拍が揃っていた。
足裏が瓦を掴み、板の目を数え、角に指先をかけるたび、学院の骨が私たちを押し出してくれる。灯は人の速さに合わせて呼吸を変え、風鈴は背中を追いかけるように鳴った。
斎庭の端に差し掛かると、白布の海がゆるやかに波を作っていた。波の端に、筆を胸に抱えた朝倉が立つ。彼の周囲では、書記局の生徒が十名ほど、黙って列を整えていた。列は美しい。だが、その美しさは冷たい硝子のように、風を拒む。
「公開の場を好むんじゃなかったの?」
真朱が一歩進み、皮肉を隠さずに言う。
朝倉は薄く笑った。
「好むよ。正しさは、光の下でこそ輝く」
「その光で、誰かが見えなくなるとしても?」
「光が弱いと、もっと見えなくなる」
言葉は、刃の背で撫でるみたいに滑らかだった。
私は斎庭の白布に足を乗せ、深く息を吸う。ここは舞台であり、道であり、儀の場。今日、学院は“牙”を言葉で見せた。なら、ここからは“噛み跡”を残す番だ。
「朝倉副局長」
私が名を呼ぶと、彼の目がすっとこちらを映した。
「均衡式・第八稿。楔を一つに減らし、“妖”を会長に確定する――そう記されていたわ」
「虚偽だ」
即答。だが筆先が、わずかに泳いだ。
「どこが?」
「“確定”ではない。“提案”だ」
「提案を隠した?」
「隠してはいない。整えた」
「整えた先に、人は残った?」
沈黙。
朝倉の背後で、書記局の列がほんのわずかに緊くなる。正しい前提を守るための沈黙は、時に言葉より雄弁だ。
朔弥が、面の下で息をひとつ置いた。
「提案を“式”にするには、押印がいる。誰の血だ」
「局長の――だった」
「だった?」
「彼は、今日、剝がした。人に戻った」
朝倉の声音に、微かにひっかかりが混じる。
「均衡は、人から離れると腐る。――なら、人に戻せばいい」
「戻した先で、誰を沈めるの?」
私の問いに、彼は目を伏せ、すぐ上げた。
「沈む者が出るのは事実だ。だが、“どこか”の誰かが沈むのと、誰か一人を“楔”にするのは、同じ結果だ」
「違う」
言い切る私の声は、自分の体のサイズより大きかった。
「“どこか”は誤魔化し。“誰か”は指差し。どちらも卑怯。――だから、指は自分に向ける。『守る』って、そういうこと」
白布の波が一枚、静かに返る。
朝倉は筆を握り直した。指先の節がわずかに白む。
「君は勇敢だ。だが、勇敢さは均衡を破る」
「破れない均衡なんて、とうに破綻してる」
「言葉が強すぎる」
「あなたの“式”よりは、弱い」
彼の目が僅かに細くなり、筆先が白布の端を撫でた。
墨はついていない。だが、影墨は匂いで分かる。
「――“第八稿”、公開添削を始める」
朝倉の背の列が、音もなく形を変え、斎庭の四隅に散った。四角。その角が、布の下を流れる灯の骨に一致する。
式を、ここで動かすつもりだ。
朔弥が私の手首の朱に触れ、結び目を軽く押した。
「更、離れるな」
「離れない」
「俺の“守り”は、今ここにある」
「私の“名”は、今ここにいる」
短い呼吸の交換が終わった瞬間、四隅の角が同時に薄く光った。
白布の下で、灯の骨がわずかにきしみ、風鈴の音程が半音落ちる。
――式が、入ってくる。
真朱が即座に指示を飛ばす。
「羽根! 東の角の風筋を変えて! 灯は下げず、骨だけ立て直す!」
「了解!」
羽根の少年の羽ばたきが起こす風が、白布の下へ潜り込んで骨をこね、音を上向かせる。
私は細工筆を抜き、白布の表面に薄い“縁”の線を走らせた。
式は、縁を嫌う。外側から固めると、内側で自壊する。
「“均衡式・第八稿”は、公開されていない。公開されない式は、学院の式じゃない」
