湯気の抜けた生徒会室で、紙の匂いが落ち着くのを待つみたいに沈黙が続いた。
 沈黙は嫌いではない。言葉で埋めないほうが折れない絆もある。けれど、何かが刻々と迫る夜は、沈黙までも刃こぼれしやすい。

 「更」
 名前を呼ばれて肩を上げると、扉の影から副会長の真朱(まそほ)が顔を出していた。橙の髪先が薄明かりで揺れる。
 「戦う前に、整える。あなたの“筆”と“息”を、学院の調子に合わせる訓練を組んだわ。三つ。短く、深いもの」
 「三つ?」
 「一、音合わせ――風鈴・足音・呼吸の拍を揃える。二、線合わせ――術線の太細の切り替えを手癖に落とす。三、名合わせ――仮名と本名の切り替えを、怖れなしで通過する練習」
 「……最後のは、難しいわね」
 「難しいから先にやるの」
 真朱は、迷いが早い。決めるのも早い。そういう人が傍にいるだけで、歯車が噛み合う音がする。

 中庭に面した回廊で、私と真朱は向かい合った。夜の冷えは薄れているのに、灯はまだ人の気配を選んで明滅する。
 「名合わせから。いい?」
 「うん」
 「わたしが“更紗”を呼ぶ。あなたは“更”で応じる。揺れずに」
 「了解」
 真朱は息を吸い、音の角を落として丁寧に呼んだ。
 「――桂木、更紗」
 胸の奥で薄い痛みが灯り、指先が反射的に硬くなる。
 私は、呼吸の端を切り替えた。
 「……更」
 「もう一度。速く」
 「更」
 「もう一段、低く」
 「更」
 言葉が腹に落ちるたび、仮名と本名の境が薄膜のように撓み、やがて“通れる”感覚に変わっていく。
 真朱が目を細める。
 「いい。――侯爵令嬢・桂木更紗」
 「更」
 「王都に“同行”せよ」
 「更」
 「婚約破棄の夜、泣いただろう?」
 「更」
 最後の問いは、刃の形をしていた。
 でも、答えは刃を鈍らせない。刃の上でバランスを取る術は、ここ数日で嫌というほど覚えた。
 真朱が満足げに頷いた。
 「通ったわね。……では次、音合わせ。羽根の子!」
 呼ばれて、羽根の少年が軽やかに現れた。彼の羽根が一度だけ揺れると、回廊の風鈴が微かに応えた。
 「拍を刻むよ」
 少年の足先が石畳にリズムを刻み、真朱が手で合図を送る。私は呼吸を合わせ、拍を壊さずに一歩、また一歩。
 外から兵の鎧音が届く。規律の拍。重い拍。
 私はそれに呑まれないよう、学院の拍に身を預けた。
 ――拍が揃えば、恐れは割り込む場所を失う。
 第三の訓練、線合わせは短剣の鍔を合わせるように速かった。紙の上で術線を引き、細から太、太から細へ、間を空けずに切り替える。墨は喉、筆は舌。
 「いい。これなら、“影墨”の上からでも別の線を通せる」
 真朱の声が、夜の端に小さく落ちた。

