白檀の匂いは、夜を薄く甘くする。
 路地の風が角を曲がるたび、香りは凪の店の戸口からふっと押し出され、すぐ引っ込む。行きと戻りの間にできる空洞は、人を呼ぶ。退屈が好む穴だ、と凪は言う。

 「退屈は、穴の形をしてやって来る」
 棚の拭き布を絞りながら、凪はいつもの平らな声で言った。
 「油断していると、誰でも落ちる。真面目な人ほど、落ちたことに気づかない」

 店の中には、瓶と紙包みがきちんと並んでいる。乾いた葉、刻んだ根、琥珀色の液体。奥の囲炉裏には炭が少し。椅子は四脚、机は二台。狐面がいつも占める席の下には、今夜は白い紐が一本、わざと目立たぬように置かれていた。凪いわく「埃よけの紐」。けれど、私はそれが罠のひとつだと知っている。罠に見えるものの下に、じつは別の罠がある。退屈は層を好む。

 「店は、側に立たない」
 凪はいつもの宣言を繰り返し、拭き布を畳んだ。
 「でも、掃除は側に立つ。――人の側に」

 朔弥は面の紐を指で押さえたまま、店の入口に立った。路地に向けて半身、店の中に向けて半身。狐王家の半妖らしからぬ地味な立ち姿だが、最初に風向きが変わるとき、その肩先が必ず先に反応する。
 「風の棚引きが変わった。……来る」

 来たのは客だった。
 紙を買いに来た人、香を混ぜてもらいに来た人、喉が痛むと言い張る人。どれももっともらしい。代金を払って、礼を言って帰っていく。けれど、帰る背中が振り返る。二度、三度。
 ひとり目が振り返れば、ふたり目も真似る。三度目には振り返る理由が「退屈」になる。
 店の外の石畳に、似た靴跡が増えていく。足先の向きが同じ。踵の磨り減り方まで似ている。
 ――足跡を延ばすのは店の仕事。だが、同じ足跡ばかり延びていくのは、罠の兆しだ。

 凪雪が羽根をたたみ、私を見た。
 「拍、合わせる?」
 「低く。息は短く」
 私は答え、店の風鈴に息をあてて小さく鳴らす。低い音。表。
 低い音は、退屈の穴に砂を入れる。落ちた足がからから滑らないように。

 「“伸びた猶予”は、おいしい」
 瓶の影から、狐面がひょいと現れた。
 面の白は清潔で、ひもの房には白檀の小さな結びが付いている。
 「人は『猶予』を、余白と勘違いする。余白は落書きのためにあるんだ。……ね、君たち」

 私は笑わなかった。凪も笑わない。朔弥は面の端をわずかに上げた。
 狐面は肩をすくめ、椅子に座りかけ――床の白い紐を見つけて腰を浮かせた。
 「ほら、罠」
 「埃よけ」
 凪が言う。
 「埃は退屈の親戚」
 「親戚は呼べば来る」
 狐面は椅子をずらし、別の席に座った。座り方が、舞台上では見せない種類の、生身の座り方だった。膝の角度が人間の疲れ方を知っている。
 「退屈、始めよう。――小さなやつ」

 最初の罠は音だった。
 風鈴が鳴る以外、音はないはずの店の隅で、紙が擦れる音がした。
 棚の上の紙包み――凪がいつも寸分違わぬ角度で積むやつ――のひとつが、斜(はす)に被さっている。
 斜は見落としの母だ。見落としたものが積み重なると、音になる。ざら、ざら、と。
 私はその包みに手を伸ばし、角を正(ただ)す。音がやむ。
 狐面は面の口をわずかに上げた。
 「退屈の第一幕、ずれ」
 凪が棚の反対側を拭きながら呟く。
 「ずれは、連鎖する。――見え方まで」

 次の罠は匂いだった。
 白檀に混じる、ほとんど気づかないほどの甘い匂い。瓶の影の、小さな小さな匂い袋。
 「誰の仕事?」
 私は凪に目をやる。
 「店の仕事じゃない」
 凪は匂い袋を摘み上げ、嗅ぎ、笑ってから捨てた。
 「喪の残りを甘く包むやつ。退屈すると、悲しみに砂糖をかけたくなる。――舌を壊す」

