朝は、紙の匂いがいちばん強い。
 夜の湿りをわずかに残した繊維が、光を飲んで膨らみ、筆の腹を受け入れる“準備”をする。
 ――準備するのは、紙だけじゃない。
 学院も、王都も、そして人も。

 凛が差し出した照合票を受け取り、私は斎庭端の長机に置いた。
 「筆致照合、項目は三つ。返し、止め、砂」
 凛の声は仕事の温度をしている。
 「“ラ”の腹の小さな返し。終筆の止めがわずかに手前で浮く癖。砂振りの粒が紙の右肩へ転ぶ傾き」
 真朱が頷く。
 「公開の学問としてやる。――恥を作らない段取りは、もう組んだわ」

 向かいで、王都の文官が短く補う。
 「照合は匿名で始め、個人の名は照合が確かになって本人の同意が出た後に。……対話を前提に」
 彼の目の下には疲れが滲む。それでも声は崩れない。
 働く紙に付き合う人間の、静かな強さ。

 私は頷き、照合票に視線を落とした。
 王都複印室の試筆、学院掲示の仮名、そして昨夜の複印に貼られた「サラ」。
 “ラ”の腹――確かにある。ほんの針先ほどの返し。
 止めは手前で浮き、砂の尾は右肩へ流れる。

 「候補は三」
 凛が指で紙の端を叩く。
 「王都側の若手写字生ひとり、学院の掲示担当ふたり」
 私は紙面に並ぶ仮名へ視線を滑らせた。
 篠未 亮(しのみ・りょう)――書記局の若手事務官。臨時で副局長代理として掲示を取り仕切った名。
 江波 遥――写字生の新人、王都から随伴。
 芦屋 柚――学院の告知板の補助を兼ねる学年書記。
 「……“サラ”を書いたのは、一人かもしれないし、重ねられているかもしれない」
 重ね塗りの上で、愛称は貼りやすい。貼りやすいものは、重なりやすい。

 「――やり方は分かっているな」
 面の下で朔弥が低く言う。
 「文/儀/対話の順」
 「うん」
 朱の結びが、朝の脈で静かに鳴った。

 *

 文――照合の式は、斎庭の白布の上で“学問の儀”として公開された。
 人の輪は半円。写字生は中央通路。王都の文官と学院の書記局が左右に分かれて控える。
 白布に、三つの“ラ”が淡墨で大きく描かれる。
 私は凛と並び、筆先で返しの角度を示した。
 「ここ。腹の返しが一刻だけ戻る。紙が“呼吸する”のを待てる人の筆」
 凛が続ける。
 「止めは手前で浮く。急ぐわけじゃない。迷いがあるわけでもない。――癖です」
 真朱が砂袋を指し示す。
 「砂は悪じゃない。ただ、右肩へこぼれるのは、机の癖か、手の焦り。……道具の“履歴”が、字に残る」

 照合の印、**△**が三つ、白布の端に現れる。
 文官が淡々と告げる。
 「照合率――篠未・亮、八分。江波・遥、四分。芦屋・柚、三分」
 ざわめきが一瞬だけ起きて、すぐ収まった。
 匿名のまま、数だけが舞台に乗る。
 恥を作らないための段取りは、温度を守る。

 *

 儀――連れ出しの儀は、影廊下の途中に設えられた小さな舞台でおこなった。
 正面には白布。脇に風鈴。奥に灯を低く。
 私は白布の前に立ち、風鈴を低く一度鳴らした。
 「呼び名の注記は定めた。器の祈りとしての『サラ』は存置する。……けれど、貼った手は影に残っている」
 息を吸い、拍を置く。
 「――出てください。匿名のあなた」
 半円の輪の中で、足音がひとつ、前へ出た。
 篠未・亮。
 痩せた指、真面目に削れた爪、端正に折られた袖口。
 「出ます」
 声は低く、かすれている。
 誰かの正しさは、いつだって勝手に重くなってしまう。本人の意思より早く。