 訓練のあと、息を整えながら空を仰ぐと、朝と夜の境がまた一筋、薄くなっていた。
 時間は、正しく残酷だ。整える者にも、整えられる者にも、平等に刃を向ける。

 *

 昼をまたいで、書記局の部屋。
 机の上に並べられたのは、影墨が混ぜられたと思しき書付けが十数枚。
 羽根の少年が息を詰め、私は細工筆を持った。真朱は部屋の外で見張り、朔弥は生徒会と王都への答弁第二稿の検討で忙殺されている。
 「影墨は、書いた人の“匂い”が混ざってる」
 少年が囁く。
「墨の匂いじゃなくて“手の匂い”。慣れれば分かる」
 「あなたは?」
 「匂いは嗅げる。でも、書き手を特定できるほどじゃない」
 「じゃあ私は、線で掴む」
 私は一枚目の左肩――朱印の、ほんの外側に細い呼吸を通す。墨と墨の間、紙の毛羽がわずかに立って、線が“選び”を示す。
 「……“第七稿”」
 「え?」
 「“均衡式、第七稿”。上塗りの奥に隠れてる章題」
 吸い込んだ息が、喉の奥で氷みたいに鳴る。
 「式……?」
 「うん。契りを“式”として定める試案。多分、書記局内の非公開稿」
 私は次の紙へ筆を送る。
 “第七稿”の下に小さな罫。そこに、薄い字が反転で書かれている。
 「“楔(くさび)配置例――人一、妖一”」
 羽根の少年が息を呑んだ。
 「“人一”が更さんで、“妖一”が……」
 「…………」
 沈黙が言葉の役目を果たす。
 私は三枚目、四枚目と、呼吸の細道を通す。
 「“手はきれいであるべし。迷い、滲み、躊躇、罫外(けいがい)を許すな”」
 「正しすぎる手の流儀……」
 そして五枚目で、筆の腹が紙の下に別の匂いを拾った。
 甘いようで、鉄が混じる。
 「……落色の薬。やっぱりここにも」
 「誰かが“読ませないため”に塗ったんだ」
 私は指先に凪の店で習った対処の粉を取り、唇で湿らせてから線の縁へほんのひとかけ、落とした。
 紙の繊維が一瞬だけ緩み、文字の尾が浮く。
 「“猶予三、上塗りを続行”」
 「三日の猶予……王都の猶予状と、同じ数字」
 背中を汗が走る。
 影墨に隠された章題は、王都の“猶予”と呼応していた。つまり、王都の文言はこの式の影をなぞっている。
 「王都の文官は“手”じゃない。運ぶ手。書いたのは、やっぱり学院の内」
 羽根の少年が唇を噛んだ。
 「このままだと、三日後に“式”が完成しちゃう。更さんが――」
 「楔に、固定される」
 声が自分のものではないみたいに低く出た。
 あの夜の宣明が胸に戻る。
 泣かない、と決めた夜。
 泣かせない、と決めた今。

 「朔弥に――持っていこう」
 「うん!」

 私たちは紙を巻き、簡易の封を施して生徒会室へ走った。
 廊下の角を曲がったとき、僅かな鈴の音。
 足が止まる。
 「……誰か、いる」
 羽根の少年も止まった。
 影が、床の木目に沿って細く伸び、次の角に吸い込まれる。
 追うべきか。
 追えば、こちらの走る音で、「影墨を読めた」ことを知らせることになる。
 私は少年に目配せし、逆へ回る廊下を選んだ。
 “追わない”という選択肢も、牙のひとつだ。

 *

 生徒会室の机の上で、巻物は静かにほどかれた。
 朔弥、真朱、幹部たちが囲む。
 私は影墨の下から拾い上げた章題を、順に読み上げた。
 「均衡式・第七稿」
 「楔配置例――人一、妖一」
「手はきれいであるべし」
「猶予三、上塗りを続行」
 読みながら、喉の奥が乾いていく。
 「式。……“契り”を、式に落とし込む計画」
 真朱が低く言う。
 「“正しい手”が、正しい世界を“計算”で確定させる。誤差――つまり“人”は、式の外へ」
 「式の外に落ちた“人”は、楔に」
 私の声が、紙の上で小さく砕けた。

 朔弥は面の紐に触れ、ひとつ息を置いてから、静かに言った。
 「――『学院の牙』を、ここで定義する」
 部屋の空気が僅かに緊くなる。
 「牙とは、式に噛みつく誤差だ。正しすぎる手が作る式に対して、学院は人の揺らぎで噛みつく。……それを外へ宣言する」
 「宣言?」
 「明朝、“学問の儀”として公開講話をやる。王都の使者にも、兵にも、在学生にも、書記局にも、式と名と人の順を、学院の言葉で示す」
 「牙を、言葉で?」
 「言葉と所作で。……契り堂の上塗りは暴かない。暴く代わりに、『上塗りを選ばない集団』としての学院を明らかにする」
 真朱の目が光る。
 「賭けるのね。世論と礼式に」
 「そうだ。狐面の“舞台”に、舞台を重ねる。観客にされる前に、こちらから演目を出す」
 「その間、内部の手は?」
 「――俺が押さえる」
 面の奥の声が低い。
 押さえる方法を具体的に問う必要はなかった。彼が言うなら、押さえるのだ。半妖の牙を、人の礼式に合わせて隠し持ったまま。