その言葉は、朝倉の筆より早く布に届いた。
彼の足元で、影がわずかにうねる。
「君は言葉で噛みつく」
朝倉が静かに言う。
「なら、私は“式”で包む」
筆先が見えない墨をすくい、白布の中央に小さな点を置く。点はすぐさま四方へ走り、細い罫を作った。
――“楔一”。
文字にならない設計図が、白布の内側で立ち上がる。
「“楔”は、なるべく概念に近い者が適切だ。狐王家の半妖、東雲朔弥。君は人でもあり、妖でもある。式は、君を選ぶ」
「式が選ぶなら、俺は選ばない」
朔弥の声は低く、硬い。
面の下で、何度も噛み直した言葉だと分かる確度。
「俺が選ぶのは――更の側だ」
朝倉の視線が、わずかに揺れた。
「“側”にいるという言い回しは、楔の初期定義に似ている」
「似ていない。楔は“固定”だ。側は“選び直せる”」
私は前へ半歩出た。
「毎日、選び直す。――契りは、本当はそれだけの話」
白布の中央、朝倉の点がもう一段、濃くなる。
影墨の匂いが強まった。
列の四隅から、書記局の手がわずかな拍で罫を足す。
式の骨が、灯の骨に重なりかける。
骨は骨を嫌う。重なれば、片方が折れる。
「折らせない」
私は布の端へ駆け、指で布をすくって波を作った。
波は骨をよけ、わずかに角度を変える。
羽根の少年の風がその波を受け、真朱が音の拍を上げ、朔弥の結びが脈を合わせる。
――学院の拍。
式は、拍の外側で滑った。
朝倉は一度、筆を止めた。
「……強い」
評価の声だった。
「君たちの“拍”は強い。だが、強い拍は特定の人にしか合わせられない」
「それでいい」
私は即答した。
「“全員に合わせる拍”は、誰にも届かない」
「届かない声が、誰かを殺す」
「届く声が、誰かを守る」
ふいに、白布の端から別の拍が立ち上がった。
――狐面。
あの“演者”が、斎庭のさらに外側、灯の薄いところに立っていた。
「舞台、舞台。二幕目」
面の口が笑い、袖が翻る。
「会長、君の“楔”の噂、王都でも可愛いって評判だよ」
「帰れ」
朔弥の声は冷たく、短い。
狐面は首をすくめ、朝倉と私たちを交互に見渡した。
「式と牙。いいね。……ひとつ、退屈を紛らわせてあげる。喪を足す」
言い終えるのと同時に、白布の下で風鈴の骨が鳴いた。
薄闇から、濡れた紙のような影が三つ、縁を舐めるように滑り込んでくる。
喪神。
整えられた式は、喪に弱い。理由は簡単だ。式は“異物”を想定外に置くから。
朝倉の筆先が、一瞬だけ迷った。
その迷いは、きれいな手には致命的だ。
「更、皿を」
朔弥の声が背骨に通る。
「うん」
私は風鈴を胸の前で鳴らし、筆を皿の形にたたんだ。
“モノヱ”で覚えた呼吸。
皿は残りを受ける器。
喪は残り。
白布の波をほんの少し深くして、影の舌を皿へ落とす。
ひとつ、ふたつ。
第三の影が皿の縁で暴れ、縁がささくれ立つ。
「っ……!」
指先が痺れ、皿が割れかける。
朔弥の手が、私の手首の朱を軽く叩いた。
拍が戻る。
縁が滑らかになる。
影が落ちる。
――呼吸が、私たちを通って式の外へ抜けた。
狐面が、面の口を楽しそうに開く。
「綺麗。……舞台の“演目”、完成間近」
「演目なら、終演だ」
真朱が言い捨て、手を打った。
四隅に控えた学院の教員たちが、一斉に白布の端を取る。
「“学問の儀”はここまで。――閉じ」
布が、静かに、だが確実に降りる。
式は“公開”を失い、立脚点を見失う。
朝倉の影墨は、布の内側で薄い霧になって散った。
狐面は肩をすくめ、退屈そうに手を振る。
「じゃあ、裏方に回るよ」
その声が溶ける直前、妙な違和感が喉を過ぎった。
――この狐面の拍、知ってる。
どこで?
