学院の灯が、まるで私たちの歩幅を覚えているかのように前へ前へと移っていく。
 夜の下り坂は、王都へ続く石畳と合流する手前で、いったん陰の溜まり場になる。そこだけ、風鈴が鳴らない。鳴らないのは、音が息を潜めているからだ――音が嫌う匂いが立っている。

 白檀。
 落色を鈍らせる、凪の店の匂い。

 「ここからは学院の結界が薄い」
 朔弥が面の下で息を整え、私の手首の朱を軽く押した。
 「離れない」
 返す前にそう言える自分が、少しだけ不思議だった。怖いには違いないのに、怖さの居場所を知っている。皿の底に置いて、ひっくり返さない場所に。

 薬舗は、薄い青の暖簾を半分だけ下ろしていた。
 風鈴がひとつ、入口の陰にぶら下がり、鳴らないまま月光を集めている。
 戸の隙間から白檀の筋が伸び、夜の空気の中で細い川を作っていた。細い川は、奥へ奥へと誘う。

 「……入る」
 暖簾に手をかけると、からん、と乾いた金属音が店内へ転がった。
 棚には瓶と紙包み。粉末と葉、石と貝。ガラスの向こうに、夜を閉じ込めたような暗い瓶。
 その間を縫うように、凪が立っていた。
 いつも通りの白い割烹着。いつも通りの低いまとめ髪。いつも通りの、狐を思わせる目じり。
 けれど、目の底が違っていた。遠くを見る目を、近くへ戻さないまま、私たちを見た。

 「いらっしゃい」
 声は、店の灯と同じ温度だった。
 「夜に薬を買いに? それとも――話を」
 「凪」
 私は名を呼んだ。
 「狐面の“演者”を、ここで見た子がいる。……あなたの店に“拍”が残っていた」

 凪は、ほんの少しだけ息を止め、それから笑った。
 「“拍”なんて大層なものじゃないよ。ここは路地の角だもの。いろんな人が、ここを通り道にする」
 「通したんだね」
 「薬を、ね」
 彼女は棚の一番上に手を伸ばし、小瓶をひとつ下ろした。
 透明な瓶の中で、粉が月光を受けて静かに沈む。
 「これ、“影持ち”を長くする。舞台の外にいる人が、舞台の縁に立つための――足場に塗る粉」
 「あなたが渡した?」
 「わたしの店で買っていった。誰がとは、言えない。店は“誰の側”にも立たないから」
 凪の言い方は、いつだってまっすぐで、そしてずるい。
 私は棚と棚の隙間を見た。覗くと、奥の間へ続く狭い廊下。その奥に、囲炉裏の低い灯りが覗いている。

 「凪」
 朔弥が静かに口を開いた。
 「狐面の拍は、学院でも、王都でもない。……お前の店に通う常連の息継ぎに似ている。混ぜたな」
 凪は肩をすくめ、瓶の栓を親指で押し出した。ふわりと立つ白檀と、別の甘い匂い。
 「混ぜていないよ。“整えた”の。匂いは道。道は人の足跡。足跡を延ばすのは、店の仕事」
 「誰の足跡を、延ばしたの」
 私が一歩、踏み込む。
 「私?」
 「私の名を呼ぶ、誰かの」

 店の奥で、拍子木が一回、短く鳴った。
 店の音ではない。外の音でもない。
 “演目開始”の合図。
 凪は目を細めた。
 「――ほら。あなたが呼ぶから、来た」

 暖簾の向こう、戸の影から、狐面が滑り込むように入ってきた。
 舞台の上で見たのと同じ仮面。
 ただひとつ違うのは、面のひもに結ばれた白檀の短い房。店の香が、狐面の周りに薄い膜を作っている。

