湯気の抜けた生徒会室で、紙の匂いが落ち着くのを待つみたいに沈黙が続いた。
沈黙は嫌いではない。言葉で埋めないほうが折れない絆もある。けれど、何かが刻々と迫る夜は、沈黙までも刃こぼれしやすい。
「更」
名前を呼ばれて肩を上げると、扉の影から副会長の真朱(まそほ)が顔を出していた。橙の髪先が薄明かりで揺れる。
「戦う前に、整える。あなたの“筆”と“息”を、学院の調子に合わせる訓練を組んだわ。三つ。短く、深いもの」
「三つ?」
「一、音合わせ――風鈴・足音・呼吸の拍を揃える。二、線合わせ――術線の太細の切り替えを手癖に落とす。三、名合わせ――仮名と本名の切り替えを、怖れなしで通過する練習」
「……最後のは、難しいわね」
「難しいから先にやるの」
真朱は、迷いが早い。決めるのも早い。そういう人が傍にいるだけで、歯車が噛み合う音がする。
中庭に面した回廊で、私と真朱は向かい合った。夜の冷えは薄れているのに、灯はまだ人の気配を選んで明滅する。
「名合わせから。いい?」
「うん」
「わたしが“更紗”を呼ぶ。あなたは“更”で応じる。揺れずに」
「了解」
真朱は息を吸い、音の角を落として丁寧に呼んだ。
「――桂木、更紗」
胸の奥で薄い痛みが灯り、指先が反射的に硬くなる。
私は、呼吸の端を切り替えた。
「……更」
「もう一度。速く」
「更」
「もう一段、低く」
「更」
言葉が腹に落ちるたび、仮名と本名の境が薄膜のように撓み、やがて“通れる”感覚に変わっていく。
真朱が目を細める。
「いい。――侯爵令嬢・桂木更紗」
「更」
「王都に“同行”せよ」
「更」
「婚約破棄の夜、泣いただろう?」
「更」
最後の問いは、刃の形をしていた。
でも、答えは刃を鈍らせない。刃の上でバランスを取る術は、ここ数日で嫌というほど覚えた。
真朱が満足げに頷いた。
「通ったわね。……では次、音合わせ。羽根の子!」
呼ばれて、羽根の少年が軽やかに現れた。彼の羽根が一度だけ揺れると、回廊の風鈴が微かに応えた。
「拍を刻むよ」
少年の足先が石畳にリズムを刻み、真朱が手で合図を送る。私は呼吸を合わせ、拍を壊さずに一歩、また一歩。
外から兵の鎧音が届く。規律の拍。重い拍。
私はそれに呑まれないよう、学院の拍に身を預けた。
――拍が揃えば、恐れは割り込む場所を失う。
第三の訓練、線合わせは短剣の鍔を合わせるように速かった。紙の上で術線を引き、細から太、太から細へ、間を空けずに切り替える。墨は喉、筆は舌。
「いい。これなら、“影墨”の上からでも別の線を通せる」
真朱の声が、夜の端に小さく落ちた。
訓練のあと、息を整えながら空を仰ぐと、朝と夜の境がまた一筋、薄くなっていた。
時間は、正しく残酷だ。整える者にも、整えられる者にも、平等に刃を向ける。
*
昼をまたいで、書記局の部屋。
机の上に並べられたのは、影墨が混ぜられたと思しき書付けが十数枚。
羽根の少年が息を詰め、私は細工筆を持った。真朱は部屋の外で見張り、朔弥は生徒会と王都への答弁第二稿の検討で忙殺されている。
「影墨は、書いた人の“匂い”が混ざってる」
少年が囁く。
「墨の匂いじゃなくて“手の匂い”。慣れれば分かる」
「あなたは?」
「匂いは嗅げる。でも、書き手を特定できるほどじゃない」
「じゃあ私は、線で掴む」
私は一枚目の左肩――朱印の、ほんの外側に細い呼吸を通す。墨と墨の間、紙の毛羽がわずかに立って、線が“選び”を示す。
「……“第七稿”」
「え?」
「“均衡式、第七稿”。上塗りの奥に隠れてる章題」
吸い込んだ息が、喉の奥で氷みたいに鳴る。
「式……?」
「うん。契りを“式”として定める試案。多分、書記局内の非公開稿」
私は次の紙へ筆を送る。
“第七稿”の下に小さな罫。そこに、薄い字が反転で書かれている。
「“楔(くさび)配置例――人一、妖一”」
羽根の少年が息を呑んだ。
「“人一”が更さんで、“妖一”が……」
「…………」
沈黙が言葉の役目を果たす。
私は三枚目、四枚目と、呼吸の細道を通す。
「“手はきれいであるべし。迷い、滲み、躊躇、罫外(けいがい)を許すな”」
「正しすぎる手の流儀……」
そして五枚目で、筆の腹が紙の下に別の匂いを拾った。
甘いようで、鉄が混じる。
「……落色の薬。やっぱりここにも」