“整える人”の拍でも、朝倉の拍でもない。
もっと私的な、店先の拍。
凪の、店。
思考がそこまで辿り着いた瞬間には、狐面はもう灯の間へ滑り、消えていた。
白布が降り、喧噪の余韻で空気がざわつく。
朝倉は筆を袖に戻し、静かに一礼した。
「学問の儀、了。……均衡は、明日も並び直す」
「並び直すときに、“人”を捨てないで」
私が言うと、彼は答えなかった。
答えの代わりに、筆箱の金具がひとつだけ鳴った。
人の流れが去り、斎庭に残ったのは私と朔弥、真朱と羽根の少年、それから書記局の上級生だけだった。
「狐面の拍、分かった?」
真朱が低く尋ねる。
「……半分だけ。まだ確信できない」
「確信になったら、先に言って」
「うん」
面の紐に触れながら、朔弥が近づく。
「更」
呼ばれるたび、返事の位置が近くなる。
「――ありがとな」
「何に?」
「俺が“楔”にならない理由を、俺の代わりに言ってくれた」
「あなたは言える。私は、あなたの言葉を信じる準備をするだけ」
「そうやって、側は成る」
面の下の声が穏やかで、胸の内側まで温度が届く。
結び目が、熱を持って脈打った。
「返す?」
問いは、祈りに似ていた。
「――まだ」
自分で驚くほど、即答だった。
朔弥は短く息を飲み、それから小さく笑った。
「困ったな」
「困って」
「困って、決める」
面の端から、薄い金の耳がほんの少しだけ覗いた。
触れたい、と思った。
触れたら崩れる、とも思った。
私は代わりに、自分の手首の朱をふっと押した。
拍が重なる。
それで十分だった。
***
夜の半ば。
私たちは再び契り堂へ向かった。上級生が「整える」と言った朱の層が、どうなったか確かめるためだ。
扉を開けると、紙の匂いに白檀が混じっている。
「……凪?」
思わず口にすると、朔弥が面を傾けた。
堂の奥、朱の層の前に“整える人”が座っていた。その横に、小さな薬瓶が並んでいる。
「借りた。香りで落色を鈍らせる」
「店の匂いがしたから」
「あなたの鼻は信じられる」
上級生は短く笑い、朱の縁を指で撫でた。
「薄く、柔らかく、剝がれる。上塗りの運命」
「朝倉は?」
「斎庭の外で、筆を洗ってた。水は澄んで、手はきれい」
皮肉のない報告に、逆に胸が痛んだ。
上級生は立ち上がり、私に紙片を差し出す。
「告白の筆順」
「こく……」
言いかけて、飲み込んだ。
紙片には、見慣れた字の癖で短い文が綴られている。
> まず「名」を呼ぶ。
> 次に、「側」を申し出る。
> そして、「選び直す」と誓う。
> 式ではなく、契りで。
上級生は肩をすくめた。
「学問も、恋も、手順がいる」
顔が熱くなった。
朔弥が面の下で息を飲んだ音が、白檀の香りの向こうでやけに大きく聞こえる。
「――夜になった」
彼の声が、丁寧に角を落として落ちてきた。
結び目に指をかける音がする。
ほどくのではない。
結び直す、準備の音だ。
私は一歩、彼の正面へ出た。
堂の灯りが、朱の層で柔らかく反射し、面の白を淡く染めている。
指先が震えないように、拍をひとつ数える。
「――更」
自分で、自分を、呼ぶ。
腹の底に、音が落ちる。
返事は、胸骨の裏から、はっきり返った。
「側に、いてほしい」
言葉は短いのに、重い。
重さに耐えられるか、試すみたいにゆっくり吐いた。
「毎日、選び直す。――式じゃなくて、契りで」
面の下で、息が詰まる音がした。
数拍の沈黙。
彼は面に手をかけ、ほんの少しだけ、面を上へずらした。
あらわになったのは、目の形の半分。
金の薄い縁取りが、灯を受けて静かに揺れる。
「更」
