紙束の端に、くっきりと残る癖のある筆跡――サラ。

 “更”でも“更紗”でもない。
 呼びやすく、転びやすく、貼りやすい二音。
 式を人に見せるための愛称。
 それは、私を人に見せたのではない。人の都合に合わせて、私の輪郭だけを丸くした。

 「書いた手を見つける」
 私が言うと、朔弥は即座に頷いた。
 「見つけて、剝がす。順は三つ――文/儀/対話」
 真朱が指を三本立てる。
 「文:正式な抹消と訂正印。儀:名の儀で呼び直し。対話:書いた本人に返させる」
 「三つ揃えば、貼り付いた“見え方”は剝がれる」
 凛の声は静かで、仕事の温度をしていた。
 「仕事としてやる。……“見え方”の教育の一環として」

 胸の内の皿に、ひとまず“怒り”を置いた。ひっくり返さない場所に。
 私は紙束を光に透かし、愛称の筆跡を指でなぞる。
 墨は、王都の写字生が使う標準墨に似ている。でも、尾に砂の手触りがある。
 「……砂振り」
 凪の店で見た、乾きを急がせるために砂を振る癖。
 「写字生の一部が使う簡便法だよ」
 凛が頷く。
 「若い騎士も、この癖がある。鎧の隙間で紙を扱うから、乾かす時間が取れない」
 若い騎士。
 影廊下で最初に私に視線を傾けた、あの喉仏の人。
 王都の文官本人の手ではない――彼の字は乾きの管理がうまく、砂の尾が出ない。
 「場所は?」
 「控えの間。護衛の予備机。……練達の筆致じゃないけど、丁寧」
 凛は迷いなく言った。「悪意ではない。でも、働く」

 *

 控えの間は、夜の底で紙の匂いが濃い。
 写字生が眠気と格闘し、文官が赤印の在処を確認し、兵の靴が規則正しく床を打つ。
 その隅に、若い騎士――瑠堂(るどう)が立っていた。
 背筋は伸びているが、指先だけが落ち着かずに動く。紙の端を揃えたり、机の角を撫でたり、砂振りの袋を確かめたり。
 「少し、いい?」
 私が声をかけると、彼は驚いて身を正した。
 「桂木、殿」
 「“更”でいい」
 言うと、彼の喉がわずかに上がり、目が丸く柔らかくなる。
 「……はい。更、殿」
 呼び方に敬が残るのは、彼の正しさだ。無理に剝がす必要はない。

 私は紙を差し出した。
 「この“サラ”――あなたの手?」
 彼は一瞬だけ目を伏せ、それから迷いなく頷いた。
 「はい。写しに、人が見えるように。……王都では、複印に愛称を添えるのが“親切”とされます。堅い文は、人を遠ざけるから」
 「親切で、貼った」
 「はい」
 返事は、恥じるより先に信じている人の返事だった。
 正しさはときどき、残酷なほど善意の形をしている。
 私は深く息を吸い、怒りを皿の底へさらに押し込んだ。
 「剝がすわ。――あなたの手で」
 「でも、広がってしまった写しは」
 「文/儀/対話で、順に止める」
 私が言うと、朔弥が面の下で短く続けた。
 「王都の文官は“働く紙”に理解がある。訂正の式を用意する。……お前は対話を」
 若い騎士の瞼が震え、やがて下りた。
 「はい。……私が貼った。私が剝がす」
 彼は砂袋を握る手をほどき、机から筆を取り、抹消線の印を練った。

 *

 文――訂正の式は、王都の文官が手早く整えた。
 抹消線は二本。一本は愛称の上に、一本は見え方の上に。
 訂正印は灯の朱。学院の印を王都が受け取り、王都の印を学院が受け取る。
 「二つの印の交差は、“責を分有する”合図です」
 文官の説明は短い。だが、その言葉に人間の温度が宿る瞬間を、私は確かに見た。
 (紙は働く。人のほうへ)

 儀――名の儀は、夜明け前の白布で。
 私たちは観客を置かず、写字生と護衛だけを囲む。
 「呼び名『サラ』――剝がす」
 私は愛称を呼んでから、剝がす。
 呼ぶことは、向き合うこと。
 剝がすことは、返すこと。
 皿の縁を凪の香で滑らかにし、愛称を光のほうへ送る。
 「更」
 朔弥が同じ角度で呼ぶ。
 ――返事は、胸骨の裏から、迷いなく戻った。

 対話――一番むずかしい工程は、いつだってことばの温度だ。
 若い騎士・瑠堂は、控えの間の机の前でまっすぐ立ち、写字生たちへ向き直った。
 「複印に添えた愛称は、親切のつもりでした。……ですが、それは『人を式に合わせた見え方』であり、本人の名を遠ざける行いでした。剝がします」
 彼は抹消線を引き、訂正印を押し、私へ深く頭を下げた。
 「桂木――更殿。呼ばせてください。更」
 「はい」
 返事は簡潔で、はっきりして、剝がれを確かめる音になった。