「誰かが“読ませないため”に塗ったんだ」
私は指先に凪の店で習った対処の粉を取り、唇で湿らせてから線の縁へほんのひとかけ、落とした。
紙の繊維が一瞬だけ緩み、文字の尾が浮く。
「“猶予三、上塗りを続行”」
「三日の猶予……王都の猶予状と、同じ数字」
背中を汗が走る。
影墨に隠された章題は、王都の“猶予”と呼応していた。つまり、王都の文言はこの式の影をなぞっている。
「王都の文官は“手”じゃない。運ぶ手。書いたのは、やっぱり学院の内」
羽根の少年が唇を噛んだ。
「このままだと、三日後に“式”が完成しちゃう。更さんが――」
「楔に、固定される」
声が自分のものではないみたいに低く出た。
あの夜の宣明が胸に戻る。
泣かない、と決めた夜。
泣かせない、と決めた今。
「朔弥に――持っていこう」
「うん!」
私たちは紙を巻き、簡易の封を施して生徒会室へ走った。
廊下の角を曲がったとき、僅かな鈴の音。
足が止まる。
「……誰か、いる」
羽根の少年も止まった。
影が、床の木目に沿って細く伸び、次の角に吸い込まれる。
追うべきか。
追えば、こちらの走る音で、「影墨を読めた」ことを知らせることになる。
私は少年に目配せし、逆へ回る廊下を選んだ。
“追わない”という選択肢も、牙のひとつだ。
*
生徒会室の机の上で、巻物は静かにほどかれた。
朔弥、真朱、幹部たちが囲む。
私は影墨の下から拾い上げた章題を、順に読み上げた。
「均衡式・第七稿」
「楔配置例――人一、妖一」
「手はきれいであるべし」
「猶予三、上塗りを続行」
読みながら、喉の奥が乾いていく。
「式。……“契り”を、式に落とし込む計画」
真朱が低く言う。
「“正しい手”が、正しい世界を“計算”で確定させる。誤差――つまり“人”は、式の外へ」
「式の外に落ちた“人”は、楔に」
私の声が、紙の上で小さく砕けた。
朔弥は面の紐に触れ、ひとつ息を置いてから、静かに言った。
「――『学院の牙』を、ここで定義する」
部屋の空気が僅かに緊くなる。
「牙とは、式に噛みつく誤差だ。正しすぎる手が作る式に対して、学院は人の揺らぎで噛みつく。……それを外へ宣言する」
「宣言?」
「明朝、“学問の儀”として公開講話をやる。王都の使者にも、兵にも、在学生にも、書記局にも、式と名と人の順を、学院の言葉で示す」
「牙を、言葉で?」
「言葉と所作で。……契り堂の上塗りは暴かない。暴く代わりに、『上塗りを選ばない集団』としての学院を明らかにする」
真朱の目が光る。
「賭けるのね。世論と礼式に」
「そうだ。狐面の“舞台”に、舞台を重ねる。観客にされる前に、こちらから演目を出す」
「その間、内部の手は?」
「――俺が押さえる」
面の奥の声が低い。
押さえる方法を具体的に問う必要はなかった。彼が言うなら、押さえるのだ。半妖の牙を、人の礼式に合わせて隠し持ったまま。
会議が解散しかけたとき、生徒会室の片隅で視線が合った。
書記局の上級生――“整える人”。
彼女は無言で近づき、紙片を差し出した。
「整えた講話の式。あなたの言葉で崩しながら読めるよう、余白を広く取った。……金は、最小限」
「ありがとう」
受け取った紙は、彼女の匂いが薄く混じっている。
正しさは刃になる。けれど、その刃を人のために寝かせることだってできる。
彼女の正しさは、昨夜より、少し柔らかかった。
*
公開講話の準備は、夜半を過ぎても終わらなかった。
舞台は渡り廊下に続く斎庭(ゆには)。灯の骨を一本、長く通し、その上に薄く白布を張って、舞台と道の境を曖昧にする。
「道を舞台に。舞台を道に」
真朱が短くまとめる。
「“学問の儀”の形にして、兵も文官も口出しできないように」
「書記局は?」
「副局長は来るわ。正しさは“公開”を好む」
彼女は皮肉っぽく笑った。
「公開の場で正しさを示すのは、正しい人にとってはご馳走だから」
私は一度だけ生徒会室へ戻り、机の端に置かれた狐面に目を落とした。
朔弥は席を外している。兵との折衝か、講話の護りに付く狐王家の使いと段取りの最終確認か。
面に触れず、朱の結びだけをそっと撫でる。
「返す期限は、夜だ」
彼の声が、耳の奥で柔らかく反芻した。
*
明けの鐘が一打、空へ吸い込まれていった。
斎庭に集まる足音が重なる。王都の文官、兵の列、在学生、教員、書記局。