 「ようこそ、夜の店先へ」
 やわらかな声。
 ここで聞くと、舞台の上よりも人間に近い響きがする。
 「会長、きみはいつでも舞台を嫌う。だから好きだ。――更」
 面がこちらを向く。
 「君は“呼べる”。呼ぶ人だ」
 「呼びたくて呼んでない」
 「呼ばれたがってる方が、よく来る。名は、呼ばれたがる」
 狐面は棚の間を通り、カウンターの前に立った。
 凪は「代金は先」とでも言うように無言で小さな秤を置く。
 狐面は袖から薄い袋を取り出し、秤に乗せた。袋は重さに対して不釣り合いなくらい澄んだ音を立てる。
 「金を撒きに来たわけじゃない」
 朔弥が一歩、前へ出る。
 「なら、言葉を」
 凪が穏やかに重ねる。
 狐面は、一瞬だけ面の口を上げ、それから私を見た。
 「――更。君の皿に乗せたい“残り”が、もうひとつある」
 「いらない」
 反射で返した自分の声が、思ったより落ち着いていた。
 「返された“残り”は、もう眠ってる。モノヱは、器になった」
 「これはモノヱの残りじゃない。――君の婚約の夜に、君の名を二度呼んだ声の片方」
 喉が、ふっと痛んだ。
 「二度?」
 「会場で公(おおやけ)に呼ばれたのは、“式の声”。もう一度、裏で私的に、君の名を呼んだ手がある」
 朔弥の気配が、背中でわずかに変わった。
 「誰だ」
 「わからない?」
 狐面は楽しそうに首を傾げ、凪の秤から袋を取り上げた。
 「朝倉は、式の声しか使えない。……残る手は、整える側」
 「書記局の“整え”? でも、上級生は――」
 「彼女は“整えるけれど捨てない”人だ」
 面の口が、少しだけ笑った。
 「“捨てる整え”をする手が、もう一人いる」

 凪が棚を回り込み、店の奥の襖に手をかけた。
 「見ないで話すのは、私の趣味じゃない」
 襖が横に滑り、低い囲炉裏の部屋が現れる。
 座卓の向こう、灯の陰で、誰かが座っていた。
 指先が綺麗すぎるほど綺麗で、掌に一切の墨がない。白い指。
 顔を上げる。
 ――書記局の副局長・朝倉。
 いいや、違う。
 瞳の色が半分違う。
 片方が朝倉と同じ灰。片方が、淡い琥珀。
 「……朝倉 凛」
 凪が名を呼ぶ。
 「朝倉の妹よ。学院には籍がない。“整え”を仕込まれた、影の手」

 沈黙が、瓶の隙間を落ちていった。
 朝倉――凛は、膝の上で指を重ねる。
 整いすぎた指。整いすぎた息。
 「はじめまして」
 声は兄より柔らかい。けれど、芯は兄と同じ硬さを持っている。
 「君が――更、ね」
 「あなたが、“もう一つの”整える手」
 「“もう一つ”?」
 凛の唇が、わずかに笑みに曲がる。
 「ううん。先――朝倉の“正しさ”より先に、私があった」
 「先?」
 狐面が棚にもたれ、軽く指で数拍を刻んだ。
 「物語の種明かし。――正しさは、いつも“後付け”に見える。けれど、整えは先に来る。紙を揃え、癖を消し、手順を作る。式を呼ぶ前に、“世界の見え方”を決めてしまう」
 凛はうなずいた。
 「兄は式。私は見え方。……君の婚約の夜、見え方を整えたのは私」
 喉が乾く。
 「見え方、を?」
 「君が、王都の会場で**“女子であることを隠した”――そう見えるように。事実はどうあれ、見え方が式を呼ぶ」
 壁の向こうで、夜の猫が遠く鳴いた。
 朔弥が、面の紐を押さえたまま、一歩だけ前へ出る。
 「目的は」
「楔の準備」
 即答。
 凛の声は、兄より残酷に正直だった。
 「“楔二”(人と妖)で均衡を測る計画。……式は、誰かの見え方に乗って生まれる**。だから、君の“女子であることを隠した”という見え方が必要だった」
 「私を、隠す人にした」
 「違う。隠させた人にした」
 言葉の角が、皮膚に刺さる。
 「……凪」
 私が呼ぶと、従姉は目だけこちらに寄越した。
 「あなたは知ってたの?」
 「知ってた。半分だけ」
「半分?」
 「“見え方”を整える匂いを頼まれた。仕事として。……でも“式”の中身までは、知らないようにした」
 凪は白檀の瓶をそっと置き、両手をカウンターに添える。
 「店は“側”に立たない。けれど、“人”はどちらかに傾く。――だから私は、今、更の“側”に傾く」
 狐面がひゅうと口笛を吹き、肩をすくめた。
 「舞台の上で中立を気取るのは、退屈だからね」
 「あなたはどちらの側」
 私が問うと、面は軽く首を振った。
「拍の側。――“誰かが誰かの拍に合わせようとする”方」
 わかったような、わからないような。
 けれど、“わからない”を皿の底に置いておけるくらいには、今夜の私には器があった。

