琥珀色の燭台が揺れていた。
音楽は甘く、唇の裏側に砂糖菓子のざらりとした気配を残す。王都の夜会は蜜の香りで満ち、ひとときだけ人々は“幸福”に似た仮面を顔へ貼り付ける。仮面の裏側がどうなっているのか、誰もわざわざ覗こうとはしない――たとえ、そこに裂け目が走っていても。
「侯爵令嬢・桂木更紗。ここに、婚約を破棄する」
たった一行の宣明で、私の世界は音もなく沈んだ。舞曲は続いている。笑い声も続いている。私だけが、薄い氷の下に落ちてしまったみたいだった。
宣言したのは、王家の縁戚で若き将・シュヴァルト様。彼の声は剣の刃のように明晰で、美しかった。だからこそ、刺さった。
「……理由を、伺えますか」
喉が乾いていた。けれど声は驚くほど素直に出た。貴族の娘として習い覚えた礼節は、こういう時にも役に立つ――皮肉なことに。
「君は嫉妬深く、正妃の器に非(あら)ず」
薄く笑う。私のどこが? と問えば、彼はきっと列挙するだろう。私が学びに没頭し、舞踏よりも書庫を好み、贈り物の宝石よりも古文書の注釈に歓声を上げること。令嬢らしからぬ、と。王家の忙しなさに捌けた性格が必要だ、と。
――そして、誰も知らない“もうひとつの理由”を彼は口にしない。口にできない、と言ったほうが近いのだろう。背後でうごめく、古い契りの匂い。
膝の力が抜ける前に、私は礼をした。周囲の視線が刺す。女たちのさざめきは、真珠の首飾りが切れたときに散る音に似ていた。
「ご意志のままに」
それだけ言って、踵を返す。
――泣かない。泣いても、誰も拾ってはくれない。
夜会の扉を抜けると、王都の空気は冷たかった。冬はとうに過ぎたはずなのに、石畳には氷の匂いが残っている。馬車呼びの少年に視線を投げると、彼は私の顔を見て、言葉を飲み込んだ。良い子。見なかったふりをしてくれる人々は、時に神さまより優しい。
「更紗!」
駆け寄ってきたのは、従姉の凪(なぎ)だった。私より二つ年上、城下で薬舗を営む、柔らかい声の人。
私の手を取ると、その温度だけで、気が緩(ゆる)みそうになる。
「聞いたわ。大丈夫?」
「大丈夫。きっと、こうなると思っていたから」
強がりではない。いつからか、私の婚約は“家のための駒”の匂いが濃かった。私は駒として扱われるやり方を覚えたつもりだったが、駒のままで終わるつもりもなかった。
――私には、したい学びがあった。家に仕えるために小さく折り畳まれるより、世界の秘密にもう少し触れてみたかった。
「今夜はうちに来て。父上(叔父)にも話してある。……それと、例の件」
凪が声を落とす。例の件、というのは“朧(おぼろ)学院”のことだ。夜のあいだだけ開く、普通ではない学び舎。そこでは人も、あやかしも、同じ机を並べるという。
禁忌と呼ぶ人もいる。けれど、私はずっと、そこへ行きたかった。
理由は二つ。一つは、術札と古文書の本格的な学びができるから。もう一つは――王都に古くから伝わる“契り”の真相に近づけるから。
凪は私の目を覗きこみ、微笑(ほほえ)んだ。
「覚悟は?」
「あるわ。泣くのは、明日の朝にする」
「明日の朝まで泣かない子が、朝になって泣けるわけないでしょうに」
意地悪を言いながら、凪はそっと私の髪に手を入れた。ほどく。結い直す。私の髪は黒く長い。これが、これからしばらくは“邪魔”になる。
「ねえ、更紗。――男の名は、何がいい?」
その一言で、心臓が静かに跳ねた。
家を出るなら、学園へ潜るなら、身を薄くする必要がある。女は目立つ。だから、男装。
私は少し考えて、短く答えた。
「“更(さら)”。字は同じで、読みを切るの」
