夜は薄く、しかし長い。
石畳の向こう、門前にはもう列ができていた。写字生(しゃじしょう)たちの肩先が月光を受けて白く、彼らの背にぶら下がる木簡がさやさや音を立てる。その背中の拍は、王都の事務の匂いがする――乾いた紙と、火を落とした後の灰。
「配置、最終確認」
真朱が両手を叩く。
「Ⅰ『名の儀』は斎庭の白布。見学者は半円。写字生は中央通路。
Ⅱ『拍の儀』は回廊。羽根が合図を出して歩幅を合わせる。
Ⅲ『灯の儀』は契り堂前。紙と灯の交差を写す」
「連れ出し劇の“本丸”は?」
私が問うと、真朱は顎で影廊下の奥を示した。
「写字生控え所。凛を“仕事で”引き寄せる。――『学院の牙・第二稿(公開案)』をその場で改稿するの」
「仕事の匂いを強く」
朔弥が面の下で言う。
「“見え方”の外側に、歩幅の合う道を敷く。お前は“名”で敷け。俺は“守り”で囲う」
「うん」
鐘が一度、空に落ちた。
門が開く。
写字生たちが、静かな拍で流れ込む。白と黒の衣、腰の筆差し、細い目の底に眠る好奇心。
先頭の文官が挨拶を整え、紙の受け渡しの式を短く済ませる。
「『学問の儀』、写しの許可を賜る」
彼の声が終わると同時に、灯が一段上がった。学院が“働く”と決めたときの、骨の音。
Ⅰ『名の儀』。
私は白布の上に立ち、凪の店から届いた白檀の香を薄く巡らせた。香は恐れを“嗅ぎ分ける”――皿の縁を滑らかにする。
「呼び名と真名。切り替えの手順を公開する」
私が「更」と名乗り、「更紗」を受け取り、また「更」に戻す。
拍を乱さず、線を切らず、怖れが生まれる前に通す。
写字生たちの筆が、紙の上で一斉に小さく鳴った。規則的で、気持ちのいい音。
列の端で、王都の文官が僅かに頷く。
(――来い)
心の中で、まだ名を呼ばない誰かに向けて、私は無言の手紙を折った。
Ⅱ『拍の儀』。
羽根の少年が、回廊で足音を刻む。写字生がその後ろに続き、半歩遅れ、半歩早れを繰り返しながら、徐々に合う。
「拍は、相手の呼吸に触れる方法です」
真朱の声が回廊の梁に柔らかく反響する。
「“全員に合わせる拍”は誰にも届かない。だから、目の前の拍に合わせる」
写字生の列に、笑いが一つだけ生まれた。堅い笑いではない。肩先の緊張がほどける音。
Ⅲ『灯の儀』。
契り堂の前で、私は紙を灯にかざす。
「紙は働く。働く紙は、人のためにある。……式を人のために使う」
白布の上に『学院の牙・第二稿(公開案)』が置かれ、最初の一行が月光で薄くきらめく。
> 一、学院は「名」を守る場である。
写字生が一斉に座し、写しを始める。
控え所の戸が開放され、紙と人の流れができる。
そこへ――白い気配が近づいた。
白檀。
凪の香ではあるが、凪が抱え込まない温度。
私は振り向かない。振り向く前に、拍をひとつ置く。
(来た)
足音は軽い。整いすぎているのに、生活の塵が微かに混じる。
「――招致に応じました。朝倉・凛」
控え所の横で声がして、写字生たちの筆が一瞬止まり、すぐ再開した。職人たちは驚きより仕事を優先する――正しい信頼。
凛は控え所の長机の端に席を取り、あっという間に仕事の場を整えた。筆、紙、文鎮、墨。
彼女は「仕事」の角度でこちらを見た。
「“第二稿”、その場改稿。指示を」
「任せる。――ただし、人を捨てない」
「わかってる」
応答は短く、拍に合う。
真朱がすぐ横へ入り、言葉を骨に変える。
「項の順番、Ⅳを前に。『誤差で式に噛みつく』を二行目に上げて」