私の名を、彼は同じ角度で呼んだ。
――切り口の角度。
「側にいる。……俺がここにいる限りの守りを、一生に伸ばしたくなる。だから毎日、選び直す。選び直して、同じところに戻る」
結び目が、ゆっくり、ゆっくり固くなる。
痛みは、熱に変わった。
白檀の香りがやわらぎ、紙が息を吐いたように乾いた。
上級生がそっと視線を逸らし、隅の灯を弱める。
「――告白、了」
冷静な声に救われる。
私たちは笑い、息を吐き、ふっと緊張をほどいた。
「返す?」
「返さない」
「困った」
「困っていて」
「……ずっと、困っていよう」
笑いが、初めて“学問の儀”の外側の笑いになった時、契り堂の外で拍子木の音がした。
高く、短い。緊急。
上級生が灯を上げ、私たちは一斉に外へ出る。
廊下の影に、王都の文官が立っていた。
「夜の鐘までに、と言った文案。――“学院の牙”の定義を、文に起こしてほしい」
「今?」
「今。世論が動いている。『学問の儀』の写しを求める書状が、門前に十通。王都の写字生が来る」
彼の目は疲れていたが、声は静かに熱い。
「式は、紙で働く。あなた方の言葉も、紙で働く。……紙を、人のために」
私は頷いた。
上級生が机を用意し、真朱が骨を置き、羽根の少年が風の邪気を払う。
朔弥は面を掛け直し、私の背に立った。
「側にいる」
「うん」
筆を取る。
朱の結びが脈を打つ。
線は喉。墨は血。
私は学院の牙を、文にした。
> 学院の牙 定義草案
> 一、学院は「名」を守る場である。
> 二、式は道具であり、式のために人を捨てない。
> 三、均衡は毎日結び直す契りであって、上塗りで固定しない。
> 四、誤差(ゆらぎ)を許容し、誤差で式に噛みつく。
> 五、牙は攻撃ではなく、防御の意思――「目の前の人」を守るための選び直しである。
最後の一行を書いたとき、文官の肩からわずかに力が抜けた。
「……働く」
彼は紙を丁寧に封に入れ、深く一礼した。
「王都で、これを読ませる。――写字生は今夜、門をくぐる」
彼が去ると同時に、風がひとつ方向を変えた。
白檀の香りが遠のき、墨の匂いが際立つ。
私は筆を置き、背後を振り向いた。
朔弥の面が、夜の灯で柔らかく光っている。
目は見えないのに、視線の場所が分かった。
「……疲れた?」
「ちょっと。ちょうどいい」
「それ、やめない?」
「やめない」
笑いながら、私は結び目を指で押した。
「――三日の猶予、残り二」
「二でも、毎日はある」
「ある」
「なら、選び直せる」
「選び直す」
そのとき、渡り廊下の先で“整える人”が小さく手を上げた。
「報せ。――狐面、店のあたりで見たという子がいる」
胸の底で合点がいく音がした。
やはり。
凪。
私の従姉。
彼女の店の拍、彼女の匂い。
狐面の“演者”は、凪の手を借りていたのか、それとも――。
「行く」
自分の声は、怖れより速かった。
「俺も」
当たり前のように、隣に足音が立つ。
「――灯を連れて」
上級生が言い、真朱が頷く。
「学院の“牙”は、道にもなる。追い詰めに行くんじゃない。迎えに行くの」
迎え。
迎えるための牙。
それは矛盾していない。
矛盾を受け止められる器は、皿の形をしている。
私は、皿を胸の内側に置き直した。
“更”の切り口は、今夜も通れる。
通れるなら、届く。
届くなら、掴める。
掴めるなら――守れる。
灯篭の海が、私たちの前に道を開けた。
狐面の拍が、遠くで薄く笑った。
私は一歩、踏み出す。
結び目が、熱く鳴った。
――行こう。
(第10話 了/次回「第11話 狐面の店先、或いは凪の秘密」へ続く)