 第三の罠は文字だった。
 入口の立て札。紙は真っ白、墨は正しい太さ。だが、文言が一箇所、やわらかすぎる。
 > ご自由にお入りください
 「自由に、は罠の合図になる」
 凛がいつの間にか立て札の横に立ち、筆で「ご自由に」を注記に格下げした。
 > ご用の方はお入りください
 「用がない者は入りにくくなる。――退屈は、用のない顔で来る」

 店の空気がわずかに変わる。
 通りに似た靴音の核が混じり、足取りが不規則になった。まるで同じ線で引いたようだった往復が、ひとつ、ふたつ、途切れた。
 狐面が指先で拍を数える。
 「拍は、退屈に勝つ。……だけど、退屈は拍を学ぶ」

 そのときだ。
 路地の角で、笑い声が一つ、派手に弾けた。
 笑い声は悪くない。けれど今のそれは、空に向けて投げられた笑いだった。誰に向けてもいない、誰にも届かない。
 続けて、店の戸口のすぐ外で、咳払いがひとつ。
 「入ればいいのに」
 朔弥が面の内側で呟く。
 「入れない人が、空へ咳をする」
 凪雪が戸口へ行き、片側だけ暖簾を上げた。
 入って来たのは、若い女だった。裾の長い外套、目は眠たげで、しかし瞼の縁だけがやけにくっきりしている。
 「喉、痛くて……」
 声は本当に痛い人のそれではない。真似た音。退屈は上手に真似をする。
 凪は彼女を席へ誘い、白湯を出した。
 「喉が痛い人は、黙る」
 凪はやさしく言う。
 「黙れない人は、喉が痛いふりをする」
 女は一瞬むっとし、それから笑った。
 笑い方にも真似がある。だが、次の瞬間、彼女の目の奥で焦りが動いた。
 「……退屈で」
 本当の言葉が、出た。
「退屈で、誰かの噂を持って来たくなって。持って来て、置いて、すっきりしたくて」
 狐面が面の口を上げる。
 「退屈の第二幕、噂」
 「置き土産の噂は、店の床を汚す」
 凪が白湯に白檀をごく薄く落とし、彼女へ滑らせた。
 「ここには、働く紙が集まる。紙が汚れると、明日汚れる」
 女は白湯を一口だけ飲み、肩を落とした。
 「……ごめんなさい」
 「礼を言って帰って」
 凪が言うと、女は戸口で振り返らず、背中で「ありがとう」と置いていった。
 音は小さかったが、店に残らない置き方だった。
 凪雪が風鈴を低く一度鳴らして、噂の跡を落とす。
 噂は穴に砂を入れるより先に、穴の形を変える必要がある。低い音はそのためにある。

 狐面は、椅子の背にもたれて私を見た。
「今夜は、退屈の芝居。――三幕目、交換」
 「交換?」
 「余白に、余白を。祈りに、祈りを。名に、名のふりを。……君の『サラ』は皿になった。器の祈り。あれは良い上書きだった。だからこそ、退屈は別の上書きをしたがる」
 狐面は懐から紙片を出した。小さなカード。
 > サラ(器)
 > 受けて、流す
 文字は見慣れた美しい手のもの。だが、意味が逆だ。受けて、流す。
 「器は受けて、留める」
 私は言った。
 「流すのは水路。器じゃない」
 「退屈は、似た言葉をくっつけて遊ぶ」
 凛が紙片を軽く叩き、筆で「流す」を斜線で消し、下に小さく注記を添えた。
 > ここでの器は「留める」。
 > 受け止める皿の意。
 狐面は指を鳴らした。
 「退屈、退散。……と思うだろ?」
 「思わない」
 朔弥が即答した。
 「退屈は、あくびを伝染させる。言葉でも同じだ」

 「もう一つ」
 狐面は面の内側で笑い、椅子から立った。
 「真意の一端を、置いていく。――退屈を、君にやってほしかった」
 「私に?」
 「君は働く。毎日、選び直す。退屈に向いていない。だから、君の欠伸は、きっと美しい」
 狐面の声は冗談の形をしていながら、目の奥の温度は冗談ではなかった。
 「美しいあくびは、舞台を壊す。見物人に、本当の眠気を思い出させる。――『見せられる眠り』じゃない、自分の眠りを」
 私は答えに詰まった。
 狐面の言う「真意」は、私たちの敵意と味方意の境を、また曖昧にする。
 朔弥が面の紐を少し緩めた。
 「お前は、舞台に退屈してる」
「もちろん」
 狐面は言う。
 「だから、紙に退屈してみたかった。働く紙に。……でも、今夜は見逃す。掃除が上手いから」