 会議が解散しかけたとき、生徒会室の片隅で視線が合った。
 書記局の上級生――“整える人”。
 彼女は無言で近づき、紙片を差し出した。
 「整えた講話の式。あなたの言葉で崩しながら読めるよう、余白を広く取った。……金は、最小限」
 「ありがとう」
 受け取った紙は、彼女の匂いが薄く混じっている。
 正しさは刃になる。けれど、その刃を人のために寝かせることだってできる。
 彼女の正しさは、昨夜より、少し柔らかかった。

 *

 公開講話の準備は、夜半を過ぎても終わらなかった。
 舞台は渡り廊下に続く斎庭(ゆには)。灯の骨を一本、長く通し、その上に薄く白布を張って、舞台と道の境を曖昧にする。
 「道を舞台に。舞台を道に」
 真朱が短くまとめる。
 「“学問の儀”の形にして、兵も文官も口出しできないように」
 「書記局は?」
 「副局長は来るわ。正しさは“公開”を好む」
 彼女は皮肉っぽく笑った。
 「公開の場で正しさを示すのは、正しい人にとってはご馳走だから」

 私は一度だけ生徒会室へ戻り、机の端に置かれた狐面に目を落とした。
 朔弥は席を外している。兵との折衝か、講話の護りに付く狐王家の使いと段取りの最終確認か。
 面に触れず、朱の結びだけをそっと撫でる。
 「返す期限は、夜だ」
 彼の声が、耳の奥で柔らかく反芻した。

 *

 明けの鐘が一打、空へ吸い込まれていった。
 斎庭に集まる足音が重なる。王都の文官、兵の列、在学生、教員、書記局。
 副局長・朝倉は列の真ん中、筆箱を胸に抱えて立っている。表情は穏やかで、眼差しは冷い。
 舞台の端で、私の代わりに真朱が序の挨拶をした。
 「本日の学問の儀は、『均衡と『名』と『式』に関する公開講話。学院の基礎に触れる。王都の皆様にも、どうぞ見届けていただきたい」
 礼が済むと、視線が私へ集まる。
 足が震えないように、拍をひとつ、ふたつ数える。
 私は舞台と道の境へ一歩出て、白布の上に立った。

 「桂木――更」
 自分で、仮名で、名乗る。
 ざわめきが起こる前に、続けた。
 「わたしは、名を二つ持っている。“桂木更紗”と、“更”。どちらも本当だ。けれど、状況によって通り道が違う。……今日は、その通り道の作り方を、学院の式で示す」
 私は袖から小さな風鈴を取り出し、白布の縁に軽く触れさせた。
 「音」
 小さな音が、観客の呼吸を一瞬だけ揃える。
 「線」
 細い線を引き、太い線を重ね、また細い線で縁をなぞる。
 「――そして名」
 仮名の位置、本名の位置を手の中で切り替え、怖れが生まれる前に通す。
 私は観客のどこを見るでもなく、舞台の向こう側――契り堂の方向を見た。
 「均衡は、式で決められるものじゃない。……ここにいる皆の“名”で、毎日、結び直されるものだ」
 視線が、兵の列の端で止まる。
 一番若い騎士が、ほんのわずか首を傾けた。
 文官は表情を動かさず、まぶたの影だけが微かに震えた。
 書記局の列は……動かない。朝倉は石像のように立ち、筆箱に置いた指は微塵も揺れなかった。