副局長・朝倉は列の真ん中、筆箱を胸に抱えて立っている。表情は穏やかで、眼差しは冷い。
舞台の端で、私の代わりに真朱が序の挨拶をした。
「本日の学問の儀は、『均衡と『名』と『式』に関する公開講話。学院の基礎に触れる。王都の皆様にも、どうぞ見届けていただきたい」
礼が済むと、視線が私へ集まる。
足が震えないように、拍をひとつ、ふたつ数える。
私は舞台と道の境へ一歩出て、白布の上に立った。
「桂木――更」
自分で、仮名で、名乗る。
ざわめきが起こる前に、続けた。
「わたしは、名を二つ持っている。“桂木更紗”と、“更”。どちらも本当だ。けれど、状況によって通り道が違う。……今日は、その通り道の作り方を、学院の式で示す」
私は袖から小さな風鈴を取り出し、白布の縁に軽く触れさせた。
「音」
小さな音が、観客の呼吸を一瞬だけ揃える。
「線」
細い線を引き、太い線を重ね、また細い線で縁をなぞる。
「――そして名」
仮名の位置、本名の位置を手の中で切り替え、怖れが生まれる前に通す。
私は観客のどこを見るでもなく、舞台の向こう側――契り堂の方向を見た。
「均衡は、式で決められるものじゃない。……ここにいる皆の“名”で、毎日、結び直されるものだ」
視線が、兵の列の端で止まる。
一番若い騎士が、ほんのわずか首を傾けた。
文官は表情を動かさず、まぶたの影だけが微かに震えた。
書記局の列は……動かない。朝倉は石像のように立ち、筆箱に置いた指は微塵も揺れなかった。
「式は美しい。正しい。だけど――ゆらぐ名を包みそこねることがある」
私は白布の端を掴み、片側だけを持ち上げた。
布は波になる。
布の波は、舞台と道の境を消し、見えているはずの線を飲み込んだ。
「学院は、ゆらぎを守る。ゆらぎの上に乗る“人”を守る。……それが学院の牙。式に噛みつく、誤差の牙だ」
反論が来る。そう思った。
“正しすぎる手”は、公開の場で正しさを示したがる。
案の定、列が割れ、朝倉が半歩前へ出た。
「講話に問を挟んでも?」
真朱が頷く。
「どうぞ」
「“ゆらぎ”は、均衡を崩す。君のような楔が必要になる。……学院は“人”を守ると言う。では、誰を?」
「目の前の人」
私は即答した。
朝倉の目に、ほんのわずかな皺。
「目の前の人を守れば、どこかの人が沈む」
「“どこか”を指して、誰かを沈める式を、私は信じない」
布の波が静かに落ち着く。
「式は道具。人のために使われるべきで、“人を捨てる理由”になってはいけない」
「正しさに罪はない」
「捨てる正しさに、私は噛みつく」
その瞬間、背に温い視線を感じた。
面を付けた朔弥が、舞台の影に立っている。
彼は何も言わない。ただ、見ている。
見ている、という行為そのものが、支えになることを私は学びつつある。
朝倉は筆箱の蓋を開け、細い筆を持ち上げた。
「ならば、示してほしい。“式”をどう崩すか」
「崩さない」
「?」
「並べる」
私は白布の上に、影墨で隠れていた章題を自分の字で書いた。
「均衡式・第七稿」
「楔配置例――人一、妖一」
「手はきれいであるべし」
「猶予三、上塗りを続行」
場がざわめく。
王都の文官の目が、ほんの少しだけ開いた。兵の列に動揺の波。
朝倉の指先だけが、微かに強張った。
「その字をどこで」
「紙が教えた」
私は笑い、追い打ちをかけるように、紙片を掲げた。
「式は必要。だが、『手はきれいであるべし』は、人から目を逸らす合図になる」
「……手がきれいで何が悪い」
「迷いがないのは美しい。でも、迷いがないふりは、危ない」
私は筆を置き、掌を観客に向けた。
「わたしの手は、震える。――それを、恥ずかしいと思わない。震えるから、確かめる。確かめるから、捨てない」
沈黙が、ゆっくり積もる。
朝倉が動く前に、私は最後の一言を落とした。
「式より先に、人がいる。これが――学院」
講話は、終わった。
終わり方は静かだった。
王都の文官は何も言わず、ただ深く一礼した。兵は陣形を崩さないまま、ざわめきを飲み込んだ。
朝倉は列へ戻り、筆箱を閉じた。その背中は、相変わらず整っている。
整いすぎて、ひびを見せない。
*
斎庭から下がったあと、私は裏手の細い通路に逃げ込むように歩いた。足の震えが遅れてくる。
「更」
呼ばれると、身体が泣き方を忘れるように落ち着いた。