 狐面は白い紐をまたぎ、暖簾の向こうへ消えた。
 消える前に、ほんの一瞬だけ、面の口が固くなった気がした。
 ――それは羨望か、安堵か、嫉妬か。
 どれでもなく、どれでもある。
 退屈はいつでも、複数の顔を持つ。

 店の空気が軽くなる。
 凪が椅子の位置を元に戻し、白い紐を引き上げ、戸口の立て札の裏をもう一度拭いた。
 「罠は、掃除が効く」
 凪の口癖は、なんど聞いても落ち着く。
 「退屈は埃に住む。礼で追い払える」

 私は白湯を一口飲み、胸の内で、小さく自分の名を呼んだ。
 ――更。
 返事は、焦りのない場所から返ってきた。
 「……疲れた?」
 朔弥が面の下で問う。
 「ちょっと。ちょうどいい」
 口に出してから、私は自分で笑った。
 「やめるって言ったのに」
 「代わりに言う。よくやった」
 「あなたも」
 「俺は、側に立つだけだ」
 「側に立つのは、簡単じゃない」
 「毎日、選び直す」

 結び目が、あたたかく脈を打つ。
 返すか返さないかを、今決めない。
 決めないのは逃げではなく、選び直すための余白だ。
 余白は罠にもなるが、契りにもなる。
 契りは、毎日更新される契約だ。判が浅いぶん、かえって深い。

 凛が帳面を閉じ、私たちのやり取りを見ないふりで言った。
 「明朝、王都へ送る『退屈の罠』の記録、できた。――言葉は働く」
 「ありがとう」
 「礼は、朝に」
 この言い回しは、もう遊びに近い。だけど、遊びには余白が要る。退屈とは違う、休むための余白が。

 凪雪が羽根を少し広げ、私の肩に風を一枚だけ置いた。
 「眠って」
 「眠れるかな」
 「眠り方は、教えない。……一緒に、拍を落とすだけ」
 凪雪が指先で机を軽く叩く。低い二拍。
 朔弥の呼吸が、それに合う。
 凪の店の瓶が、微かに鳴る。
 私の胸骨の裏で、拍が落ちる。
 落ちる場所が、見えるようになってきた。皿を置く場所みたいに。

 戸口の外で、遠く常夜灯が低く鳴った。
 学院の真ん中で灯る灯。今夜も呼吸している。
 灯は退屈に弱く、しかし礼に強い。
 紙は退屈に弱く、しかし働きに強い。
 人は退屈に弱く、しかし名に強い。
 名は退屈に弱く、しかし呼びに強い。

 私はひそかに、夜の端に向かって礼を言った。
 狐面にも、凪にも、凛にも、真朱にも、凪雪にも、朔弥にも。
 礼は、退屈の反対側にある。
 礼を言うたび、罠の形は崩れる。
 罠が崩れれば、道が見える。
 ――迎えるための道。
 迎えるための牙。
 噛み跡を、道標に変える。

 「更」
 呼ばれて、私は顔を上げた。
 朔弥の面の白が、白檀の灯で柔らかい色をしている。
 「返す?」
 「返さない」
 息より早い答えだった。
 「困る」
 「困っていて」
 「……毎日、困る」
 「毎日、選び直す」

 笑いが、ようやく私たちだけの温度になった。
 夜は厚みを失い、凪の店の棚は影を浅くする。
 今日やり残した掃除はもうない。埃は追い払った。
 退屈は、今夜のところは、眠るだろう。

 眠りの前に、私はもう一度だけ自分の名を呼んだ。
 ――更。
 返事は、小さな、しかし確かな声で、胸の内の皿から返ってきた。
 「おやすみ」と言う代わりに、礼を置いた。
 白檀はそれを受け、香りを少しだけ薄くした。
 夜の掃除は、終わり。
 明日のために、余白を残して。