 白布の前に篠未が立つと、写字生の列が少しだけ姿勢を正した。
 彼は膝の横で指を結んでから、ゆっくりほどいた。
 「愛称『サラ』は、私が貼りました」
 静かなざわめき。
 篠未は続ける。
 「人を式の中で“見える”ように――と教わりました。王都の写しは、人のためにあると。固有名は難しく、愛称は優しい。だから、貼った」
 彼は、真正面から私を見た。
 「――間違いでした」
 膝がわずかに揺れ、指が再び結ばれる。
 「人のため、ではなく、『式の流通』のため。私の働きを“見せる”ため。……私を見せるためでした」

 胸の内で皿が鳴った。
 怒りではない。
 名が触れ合う音。
 私は白布へ一歩近づき、短く答えた。
 「ありがとう」
 篠未の目が驚きに細くなる。
 「剝がすために、出てくれてありがとう。――“貼られた見え方”は、貼った手が剝がすのがいちばん速い」
 私は白布の“サラ”の文字に薄い朱を打ち、凛が注記の小札を添え、真朱が順序を読み上げた。
 > 一、愛称は器の祈りとして存置
 > 二、本名と仮名を正とする
 > 三、貼った手が剝がす意思を示す

 篠未は指の結びをほどき、深く頭を下げた。
 「剝がします。……私が貼ったから」
 白布の上に、抹消線が二本――愛称の過去へ、見え方の過去へ。
 線は薄く、しかし確かに引かれた。

 *

 対話――儀の終わりに、篠未はひとり、影廊下の柱の前へ出て、在学生と写字生に向けて短く話した。
 「私は、正しいと思っていました。誰のためにもなると。――でも、誰かの名は、『誰にでも』の中で薄まる。誰かのため、を選び直すことが、正しさかもしれません」
 彼は唇を噛み、言葉を継いだ。
 「学院は毎日選び直す――と学びました。私は、今日、選び直しました」
 拍が合う音がして、控えの間の写字生が一斉に筆を上げた。
 王都の文官は何も言わず、ただ深く一礼した。
 働く紙にとって、訂正は敗北ではない――そう告げる礼だった。

 *

 照合と儀と対話が終わる頃、光は屋根の上で一度大きく息を吸った。
 狐面が現れるには良すぎる朝――そう思ったとき、案の定、白布の影が軽く笑った。
 「三幕目、上手」
 面の口は相変わらず遊びの角度だ。
「退屈だった?」
 真朱の声は冷たい。
「ううん。働くのは、退屈しない。――でも、喪が余ってる」
 面が袖で風を作ると、白布の裏で薄い影がひとつ、舌を出した。
 私は皿を胸の内でたたみ、低い風鈴を鳴らす。
 影は落ちる。
 狐面は肩をすくめ、私を見た。
 「君の“サラ”は、皿になった。器は、舞台で強い。……新しい演目、楽しみにしてる」
 朔弥が一歩、前へ出た。
 「演目は俺たちが選ぶ」
 面は深く頷いた。
「それがいちばん、退屈しない」

 面が消えると、斎庭の空気が静かに落ち着いた。
 凛が短く息を吐く。
 「――世論は、こちらに傾く」
 王都の文官が頷く。
 「答弁三稿に、今の“照合/儀/対話”の記録を添付する。王都は“監督の裏切り”を想定しているが、監督は“人を剝がして捨てる”のでなく“迎えて働かせる”と記録される」
 記録。
 紙は、未来の舞台を支える床になる。

 *

 昼の少し手前、生徒会室。
 答弁三稿の骨子が机に広がる。
 真朱が骨、凛が見え方、王都の文官が式の言葉を担当し、私は“名”の位置を確かめる。
 > 一、学院は「名」を守る場である
 > 二、式は道具で、人を捨てない
 > 三、均衡は毎日選び直す契りで、上塗りで固定しない
 > 四、誤差(ゆらぎ)で式に噛みつき、噛み跡を道標にする
 > 五、貼られた見え方は、貼った手をもって剝がすことを原則とする
 > 六、愛称の注記:器の祈りとしてのみ流通を許す
 > 七、監督(会長)は迎え入れの権能を持ち、捨てないことを責とする