凪は満足げに頷き、奥へ手招いた。薬舗の裏にある小さな部屋。そこには男物の学制服と、短くまとめるための紐、包帯、喉を柔らかく震わせるための飴が用意されていた。凪が用意してくれたのだ。いつから準備してくれていたのだろう。
――ありがとう、という言葉は簡単すぎて、喉でほどけた。
着替えを終えると、鏡の中に“見知らぬ私”が立っていた。
髪はうなじで束ね、前髪を少し落として額を隠す。胸元は布で平らに。歩き方は短く、踵に力を入れすぎない。
“更紗”は、そこにいなかった。“更”がいた。
凪は私の肩に狐面を載せ、首の後ろで結んだ。白い面に金の刷毛目が走る。祭礼に用いる軽い面。視界は狭まるけれど、表情を隠すには都合が良い。
「学院の門前で、これを掲げるの。迎えが来るはず」
「迎えって、誰が?」
「夜の人。……たぶん、“狐”」
冗談めかして言ったのに、凪の目は冗談をしていなかった。
午後と夜の境目が薄まる時刻、私たちは薬舗の裏口から出た。王都の路地は意外とよく知っている。寄り道は得意だ。眉の形を変えないで遠回りする技は、学問より少し簡単だ。
朧学院へ向かう坂道は、月の光で湿っていた。石段の一段一段に、白い息が薄く降りているようだった。
狐面を額に上げ、門柱の前で軽く掲げる。風が鳴り、灯がひとつ、ふたつ、点った。
――そして、闇が、動いた。
闇には輪郭がなかった。けれど、音があった。衣擦れのような、紙を裂くような、乾いた音。
次の瞬間、足元の影が伸び、私の踝(くるぶし)に触れた。冷たい。思わず身を引くと、影は蛇のように細くなり、私の手首へ絡みつく。
「喪(も)が……」
口をついて出たのは、古文書で読んだ語だ。形を持たない怨嗟の屑。人の隙間に入り込んで、体温を盗む。
影が手首を締める。骨に触れるほど、冷たい。
――落ち着け。息を短く、数を数える。凪から渡された小さな札を、指の腹で探る。
紙の角、墨の滲み。人差し指の腹に貼りついた微かな粉。
札を捻り、吐息に乗せて囁く。
「“灯(あかし)”」
札が白く弾け、影が一瞬だけ薄くなった。けれど、逃げ切れない。足はまだ掴まれている。
そのとき、風が反対側から走った。
鈴の音がした――と、思った。実際には鈴は鳴っていなかったのかもしれない。風が、鈴の音に似ていたのだ。
「離れろ」
低い声。
影が、ほどけた。月の光が刃になって、私の足首から滑り出ていく。
闇の向こうから現れたのは、黒い学生服に白い狐面。面の下から覗いた髪は夜より少し明るく、風が止むと金の毛先が耳元で揺れた――耳? 一瞬、耳の形が鋭く見えた。目の錯覚だろうか。
彼は私を見る。面の穴から覗く双眸は、驚くほど静かだった。
「新入か」
「……たぶん」
「名は」
「更」
「更(さら)。……面を少し下げろ。お前の目が、震えている」
私は言われるまま、狐面を少し下げた。頬に夜気が触れる。彼の視線が、私の目の縁を撫でた。
――見透かされる、と思った。女であること。今夜、婚約を破棄されたこと。
けれど彼は、ただ短く息を吐いただけだった。
「怖かったな」
たったそれだけで、胸の奥の硬い塊が少しほどけた。
彼は懐から朱の紐を取り出し、私の手首へ軽く巻いた。朱は温かく、影が二度とそこを通れないように“線”を結ぶ。
「朧学院・生徒会長、東雲(しののめ)朔弥。迎えに来た」
「生徒会長が、直接?」
「夜は手が足りない。……それに、お前は放っておけない顔をしている」
狐面越しに、声だけが笑った。
私は気づく。彼の言葉の節回しは、王都の礼式に似ているようで、どこか違った。言葉の尾に、古い匂いが混ざっている。
――狐。もしも彼が狐だとしたら。いや、そんなはず。
門が開いた。
中庭は思ったより明るく、灯篭が幾何学模様に並んでいた。芝に露が降り、灯の輪が重なりあう。