「了解」
凛の筆が走る。
整いすぎた線の手前に、今日は薄い揺れがある。それは崩れではない。温度。
私は胸の内で小さく頷いた。
そこへ、音が割り込んだ。
――きん。
風鈴の骨が、わずかに“高すぎる”音で鳴る。
喪の舌が、どこかで灯の縁を舐めた合図。
「南の庇(ひさし)!」
羽根の少年の声が走る。
写字生の列がざわめく前に、私は白布の端へ駆けた。
皿の形に筆をたたみ、凪の香を薄く足し、縁を滑らかにして落とす――はずだった。
影は浅いのに、粘る。
「……違う」
喪ではない。
影墨だ。
式の影が、写字生の紙の裏へ回って、字形を“整え直す”。
「裏写し!」
真朱が叫ぶ。
「表の『人を捨てない』が、裏で『人を束ねる』に――」
凛の筆が止まる。
「仕事を、壊す気?」
声の温度が初めて動いた。
「誰」
私が叫ぶより早く、控え所の奥で乾いた笑い。
狐面。
暖簾も扉もないのに、彼は“場の拍”だけでそこへ立っていた。
「退屈凌ぎの裏打ち。――表が温まると、裏で冷ます人がいる」
「帰れ」
朔弥の声は短い。
狐面は肩をすくめ、写字生の背中を見下ろす。
「紙は働く。だから、人はもっと働く。――みんな大好き、修正の時間だ」
「冗談はやめて」
凛の筆が跳ね、裏へ回り込む影を叩き落とす。
整える手は、裏にも届く。
だが、狐面の“拍”は人の拍をずらす。
写字生の数人が同時に筆を止め、紙の上下を入れ替えてしまった。
「やめて! 表のまま!」
凛の声に、彼らははっと我に返る。
「――“合図”がいる」
私は白布の中央に歩み出た。
「表は、灯。裏は、影。風鈴の高い音は裏、低い音は表」
羽根の少年が即座に理解し、風の角度を変える。
ちりん――低い音。
紙が一斉に正位置に戻る。
狐面が舌を鳴らす。
「舞台、上手」
「裏方は黙って」
真朱が冷たく言い捨て、凛へ視線を戻す。
「続けて。――『誤差で式に噛みつく』の文尾に選び直すを足して」
「“毎日、選び直す”」
凛の線が柔らかくなる。
「更、印を」
朔弥が低く促す。
私は頷き、契り堂の朱を極細に解いた“守りの粉”を、定義の末尾にごく僅か散らした。
灯がそこだけ薄く金を帯び、影墨が寄り付けない。
狐面は、面の口を少し下げた。
「舞台、飽きた」
「じゃあ、終演」
真朱が手を打つ。
「写しは控え所へ移動。――閉じ」
控え所の簾が下り、紙の流れが内へ収まる。
狐面は簾の向こうを覗くふりをして、私へ視線を戻した。
「君、呼び名の剝がしに動くんだろう?」
「動く」
「誰の愛称を、どの複印から?」
喉の奥が、ひとつ強く鳴った。
――まだ、言えない。
凪の匂いが、遠くから「焦らないで」と肩を撫でる。
「“仕事”が呼ぶ順から、剝がす」
私が答えると、狐面はつまらなそうに袖を払った。
「正しい。――退屈でも、正しい」
狐面が消えると、空気の張りがひとつ緩んだ。
控え所の簾が上がり、改稿された第二稿が写字生の手で次々と増殖していく。
凛は筆を置き、こちらを見た。
「“連れ出し劇”、成功。――でも、まだ観客席に半分いる」
「半分でいい」
朔弥が面の下で笑う。
「明日、もう半分を“仕事”で連れてくる」
凛は軽く頷き、紙束を抱えた。
「学問の儀、続行。――『見え方』の授業、わたしが一限やる」
「講師料は?」
真朱が笑う。
「朝に」
揃った三人の声が重なり、私まで笑ってしまった。
人の波が引き、夜はさらに薄くなる。