 控えの間の空気が少しだけ温くなる。
 写字生たちの筆が再び走る。
 “訂正は恥ではない”――そういう仕事の信仰が、彼らの背中にあるのだと知る。

 *

 儀の片付けが終わる頃、斎庭の東の端が白んだ。
 夜と朝の縫い目。
 凛が控えの簾を上げ、こちらへ歩いて来る。
 「文は終わり。儀も終わり。残るは――喧噪」
 「喧噪?」
 「世論の波。『愛称を剝がす学院』の噂が、見学者と写字生を通って門外へ出る。……そこへ、喪が混ざる」
 狐面が好きそうな舞台だ。
 「来るなら、皿で受ける」
 私が言うと、凛は短く笑った。
 「見え方も、皿で受けられる。愛称に別の物語を貼って無毒化する手もある」
 「無毒化?」
 「例えば、『サラは“皿”の裏返し。受ける器を意味する祈りだった――と学問の物語で上書きする」
 真朱が目を細めた。
「“上塗り”の逆。毒抜きの上書き」
 「使い方を誤れば怠惰。でも、人のためにやるなら救い。……やってみる?」
 「やる」
 私の答えは早かった。
 “サラ”が、ただの“貼りやすい二音”で終わらないために。
 “サラ”が、私の皿――受ける器と繋がる祈りの音になるように。

 凛が白布の端へ小さな札を置く。
 > 呼び名注記
 > 「サラ」は「皿」に同音。
 > 皿は受ける器。
 > 喪を受け、名を守る。
 > ゆえに本呼び名は器の祈りとしてのみ流通を許す。
 写字生が目を走らせ、筆を走らせる。
 狐面がいたら「退屈」と笑うだろう。
 でも、退屈に見えて働くことを、私は今夜ずっと学んでいる。

 *

 朝の第一打が鳴る。
 私は契り堂の前で、深く息を吸った。
 「返すね」
 朔弥が、私の手首の朱に指をかける。
 「返せる?」
 「返さないでいいと言われたら、困る」
 「困って」
 「困って、毎日決める」
 笑いがこぼれる。
 彼の指が、ほどく代わりに結び直した。
 結び目は、昨夜より少しだけ固い。
 固さは、熱の予告。

 白布の前に並ぶと、王都の文官が歩み出て、訂正の式を読み上げた。
 「複印に添付された愛称、サラを、器の祈りとしての注記を付して存置。――本名『桂木更紗』、仮名『更』を正とする」
 “存置”。
 剝がして捨てるのではなく、無毒化して置き直す。
 紙の言葉は冷たいのに、その行為は不思議に温かい。

 儀が終わる直前、影がひとつ、白布の下を擦った。
 喪の舌。
 狐面の退屈しのぎか、それとも自然の残りか。
 私は皿を胸の内でたたみ、風鈴を低く鳴らす。
 縁が滑らかになり、残りが落ちる。
 拍は崩れない。
 灯は揺れない。
 式は、人から離れない。

 「――朝だ」
 朔弥の声は、面の下で光った。
 私は胸の内側で礼を言った。
 紙に。灯に。拍に。人に。
 祈らないと決めた私が、礼だけは言えると知ってから、夜が少しだけ軽い。

 *

 儀後の控えで、若い騎士・瑠堂が小さな包みを差し出した。
 「砂振り、返上します。……紙は待てるように訓練する」
 彼の耳が少し赤い。
 正しさを直すのは勇気がいる。
 「ありがとう」
 包みを受け取り、私は凪に預けることにした。
 凪は包みを二度、指先で転がしてから笑う。
「砂は道具。悪いのは使い方。――朝の間だけ預かる」
 「朝ばかり、流行る」
 「毎日あるからね」
 従姉の言葉は、店の棚のように安定している。

 凛は筆を置き、こちらへ向き直った。
 「見え方の授業、午後に一限。テーマは『愛称の毒抜き』」
 「講師料は?」
 真朱が肩を竦める。
 「朝に」
 笑いが連鎖し、控えの緊張がやっとほどけた。

 狐面は現れなかった。
 でも、拍はどこかで笑った。
 退屈を、働く紙が追い払う朝。
 そんな朝なら、私は好きになれる。

 *

 人波が散り、白布が干し草のように柔らかく畳まれる頃、私は契り堂の壁に残る古い文をもう一度見た。
 > 名は力。人は名に宿る。
 > 灯は名を守るためにある。
 > 上塗りは、怠惰。
 祖母の字に似たこれを、やっと自分の字で読み返せた気がする。

 「更」
 朔弥に呼ばれて振り返る。
 「三日の猶予、残り一」
 「一でも、毎日はある」
 「ある」
 「なら、選び直せる」
 「選び直す」
 結び目が、朝の脈で静かに鳴る。
 「昼までに、“サラを書いた最後の手”の照合を終わらせる」
 凛が短く告げる。
 「王都の複印室に残った試筆と、学内の掲示の仮名。……同じループがある。『ラ』の腹の小さな返し」
 思い当たる字がひとつ、喉の奥で音になりそうになる。
 影廊下の掲示――“写字生招致”の張り紙。
 誰が書いた?
 文官は印を押しただけ。
 書いたのは――書記局の副局長代理、臨時で掲示を仕切っていた若手の事務官。
 朝倉でも、凛でも、上級生でもない。
 名もなき“正しい手”。
 「最後の手を、連れ出す」
 私は呟いた。
 「牙で噛みちぎらず、道で迎えに行く」
 朔弥が頷く。
 「側にいる」
 「うん」

 朝の光が、学院の屋根へひと筋ずつ縫い目を落としていく。
 “サラ”という呼び名は、器の祈りになった。
 けれど、貼った手はまだ影にいる。
 三日目の舞台は、影から人を連れ出す劇になる。
 紙は働き、灯は寄り、拍は合う。
 私は胸の内側の皿に、今日の怒りと希望を並べて置いた。
 ひっくり返さない場所に。
 ――朝は、まだ始まったばかり。

(つづく)