朔弥は歩きながら短く説明する。夜だけ開く学舎であること、人とあやかしが混在していること、私のように“訳あり”の者が少なくないこと。
私は頷きながら、視界の隅で彼の横顔を盗み見る。面の下、頬骨の線は綺麗だった。
――そして、ふいに、彼が囁いた。
「声を無理に低くしなくていい」
歩が止まる。彼は前を向いたまま、続けた。
「女だろう。秘密は守る」
面越しの目が笑っていないのに、声だけが少しだけ柔らかい。
私は喉の緊張を解き、いつもの高さに戻した。
「ありがとう。……どうして、わかったの」
「風の音が違う」
意味のわからない答え。でも、嫌いではない。
校舎の手前で、朔弥はふと立ち止まった。
白い面の口元が、私の方へ傾く。近い。
彼は指先で空をなぞり、薄い光の糸を結んだ。私の額の前で、糸が輪になる。輪は小さな火のようにゆらぎ、すぐに消えた。
「今だけの“仮(かり)の護り”。夜が深い。喪(も)の屑がまだ散っている」
「あなたは、何者」
問うと、彼は肩を竦めた。
「生徒会長。ああ、それから――」
言い淀む。面の向こうの沈黙は、短いのに長く感じられた。
「狐が、人に化けるのは得意だ」
冗談だろうか。私は笑うか迷い、結局笑わなかった。
扉が開く。廊下は白く、床板が猫のように静かだった。
朔弥は職員室――ではなく、生徒会室へ案内した。中は整然としていて、壁に古い地図と術式の図版が掛かっている。
机に置かれた帳簿の表紙には、墨で「契り」と記されていた。
「学院には規律がある。互いを傷つけるな。名を乱発するな。夜の約束を破るな。……名は、力だ」
「知ってる。古文書で読んだ」
「なら早い。お前の仮名は“更”だな。字は?」
「桂に同じ“更”。ただ、読みを切るだけ」
「賢い切り方だ」
朔弥は軽く頷き、帳簿の端に私の“印”を作ってくれた。朱が紙に沁みる。
そのとき、廊下を風が走った。紙の匂いがふっと消え、代わりに鉄の匂いがした。
朔弥は面も外さずに立ち上がり、扉へ目を向ける。
「誰かが、お前の名を囁いた」
「喪神?」
「そうだ。だが今の囁きは――“人”の舌の動きだ」
私の背中を冷たい汗がなぞる。
誰。私の本名を、誰が。
王都の夜会からここまで、私は凪としか言葉を交わしていない。道ですれ違った人々は私を見なかったはずだ。
朔弥は机の引き出しから小さな護符を取り出し、私の掌に載せた。薄い紙片は、人肌より少し温かかった。
「これは“灯篭祭”までの仮の鍵だ。祭の夜、学院はいちど“開く”。お前の名を喰うものが近づく。……でも、噛ませない」
「どうして、そこまでしてくれるの」
私が問うと、朔弥は面を傾け、少しだけ沈黙した。
答えは、簡単なのに、彼の口を出るまでに時間がかかった。
「お前は、助けられる側の顔をしていない」
「……どういう意味」
「助けられるふりをして、助ける準備をしている顔だ」
胸の奥で、何かが僅かに鳴った。
私は、救われたくてここへ来たのではない。ここまで来る間も、凪に支えられながら、いつだって自分の足で歩こうとしていた。
――それを、見抜く人がいる。見抜いた上で、手を貸すと言う人がいる。
「ありがとう」
やっと言えた。さっき喉でほどけた言葉。
朔弥は短く首を振った。
「礼は、灯篭祭の夜に。……それまで、お前の秘密は俺が預かる」
その約束の音は、静かに、確かに、私の耳の奥で灯になった。
夜はまだ、長い。
婚約破棄の痛みは、完全には消えない。けれど、その痛みが熱になり、灯になって、私の足元を照らすなら――私は、歩ける。
狐面の生徒会長が前を行く。私は一歩、前へ出た。
ここから始まる物語が、たとえ古い“契り”の糸を切り裂くことになったとしても。
私は、夜の学園の生徒になった。