私と朔弥は斎庭の端に立ち、しばし言葉を失っていた。
「疲れた?」
「ちょっと」
「ちょうどいい?」
「……もう、それはやめようか」
面の下の息が、苦笑に変わる。
「やめる。――代わりに言う。よくやった」
言われ慣れない言葉に、胸の内側がきゅっと鳴った。
「あなたも」
「俺は、お前が前に立つから、側に立てる」
「それ、反則」
「契りの台詞だ」
結び目が、あたたかく脈を打つ。
そのとき、影廊下の端で、小さな靴音が跳ねた。
凪の店の使いの子が、紙包みを抱えて駆け込んでくる。
「桂木さま! 王都からお急ぎの手形! 複印の愛称一覧、写字生が写して持参!」
胸が高鳴る。
「開けて」
封を切る。紙の匂い。
一覧の中に、見覚えのある、しかし正式文書ではありえない呼び名があった。
――サラ。
“更”でも“更紗”でもなく、サラ。
愛称。
複印の片隅に貼られ、式を人のものに見せるための、呼び名。
「貼ったのは、誰」
私の声は静かだった。
凛の“見え方”が式を呼び、朝倉の“正しさ”が式を組み、狐面が拍をずらし、王都が紙を働かせた。
その上で、誰かが“サラ”と書いた。
王都の文官印の隣、小さく、しかし癖のある筆跡。
私はそこに、遠い日――婚約の夜の、裏の囁きを聴いた。
「見つける」
私が言うと、朔弥は即座に頷いた。
「剝がす。呼び名を。貼った手を、連れ出す」
「三日目までに」
「毎日、選び直して」
「選び直して、同じところに戻る」
面がわずかに傾く。
夜が、ひとつ息を吐いた。
写字生の筆音が、遠くでまだ続いている。
紙が働く。
灯が寄る。
拍が合う。
私は結び目を軽く押し返し、胸の内で、自分の名を呼んだ。
――更。
返事は、もう迷わない場所から返ってきた。
(つづく)
石畳の向こう、門前にはもう列ができていた。写字生(しゃじしょう)たちの肩先が月光を受けて白く、彼らの背にぶら下がる木簡がさやさや音を立てる。その背中の拍は、王都の事務の匂いがする――乾いた紙と、火を落とした後の灰。
「配置、最終確認」
真朱が両手を叩く。
「Ⅰ『名の儀』は斎庭の白布。見学者は半円。写字生は中央通路。
Ⅱ『拍の儀』は回廊。羽根が合図を出して歩幅を合わせる。
Ⅲ『灯の儀』は契り堂前。紙と灯の交差を写す」
「連れ出し劇の“本丸”は?」
私が問うと、真朱は顎で影廊下の奥を示した。
「写字生控え所。凛を“仕事で”引き寄せる。――『学院の牙・第二稿(公開案)』をその場で改稿するの」
「仕事の匂いを強く」
朔弥が面の下で言う。
「“見え方”の外側に、歩幅の合う道を敷く。お前は“名”で敷け。俺は“守り”で囲う」
「うん」
鐘が一度、空に落ちた。
門が開く。
写字生たちが、静かな拍で流れ込む。白と黒の衣、腰の筆差し、細い目の底に眠る好奇心。
先頭の文官が挨拶を整え、紙の受け渡しの式を短く済ませる。
「『学問の儀』、写しの許可を賜る」
彼の声が終わると同時に、灯が一段上がった。学院が“働く”と決めたときの、骨の音。
Ⅰ『名の儀』。
私は白布の上に立ち、凪の店から届いた白檀の香を薄く巡らせた。香は恐れを“嗅ぎ分ける”――皿の縁を滑らかにする。
「呼び名と真名。切り替えの手順を公開する」
私が「更」と名乗り、「更紗」を受け取り、また「更」に戻す。
拍を乱さず、線を切らず、怖れが生まれる前に通す。
写字生たちの筆が、紙の上で一斉に小さく鳴った。規則的で、気持ちのいい音。
列の端で、王都の文官が僅かに頷く。
(――来い)