足裏が瓦を掴み、板の目を数え、角に指先をかけるたび、学院の骨が私たちを押し出してくれる。灯は人の速さに合わせて呼吸を変え、風鈴は背中を追いかけるように鳴った。
斎庭の端に差し掛かると、白布の海がゆるやかに波を作っていた。波の端に、筆を胸に抱えた朝倉が立つ。彼の周囲では、書記局の生徒が十名ほど、黙って列を整えていた。列は美しい。だが、その美しさは冷たい硝子のように、風を拒む。
「公開の場を好むんじゃなかったの?」
真朱が一歩進み、皮肉を隠さずに言う。
朝倉は薄く笑った。
「好むよ。正しさは、光の下でこそ輝く」
「その光で、誰かが見えなくなるとしても?」
「光が弱いと、もっと見えなくなる」
言葉は、刃の背で撫でるみたいに滑らかだった。
私は斎庭の白布に足を乗せ、深く息を吸う。ここは舞台であり、道であり、儀の場。今日、学院は“牙”を言葉で見せた。なら、ここからは“噛み跡”を残す番だ。
「朝倉副局長」
私が名を呼ぶと、彼の目がすっとこちらを映した。
「均衡式・第八稿。楔を一つに減らし、“妖”を会長に確定する――そう記されていたわ」
「虚偽だ」
即答。だが筆先が、わずかに泳いだ。
「どこが?」
「“確定”ではない。“提案”だ」
「提案を隠した?」
「隠してはいない。整えた」
「整えた先に、人は残った?」
沈黙。
朝倉の背後で、書記局の列がほんのわずかに緊くなる。正しい前提を守るための沈黙は、時に言葉より雄弁だ。
朔弥が、面の下で息をひとつ置いた。
「提案を“式”にするには、押印がいる。誰の血だ」
「局長の――だった」
「だった?」
「彼は、今日、剝がした。人に戻った」
朝倉の声音に、微かにひっかかりが混じる。
「均衡は、人から離れると腐る。――なら、人に戻せばいい」
「戻した先で、誰を沈めるの?」
私の問いに、彼は目を伏せ、すぐ上げた。
「沈む者が出るのは事実だ。だが、“どこか”の誰かが沈むのと、誰か一人を“楔”にするのは、同じ結果だ」
「違う」
言い切る私の声は、自分の体のサイズより大きかった。
「“どこか”は誤魔化し。“誰か”は指差し。どちらも卑怯。――だから、指は自分に向ける。『守る』って、そういうこと」
白布の波が一枚、静かに返る。
朝倉は筆を握り直した。指先の節がわずかに白む。
「君は勇敢だ。だが、勇敢さは均衡を破る」
「破れない均衡なんて、とうに破綻してる」
「言葉が強すぎる」
「あなたの“式”よりは、弱い」
彼の目が僅かに細くなり、筆先が白布の端を撫でた。
墨はついていない。だが、影墨は匂いで分かる。
「――“第八稿”、公開添削を始める」
朝倉の背の列が、音もなく形を変え、斎庭の四隅に散った。四角。その角が、布の下を流れる灯の骨に一致する。
式を、ここで動かすつもりだ。
朔弥が私の手首の朱に触れ、結び目を軽く押した。
「更、離れるな」
「離れない」
「俺の“守り”は、今ここにある」
「私の“名”は、今ここにいる」
短い呼吸の交換が終わった瞬間、四隅の角が同時に薄く光った。
白布の下で、灯の骨がわずかにきしみ、風鈴の音程が半音落ちる。
――式が、入ってくる。
真朱が即座に指示を飛ばす。
「羽根! 東の角の風筋を変えて! 灯は下げず、骨だけ立て直す!」
「了解!」
羽根の少年の羽ばたきが起こす風が、白布の下へ潜り込んで骨をこね、音を上向かせる。
私は細工筆を抜き、白布の表面に薄い“縁”の線を走らせた。
式は、縁を嫌う。外側から固めると、内側で自壊する。
「“均衡式・第八稿”は、公開されていない。公開されない式は、学院の式じゃない」
その言葉は、朝倉の筆より早く布に届いた。