音楽は甘く、唇の裏側に砂糖菓子のざらりとした気配を残す。王都の夜会は蜜の香りで満ち、ひとときだけ人々は“幸福”に似た仮面を顔へ貼り付ける。仮面の裏側がどうなっているのか、誰もわざわざ覗こうとはしない――たとえ、そこに裂け目が走っていても。
「侯爵令嬢・桂木更紗。ここに、婚約を破棄する」
たった一行の宣明で、私の世界は音もなく沈んだ。舞曲は続いている。笑い声も続いている。私だけが、薄い氷の下に落ちてしまったみたいだった。
宣言したのは、王家の縁戚で若き将・シュヴァルト様。彼の声は剣の刃のように明晰で、美しかった。だからこそ、刺さった。
「……理由を、伺えますか」
喉が乾いていた。けれど声は驚くほど素直に出た。貴族の娘として習い覚えた礼節は、こういう時にも役に立つ――皮肉なことに。
「君は嫉妬深く、正妃の器に非(あら)ず」
薄く笑う。私のどこが? と問えば、彼はきっと列挙するだろう。私が学びに没頭し、舞踏よりも書庫を好み、贈り物の宝石よりも古文書の注釈に歓声を上げること。令嬢らしからぬ、と。王家の忙しなさに捌けた性格が必要だ、と。
――そして、誰も知らない“もうひとつの理由”を彼は口にしない。口にできない、と言ったほうが近いのだろう。背後でうごめく、古い契りの匂い。
膝の力が抜ける前に、私は礼をした。周囲の視線が刺す。女たちのさざめきは、真珠の首飾りが切れたときに散る音に似ていた。
「ご意志のままに」
それだけ言って、踵を返す。
――泣かない。泣いても、誰も拾ってはくれない。
夜会の扉を抜けると、王都の空気は冷たかった。冬はとうに過ぎたはずなのに、石畳には氷の匂いが残っている。馬車呼びの少年に視線を投げると、彼は私の顔を見て、言葉を飲み込んだ。良い子。見なかったふりをしてくれる人々は、時に神さまより優しい。
「更紗!」
駆け寄ってきたのは、従姉の凪(なぎ)だった。私より二つ年上、城下で薬舗を営む、柔らかい声の人。
私の手を取ると、その温度だけで、気が緩(ゆる)みそうになる。
「聞いたわ。大丈夫?」
「大丈夫。きっと、こうなると思っていたから」
強がりではない。いつからか、私の婚約は“家のための駒”の匂いが濃かった。私は駒として扱われるやり方を覚えたつもりだったが、駒のままで終わるつもりもなかった。
――私には、したい学びがあった。家に仕えるために小さく折り畳まれるより、世界の秘密にもう少し触れてみたかった。
「今夜はうちに来て。父上(叔父)にも話してある。……それと、例の件」
凪が声を落とす。例の件、というのは“朧(おぼろ)学院”のことだ。夜のあいだだけ開く、普通ではない学び舎。そこでは人も、あやかしも、同じ机を並べるという。
禁忌と呼ぶ人もいる。けれど、私はずっと、そこへ行きたかった。
理由は二つ。一つは、術札と古文書の本格的な学びができるから。もう一つは――王都に古くから伝わる“契り”の真相に近づけるから。
凪は私の目を覗きこみ、微笑(ほほえ)んだ。
「覚悟は?」
「あるわ。泣くのは、明日の朝にする」
「明日の朝まで泣かない子が、朝になって泣けるわけないでしょうに」
意地悪を言いながら、凪はそっと私の髪に手を入れた。ほどく。結い直す。私の髪は黒く長い。これが、これからしばらくは“邪魔”になる。
「ねえ、更紗。――男の名は、何がいい?」
その一言で、心臓が静かに跳ねた。
家を出るなら、学園へ潜るなら、身を薄くする必要がある。女は目立つ。だから、男装。
私は少し考えて、短く答えた。
「“更(さら)”。字は同じで、読みを切るの」