 「凛」
 朔弥が、面の奥で名を呼ぶ。
 「学院に来い。公開で話せ」
 「行ってもいい。見え方を学問として示すのは、嫌いじゃない」
 「なら――」
 「でも、王都が私を必要としてる。写しの仕事が、山ほどあるから」
 凛はさらりと立ち上がった。
 立ち上がる所作まで、整いすぎている。
 「君たちの『学院の牙』の文も、もう写されてる。写しは広がる。広がれば、見え方が変わる」
 「それは、あなたの望み?」
 「仕事」
 きっぱりと、彼女は言い切った。
 「君たちの言葉が働くのを見るのは、嫌いじゃない。……だから、三日のうちに、私を“連れていける”だけの拍を作って見せて」
 挑発ではなかった。むしろ、淡々とした“依頼”に近い。
 狐面が片手を挙げ、面のひもを弾いた。
 「二幕は閉じ。三幕目は、連れ出し劇。――悪くない」
 凪がため息をつく。
 「面倒な客が増えると、店が荒れる」
 「掃除は得意でしょう」
 凛の目が、ほんの少しだけ笑った。
 その笑みは、兄の整った笑いではなく、生活の端で生まれる、人の笑いだった。

 「帰る」
 凛が襖へ向かった。
 その肩に、私は思わず声を投げた。
 「――婚約の夜、“私的”に私の名を呼んだのは、あなた?」
 凛は足を止めない。
 「違う。私は“見え方”を整えただけ。名は、別の手が書いた。わたしは匂いを足した」
 別の手――
 朝倉(兄)ではない。整える人(上級生)でもない。
 凪でもない。
 狐面? 違う。狐面の拍は借り物だ。
 喉奥で、か細い糸が、別の糸と絡む音がした。
 「ヒント」
 凛が襖を半分閉めたところで、片目だけこちらへ向けた。
 「王都は、影の複印に愛称をつけたがる。式を人に見せるために。……誰かの“呼び名”を、複印に貼るのが流行している」
 襖が閉じ、白檀がひとつ息を吐いた。
 狐面が肩を竦め、手を振った。
 「じゃ、わたしは裏方へ」
 面が暖簾の影に吸い込まれ、夜へ溶けた。
 店に残ったのは、私と朔弥、凪の三人。

 「……“愛称”」
 私は指先で朱の結びを撫でた。
 「真名じゃない、“呼び名”。複印に貼る。……“モノヱ”みたいに」
 「“モノヱ”は“ものの残り”。呼び名を器にして喪を落とせた」
 朔弥が頷く。
 「王都は、人を器にする“呼び名”を、複印に貼っている――喪に近い発想だ」
 凪が棚を片付けながら言った。
 「呼び名は便利。式の流通に乗る。名前の角がとれて、誰でも扱えるようになる」
 彼女は瓶をもうひとつ手に取り、蓋を閉める。
 「更。――“呼び名に貼られているあなた”を、剝がす必要がある」
 「剝がせる?」
「剝がせる。貼り方を知れば、剝がし方もわかる」
 凪の言葉は、店の棚のように安定していた。
 「貼ったのは王都。剝がすのは学院。……三日では足りないかもしれないけど、毎日はある」
 毎日。
 選び直せる単位。
 私はうなずいた。
 「ありがとう、凪」
 「代金は朝でいい」
 従姉の言いぐさに、思わず笑う。
 「それ、学院で流行中よ」
 「じゃあ、店でも流行に乗る」
 凪の笑いは短く、温かった。