 「式は美しい。正しい。だけど――ゆらぐ名を包みそこねることがある」
 私は白布の端を掴み、片側だけを持ち上げた。
 布は波になる。
 布の波は、舞台と道の境を消し、見えているはずの線を飲み込んだ。
 「学院は、ゆらぎを守る。ゆらぎの上に乗る“人”を守る。……それが学院の牙。式に噛みつく、誤差の牙だ」
 反論が来る。そう思った。
 “正しすぎる手”は、公開の場で正しさを示したがる。
 案の定、列が割れ、朝倉が半歩前へ出た。
 「講話に問を挟んでも?」
真朱が頷く。
 「どうぞ」
 「“ゆらぎ”は、均衡を崩す。君のような楔が必要になる。……学院は“人”を守ると言う。では、誰を?」
 「目の前の人」
 私は即答した。
 朝倉の目に、ほんのわずかな皺。
 「目の前の人を守れば、どこかの人が沈む」
 「“どこか”を指して、誰かを沈める式を、私は信じない」
 布の波が静かに落ち着く。
 「式は道具。人のために使われるべきで、“人を捨てる理由”になってはいけない」
 「正しさに罪はない」
 「捨てる正しさに、私は噛みつく」

 その瞬間、背に温い視線を感じた。
 面を付けた朔弥が、舞台の影に立っている。
 彼は何も言わない。ただ、見ている。
 見ている、という行為そのものが、支えになることを私は学びつつある。

 朝倉は筆箱の蓋を開け、細い筆を持ち上げた。
 「ならば、示してほしい。“式”をどう崩すか」
 「崩さない」
 「?」
 「並べる」
 私は白布の上に、影墨で隠れていた章題を自分の字で書いた。
 「均衡式・第七稿」
 「楔配置例――人一、妖一」
 「手はきれいであるべし」
 「猶予三、上塗りを続行」
 場がざわめく。
 王都の文官の目が、ほんの少しだけ開いた。兵の列に動揺の波。
 朝倉の指先だけが、微かに強張った。
 「その字をどこで」
 「紙が教えた」
 私は笑い、追い打ちをかけるように、紙片を掲げた。
 「式は必要。だが、『手はきれいであるべし』は、人から目を逸らす合図になる」
 「……手がきれいで何が悪い」
 「迷いがないのは美しい。でも、迷いがないふりは、危ない」
 私は筆を置き、掌を観客に向けた。
 「わたしの手は、震える。――それを、恥ずかしいと思わない。震えるから、確かめる。確かめるから、捨てない」
 沈黙が、ゆっくり積もる。
 朝倉が動く前に、私は最後の一言を落とした。
 「式より先に、人がいる。これが――学院」

 講話は、終わった。
 終わり方は静かだった。
 王都の文官は何も言わず、ただ深く一礼した。兵は陣形を崩さないまま、ざわめきを飲み込んだ。
 朝倉は列へ戻り、筆箱を閉じた。その背中は、相変わらず整っている。
 整いすぎて、ひびを見せない。

 *

 斎庭から下がったあと、私は裏手の細い通路に逃げ込むように歩いた。足の震えが遅れてくる。
 「更」
 呼ばれると、身体が泣き方を忘れるように落ち着いた。
 朔弥が面を外さず、ただ距離を詰めて立った。
 「怖かった」
 「怖かったな」
 声だけで、結び目がひとつ、ほどける。
「でも、やれた」
 「やった」
 「……返す?」
 私は手首の朱に触れた。
 「まだ、夜じゃない」
 朔弥の声は少し笑っていて、少し祈っていた。
 私は結び目を押し返し、首を横に振った。
 「じゃあ、夜まで」
 「夜になっても、返さなくていいと言ったら?」
 「困る」
 「困るの?」
「“俺がここにいる限り”の守りを、一生にすると約束してしまいそうだから」
 言葉が、喉で転んで、胸に落ちた。
 呼吸が一瞬、どこへ行ったか分からなくなり、すぐ戻る。
 「……困る」
 ようやく出た自分の声が震えているのを、彼は責めなかった。
 「大丈夫だ。三日で決める話じゃない。今夜は、ここまででいい」
 面の向こうで、目を細めた気配がした。
 「礼は、朝に」
 「またそれ」
 「好きなんだ」

