白檀は、夜が明ける前にいちど息を潜め、朝の手前でふっと濃くなる。
 凪の店の戸を閉め、私たちが路地に出た時も、香は背中に薄い手を置くみたいに付いてきて離れなかった。眠りへ押す手つきではなく、歩き出す肩甲骨の間に、そっと「大丈夫」と書きつける手つき。

 学院の方角から、常夜灯の低い合図が一度。
 退屈は眠り、紙は働く――そんな夜の合意が、まだ続いていることを知らせる音だった。

 「朝の稽古、間に合う」
 真朱が欠伸をごまかすように笑う。
 朔弥は面の下で「うな」と短く返し、風の筋を肩で読みながら先を歩く。凛は昨夜の記録帳を抱き直し、凪雪は羽根の縁を整えた。
 私の胸の内の皿は、まだ温かい。退屈を掃いたあとに残る名残り火。それをひっくり返さないように、低く息を合わせる。

 斎庭に出ると、白布はすでに干し草みたいに柔らかく畳まれ、柱の陰に寄せられていた。
 写字生の控え所からは、墨を擦る音がする。石の上で擦られる音は、夜より少し高い。朝は音が軽くなるのだ、と凛が言っていた。

 掲示板の前に、人だかり。
 真朱が目だけで私に合図し、歩幅を変えずにすっと滑り込む。
 新しい札が二枚、張り出されていた。
 > 『退屈の罠』記録・公開講義の予告
 > 「迎え入れの手順・暫定」

 講義の札はよく書けていた。凛の見え方と真朱の骨がきれいに噛み合っている。問題は二枚目――「手順」のほうだ。
 私は喉の奥で小さく鳴らし、札の右下を指で押さえた。
 「……筆致が違う」
 凛が即座に肩越しから覗き込む。
 「“迎え入れ”の迎の右払い、長すぎ。『運げ入れ』に見える」
 小さな笑いが人だかりの端で起きた。誰かが気づいていたのだ。
 「退屈の小細工」
 真朱が言い、携えていた小筆で払いの先に朱の礼を置く。
 朱は脈を持つ。礼の朱は、字の間に温度を残す。
 「『礼の朱』で免疫」
 凛が注記を添える。
 > ※迎の右払いに礼の朱(細点)を打つこと。上塗りではなく、礼による定着。
 「ありがとう」
 思わず口に出すと、凛は短く「朝に」と返し、筆先を拭った。

 「手順は、三つでいい」
 真朱が札の本文に手を入れる。
 > 一、礼を置く(場の温度を決める)
 > 二、用を示す(誰の、何のためか)
> 三、名を呼ぶ(本人に返る)
 「順番、変えた?」
 「変えた。昨夜の店で分かっただろ。自由より用、用の前に礼」
 自由は余白に近い。余白は罠にも契りにもなる。朝の掲示にのせるなら、礼→用→名の順だ、と真朱は言う。
 札の前の人だかりが、少しずつ解けていく。
 人は、用のある札の前では立ち止まり、用を終えると足が先に動く。噂は、用の札の前では剥がれにくい。

 「……運げ入れ、か」
 朔弥が面の下で小さく笑った。
 「運び込むと、捨てるのと同じになる」
 「捨てないための迎え」
 私が札を見上げて言うと、胸の皿がほんの少し冷えた。
 迎えは温度を必要とする。温度は、すぐに過熱にも凍えにも転ぶ。礼が、その行き先をふさぐ。

 朝稽古の最初は、凛の十五分講義だった。
 斎庭の端、白布の前に腰を下ろした学生と写字生。
 凛は黒い筆で、一字だけ大きく書く。
 > 用
 「用は、欲ではありません」
 筆を置いて、淡々と言う。
 「用は、働きの入口です。退屈は、欲の顔でやって来る。用の言葉に変換できない欲は、店の外に置いてください」
 笑いが控えめに起き、うなずきが増える。
 「礼は、用を見えるようにする灯。名は、用の行き先です」
 十五分は短いが、朝の脳に丁度いい。凛は講義を働かせる術を知っている。

