拍が揃っていた。
 足裏が瓦を掴み、板の目を数え、角に指先をかけるたび、学院の骨が私たちを押し出してくれる。灯は人の速さに合わせて呼吸を変え、風鈴は背中を追いかけるように鳴った。

 斎庭の端に差し掛かると、白布の海がゆるやかに波を作っていた。波の端に、筆を胸に抱えた朝倉が立つ。彼の周囲では、書記局の生徒が十名ほど、黙って列を整えていた。列は美しい。だが、その美しさは冷たい硝子のように、風を拒む。

 「公開の場を好むんじゃなかったの?」
 真朱が一歩進み、皮肉を隠さずに言う。
 朝倉は薄く笑った。
 「好むよ。正しさは、光の下でこそ輝く」
 「その光で、誰かが見えなくなるとしても?」
 「光が弱いと、もっと見えなくなる」

 言葉は、刃の背で撫でるみたいに滑らかだった。
 私は斎庭の白布に足を乗せ、深く息を吸う。ここは舞台であり、道であり、儀の場。今日、学院は“牙”を言葉で見せた。なら、ここからは“噛み跡”を残す番だ。

 「朝倉副局長」
 私が名を呼ぶと、彼の目がすっとこちらを映した。
 「均衡式・第八稿。楔を一つに減らし、“妖”を会長に確定する――そう記されていたわ」
 「虚偽だ」
 即答。だが筆先が、わずかに泳いだ。
 「どこが?」
 「“確定”ではない。“提案”だ」
 「提案を隠した?」
 「隠してはいない。整えた」
 「整えた先に、人は残った?」
 沈黙。
 朝倉の背後で、書記局の列がほんのわずかに緊くなる。正しい前提を守るための沈黙は、時に言葉より雄弁だ。

 朔弥が、面の下で息をひとつ置いた。
 「提案を“式”にするには、押印がいる。誰の血だ」
 「局長の――だった」
 「だった?」
 「彼は、今日、剝がした。人に戻った」
 朝倉の声音に、微かにひっかかりが混じる。
 「均衡は、人から離れると腐る。――なら、人に戻せばいい」
 「戻した先で、誰を沈めるの?」
 私の問いに、彼は目を伏せ、すぐ上げた。
 「沈む者が出るのは事実だ。だが、“どこか”の誰かが沈むのと、誰か一人を“楔”にするのは、同じ結果だ」
 「違う」
 言い切る私の声は、自分の体のサイズより大きかった。
 「“どこか”は誤魔化し。“誰か”は指差し。どちらも卑怯。――だから、指は自分に向ける。『守る』って、そういうこと」
 白布の波が一枚、静かに返る。
 朝倉は筆を握り直した。指先の節がわずかに白む。
 「君は勇敢だ。だが、勇敢さは均衡を破る」
 「破れない均衡なんて、とうに破綻してる」
 「言葉が強すぎる」
 「あなたの“式”よりは、弱い」

 彼の目が僅かに細くなり、筆先が白布の端を撫でた。
 墨はついていない。だが、影墨は匂いで分かる。
 「――“第八稿”、公開添削を始める」
 朝倉の背の列が、音もなく形を変え、斎庭の四隅に散った。四角。その角が、布の下を流れる灯の骨に一致する。
 式を、ここで動かすつもりだ。

 朔弥が私の手首の朱に触れ、結び目を軽く押した。
 「更、離れるな」
「離れない」
 「俺の“守り”は、今ここにある」
 「私の“名”は、今ここにいる」
 短い呼吸の交換が終わった瞬間、四隅の角が同時に薄く光った。
 白布の下で、灯の骨がわずかにきしみ、風鈴の音程が半音落ちる。
 ――式が、入ってくる。

 真朱が即座に指示を飛ばす。
 「羽根! 東の角の風筋を変えて! 灯は下げず、骨だけ立て直す!」
 「了解!」
 羽根の少年の羽ばたきが起こす風が、白布の下へ潜り込んで骨をこね、音を上向かせる。
 私は細工筆を抜き、白布の表面に薄い“縁”の線を走らせた。
 式は、縁を嫌う。外側から固めると、内側で自壊する。
 「“均衡式・第八稿”は、公開されていない。公開されない式は、学院の式じゃない」
 その言葉は、朝倉の筆より早く布に届いた。
 彼の足元で、影がわずかにうねる。