朔弥が面を外さず、ただ距離を詰めて立った。
「怖かった」
「怖かったな」
声だけで、結び目がひとつ、ほどける。
「でも、やれた」
「やった」
「……返す?」
私は手首の朱に触れた。
「まだ、夜じゃない」
朔弥の声は少し笑っていて、少し祈っていた。
私は結び目を押し返し、首を横に振った。
「じゃあ、夜まで」
「夜になっても、返さなくていいと言ったら?」
「困る」
「困るの?」
「“俺がここにいる限り”の守りを、一生にすると約束してしまいそうだから」
言葉が、喉で転んで、胸に落ちた。
呼吸が一瞬、どこへ行ったか分からなくなり、すぐ戻る。
「……困る」
ようやく出た自分の声が震えているのを、彼は責めなかった。
「大丈夫だ。三日で決める話じゃない。今夜は、ここまででいい」
面の向こうで、目を細めた気配がした。
「礼は、朝に」
「またそれ」
「好きなんだ」
*
公開講話の余韻が校内をめぐり、賛否が渦を巻く。
肯定は若い生徒たちから。否定は、正しさに自信のある者から。沈黙は、疲れた者から。
“世論”はすぐには形にならない。けれど、空気は確実に変わった。
王都の文官は、その空気を嗅ぎ取る嗅覚に長けている。彼は夕刻の前に生徒会室を訪れ、短い文を置いていった。
> 王都覚書
> 学問の儀、拝見。
> 猶予三のうち、一を消費。
> 残二。学院内の上塗りに関し、王都は不介入。
> ただし、夜の鐘までに学院としての文案を一。
文官は最後に、ほとんど表情を変えずに言った。
「式は、働きます。今日のあなた方の言葉も、働きます」
そして、去った。
日が落ち、灯が再び高くなった頃、真朱が駆け込んで来た。
「更、朔弥! 契り堂よ」
「上塗りが?」
「違う。――剝がれてる」
時間が、一瞬、音を失った。
「誰が」
「わからない。朱の層が、中から浮いてる。……“式”を書き換えに行った手の跡」
朝倉か。
それとも、彼の“正しさ”を整える誰かか。
私は息を飲み、朱の結びを押さえた。
「――行こう」
契り堂の扉は開いていた。
夜気が紙を撫で、墨の匂いが濃くなっている。
最奥、上塗りの朱が、皮膜のように波打っていた。
その前に立っていたのは、朝倉――ではなかった。
書記局の局長。白髪が増え、目の下に深い影。
「局長……?」
「すまない」
彼はかすれた声で言った。
「私が剝がした。――“式”は、人を捨てる」
崩れた正しさの下から、人の声が現れた。
私が一歩、踏み出す。
朱の膜が、ひとりでに裂け、裏側から黒い字が浮かび上がった。
“均衡式・第八稿”
「……第八?」
「朝倉が進めていた。君の講話を受けて、楔二から楔一に変更し、“妖”を会長に確定する――」
胸の奥で、何かが折れた音がした。
「朔弥を?」
「狐王家の“半妖”は、人と妖の均衡の概念だ。式にとって都合がいい。……だから、楔に」
言い終わる前に、朔弥が前へ出た。
面の端から、薄い金の耳が一瞬だけ覗く。
「上塗りでも、式でも、俺は楔にならない」
静かな声ほど、深く刺さる。
「更を、前に立たせた。俺は隣に立つ。――それが俺の式だ」
局長は膝から崩れ、床に手をついた。
「助けてくれ。……正しさは、いつから、こんなに重くなった」
私は彼の肩に手を置いた。
「重いものを支えるのが、学院。――人で支える」
朱の膜が、またひとつ、剝がれる。
下に眠っていたのは、古い、しかし温い字。
> 名は力。人は名に宿る。
> 灯は名を守るためにある。
> 上塗りは、怠惰。
祖母の字に、よく似ていた。
「朝倉は?」
真朱が息を整えながら問う。
「斎庭の端。――“公開の正しさ”を、もう一度整えようとしてる」
上級生の声が、扉の影から降ってきた。
“整える人”――彼女は深く息を吐き、私たちを見た。
「行って。牙を見せたのなら、本当の噛み跡を残す番よ」
「あなたは?」
「ここを整える。……“灯のために整える”のを、やっと覚えたから」
彼女の笑みは、今までで一番、人間だった。
私は朔弥と目を合わせ、頷いた。
「行こう」
「行く」
朱の結びが、熱を返す。
拍が揃う。
足音が、学院の骨に沿って走る。
斎庭の端――朝倉の“正しさ”が、再び公開の場で鋭利になる前に。
牙は研がれた。
あとは――噛みつくだけだ。