 続いて、朔弥の拍合わせ。
 回廊に線を引き、半歩遅れ・半歩早れを繰り返すいつもの稽古。
 「全員に合わせるな。目の前に合わせろ。今日は低い二拍を基準に」
 低い二拍は、退屈の穴を砂で埋める拍。
 歩幅が合っていくと、空気が早起きの牛みたいに落ち着いてくる。
 私は歩きながら、昨夜の狐面のことばが胸のどこかをくすぐるのを感じた。
 ――『美しいあくびは、舞台を壊す』。
 美しく欠伸できるほど、私たちは安全な舞台をまだ作れていない。
 そう思ったら、ふっと笑ってしまった。美しい欠伸は、いつかのご褒美に取っておこう。

 稽古が終わると、王都からの使いが小走りでやって来た。
 黒漆の箱ではなく、今日は灰色の布包み。
 「注進。――昨夜の『退屈の罠』記録、王都の掲示に一箇所、妙な注釈が付いたとの報せ」
 凛が包みを受け取り、紐を解く。
 中には、王都掲示の拓本と、注釈の写し。
 > ※「退屈」は、民の暇として善。
 墨は薄い。手の癖は慎重で、責任を回避する角度がある。
 「……善?」
 真朱が眉を上げ、すぐに深呼吸で下ろす。
 「暇は、悪じゃない。退屈を『善』に上塗りするのが悪」
 「書いたのは?」
 使いは肩で息をして、首を振った。
 「王都の掲示役のうち、臨時に差配に入った者の手。名はまだ」
 「試筆が残ってる。照合できる」
 凛が即答し、拓本に目を落とす。
 「『善』の口の角が鋭い。仮名の『ぜ』に似た癖。……江波ではない。篠未でもない」
 「芦屋?」
 私が口にすると、凛は緩く首を振った。
 「学院の芦屋の『ら』は返しが小さい。これは王都の手。監督の下の代理――名もなき正しい手」
 名もなき正しさほど、扱いが難しいものはない。善の言葉で世界を薄める。怖さがある。

 「対処は、朝の手順で」
 真朱が、先ほどの札を指さす。
 「礼――王都掲示前で、礼の朱を置く。
  用――『暇』を休む権利へ書き換える。
  名――注釈の筆致を記録し、本人に返す」
 使いは目を瞬いたあと、深く頷いた。
 「働きます」
 働く、が王都の口から出ると、私は少しだけ救われる気がする。

 昼前、わたしたちは生徒会室に集まった。
 机の上に、今日の設計図。
 > 午後:退屈の罠・公開講義(凛・真朱)
 > 夕刻:王都掲示前・礼の朱の実演(更)
 > 夜半:常夜灯の見回り(朔弥・凪雪)
 > 随時:筆致照合(凛)

 窓の外では、影廊下を写字生が足早に行き来している。
 紙は、今日も働く。その働きに、退屈が混ざらないように、私たちは手順を整える。

 「講義の手触り、変える?」
 凛が問う。
 「昨夜の店のこと、どこまで出す」
 「噂は出さない。掃除は出す」
真朱が即答した。
 「退屈は噂で育つ。掃除の手順で枯れる。――誰でもできるやり方で」
 凛は満足そうに頷き、板書の配列を変える。
 「礼→用→名。掃除を『礼』に含める。噂は『用の外』に置く」

 その時、ドアの向こうで控えめなノック。
 入って来たのは、昨夜の店に来た若い女――喉が痛いふりをした彼女だった。
 外套は短くなり、目の縁のくっきりは薄れている。
 「……働かせてください」
 彼女は戸口で深く頭を下げた。
 「噂を置いて帰るかわりに、掃除の手順を覚えて帰りたい」
 凪がいないのに、凪の声がした気がした。
 掃除は儀式。
 私は頷く。
 「礼を、ここに」
 机の端に白い小皿を置く。
 彼女はそこへ掌をそっと重ね、「ありがとう」と置いた。
 礼は、退屈の反対側にある。
 彼女の肩が少し軽くなるのを、目で見た気がした。

