その部屋に、泊まりたいと思いますか?

兄がいなくなったのは、十五年前のことです。
当時、兄は三十代前半で、真面目に会社勤めをしていました。特に大きな借金があったわけでもなく、家庭不和があったわけでもありません。ただ、少し疲れている様子はありました。生真面目な性格だったので「たまには息抜きしないとな」なんて笑っていましたから。

あの日も普通に家を出たんです。「懸賞で当たったんだ。温泉に行ってくる」と小さなスーツケースを持って。まさか、それが最後になるなんて思いもしませんでした。

兄が応募していたのは、確か旅行雑誌の懸賞だったと思います。『幸せを呼ぶ部屋』なんて、今考えればずいぶんと大げさな名前ですど……兄はああいうのが好きで。宝くじも毎回買うような人でした。だから家族は「よかったじゃない。ゆっくりしてきなさい」と送り出したんです。

ところが、そのまま戻ってこなかった。
翌日も、翌々日も。会社には「体調不良で休む」と本人から電話が入っていたそうですが、それ以降、私達も音信不通になりました。

警察に捜索願を出し、地元紙にも小さく記事が載りました。でも結局、兄の足取りは旅館に泊まったところで途絶えていました。チェックアウトの記録もなかったそうです。
旅館の女将さんは「確かにお泊まりいただきました。でも翌朝、部屋は空になっておりました」と……それだけを繰り返しました。

部屋には荷物も残っていませんでした。スーツケースも財布も、すべて持ち出されたまま。まるで自分の意思で出ていったように。でも兄はそんな人じゃない。家族を置いて蒸発するような性格ではありません。

……不思議なのは、兄が失踪する直前に書いていた日記です。机の上に開かれたままのページには、こうありました。
『白い蛇の夢を見た。目が赤く光って、じっとこちらを見ていた。でも、不思議と怖くはなかった。守られているような、見張られているような──』

最後の一文は途中で途切れていました。
今でも、あれが兄の最後の言葉なのかと思うと胸が苦しくなります。

あの旅館はまだあるんですよね?
もし今も『幸せを呼ぶ部屋』という宣伝文句を使っているのなら……どうか、軽い気持ちで泊まらないでください。私たちのように、大切な人を失うことになるかもしれませんから。