凪は満足げに頷き、奥へ手招いた。薬舗の裏にある小さな部屋。そこには男物の学制服と、短くまとめるための紐、包帯、喉を柔らかく震わせるための飴が用意されていた。凪が用意してくれたのだ。いつから準備してくれていたのだろう。
――ありがとう、という言葉は簡単すぎて、喉でほどけた。
着替えを終えると、鏡の中に“見知らぬ私”が立っていた。
髪はうなじで束ね、前髪を少し落として額を隠す。胸元は布で平らに。歩き方は短く、踵に力を入れすぎない。
“更紗”は、そこにいなかった。“更”がいた。
凪は私の肩に狐面を載せ、首の後ろで結んだ。白い面に金の刷毛目が走る。祭礼に用いる軽い面。視界は狭まるけれど、表情を隠すには都合が良い。
「学院の門前で、これを掲げるの。迎えが来るはず」
「迎えって、誰が?」
「夜の人。……たぶん、“狐”」
冗談めかして言ったのに、凪の目は冗談をしていなかった。
午後と夜の境目が薄まる時刻、私たちは薬舗の裏口から出た。王都の路地は意外とよく知っている。寄り道は得意だ。眉の形を変えないで遠回りする技は、学問より少し簡単だ。
朧学院へ向かう坂道は、月の光で湿っていた。石段の一段一段に、白い息が薄く降りているようだった。
狐面を額に上げ、門柱の前で軽く掲げる。風が鳴り、灯がひとつ、ふたつ、点った。
――そして、闇が、動いた。
闇には輪郭がなかった。けれど、音があった。衣擦れのような、紙を裂くような、乾いた音。
次の瞬間、足元の影が伸び、私の踝(くるぶし)に触れた。冷たい。思わず身を引くと、影は蛇のように細くなり、私の手首へ絡みつく。
「喪(も)が……」
口をついて出たのは、古文書で読んだ語だ。形を持たない怨嗟の屑。人の隙間に入り込んで、体温を盗む。
影が手首を締める。骨に触れるほど、冷たい。
――落ち着け。息を短く、数を数える。凪から渡された小さな札を、指の腹で探る。
紙の角、墨の滲み。人差し指の腹に貼りついた微かな粉。
札を捻り、吐息に乗せて囁く。
「“灯(あかし)”」
札が白く弾け、影が一瞬だけ薄くなった。けれど、逃げ切れない。足はまだ掴まれている。
そのとき、風が反対側から走った。
鈴の音がした――と、思った。実際には鈴は鳴っていなかったのかもしれない。風が、鈴の音に似ていたのだ。
「離れろ」
低い声。
影が、ほどけた。月の光が刃になって、私の足首から滑り出ていく。
闇の向こうから現れたのは、黒い学生服に白い狐面。面の下から覗いた髪は夜より少し明るく、風が止むと金の毛先が耳元で揺れた――耳? 一瞬、耳の形が鋭く見えた。目の錯覚だろうか。
彼は私を見る。面の穴から覗く双眸は、驚くほど静かだった。
「新入か」
「……たぶん」
「名は」
「更」
「更(さら)。……面を少し下げろ。お前の目が、震えている」
私は言われるまま、狐面を少し下げた。頬に夜気が触れる。彼の視線が、私の目の縁を撫でた。
――見透かされる、と思った。女であること。今夜、婚約を破棄されたこと。
けれど彼は、ただ短く息を吐いただけだった。
「怖かったな」
たったそれだけで、胸の奥の硬い塊が少しほどけた。
彼は懐から朱の紐を取り出し、私の手首へ軽く巻いた。朱は温かく、影が二度とそこを通れないように“線”を結ぶ。
「朧学院・生徒会長、東雲(しののめ)朔弥。迎えに来た」
「生徒会長が、直接?」
「夜は手が足りない。……それに、お前は放っておけない顔をしている」
狐面越しに、声だけが笑った。
私は気づく。彼の言葉の節回しは、王都の礼式に似ているようで、どこか違った。言葉の尾に、古い匂いが混ざっている。
――狐。もしも彼が狐だとしたら。いや、そんなはず。
門が開いた。
中庭は思ったより明るく、灯篭が幾何学模様に並んでいた。芝に露が降り、灯の輪が重なりあう。
