注釈の件、すみませんでした」
 謝罪は速い。正しい手の礼儀だ。
 私はうなずき、革紐から名簿を一枚抜いた。
 裏欄は隠したまま、表の端を指で示す。
 「『退屈=善』の言い換え。――暇=休む権利へ戻したい」
 「戻す」
 白川は即答し、黒の筆を取った。
 「達は、午后に来ます。名は、まだ出ない人です。私から呼びます」
 名をまだ出せない人。端の人。
 呼ぶのは、貼った側がいい。
 私は礼の朱を小さく一度、名簿の端に置いた。
 白川の筆致が、呼吸を合わせるように柔らかくなった。

 「掃除の手順、見ますか」
 真朱が言う。
 白川は迷い、そして頷いた。
 掃除は、働きを学ぶ一番の稽古だ。
 凛が低い声で教える。
 「礼を棚の四角に打ち、用を声に出し、名は最後までとっておく。――名は、呼ぶときに出す」
 白川は呟くように復唱し、刷毛を動かした。
 埃が、端からわずかに退く。
 「働く」
 彼の声が、少しだけ安堵に近づく。

 掃除を終えると、私たちは掲示室を後にした。
 廊下に出ると、狐面が石柱の陰から片手を上げた。
 「裏欄、見つけたね」
 「掃除してきた」
 「お利口」
 狐面は面の口を斜めに上げ、すぐ真顔に戻した。
 「達は、舞台より通達が好きだ。君たちの講義にも来ない。――王都の裏庭で会え」
 「場所は?」
 狐面は指で拍を二つ刻み、石柱の根元に小さな紙片を差し込んだ。
 > 裏庭・西の井戸
 > 日が傾く前
 > 低い二拍
 「礼」
 私が言うと、狐面は面の房を弾き、何も言わず消えた。
 狐面の礼は、たいてい行動の形をしている。

 裏庭は風が良かった。
 西の井戸は浅く、縁に白い苔が薄くついている。
 日が傾く前、低い二拍を胸に置いて、私と朔弥は待った。
 凛は少し離れた蔭で筆を準備し、真朱は通路の曲がり角で人の流れを薄めている。
 井戸の縄が乾いて鳴った。
 姿を現したのは、二十代半ばの男。細身、目元に眠気、しかし爪の縁が美しい。
 「達?」
 私が呼ぶと、彼は肩を竦めた。
 「達じゃない。――『たつ』って書いた。名は、まだ出したくない」
 「呼べない名は、隠す名じゃない」
 朔弥が面の下で言う。
 「選び直せば、出せる」
 男は井戸の縁に腰掛け、石の角を指で撫でた。
 「退屈で、やった」
 正直だった。
 「掲示の端に、『善』を載せてみた。上が喜ぶと思った。紙は反応した。人も、少し。……でも、働かなかった」
 働かない紙は、静かに重くなる。
 「返す?」
 私が問う。
 彼はうなずいた。
 「返す。――名は、今は出さない。でも、手は出す」
 彼は掌を見せた。
 指先に鉛筆の薄い黒。
「『毎日、困る』の、意味がやっと分かった」
 笑い方は不器用だったが、言葉は揺れなかった。
 凛が少しだけ近づき、紙を一枚渡した。
 > 注記訂正願(本人控)
 > ※礼の朱を右下に
 「礼→用→名。順番を覚えて」
 凛が言うと、彼は素直にうなずいた。
 「覚える。……毎日」
 「礼」
 私が置くと、彼も「礼」と返し、井戸の縁から静かに腰を上げた。

 夜。
 斎庭で「退屈の罠・第二講」を開くと、思った以上に人が集まった。
 公開講義の骨は変えない。掃除の手順を礼として教え、用の言い換えを板書し、最後に名を呼ぶ手当てを配る。
 途中で、昨夜の若い女が箒を持って手伝いに入った。
 「働かせてください」
 昼の言葉が、夜にも続いている。毎日の始まりだ。

 講義の終わり、常夜灯の低い音が一度、遅れて二度。
 合図に重なるように、狐面が人波の端で指を上げた。
 「裏庭、働いた?」
 「働いた」
 「よかった。――俺も、少し眠れる」
 狐面の声は冗談半分だが、面の奥の息は本当に緩んでいた。
 退屈が一段、剝がれたのだ。
 「礼」
 私が言うと、狐面は面の房を弾いた。
 「礼。……毎日、困って、毎日、掃除して、毎日、働かせて」
 「毎日、選び直す」
 朔弥が低く続ける。
 狐面は面の口を少しだけ上げ、一歩だけ後ろへ下がった。
 退屈は、今夜も眠る。

 生徒会室に戻ると、机の上に凪の手紙が置いてあった。
 > 掃除は終わりではなく、予告。
 > 明日の埃は、今日の礼に寄ってくる。
 > 朝の白檀、少し濃くしておく。
 「礼は、磁石」
 凛が感心したように呟く。
 「用の粉を集め、名の欠片を呼ぶ」

 朔弥が面の紐に触れ、いつもの問いを持ち上げる。
 「返す?」
 「返さない」
 答えるより早く、結び目が鳴った。
 「困る」
 「困っていて」
 「……毎日、困る」
 笑いは小さく、深い。
 結び目は、昨夜より少し固い。固さは、熱の予告。

 窓の外で、常夜灯が低く鳴った。
 私の胸の内の皿に、今日の埃と礼と名残り火を並べる。
 ひっくり返さない場所に。
 明日はまた、掃除から始める。
 礼→用→名の順で。
 退屈の穴を、道に変えるために。

 紙は働く。
 灯は寄る。
 拍は合う。
 名は、呼べば返事をする。
 ――更。
 返事は、もう迷いのない場所から返ってきた。

(つづく)