いやぁ、懐かしいですね。幸せを呼ぶ部屋ですか。
……確か、私が三十代半ばのときに泊まったんです。もう二十年近く前になりますね。まだあるんですか?
あの頃の私は、正直に言うと人生が行き詰まってました。地方の中小企業で営業をやってたんですが、ノルマに追われるだけで先が見えない。お恥ずかしい話、人見知りが激しくて。今もちょっと緊張してます……すみません。
そんな私なんでね、妻も愛想尽きたのか、家庭もぎくしゃくしてましたし。将来のことを考えると不安ばかりで。
たまたま雑誌の懸賞欄で【当選すれば幸せを呼ぶ部屋にご招待致します】なんて見つけて、応募したんですよ。冗談半分だと思ってね。
それが、まさか当たるとは思わなかったなぁ。
行ってみると、小さいけど、老舗って感じの立派な旅館でね。よくある観光ホテルの企画だと思ってたから。女将さんに案内されて、『幸せを呼ぶ部屋』……実際は特別和室のひとつに通されたんですけど。まあ……普通の和室でしたよ。女将さんも丁寧に対応してくれて、最初は、幸せなんて言葉に結びつくような特別感はなかったんです。
そうだ、床の間に掛けられていた掛け軸だけは妙に印象に残ってます。白蛇が描かれていて、赤い目でこちらをじっと見ている。あれは縁起物だと女将さんが説明してくれたけれど、正直言って少し落ち着かなかった。客室に蛇の掛け軸は……趣味が悪いじゃないですか。縁起物なんて言われてもねぇ。私、足のない生き物が苦手なんですよ。
それにね、床の間の横にも木彫りの蛇が置かれていたんです。素朴な造りでしたが、不思議と存在感があってね。夜中にふと目を覚ましたとき、その木彫りが月明かりを浴びて、まるで生きてるみたいに見えたのを覚えています。……でも、そんなことは旅行の余談でしょう。
翌朝、温泉に浸かってから旅館を出たんです。女将さんに「お部屋に気に入られてよかったですね」と言われましたね。なんのことかと思ったんですがね、その帰り道でふと、やめようと思ったんです。勤めてた会社を。何の計画もなかったのに、胸の奥から急に「これでいいや」という気持ちが湧いてきて。
家に帰ってすぐ、妻に「会社を辞める」と言いました。当然大反対されましたよ。でも、なぜか揺らがなかった。昔から料理が好きで、学生時代に屋台でバイトしてたのを思い出して、突拍子もなく「ラーメン屋をやりたい」と口にしたんです。妻は呆れてましたけど。
数年修行して、それから小さいお店をオープンしました。
最初の頃は大変でしたねぇ。客も少なく、材料を無駄にする日もあった。それでも必死で続けているうちに、口コミが広がって少しずつ常連が増えた。開業して五年も経つ頃には軌道に乗って、妻も店を手伝ってくれるようになり、家庭も立て直せた。今では5店舗を経営してます。
思えば、あの部屋に泊まらなければ一生会社を辞められなかったかもしれない。自分の人生を変える勇気なんて出なかった。だから、私にとってあの旅館は、本当に人生の転機をくれた場所なんですよ。
……もう一度泊まりたいかって? んーー正直迷いますね。二度も幸福を迎える必要はない気がする。あの夜が、私には一度きりで十分だったからです。
悪い噂も聞いたし……せっかく掴んだ幸せを、無駄にしたくないですからね。
……確か、私が三十代半ばのときに泊まったんです。もう二十年近く前になりますね。まだあるんですか?
あの頃の私は、正直に言うと人生が行き詰まってました。地方の中小企業で営業をやってたんですが、ノルマに追われるだけで先が見えない。お恥ずかしい話、人見知りが激しくて。今もちょっと緊張してます……すみません。
そんな私なんでね、妻も愛想尽きたのか、家庭もぎくしゃくしてましたし。将来のことを考えると不安ばかりで。
たまたま雑誌の懸賞欄で【当選すれば幸せを呼ぶ部屋にご招待致します】なんて見つけて、応募したんですよ。冗談半分だと思ってね。
それが、まさか当たるとは思わなかったなぁ。
行ってみると、小さいけど、老舗って感じの立派な旅館でね。よくある観光ホテルの企画だと思ってたから。女将さんに案内されて、『幸せを呼ぶ部屋』……実際は特別和室のひとつに通されたんですけど。まあ……普通の和室でしたよ。女将さんも丁寧に対応してくれて、最初は、幸せなんて言葉に結びつくような特別感はなかったんです。
そうだ、床の間に掛けられていた掛け軸だけは妙に印象に残ってます。白蛇が描かれていて、赤い目でこちらをじっと見ている。あれは縁起物だと女将さんが説明してくれたけれど、正直言って少し落ち着かなかった。客室に蛇の掛け軸は……趣味が悪いじゃないですか。縁起物なんて言われてもねぇ。私、足のない生き物が苦手なんですよ。
それにね、床の間の横にも木彫りの蛇が置かれていたんです。素朴な造りでしたが、不思議と存在感があってね。夜中にふと目を覚ましたとき、その木彫りが月明かりを浴びて、まるで生きてるみたいに見えたのを覚えています。……でも、そんなことは旅行の余談でしょう。
翌朝、温泉に浸かってから旅館を出たんです。女将さんに「お部屋に気に入られてよかったですね」と言われましたね。なんのことかと思ったんですがね、その帰り道でふと、やめようと思ったんです。勤めてた会社を。何の計画もなかったのに、胸の奥から急に「これでいいや」という気持ちが湧いてきて。
家に帰ってすぐ、妻に「会社を辞める」と言いました。当然大反対されましたよ。でも、なぜか揺らがなかった。昔から料理が好きで、学生時代に屋台でバイトしてたのを思い出して、突拍子もなく「ラーメン屋をやりたい」と口にしたんです。妻は呆れてましたけど。
数年修行して、それから小さいお店をオープンしました。
最初の頃は大変でしたねぇ。客も少なく、材料を無駄にする日もあった。それでも必死で続けているうちに、口コミが広がって少しずつ常連が増えた。開業して五年も経つ頃には軌道に乗って、妻も店を手伝ってくれるようになり、家庭も立て直せた。今では5店舗を経営してます。
思えば、あの部屋に泊まらなければ一生会社を辞められなかったかもしれない。自分の人生を変える勇気なんて出なかった。だから、私にとってあの旅館は、本当に人生の転機をくれた場所なんですよ。
……もう一度泊まりたいかって? んーー正直迷いますね。二度も幸福を迎える必要はない気がする。あの夜が、私には一度きりで十分だったからです。
悪い噂も聞いたし……せっかく掴んだ幸せを、無駄にしたくないですからね。