彼の足元で、影がわずかにうねる。
「君は言葉で噛みつく」
朝倉が静かに言う。
「なら、私は“式”で包む」
筆先が見えない墨をすくい、白布の中央に小さな点を置く。点はすぐさま四方へ走り、細い罫を作った。
――“楔一”。
文字にならない設計図が、白布の内側で立ち上がる。
「“楔”は、なるべく概念に近い者が適切だ。狐王家の半妖、東雲朔弥。君は人でもあり、妖でもある。式は、君を選ぶ」
「式が選ぶなら、俺は選ばない」
朔弥の声は低く、硬い。
面の下で、何度も噛み直した言葉だと分かる確度。
「俺が選ぶのは――更の側だ」
朝倉の視線が、わずかに揺れた。
「“側”にいるという言い回しは、楔の初期定義に似ている」
「似ていない。楔は“固定”だ。側は“選び直せる”」
私は前へ半歩出た。
「毎日、選び直す。――契りは、本当はそれだけの話」
白布の中央、朝倉の点がもう一段、濃くなる。
影墨の匂いが強まった。
列の四隅から、書記局の手がわずかな拍で罫を足す。
式の骨が、灯の骨に重なりかける。
骨は骨を嫌う。重なれば、片方が折れる。
「折らせない」
私は布の端へ駆け、指で布をすくって波を作った。
波は骨をよけ、わずかに角度を変える。
羽根の少年の風がその波を受け、真朱が音の拍を上げ、朔弥の結びが脈を合わせる。
――学院の拍。
式は、拍の外側で滑った。
朝倉は一度、筆を止めた。
「……強い」
評価の声だった。
「君たちの“拍”は強い。だが、強い拍は特定の人にしか合わせられない」
「それでいい」
私は即答した。
「“全員に合わせる拍”は、誰にも届かない」
「届かない声が、誰かを殺す」
「届く声が、誰かを守る」
ふいに、白布の端から別の拍が立ち上がった。
――狐面。
あの“演者”が、斎庭のさらに外側、灯の薄いところに立っていた。
「舞台、舞台。二幕目」
面の口が笑い、袖が翻る。
「会長、君の“楔”の噂、王都でも可愛いって評判だよ」
「帰れ」
朔弥の声は冷たく、短い。
狐面は首をすくめ、朝倉と私たちを交互に見渡した。
「式と牙。いいね。……ひとつ、退屈を紛らわせてあげる。喪を足す」
言い終えるのと同時に、白布の下で風鈴の骨が鳴いた。
薄闇から、濡れた紙のような影が三つ、縁を舐めるように滑り込んでくる。
喪神。
整えられた式は、喪に弱い。理由は簡単だ。式は“異物”を想定外に置くから。
朝倉の筆先が、一瞬だけ迷った。
その迷いは、きれいな手には致命的だ。
「更、皿を」
朔弥の声が背骨に通る。
「うん」
私は風鈴を胸の前で鳴らし、筆を皿の形にたたんだ。
“モノヱ”で覚えた呼吸。
皿は残りを受ける器。
喪は残り。
白布の波をほんの少し深くして、影の舌を皿へ落とす。
ひとつ、ふたつ。
第三の影が皿の縁で暴れ、縁がささくれ立つ。
「っ……!」
指先が痺れ、皿が割れかける。
朔弥の手が、私の手首の朱を軽く叩いた。
拍が戻る。
縁が滑らかになる。
影が落ちる。
――呼吸が、私たちを通って式の外へ抜けた。
狐面が、面の口を楽しそうに開く。
「綺麗。……舞台の“演目”、完成間近」
「演目なら、終演だ」
真朱が言い捨て、手を打った。
四隅に控えた学院の教員たちが、一斉に白布の端を取る。
「“学問の儀”はここまで。――閉じ」
布が、静かに、だが確実に降りる。
式は“公開”を失い、立脚点を見失う。
朝倉の影墨は、布の内側で薄い霧になって散った。
狐面は肩をすくめ、退屈そうに手を振る。
「じゃあ、裏方に回るよ」
その声が溶ける直前、妙な違和感が喉を過ぎった。
――この狐面の拍、知ってる。
どこで?