心の中で、まだ名を呼ばない誰かに向けて、私は無言の手紙を折った。
Ⅱ『拍の儀』。
羽根の少年が、回廊で足音を刻む。写字生がその後ろに続き、半歩遅れ、半歩早れを繰り返しながら、徐々に合う。
「拍は、相手の呼吸に触れる方法です」
真朱の声が回廊の梁に柔らかく反響する。
「“全員に合わせる拍”は誰にも届かない。だから、目の前の拍に合わせる」
写字生の列に、笑いが一つだけ生まれた。堅い笑いではない。肩先の緊張がほどける音。
Ⅲ『灯の儀』。
契り堂の前で、私は紙を灯にかざす。
「紙は働く。働く紙は、人のためにある。……式を人のために使う」
白布の上に『学院の牙・第二稿(公開案)』が置かれ、最初の一行が月光で薄くきらめく。
> 一、学院は「名」を守る場である。
写字生が一斉に座し、写しを始める。
控え所の戸が開放され、紙と人の流れができる。
そこへ――白い気配が近づいた。
白檀。
凪の香ではあるが、凪が抱え込まない温度。
私は振り向かない。振り向く前に、拍をひとつ置く。
(来た)
足音は軽い。整いすぎているのに、生活の塵が微かに混じる。
「――招致に応じました。朝倉・凛」
控え所の横で声がして、写字生たちの筆が一瞬止まり、すぐ再開した。職人たちは驚きより仕事を優先する――正しい信頼。
凛は控え所の長机の端に席を取り、あっという間に仕事の場を整えた。筆、紙、文鎮、墨。
彼女は「仕事」の角度でこちらを見た。
「“第二稿”、その場改稿。指示を」
「任せる。――ただし、人を捨てない」
「わかってる」
応答は短く、拍に合う。
真朱がすぐ横へ入り、言葉を骨に変える。
「項の順番、Ⅳを前に。『誤差で式に噛みつく』を二行目に上げて」
「了解」
凛の筆が走る。
整いすぎた線の手前に、今日は薄い揺れがある。それは崩れではない。温度。
私は胸の内で小さく頷いた。
そこへ、音が割り込んだ。
――きん。
風鈴の骨が、わずかに“高すぎる”音で鳴る。
喪の舌が、どこかで灯の縁を舐めた合図。
「南の庇(ひさし)!」
羽根の少年の声が走る。
写字生の列がざわめく前に、私は白布の端へ駆けた。
皿の形に筆をたたみ、凪の香を薄く足し、縁を滑らかにして落とす――はずだった。
影は浅いのに、粘る。
「……違う」
喪ではない。
影墨だ。
式の影が、写字生の紙の裏へ回って、字形を“整え直す”。
「裏写し!」
真朱が叫ぶ。
「表の『人を捨てない』が、裏で『人を束ねる』に――」
凛の筆が止まる。
「仕事を、壊す気?」
声の温度が初めて動いた。
「誰」
私が叫ぶより早く、控え所の奥で乾いた笑い。
狐面。
暖簾も扉もないのに、彼は“場の拍”だけでそこへ立っていた。
「退屈凌ぎの裏打ち。――表が温まると、裏で冷ます人がいる」
「帰れ」
朔弥の声は短い。
狐面は肩をすくめ、写字生の背中を見下ろす。
「紙は働く。だから、人はもっと働く。――みんな大好き、修正の時間だ」
「冗談はやめて」
凛の筆が跳ね、裏へ回り込む影を叩き落とす。
整える手は、裏にも届く。
だが、狐面の“拍”は人の拍をずらす。
写字生の数人が同時に筆を止め、紙の上下を入れ替えてしまった。
「やめて! 表のまま!」
凛の声に、彼らははっと我に返る。
「――“合図”がいる」
私は白布の中央に歩み出た。
「表は、灯。裏は、影。風鈴の高い音は裏、低い音は表」
羽根の少年が即座に理解し、風の角度を変える。
ちりん――低い音。