(第9話 了/次回「第10話『灯篭の海、告白の影』」へ続く)
沈黙は嫌いではない。言葉で埋めないほうが折れない絆もある。けれど、何かが刻々と迫る夜は、沈黙までも刃こぼれしやすい。
「更」
名前を呼ばれて肩を上げると、扉の影から副会長の真朱(まそほ)が顔を出していた。橙の髪先が薄明かりで揺れる。
「戦う前に、整える。あなたの“筆”と“息”を、学院の調子に合わせる訓練を組んだわ。三つ。短く、深いもの」
「三つ?」
「一、音合わせ――風鈴・足音・呼吸の拍を揃える。二、線合わせ――術線の太細の切り替えを手癖に落とす。三、名合わせ――仮名と本名の切り替えを、怖れなしで通過する練習」
「……最後のは、難しいわね」
「難しいから先にやるの」
真朱は、迷いが早い。決めるのも早い。そういう人が傍にいるだけで、歯車が噛み合う音がする。
中庭に面した回廊で、私と真朱は向かい合った。夜の冷えは薄れているのに、灯はまだ人の気配を選んで明滅する。
「名合わせから。いい?」
「うん」
「わたしが“更紗”を呼ぶ。あなたは“更”で応じる。揺れずに」
「了解」
真朱は息を吸い、音の角を落として丁寧に呼んだ。
「――桂木、更紗」
胸の奥で薄い痛みが灯り、指先が反射的に硬くなる。
私は、呼吸の端を切り替えた。
「……更」
「もう一度。速く」
「更」
「もう一段、低く」
「更」
言葉が腹に落ちるたび、仮名と本名の境が薄膜のように撓み、やがて“通れる”感覚に変わっていく。
真朱が目を細める。
「いい。――侯爵令嬢・桂木更紗」
「更」
「王都に“同行”せよ」
「更」
「婚約破棄の夜、泣いただろう?」
「更」
最後の問いは、刃の形をしていた。
でも、答えは刃を鈍らせない。刃の上でバランスを取る術は、ここ数日で嫌というほど覚えた。
真朱が満足げに頷いた。
「通ったわね。……では次、音合わせ。羽根の子!」
呼ばれて、羽根の少年が軽やかに現れた。彼の羽根が一度だけ揺れると、回廊の風鈴が微かに応えた。
「拍を刻むよ」
少年の足先が石畳にリズムを刻み、真朱が手で合図を送る。私は呼吸を合わせ、拍を壊さずに一歩、また一歩。
外から兵の鎧音が届く。規律の拍。重い拍。
私はそれに呑まれないよう、学院の拍に身を預けた。
――拍が揃えば、恐れは割り込む場所を失う。
第三の訓練、線合わせは短剣の鍔を合わせるように速かった。紙の上で術線を引き、細から太、太から細へ、間を空けずに切り替える。墨は喉、筆は舌。
「いい。これなら、“影墨”の上からでも別の線を通せる」
真朱の声が、夜の端に小さく落ちた。
訓練のあと、息を整えながら空を仰ぐと、朝と夜の境がまた一筋、薄くなっていた。
時間は、正しく残酷だ。整える者にも、整えられる者にも、平等に刃を向ける。
*
昼をまたいで、書記局の部屋。
机の上に並べられたのは、影墨が混ぜられたと思しき書付けが十数枚。
羽根の少年が息を詰め、私は細工筆を持った。真朱は部屋の外で見張り、朔弥は生徒会と王都への答弁第二稿の検討で忙殺されている。
「影墨は、書いた人の“匂い”が混ざってる」
少年が囁く。
「墨の匂いじゃなくて“手の匂い”。慣れれば分かる」
「あなたは?」
「匂いは嗅げる。でも、書き手を特定できるほどじゃない」
「じゃあ私は、線で掴む」
私は一枚目の左肩――朱印の、ほんの外側に細い呼吸を通す。墨と墨の間、紙の毛羽がわずかに立って、線が“選び”を示す。
「……“第七稿”」
「え?」
「“均衡式、第七稿”。上塗りの奥に隠れてる章題」
吸い込んだ息が、喉の奥で氷みたいに鳴る。
「式……?」
「うん。契りを“式”として定める試案。多分、書記局内の非公開稿」
私は次の紙へ筆を送る。
“第七稿”の下に小さな罫。そこに、薄い字が反転で書かれている。
「“楔(くさび)配置例――人一、妖一”」
羽根の少年が息を呑んだ。
「“人一”が更さんで、“妖一”が……」
「…………」
沈黙が言葉の役目を果たす。
私は三枚目、四枚目と、呼吸の細道を通す。
「“手はきれいであるべし。迷い、滲み、躊躇、罫外(けいがい)を許すな”」
「正しすぎる手の流儀……」
そして五枚目で、筆の腹が紙の下に別の匂いを拾った。
甘いようで、鉄が混じる。
「……落色の薬。やっぱりここにも」
「誰かが“読ませないため”に塗ったんだ」