“整える人”の拍でも、朝倉の拍でもない。
もっと私的な、店先の拍。
凪の、店。
思考がそこまで辿り着いた瞬間には、狐面はもう灯の間へ滑り、消えていた。
白布が降り、喧噪の余韻で空気がざわつく。
朝倉は筆を袖に戻し、静かに一礼した。
「学問の儀、了。……均衡は、明日も並び直す」
「並び直すときに、“人”を捨てないで」
私が言うと、彼は答えなかった。
答えの代わりに、筆箱の金具がひとつだけ鳴った。
人の流れが去り、斎庭に残ったのは私と朔弥、真朱と羽根の少年、それから書記局の上級生だけだった。
「狐面の拍、分かった?」
真朱が低く尋ねる。
「……半分だけ。まだ確信できない」
「確信になったら、先に言って」
「うん」
面の紐に触れながら、朔弥が近づく。
「更」
呼ばれるたび、返事の位置が近くなる。
「――ありがとな」
「何に?」
「俺が“楔”にならない理由を、俺の代わりに言ってくれた」
「あなたは言える。私は、あなたの言葉を信じる準備をするだけ」
「そうやって、側は成る」
面の下の声が穏やかで、胸の内側まで温度が届く。
結び目が、熱を持って脈打った。
「返す?」
問いは、祈りに似ていた。
「――まだ」
自分で驚くほど、即答だった。
朔弥は短く息を飲み、それから小さく笑った。
「困ったな」
「困って」
「困って、決める」
面の端から、薄い金の耳がほんの少しだけ覗いた。
触れたい、と思った。
触れたら崩れる、とも思った。
私は代わりに、自分の手首の朱をふっと押した。
拍が重なる。
それで十分だった。
***
夜の半ば。
私たちは再び契り堂へ向かった。上級生が「整える」と言った朱の層が、どうなったか確かめるためだ。
扉を開けると、紙の匂いに白檀が混じっている。
「……凪?」
思わず口にすると、朔弥が面を傾けた。
堂の奥、朱の層の前に“整える人”が座っていた。その横に、小さな薬瓶が並んでいる。
「借りた。香りで落色を鈍らせる」
「店の匂いがしたから」
「あなたの鼻は信じられる」
上級生は短く笑い、朱の縁を指で撫でた。
「薄く、柔らかく、剝がれる。上塗りの運命」
「朝倉は?」
「斎庭の外で、筆を洗ってた。水は澄んで、手はきれい」
皮肉のない報告に、逆に胸が痛んだ。
上級生は立ち上がり、私に紙片を差し出す。
「告白の筆順」
「こく……」
言いかけて、飲み込んだ。
紙片には、見慣れた字の癖で短い文が綴られている。
> まず「名」を呼ぶ。
> 次に、「側」を申し出る。
> そして、「選び直す」と誓う。
> 式ではなく、契りで。
上級生は肩をすくめた。
「学問も、恋も、手順がいる」
顔が熱くなった。
朔弥が面の下で息を飲んだ音が、白檀の香りの向こうでやけに大きく聞こえる。
「――夜になった」
彼の声が、丁寧に角を落として落ちてきた。
結び目に指をかける音がする。
ほどくのではない。
結び直す、準備の音だ。
私は一歩、彼の正面へ出た。
堂の灯りが、朱の層で柔らかく反射し、面の白を淡く染めている。
指先が震えないように、拍をひとつ数える。
「――更」
自分で、自分を、呼ぶ。
腹の底に、音が落ちる。
返事は、胸骨の裏から、はっきり返った。
「側に、いてほしい」
言葉は短いのに、重い。
重さに耐えられるか、試すみたいにゆっくり吐いた。
「毎日、選び直す。――式じゃなくて、契りで」
面の下で、息が詰まる音がした。
数拍の沈黙。
彼は面に手をかけ、ほんの少しだけ、面を上へずらした。
あらわになったのは、目の形の半分。
金の薄い縁取りが、灯を受けて静かに揺れる。
「更」