紙が一斉に正位置に戻る。
狐面が舌を鳴らす。
「舞台、上手」
「裏方は黙って」
真朱が冷たく言い捨て、凛へ視線を戻す。
「続けて。――『誤差で式に噛みつく』の文尾に選び直すを足して」
「“毎日、選び直す”」
凛の線が柔らかくなる。
「更、印を」
朔弥が低く促す。
私は頷き、契り堂の朱を極細に解いた“守りの粉”を、定義の末尾にごく僅か散らした。
灯がそこだけ薄く金を帯び、影墨が寄り付けない。
狐面は、面の口を少し下げた。
「舞台、飽きた」
「じゃあ、終演」
真朱が手を打つ。
「写しは控え所へ移動。――閉じ」
控え所の簾が下り、紙の流れが内へ収まる。
狐面は簾の向こうを覗くふりをして、私へ視線を戻した。
「君、呼び名の剝がしに動くんだろう?」
「動く」
「誰の愛称を、どの複印から?」
喉の奥が、ひとつ強く鳴った。
――まだ、言えない。
凪の匂いが、遠くから「焦らないで」と肩を撫でる。
「“仕事”が呼ぶ順から、剝がす」
私が答えると、狐面はつまらなそうに袖を払った。
「正しい。――退屈でも、正しい」
狐面が消えると、空気の張りがひとつ緩んだ。
控え所の簾が上がり、改稿された第二稿が写字生の手で次々と増殖していく。
凛は筆を置き、こちらを見た。
「“連れ出し劇”、成功。――でも、まだ観客席に半分いる」
「半分でいい」
朔弥が面の下で笑う。
「明日、もう半分を“仕事”で連れてくる」
凛は軽く頷き、紙束を抱えた。
「学問の儀、続行。――『見え方』の授業、わたしが一限やる」
「講師料は?」
真朱が笑う。
「朝に」
揃った三人の声が重なり、私まで笑ってしまった。
人の波が引き、夜はさらに薄くなる。
私と朔弥は斎庭の端に立ち、しばし言葉を失っていた。
「疲れた?」
「ちょっと」
「ちょうどいい?」
「……もう、それはやめようか」
面の下の息が、苦笑に変わる。
「やめる。――代わりに言う。よくやった」
言われ慣れない言葉に、胸の内側がきゅっと鳴った。
「あなたも」
「俺は、お前が前に立つから、側に立てる」
「それ、反則」
「契りの台詞だ」
結び目が、あたたかく脈を打つ。
そのとき、影廊下の端で、小さな靴音が跳ねた。
凪の店の使いの子が、紙包みを抱えて駆け込んでくる。
「桂木さま! 王都からお急ぎの手形! 複印の愛称一覧、写字生が写して持参!」
胸が高鳴る。
「開けて」
封を切る。紙の匂い。
一覧の中に、見覚えのある、しかし正式文書ではありえない呼び名があった。
――サラ。
“更”でも“更紗”でもなく、サラ。
愛称。
複印の片隅に貼られ、式を人のものに見せるための、呼び名。
「貼ったのは、誰」
私の声は静かだった。
凛の“見え方”が式を呼び、朝倉の“正しさ”が式を組み、狐面が拍をずらし、王都が紙を働かせた。
その上で、誰かが“サラ”と書いた。
王都の文官印の隣、小さく、しかし癖のある筆跡。
私はそこに、遠い日――婚約の夜の、裏の囁きを聴いた。
「見つける」
私が言うと、朔弥は即座に頷いた。
「剝がす。呼び名を。貼った手を、連れ出す」
「三日目までに」
「毎日、選び直して」
「選び直して、同じところに戻る」
面がわずかに傾く。
夜が、ひとつ息を吐いた。
写字生の筆音が、遠くでまだ続いている。
紙が働く。
灯が寄る。
拍が合う。
私は結び目を軽く押し返し、胸の内で、自分の名を呼んだ。
――更。
返事は、もう迷わない場所から返ってきた。
(つづく)