私は指先に凪の店で習った対処の粉を取り、唇で湿らせてから線の縁へほんのひとかけ、落とした。
紙の繊維が一瞬だけ緩み、文字の尾が浮く。
「“猶予三、上塗りを続行”」
「三日の猶予……王都の猶予状と、同じ数字」
背中を汗が走る。
影墨に隠された章題は、王都の“猶予”と呼応していた。つまり、王都の文言はこの式の影をなぞっている。
「王都の文官は“手”じゃない。運ぶ手。書いたのは、やっぱり学院の内」
羽根の少年が唇を噛んだ。
「このままだと、三日後に“式”が完成しちゃう。更さんが――」
「楔に、固定される」
声が自分のものではないみたいに低く出た。
あの夜の宣明が胸に戻る。
泣かない、と決めた夜。
泣かせない、と決めた今。
「朔弥に――持っていこう」
「うん!」
私たちは紙を巻き、簡易の封を施して生徒会室へ走った。
廊下の角を曲がったとき、僅かな鈴の音。
足が止まる。
「……誰か、いる」
羽根の少年も止まった。
影が、床の木目に沿って細く伸び、次の角に吸い込まれる。
追うべきか。
追えば、こちらの走る音で、「影墨を読めた」ことを知らせることになる。
私は少年に目配せし、逆へ回る廊下を選んだ。
“追わない”という選択肢も、牙のひとつだ。
*
生徒会室の机の上で、巻物は静かにほどかれた。
朔弥、真朱、幹部たちが囲む。
私は影墨の下から拾い上げた章題を、順に読み上げた。
「均衡式・第七稿」
「楔配置例――人一、妖一」
「手はきれいであるべし」
「猶予三、上塗りを続行」
読みながら、喉の奥が乾いていく。
「式。……“契り”を、式に落とし込む計画」
真朱が低く言う。
「“正しい手”が、正しい世界を“計算”で確定させる。誤差――つまり“人”は、式の外へ」
「式の外に落ちた“人”は、楔に」
私の声が、紙の上で小さく砕けた。
朔弥は面の紐に触れ、ひとつ息を置いてから、静かに言った。
「――『学院の牙』を、ここで定義する」
部屋の空気が僅かに緊くなる。
「牙とは、式に噛みつく誤差だ。正しすぎる手が作る式に対して、学院は人の揺らぎで噛みつく。……それを外へ宣言する」
「宣言?」
「明朝、“学問の儀”として公開講話をやる。王都の使者にも、兵にも、在学生にも、書記局にも、式と名と人の順を、学院の言葉で示す」
「牙を、言葉で?」
「言葉と所作で。……契り堂の上塗りは暴かない。暴く代わりに、『上塗りを選ばない集団』としての学院を明らかにする」
真朱の目が光る。
「賭けるのね。世論と礼式に」
「そうだ。狐面の“舞台”に、舞台を重ねる。観客にされる前に、こちらから演目を出す」
「その間、内部の手は?」
「――俺が押さえる」
面の奥の声が低い。
押さえる方法を具体的に問う必要はなかった。彼が言うなら、押さえるのだ。半妖の牙を、人の礼式に合わせて隠し持ったまま。
会議が解散しかけたとき、生徒会室の片隅で視線が合った。
書記局の上級生――“整える人”。
彼女は無言で近づき、紙片を差し出した。
「整えた講話の式。あなたの言葉で崩しながら読めるよう、余白を広く取った。……金は、最小限」
「ありがとう」
受け取った紙は、彼女の匂いが薄く混じっている。
正しさは刃になる。けれど、その刃を人のために寝かせることだってできる。
彼女の正しさは、昨夜より、少し柔らかかった。
*
公開講話の準備は、夜半を過ぎても終わらなかった。
舞台は渡り廊下に続く斎庭(ゆには)。灯の骨を一本、長く通し、その上に薄く白布を張って、舞台と道の境を曖昧にする。
「道を舞台に。舞台を道に」
真朱が短くまとめる。
「“学問の儀”の形にして、兵も文官も口出しできないように」
「書記局は?」
「副局長は来るわ。正しさは“公開”を好む」
彼女は皮肉っぽく笑った。
「公開の場で正しさを示すのは、正しい人にとってはご馳走だから」
私は一度だけ生徒会室へ戻り、机の端に置かれた狐面に目を落とした。
朔弥は席を外している。兵との折衝か、講話の護りに付く狐王家の使いと段取りの最終確認か。
面に触れず、朱の結びだけをそっと撫でる。
「返す期限は、夜だ」
彼の声が、耳の奥で柔らかく反芻した。
*
明けの鐘が一打、空へ吸い込まれていった。
斎庭に集まる足音が重なる。王都の文官、兵の列、在学生、教員、書記局。