私の名を、彼は同じ角度で呼んだ。
――切り口の角度。
「側にいる。……俺がここにいる限りの守りを、一生に伸ばしたくなる。だから毎日、選び直す。選び直して、同じところに戻る」
結び目が、ゆっくり、ゆっくり固くなる。
痛みは、熱に変わった。
白檀の香りがやわらぎ、紙が息を吐いたように乾いた。
上級生がそっと視線を逸らし、隅の灯を弱める。
「――告白、了」
冷静な声に救われる。
私たちは笑い、息を吐き、ふっと緊張をほどいた。
「返す?」
「返さない」
「困った」
「困っていて」
「……ずっと、困っていよう」
笑いが、初めて“学問の儀”の外側の笑いになった時、契り堂の外で拍子木の音がした。
高く、短い。緊急。
上級生が灯を上げ、私たちは一斉に外へ出る。
廊下の影に、王都の文官が立っていた。
「夜の鐘までに、と言った文案。――“学院の牙”の定義を、文に起こしてほしい」
「今?」
「今。世論が動いている。『学問の儀』の写しを求める書状が、門前に十通。王都の写字生が来る」
彼の目は疲れていたが、声は静かに熱い。
「式は、紙で働く。あなた方の言葉も、紙で働く。……紙を、人のために」
私は頷いた。
上級生が机を用意し、真朱が骨を置き、羽根の少年が風の邪気を払う。
朔弥は面を掛け直し、私の背に立った。
「側にいる」
「うん」
筆を取る。
朱の結びが脈を打つ。
線は喉。墨は血。
私は学院の牙を、文にした。
> 学院の牙 定義草案
> 一、学院は「名」を守る場である。
> 二、式は道具であり、式のために人を捨てない。
> 三、均衡は毎日結び直す契りであって、上塗りで固定しない。
> 四、誤差(ゆらぎ)を許容し、誤差で式に噛みつく。
> 五、牙は攻撃ではなく、防御の意思――「目の前の人」を守るための選び直しである。
最後の一行を書いたとき、文官の肩からわずかに力が抜けた。
「……働く」
彼は紙を丁寧に封に入れ、深く一礼した。
「王都で、これを読ませる。――写字生は今夜、門をくぐる」
彼が去ると同時に、風がひとつ方向を変えた。
白檀の香りが遠のき、墨の匂いが際立つ。
私は筆を置き、背後を振り向いた。
朔弥の面が、夜の灯で柔らかく光っている。
目は見えないのに、視線の場所が分かった。
「……疲れた?」
「ちょっと。ちょうどいい」
「それ、やめない?」
「やめない」
笑いながら、私は結び目を指で押した。
「――三日の猶予、残り二」
「二でも、毎日はある」
「ある」
「なら、選び直せる」
「選び直す」
そのとき、渡り廊下の先で“整える人”が小さく手を上げた。
「報せ。――狐面、店のあたりで見たという子がいる」
胸の底で合点がいく音がした。
やはり。
凪。
私の従姉。
彼女の店の拍、彼女の匂い。
狐面の“演者”は、凪の手を借りていたのか、それとも――。
「行く」
自分の声は、怖れより速かった。
「俺も」
当たり前のように、隣に足音が立つ。
「――灯を連れて」
上級生が言い、真朱が頷く。
「学院の“牙”は、道にもなる。追い詰めに行くんじゃない。迎えに行くの」
迎え。
迎えるための牙。
それは矛盾していない。
矛盾を受け止められる器は、皿の形をしている。
私は、皿を胸の内側に置き直した。
“更”の切り口は、今夜も通れる。
通れるなら、届く。
届くなら、掴める。
掴めるなら――守れる。
灯篭の海が、私たちの前に道を開けた。
狐面の拍が、遠くで薄く笑った。
私は一歩、踏み出す。
結び目が、熱く鳴った。
――行こう。
(第10話 了/次回「第11話 狐面の店先、或いは凪の秘密」へ続く)