 「君は言葉で噛みつく」
 朝倉が静かに言う。
 「なら、私は“式”で包む」
 筆先が見えない墨をすくい、白布の中央に小さな点を置く。点はすぐさま四方へ走り、細い罫を作った。
 ――“楔一”。
 文字にならない設計図が、白布の内側で立ち上がる。
 「“楔”は、なるべく概念に近い者が適切だ。狐王家の半妖、東雲朔弥。君は人でもあり、妖でもある。式は、君を選ぶ」
 「式が選ぶなら、俺は選ばない」
 朔弥の声は低く、硬い。
 面の下で、何度も噛み直した言葉だと分かる確度。
 「俺が選ぶのは――更の側だ」
 朝倉の視線が、わずかに揺れた。
 「“側”にいるという言い回しは、楔の初期定義に似ている」
 「似ていない。楔は“固定”だ。側は“選び直せる”」
 私は前へ半歩出た。
 「毎日、選び直す。――契りは、本当はそれだけの話」

 白布の中央、朝倉の点がもう一段、濃くなる。
 影墨の匂いが強まった。
 列の四隅から、書記局の手がわずかな拍で罫を足す。
 式の骨が、灯の骨に重なりかける。
 骨は骨を嫌う。重なれば、片方が折れる。
 「折らせない」
 私は布の端へ駆け、指で布をすくって波を作った。
 波は骨をよけ、わずかに角度を変える。
 羽根の少年の風がその波を受け、真朱が音の拍を上げ、朔弥の結びが脈を合わせる。
 ――学院の拍。
 式は、拍の外側で滑った。

 朝倉は一度、筆を止めた。
 「……強い」
 評価の声だった。
 「君たちの“拍”は強い。だが、強い拍は特定の人にしか合わせられない」
 「それでいい」
 私は即答した。
 「“全員に合わせる拍”は、誰にも届かない」
 「届かない声が、誰かを殺す」
 「届く声が、誰かを守る」

 ふいに、白布の端から別の拍が立ち上がった。
 ――狐面。
 あの“演者”が、斎庭のさらに外側、灯の薄いところに立っていた。
 「舞台、舞台。二幕目」
 面の口が笑い、袖が翻る。
 「会長、君の“楔”の噂、王都でも可愛いって評判だよ」
 「帰れ」
 朔弥の声は冷たく、短い。
 狐面は首をすくめ、朝倉と私たちを交互に見渡した。
 「式と牙。いいね。……ひとつ、退屈を紛らわせてあげる。喪を足す」
 言い終えるのと同時に、白布の下で風鈴の骨が鳴いた。
 薄闇から、濡れた紙のような影が三つ、縁を舐めるように滑り込んでくる。
 喪神。
 整えられた式は、喪に弱い。理由は簡単だ。式は“異物”を想定外に置くから。
 朝倉の筆先が、一瞬だけ迷った。
 その迷いは、きれいな手には致命的だ。

 「更、皿を」
 朔弥の声が背骨に通る。
 「うん」
 私は風鈴を胸の前で鳴らし、筆を皿の形にたたんだ。
 “モノヱ”で覚えた呼吸。
 皿は残りを受ける器。
 喪は残り。
 白布の波をほんの少し深くして、影の舌を皿へ落とす。
 ひとつ、ふたつ。
 第三の影が皿の縁で暴れ、縁がささくれ立つ。
 「っ……!」
 指先が痺れ、皿が割れかける。
 朔弥の手が、私の手首の朱を軽く叩いた。
 拍が戻る。
 縁が滑らかになる。
 影が落ちる。
 ――呼吸が、私たちを通って式の外へ抜けた。

 狐面が、面の口を楽しそうに開く。
 「綺麗。……舞台の“演目”、完成間近」
 「演目なら、終演だ」
 真朱が言い捨て、手を打った。
 四隅に控えた学院の教員たちが、一斉に白布の端を取る。
 「“学問の儀”はここまで。――閉じ」
 布が、静かに、だが確実に降りる。
 式は“公開”を失い、立脚点を見失う。
 朝倉の影墨は、布の内側で薄い霧になって散った。
 狐面は肩をすくめ、退屈そうに手を振る。
 「じゃあ、裏方に回るよ」
 その声が溶ける直前、妙な違和感が喉を過ぎった。
 ――この狐面の拍、知ってる。
 どこで?
 “整える人”の拍でも、朝倉の拍でもない。
 もっと私的な、店先の拍。
 凪の、店。
 思考がそこまで辿り着いた瞬間には、狐面はもう灯の間へ滑り、消えていた。