 私は七項の末尾に、ごく薄く朱を置いた。
 「迎え入れ」
 口に出すと、胸の内で何かが柔らかくほどけた。
 牙は、迎えに使える。
 噛み跡は、道標になる。

 「……更」
 面の下で朔弥が呼ぶ。
 「夜までに、王都の返答が来る」
 「来る」
 「来た返答が、上塗りなら」
 「剝がす」
 「来た返答が、舞台なら」
 「上がる」
 「来た返答が、祈りなら」
 「礼を言う」
 言いながら、自分で笑ってしまった。
 面の下で、彼も息を笑いに変える。
 「――側にいる」
 「うん」

 紙が束ねられ、封が落ち、印が押される。
 答弁三稿は、王都の文官の手で影廊下を抜けていった。
 灯が道を空け、風鈴が低く二度鳴る。
 “働く紙”が、またひとつ道を作った音だ。

 *

 午後――凛の一限「見え方の授業」。
 斎庭の端、白布の前に座るのは在学生と写字生の混在。
 凛は黒い筆で、大きく一字だけ書いた。
 > 見
 「見るは、見せられるの反対語ではありません」
 凛は筆を置き、淡々と続ける。
 「“見え方”は作られる。作った誰かがいる。見せられ方を知ることは、見方の自由を守ることです。――今日は、『愛称』と『注記』で、その自由を守る方法を話します」
 授業は静かに進み、質問は少なかった。
 けれど、写字生の背筋は授業の終わりまで折れなかった。
 仕事の人間は、働く学問を好む。

 *

 日が傾き始めた頃、影廊下の突き当たりで拍子木が短く鳴った。
 王都の使者、来着。
 斎庭に整列が敷かれ、面の朔弥が前に立ち、私はその側へ並ぶ。
 文官は朝よりも疲れて見え、しかし声は朝より温い。
 黒漆の箱が開き、二枚の札――呼出状と答礼状。
 「王都の返答。呼出状は、学院の答弁三稿に注記を付して再照査。答礼状は――三日の働きに敬意」
 文官は続ける。
 「猶予、さらに一。学院は『迎え入れ』の原則を施行のうえ、一月の後に合同式――王都・学院**共同の“名の儀”**を」
 ざわめきが波のように走り、すぐに静まった。
 朔弥が面の下で息をひとつ置く。
 「受ける」
 文官は深く頭を下げ、視線だけで私を探して言った。
「“器の祈り”――働きました」
 それが彼にしては大きな告白であることを、私は知っている。

 使者が退くと、斎庭の灯がひとつ、ふたつ高くなった。
 狐面は現れない。
 退屈しているのだろう。
 退屈しているなら、それでいい。
 退屈を呼ぶ舞台の代わりに、働く紙と迎える牙が残る朝と夕方のほうが、私は好きだ。

 「更」
 朔弥が面の紐に触れ、結び目を軽く押した。
 「返す?」
 「返さない」
 即答が自分でも可笑しくて、笑いが漏れた。
 「困る」
 「困っていて」
 「……毎日、困る」
 面の下の声は、契りの台詞を覚え始めている。
 それでいい。
 毎日あるなら、毎日選び直せる。
 選び直すたび、同じところに戻る。

 斎庭の白布が、今日の働きを終えて柔らかく降りた。
 灯の骨は、夜に向けて低く整えられる。
 私は胸の内側の皿に、喜びと疲れを並べて置いた。
 ひっくり返さない場所に。
 ――三日は、こうして四に伸びた。
 上塗りではなく、迎えの原則で。

 でも、舞台は終わっていない。
 狐面が去った場所には、かすかな空白が残っている。
 退屈は、別の形で悪さをする。
 凪の店の白檀が、遠くから合図を送った。
 「夜に。――店で」
 迎える牙は、道になる。
 道は、人を連れてくる。
 連れてくる先に、次の演目が待っている。

(つづく)