 夕刻。
 王都の掲示前には、思いのほか人が集まっていた。
 常夜灯の低い音が街路にまで届き、子どもたちが背伸びして札の高いところを覗こうとする。
 私は朱の小瓶を持ち、札に近づいた。
 「礼を置きます」
 声は大きくしない。見せるためではなく、働かすため。
 札の右下に、点をひとつ。
 礼の朱。
 朱は、見え方の間に温度を留める。
 「暇は、休む権利です」
 私はゆっくりと注記を書き、善を上塗りではなく言い換えへ戻す。
 > 退屈=暇 ではない。
 > 暇=休む権利。
 > 退屈=用の外の穴。
 > 穴は掃除で埋める。
 掌の下で、紙が呼吸した。
 紙は、礼で働く。
 人垣の中で、ため息がひとつ落ち、拍手は起きない。それでいい。拍手は舞台の手触り、これは通達の手触りだ。

 帰り際、掲示役の若い男が私を呼び止めた。
 「筆致、照合、できました」
 彼は小さな紙片を差し出した。
 > 代理掲示役・白川 操
 > (見習い)
 名もなき正しい手に、名が付いた。
 「対話、していい?」
 私が問うと、彼は固く頷いた。
 「毎日、ここにいます」

 夜半。
 朔弥と凪雪が常夜灯を見回る間、私は生徒会室で「退屈の罠・第二講」の原稿を整えていた。
 窓の外に、低く、短く、二度の合図。
 喪の舌ではない。
 借りた拍。
 狐面。
 ……来るなら、今だろうと思っていた。

 扉はノックされず、拍で開いた。
 狐面は、面の房に新しい細紐を結び、昨夜より疲れて見えた。
 「舞台の外の観客席、半分眠ったよ」
 「美しい欠伸の出番?」
 「それは君のだ。――今夜は、相談」
 面の口が、初めて困った角度をした。
 「君たちの『礼→用→名』で、俺の退屈が剝がれはじめた。退屈が剝がれると、空白が残る。空白は、俺には危険だ」
 狐面が危険と言うとき、それは脅しではない。
 「拍を、一枚、くれないか」
 狐面は続けた。
 「人の拍。働く拍。……報酬は、『退屈の罠』の裏の道を一本、教える」
 私は息を吸って、胸の皿を撫でた。
 狐面に拍を渡すことは、上塗りと似ている危うさを持つ。
 だが、礼で渡すなら、拍は道になる。
 「低い二拍」
 私は言った。
 「礼の前に置く拍。噂が落ちる拍。眠るための拍」
 狐面は面の奥で目を細めた。
 「それは、俺には眠い拍だ」
 「眠ればいい」
 朔弥が戸口に立っていた。いつの間に戻ったのか、風の筋を払って、面の下で笑っている。
 「眠るのは、降参じゃない。退屈の完敗だ」
 狐面は面をわずかに上げ、息を吐いた。
 「……毎日、困るな、君たちは」
 「毎日、選び直す」
 私が重ねると、狐面は面の房を指で弾き、机に一枚の小さな地図を置いた。
 「裏の道。――王都の掲示室、清掃名簿の裏欄。退屈が住み着く場所は、掃除の順番の端」
 凛がいつの間にか背後に立ち、地図を覗き込む。
 「……使える」
 狐面は頷き、面の口を少しだけ上げた。
 「礼」
 「礼」
 言葉は短く、しかし確かに働いた。

 狐面が去ると、部屋には白檀の残り香と、低い二拍がふたつ残った。
 朔弥が近づき、面の紐に触れる。
 「返す?」
 「返さない」
 即答すると、彼は困ったように、嬉しそうに、ため息を笑いに変えた。
 「毎日、困ってる」
 「毎日、選び直す」
 結び目が、夜半の脈で静かに鳴る。
 私たちは机に肩を寄せ、原稿に小さな礼の朱を散らした。
 礼→用→名。
 掃除は礼。
 講義は用。
 呼びは名。
 退屈の罠は、崩れるたびに道を露わにする。

 常夜灯が、遠くで一度、低く鳴った。
 名残り火は、皿の底で丸くなり、眠った。
 明朝、また起こせるように。
 毎日が続くように。
 迎える牙が、道標の形を保てるように。