朔弥は歩きながら短く説明する。夜だけ開く学舎であること、人とあやかしが混在していること、私のように“訳あり”の者が少なくないこと。
私は頷きながら、視界の隅で彼の横顔を盗み見る。面の下、頬骨の線は綺麗だった。
――そして、ふいに、彼が囁いた。
「声を無理に低くしなくていい」
歩が止まる。彼は前を向いたまま、続けた。
「女だろう。秘密は守る」
面越しの目が笑っていないのに、声だけが少しだけ柔らかい。
私は喉の緊張を解き、いつもの高さに戻した。
「ありがとう。……どうして、わかったの」
「風の音が違う」
意味のわからない答え。でも、嫌いではない。
校舎の手前で、朔弥はふと立ち止まった。
白い面の口元が、私の方へ傾く。近い。
彼は指先で空をなぞり、薄い光の糸を結んだ。私の額の前で、糸が輪になる。輪は小さな火のようにゆらぎ、すぐに消えた。
「今だけの“仮(かり)の護り”。夜が深い。喪(も)の屑がまだ散っている」
「あなたは、何者」
問うと、彼は肩を竦めた。
「生徒会長。ああ、それから――」
言い淀む。面の向こうの沈黙は、短いのに長く感じられた。
「狐が、人に化けるのは得意だ」
冗談だろうか。私は笑うか迷い、結局笑わなかった。
扉が開く。廊下は白く、床板が猫のように静かだった。
朔弥は職員室――ではなく、生徒会室へ案内した。中は整然としていて、壁に古い地図と術式の図版が掛かっている。
机に置かれた帳簿の表紙には、墨で「契り」と記されていた。
「学院には規律がある。互いを傷つけるな。名を乱発するな。夜の約束を破るな。……名は、力だ」
「知ってる。古文書で読んだ」
「なら早い。お前の仮名は“更”だな。字は?」
「桂に同じ“更”。ただ、読みを切るだけ」
「賢い切り方だ」
朔弥は軽く頷き、帳簿の端に私の“印”を作ってくれた。朱が紙に沁みる。
そのとき、廊下を風が走った。紙の匂いがふっと消え、代わりに鉄の匂いがした。
朔弥は面も外さずに立ち上がり、扉へ目を向ける。
「誰かが、お前の名を囁いた」
「喪神?」
「そうだ。だが今の囁きは――“人”の舌の動きだ」
私の背中を冷たい汗がなぞる。
誰。私の本名を、誰が。
王都の夜会からここまで、私は凪としか言葉を交わしていない。道ですれ違った人々は私を見なかったはずだ。
朔弥は机の引き出しから小さな護符を取り出し、私の掌に載せた。薄い紙片は、人肌より少し温かかった。
「これは“灯篭祭”までの仮の鍵だ。祭の夜、学院はいちど“開く”。お前の名を喰うものが近づく。……でも、噛ませない」
「どうして、そこまでしてくれるの」
私が問うと、朔弥は面を傾け、少しだけ沈黙した。
答えは、簡単なのに、彼の口を出るまでに時間がかかった。
「お前は、助けられる側の顔をしていない」
「……どういう意味」
「助けられるふりをして、助ける準備をしている顔だ」
胸の奥で、何かが僅かに鳴った。
私は、救われたくてここへ来たのではない。ここまで来る間も、凪に支えられながら、いつだって自分の足で歩こうとしていた。
――それを、見抜く人がいる。見抜いた上で、手を貸すと言う人がいる。
「ありがとう」
やっと言えた。さっき喉でほどけた言葉。
朔弥は短く首を振った。
「礼は、灯篭祭の夜に。……それまで、お前の秘密は俺が預かる」
その約束の音は、静かに、確かに、私の耳の奥で灯になった。
夜はまだ、長い。
婚約破棄の痛みは、完全には消えない。けれど、その痛みが熱になり、灯になって、私の足元を照らすなら――私は、歩ける。
狐面の生徒会長が前を行く。私は一歩、前へ出た。
ここから始まる物語が、たとえ古い“契り”の糸を切り裂くことになったとしても。
私は、夜の学園の生徒になった。