副局長・朝倉は列の真ん中、筆箱を胸に抱えて立っている。表情は穏やかで、眼差しは冷い。
舞台の端で、私の代わりに真朱が序の挨拶をした。
「本日の学問の儀は、『均衡と『名』と『式』に関する公開講話。学院の基礎に触れる。王都の皆様にも、どうぞ見届けていただきたい」
礼が済むと、視線が私へ集まる。
足が震えないように、拍をひとつ、ふたつ数える。
私は舞台と道の境へ一歩出て、白布の上に立った。
「桂木――更」
自分で、仮名で、名乗る。
ざわめきが起こる前に、続けた。
「わたしは、名を二つ持っている。“桂木更紗”と、“更”。どちらも本当だ。けれど、状況によって通り道が違う。……今日は、その通り道の作り方を、学院の式で示す」
私は袖から小さな風鈴を取り出し、白布の縁に軽く触れさせた。
「音」
小さな音が、観客の呼吸を一瞬だけ揃える。
「線」
細い線を引き、太い線を重ね、また細い線で縁をなぞる。
「――そして名」
仮名の位置、本名の位置を手の中で切り替え、怖れが生まれる前に通す。
私は観客のどこを見るでもなく、舞台の向こう側――契り堂の方向を見た。
「均衡は、式で決められるものじゃない。……ここにいる皆の“名”で、毎日、結び直されるものだ」
視線が、兵の列の端で止まる。
一番若い騎士が、ほんのわずか首を傾けた。
文官は表情を動かさず、まぶたの影だけが微かに震えた。
書記局の列は……動かない。朝倉は石像のように立ち、筆箱に置いた指は微塵も揺れなかった。
「式は美しい。正しい。だけど――ゆらぐ名を包みそこねることがある」
私は白布の端を掴み、片側だけを持ち上げた。
布は波になる。
布の波は、舞台と道の境を消し、見えているはずの線を飲み込んだ。
「学院は、ゆらぎを守る。ゆらぎの上に乗る“人”を守る。……それが学院の牙。式に噛みつく、誤差の牙だ」
反論が来る。そう思った。
“正しすぎる手”は、公開の場で正しさを示したがる。
案の定、列が割れ、朝倉が半歩前へ出た。
「講話に問を挟んでも?」
真朱が頷く。
「どうぞ」
「“ゆらぎ”は、均衡を崩す。君のような楔が必要になる。……学院は“人”を守ると言う。では、誰を?」
「目の前の人」
私は即答した。
朝倉の目に、ほんのわずかな皺。
「目の前の人を守れば、どこかの人が沈む」
「“どこか”を指して、誰かを沈める式を、私は信じない」
布の波が静かに落ち着く。
「式は道具。人のために使われるべきで、“人を捨てる理由”になってはいけない」
「正しさに罪はない」
「捨てる正しさに、私は噛みつく」
その瞬間、背に温い視線を感じた。
面を付けた朔弥が、舞台の影に立っている。
彼は何も言わない。ただ、見ている。
見ている、という行為そのものが、支えになることを私は学びつつある。
朝倉は筆箱の蓋を開け、細い筆を持ち上げた。
「ならば、示してほしい。“式”をどう崩すか」
「崩さない」
「?」
「並べる」
私は白布の上に、影墨で隠れていた章題を自分の字で書いた。
「均衡式・第七稿」
「楔配置例――人一、妖一」
「手はきれいであるべし」
「猶予三、上塗りを続行」
場がざわめく。
王都の文官の目が、ほんの少しだけ開いた。兵の列に動揺の波。
朝倉の指先だけが、微かに強張った。
「その字をどこで」
「紙が教えた」
私は笑い、追い打ちをかけるように、紙片を掲げた。
「式は必要。だが、『手はきれいであるべし』は、人から目を逸らす合図になる」
「……手がきれいで何が悪い」
「迷いがないのは美しい。でも、迷いがないふりは、危ない」
私は筆を置き、掌を観客に向けた。
「わたしの手は、震える。――それを、恥ずかしいと思わない。震えるから、確かめる。確かめるから、捨てない」
沈黙が、ゆっくり積もる。
朝倉が動く前に、私は最後の一言を落とした。
「式より先に、人がいる。これが――学院」
講話は、終わった。
終わり方は静かだった。
王都の文官は何も言わず、ただ深く一礼した。兵は陣形を崩さないまま、ざわめきを飲み込んだ。
朝倉は列へ戻り、筆箱を閉じた。その背中は、相変わらず整っている。
整いすぎて、ひびを見せない。
*
斎庭から下がったあと、私は裏手の細い通路に逃げ込むように歩いた。足の震えが遅れてくる。
「更」
呼ばれると、身体が泣き方を忘れるように落ち着いた。