 店を出ると、坂の上に薄い白が浮いていた。
 学院へ戻る道は、行きより風があった。
 白檀の香りが背後に遠のき、学院の灯の匂いが戻ってくる。
 歩きながら、私は問わずにいられなかった。
 「朔弥」
 「なんだ」
 「“連れ出し劇”――凛を学院の舞台に連れてくる。どうやって」
 「拍を作る」
 即答だった。
 「“見え方”の外に、歩幅の合う道を通す。……お前が“名で道を作る”。俺が“守りで道を囲う”。真朱が“式を言葉に変える”。灯が合いの手を入れる」
 「それで、来ると思う?」
「“仕事”が、そっちのほうが早いと思えば、来る」
 面の下で、声が笑った。
 「“正しい人”ほど、仕事に正直だ」
 そうだ。さっき、確かにそう思った。
 “仕事”という言葉でしか自分を許せない人たちがいる。
 なら、そこに道を作ればいい。
 牙で噛みちぎるのではなく、牙で杭を打って、橋を渡す。

 学院の門が近づく頃、夜はさらに薄くなっていた。
 影廊下に灯が入り、見張りの生徒が二人、小さく背筋を伸ばす。
 正門脇の掲示板に、白い紙が張り出されているのが見えた。
 「王都告示?」
 近づくと、それは“写字生の招致”だった。
 > 本夜より三夜、学院にて「学問の儀」写しを行う。
 > 見学可。ただし所作を乱すべからず。
 > 王都写字生一行
 文字は冷たいのに、紙からは不思議に温い匂いがした。
 凛――朝倉の妹の匂いにも、兄の影墨にも似ない、仕事の匂い。
 「世論が、働き始めた」
 朔弥が短く言った。
 「言葉が紙で、紙が人で、人が灯で――働く」
 私は掲示を見上げ、胸の奥で何度も頷いた。

 生徒会室に戻ると、真朱が机に頬杖をつきながら待っていた。
 「遅い。……で?」
 「“整える手”がもう一人。朝倉・凛。王都の“見え方”を仕立てる仕事」
 真朱の目が強くなる。
 「いい名前。刃になる」
 「刃?」
 「“凛”は、冷えた空気で形を保つ。式は、冷えたところでよく切れる。……でも、温度を与えれば、鈍る」
 彼女は机から立ち上がり、用意していた紙束を持ち上げた。
 一枚目には、太い字でこう書いてある。
 > 学院の牙 第二稿(公開案)
 > Ⅰ:名の儀――呼び名と真名の切り替えの公開手順
 > Ⅱ:拍の儀――歩幅を合わせる訓練の公開
 > Ⅲ:灯の儀――世論(見学者)と写字生の導線設計
 「“見え方”に温度を足すの。見学と写しを儀にして――熱を通す」
 羽根の少年が窓からひょいと顔を出し、指で円を作った。
 「門の外、もう列できてる。見学の人と、写字生」
 早い。
 紙が働く速度は、風に乗ると速い。
 「――始めよう」
 私の口が先に動いた。
 「“連れ出し劇”の準備を」
 朔弥の面が、わずかにこちらへ傾く。
 「側にいる」
 「うん」

 机に筆が並び、灯が上がり、紙が音を立てて積まれる。
 外では、写字生の靴音が石畳に規則的な拍を刻み始めていた。
 拍が増える。
 見え方の外に、拍を通す。
 その拍に、人を通す。
 その人の上に、言葉を通す。
 その言葉を、紙に宿す。
 紙は、誰かの手に渡り、働く。

 結び目が、とくん、と一度、大きく鳴った。
 私は指で押し返し、呼吸を整えた。
 「――やれる」
 「やる」
 私と朔弥の声が重なったとき、廊下の向こうで白檀が微かに香った。
 凪が、店から風に乗せて送り込んだのだ。
 「道を作ったよ」――そんなふうに鼻先をくすぐる。

 狐面の拍が、遠くでひとつ、笑った気がした。
 ――三幕目へ。
 呼び名を剝がす、連れ出し劇。
 舞台も道も、灯も紙も、人のために。
 学院の牙は、ただ噛みつくだけじゃない。
 噛み跡を、道標に変える。

(つづく)