 白布が降り、喧噪の余韻で空気がざわつく。
 朝倉は筆を袖に戻し、静かに一礼した。
 「学問の儀、了。……均衡は、明日も並び直す」
 「並び直すときに、“人”を捨てないで」
 私が言うと、彼は答えなかった。
 答えの代わりに、筆箱の金具がひとつだけ鳴った。

 人の流れが去り、斎庭に残ったのは私と朔弥、真朱と羽根の少年、それから書記局の上級生だけだった。
 「狐面の拍、分かった?」
 真朱が低く尋ねる。
 「……半分だけ。まだ確信できない」
 「確信になったら、先に言って」
 「うん」

 面の紐に触れながら、朔弥が近づく。
 「更」
 呼ばれるたび、返事の位置が近くなる。
 「――ありがとな」
 「何に?」
 「俺が“楔”にならない理由を、俺の代わりに言ってくれた」
 「あなたは言える。私は、あなたの言葉を信じる準備をするだけ」
 「そうやって、側は成る」
 面の下の声が穏やかで、胸の内側まで温度が届く。
 結び目が、熱を持って脈打った。
 「返す?」
 問いは、祈りに似ていた。
 「――まだ」
 自分で驚くほど、即答だった。
 朔弥は短く息を飲み、それから小さく笑った。
「困ったな」
 「困って」
 「困って、決める」
 面の端から、薄い金の耳がほんの少しだけ覗いた。
 触れたい、と思った。
 触れたら崩れる、とも思った。
 私は代わりに、自分の手首の朱をふっと押した。
 拍が重なる。
 それで十分だった。

 ***

 夜の半ば。
 私たちは再び契り堂へ向かった。上級生が「整える」と言った朱の層が、どうなったか確かめるためだ。
 扉を開けると、紙の匂いに白檀が混じっている。
 「……凪?」
 思わず口にすると、朔弥が面を傾けた。
 堂の奥、朱の層の前に“整える人”が座っていた。その横に、小さな薬瓶が並んでいる。
 「借りた。香りで落色を鈍らせる」
 「店の匂いがしたから」
 「あなたの鼻は信じられる」
 上級生は短く笑い、朱の縁を指で撫でた。
 「薄く、柔らかく、剝がれる。上塗りの運命」
 「朝倉は?」
 「斎庭の外で、筆を洗ってた。水は澄んで、手はきれい」
 皮肉のない報告に、逆に胸が痛んだ。
 上級生は立ち上がり、私に紙片を差し出す。
 「告白の筆順」
 「こく……」
 言いかけて、飲み込んだ。
 紙片には、見慣れた字の癖で短い文が綴られている。
 > まず「名」を呼ぶ。
 > 次に、「側」を申し出る。
> そして、「選び直す」と誓う。
> 式ではなく、契りで。
 上級生は肩をすくめた。
 「学問も、恋も、手順がいる」
 顔が熱くなった。
 朔弥が面の下で息を飲んだ音が、白檀の香りの向こうでやけに大きく聞こえる。
 「――夜になった」
 彼の声が、丁寧に角を落として落ちてきた。
 結び目に指をかける音がする。
 ほどくのではない。
 結び直す、準備の音だ。

 私は一歩、彼の正面へ出た。
 堂の灯りが、朱の層で柔らかく反射し、面の白を淡く染めている。
 指先が震えないように、拍をひとつ数える。
 「――更」
 自分で、自分を、呼ぶ。
 腹の底に、音が落ちる。
 返事は、胸骨の裏から、はっきり返った。
 「側に、いてほしい」
 言葉は短いのに、重い。
 重さに耐えられるか、試すみたいにゆっくり吐いた。
 「毎日、選び直す。――式じゃなくて、契りで」