 *

 公開講話の余韻が校内をめぐり、賛否が渦を巻く。
 肯定は若い生徒たちから。否定は、正しさに自信のある者から。沈黙は、疲れた者から。
 “世論”はすぐには形にならない。けれど、空気は確実に変わった。
 王都の文官は、その空気を嗅ぎ取る嗅覚に長けている。彼は夕刻の前に生徒会室を訪れ、短い文を置いていった。
 > 王都覚書
 > 学問の儀、拝見。
 > 猶予三のうち、一を消費。
> 残二。学院内の上塗りに関し、王都は不介入。
> ただし、夜の鐘までに学院としての文案を一。
 文官は最後に、ほとんど表情を変えずに言った。
 「式は、働きます。今日のあなた方の言葉も、働きます」
 そして、去った。

 日が落ち、灯が再び高くなった頃、真朱が駆け込んで来た。
 「更、朔弥! 契り堂よ」
 「上塗りが?」
 「違う。――剝がれてる」
 時間が、一瞬、音を失った。
 「誰が」
 「わからない。朱の層が、中から浮いてる。……“式”を書き換えに行った手の跡」
 朝倉か。
 それとも、彼の“正しさ”を整える誰かか。
 私は息を飲み、朱の結びを押さえた。
 「――行こう」

 契り堂の扉は開いていた。
 夜気が紙を撫で、墨の匂いが濃くなっている。
 最奥、上塗りの朱が、皮膜のように波打っていた。
 その前に立っていたのは、朝倉――ではなかった。
 書記局の局長。白髪が増え、目の下に深い影。
 「局長……?」
 「すまない」
 彼はかすれた声で言った。
 「私が剝がした。――“式”は、人を捨てる」
 崩れた正しさの下から、人の声が現れた。
 私が一歩、踏み出す。
 朱の膜が、ひとりでに裂け、裏側から黒い字が浮かび上がった。
 “均衡式・第八稿”
 「……第八?」
 「朝倉が進めていた。君の講話を受けて、楔二から楔一に変更し、“妖”を会長に確定する――」
 胸の奥で、何かが折れた音がした。
 「朔弥を?」
 「狐王家の“半妖”は、人と妖の均衡の概念だ。式にとって都合がいい。……だから、楔に」
 言い終わる前に、朔弥が前へ出た。
 面の端から、薄い金の耳が一瞬だけ覗く。
 「上塗りでも、式でも、俺は楔にならない」
 静かな声ほど、深く刺さる。
 「更を、前に立たせた。俺は隣に立つ。――それが俺の式だ」
 局長は膝から崩れ、床に手をついた。
 「助けてくれ。……正しさは、いつから、こんなに重くなった」
 私は彼の肩に手を置いた。
 「重いものを支えるのが、学院。――人で支える」
 朱の膜が、またひとつ、剝がれる。
 下に眠っていたのは、古い、しかし温い字。
 > 名は力。人は名に宿る。
 > 灯は名を守るためにある。
 > 上塗りは、怠惰。
 祖母の字に、よく似ていた。

 「朝倉は?」
 真朱が息を整えながら問う。
 「斎庭の端。――“公開の正しさ”を、もう一度整えようとしてる」
 上級生の声が、扉の影から降ってきた。
 “整える人”――彼女は深く息を吐き、私たちを見た。
「行って。牙を見せたのなら、本当の噛み跡を残す番よ」
 「あなたは?」
 「ここを整える。……“灯のために整える”のを、やっと覚えたから」
 彼女の笑みは、今までで一番、人間だった。

 私は朔弥と目を合わせ、頷いた。
 「行こう」
 「行く」
 朱の結びが、熱を返す。
 拍が揃う。
 足音が、学院の骨に沿って走る。
 斎庭の端――朝倉の“正しさ”が、再び公開の場で鋭利になる前に。
 牙は研がれた。
 あとは――噛みつくだけだ。

(第9話 了/次回「第10話『灯篭の海、告白の影』」へ続く)