朔弥が面を外さず、ただ距離を詰めて立った。
「怖かった」
「怖かったな」
声だけで、結び目がひとつ、ほどける。
「でも、やれた」
「やった」
「……返す?」
私は手首の朱に触れた。
「まだ、夜じゃない」
朔弥の声は少し笑っていて、少し祈っていた。
私は結び目を押し返し、首を横に振った。
「じゃあ、夜まで」
「夜になっても、返さなくていいと言ったら?」
「困る」
「困るの?」
「“俺がここにいる限り”の守りを、一生にすると約束してしまいそうだから」
言葉が、喉で転んで、胸に落ちた。
呼吸が一瞬、どこへ行ったか分からなくなり、すぐ戻る。
「……困る」
ようやく出た自分の声が震えているのを、彼は責めなかった。
「大丈夫だ。三日で決める話じゃない。今夜は、ここまででいい」
面の向こうで、目を細めた気配がした。
「礼は、朝に」
「またそれ」
「好きなんだ」
*
公開講話の余韻が校内をめぐり、賛否が渦を巻く。
肯定は若い生徒たちから。否定は、正しさに自信のある者から。沈黙は、疲れた者から。
“世論”はすぐには形にならない。けれど、空気は確実に変わった。
王都の文官は、その空気を嗅ぎ取る嗅覚に長けている。彼は夕刻の前に生徒会室を訪れ、短い文を置いていった。
> 王都覚書
> 学問の儀、拝見。
> 猶予三のうち、一を消費。
> 残二。学院内の上塗りに関し、王都は不介入。
> ただし、夜の鐘までに学院としての文案を一。
文官は最後に、ほとんど表情を変えずに言った。
「式は、働きます。今日のあなた方の言葉も、働きます」
そして、去った。
日が落ち、灯が再び高くなった頃、真朱が駆け込んで来た。
「更、朔弥! 契り堂よ」
「上塗りが?」
「違う。――剝がれてる」
時間が、一瞬、音を失った。
「誰が」
「わからない。朱の層が、中から浮いてる。……“式”を書き換えに行った手の跡」
朝倉か。
それとも、彼の“正しさ”を整える誰かか。
私は息を飲み、朱の結びを押さえた。
「――行こう」
契り堂の扉は開いていた。
夜気が紙を撫で、墨の匂いが濃くなっている。
最奥、上塗りの朱が、皮膜のように波打っていた。
その前に立っていたのは、朝倉――ではなかった。
書記局の局長。白髪が増え、目の下に深い影。
「局長……?」
「すまない」
彼はかすれた声で言った。
「私が剝がした。――“式”は、人を捨てる」
崩れた正しさの下から、人の声が現れた。
私が一歩、踏み出す。
朱の膜が、ひとりでに裂け、裏側から黒い字が浮かび上がった。
“均衡式・第八稿”
「……第八?」
「朝倉が進めていた。君の講話を受けて、楔二から楔一に変更し、“妖”を会長に確定する――」
胸の奥で、何かが折れた音がした。
「朔弥を?」
「狐王家の“半妖”は、人と妖の均衡の概念だ。式にとって都合がいい。……だから、楔に」
言い終わる前に、朔弥が前へ出た。
面の端から、薄い金の耳が一瞬だけ覗く。
「上塗りでも、式でも、俺は楔にならない」
静かな声ほど、深く刺さる。
「更を、前に立たせた。俺は隣に立つ。――それが俺の式だ」
局長は膝から崩れ、床に手をついた。
「助けてくれ。……正しさは、いつから、こんなに重くなった」
私は彼の肩に手を置いた。
「重いものを支えるのが、学院。――人で支える」
朱の膜が、またひとつ、剝がれる。
下に眠っていたのは、古い、しかし温い字。
> 名は力。人は名に宿る。
> 灯は名を守るためにある。
> 上塗りは、怠惰。
祖母の字に、よく似ていた。
「朝倉は?」
真朱が息を整えながら問う。
「斎庭の端。――“公開の正しさ”を、もう一度整えようとしてる」
上級生の声が、扉の影から降ってきた。
“整える人”――彼女は深く息を吐き、私たちを見た。
「行って。牙を見せたのなら、本当の噛み跡を残す番よ」
「あなたは?」
「ここを整える。……“灯のために整える”のを、やっと覚えたから」
彼女の笑みは、今までで一番、人間だった。
私は朔弥と目を合わせ、頷いた。
「行こう」
「行く」
朱の結びが、熱を返す。
拍が揃う。
足音が、学院の骨に沿って走る。
斎庭の端――朝倉の“正しさ”が、再び公開の場で鋭利になる前に。
牙は研がれた。
あとは――噛みつくだけだ。
(第9話 了/次回「第10話『灯篭の海、告白の影』」へ続く)