 面の下で、息が詰まる音がした。
 数拍の沈黙。
 彼は面に手をかけ、ほんの少しだけ、面を上へずらした。
 あらわになったのは、目の形の半分。
 金の薄い縁取りが、灯を受けて静かに揺れる。
 「更」
 私の名を、彼は同じ角度で呼んだ。
 ――切り口の角度。
 「側にいる。……俺がここにいる限りの守りを、一生に伸ばしたくなる。だから毎日、選び直す。選び直して、同じところに戻る」
 結び目が、ゆっくり、ゆっくり固くなる。
 痛みは、熱に変わった。
 白檀の香りがやわらぎ、紙が息を吐いたように乾いた。
 上級生がそっと視線を逸らし、隅の灯を弱める。
 「――告白、了」
 冷静な声に救われる。
 私たちは笑い、息を吐き、ふっと緊張をほどいた。
 「返す?」
 「返さない」
 「困った」
 「困っていて」
 「……ずっと、困っていよう」

 笑いが、初めて“学問の儀”の外側の笑いになった時、契り堂の外で拍子木の音がした。
 高く、短い。緊急。
 上級生が灯を上げ、私たちは一斉に外へ出る。
 廊下の影に、王都の文官が立っていた。
 「夜の鐘までに、と言った文案。――“学院の牙”の定義を、文に起こしてほしい」
「今?」
 「今。世論が動いている。『学問の儀』の写しを求める書状が、門前に十通。王都の写字生が来る」
 彼の目は疲れていたが、声は静かに熱い。
 「式は、紙で働く。あなた方の言葉も、紙で働く。……紙を、人のために」

 私は頷いた。
 上級生が机を用意し、真朱が骨を置き、羽根の少年が風の邪気を払う。
 朔弥は面を掛け直し、私の背に立った。
 「側にいる」
 「うん」
 筆を取る。
 朱の結びが脈を打つ。
 線は喉。墨は血。
 私は学院の牙を、文にした。

 > 学院の牙 定義草案
 > 一、学院は「名」を守る場である。
 > 二、式は道具であり、式のために人を捨てない。
 > 三、均衡は毎日結び直す契りであって、上塗りで固定しない。
 > 四、誤差(ゆらぎ)を許容し、誤差で式に噛みつく。
> 五、牙は攻撃ではなく、防御の意思――「目の前の人」を守るための選び直しである。

 最後の一行を書いたとき、文官の肩からわずかに力が抜けた。
 「……働く」
 彼は紙を丁寧に封に入れ、深く一礼した。
 「王都で、これを読ませる。――写字生は今夜、門をくぐる」
 彼が去ると同時に、風がひとつ方向を変えた。
 白檀の香りが遠のき、墨の匂いが際立つ。
 私は筆を置き、背後を振り向いた。
 朔弥の面が、夜の灯で柔らかく光っている。
 目は見えないのに、視線の場所が分かった。
 「……疲れた?」
「ちょっと。ちょうどいい」
 「それ、やめない?」
 「やめない」
 笑いながら、私は結び目を指で押した。
 「――三日の猶予、残り二」
 「二でも、毎日はある」
 「ある」
 「なら、選び直せる」
 「選び直す」

 そのとき、渡り廊下の先で“整える人”が小さく手を上げた。
 「報せ。――狐面、店のあたりで見たという子がいる」
 胸の底で合点がいく音がした。
 やはり。
 凪。
 私の従姉。
 彼女の店の拍、彼女の匂い。
 狐面の“演者”は、凪の手を借りていたのか、それとも――。

 「行く」
 自分の声は、怖れより速かった。
 「俺も」
 当たり前のように、隣に足音が立つ。
 「――灯を連れて」
 上級生が言い、真朱が頷く。
 「学院の“牙”は、道にもなる。追い詰めに行くんじゃない。迎えに行くの」
 迎え。
 迎えるための牙。
 それは矛盾していない。
 矛盾を受け止められる器は、皿の形をしている。
 私は、皿を胸の内側に置き直した。
 “更”の切り口は、今夜も通れる。
 通れるなら、届く。
 届くなら、掴める。
 掴めるなら――守れる。

 灯篭の海が、私たちの前に道を開けた。
 狐面の拍が、遠くで薄く笑った。
 私は一歩、踏み出す。
 結び目が、熱く鳴った。
 ――行こう。

(第10話 了/次回「第11話 狐面の店先、或いは凪の秘密」へ続く)