私は、二度目の宿泊だった。
ただの観察ではなく、今回は当選者として選ばれた協力者●●に同行する。先に宿帳の記入を終えた私は、他人を装い、ロビーで彼の到着を待った。
よくある話だ。●●は友人の勧めで、仮想通貨に手を出し、多額の負債を抱えてしまった。『幸せを呼ぶ部屋』に泊まった成功者達の記事を見て、一念発起で応募したのだという。
『幸せを呼ぶ部屋』に泊まれば、自分も富を得られる。こんな生活から脱却できるのなら、喜んで協力をする。だから、その怨念? みたいなものがあるのなら、必ず払ってくださいよ? もし失敗したら、責任はとってくださいよ? と、事前の顔合わせで語っていた。
玄関で●●を出迎えた女将は、彼とは初対面のはずなのに、どこか既知の者を見るような目をしていた。
「当選者の●●様、ご本人様でございますね」
フロントで念押しをされたとき、●●の顔が緊張した。
Sを思い出し、私の背筋に冷たいものが走る。彼を危険な目に遭わせてはいけない。女将の言葉は形式的な確認のように思えたが、ただの決まり文句にしては妙に重たく、●●の逃げ道を封じるように響いた。
協力者は『白蛇の間』へ案内された。部屋に入るのを確認した私は、自分が割り当てられた二階の部屋に向かう。 これは、私には好都合だった。『白蛇の間』の隣り。
内装は前回と同じ、清潔な和室だ。お茶請けを口に放り込み、ぐいっと茶を飲んだ。
部屋の床の間には、花鳥風月の掛け軸。それをじっと見つめ、私は覚悟を決めました。
昼過ぎ、私達は宿から随分離れた喫茶店で落ち合った。
「●●さん、こっちです」
彼は挙動不審に辺りを確認しながら、席に着く。
「き、来ちゃいましたね……」
「部屋の様子を伺いたいんですが、万が一を考えて、手短に」
「わかりました」
彼はスマホを取り出し、数枚の写真を私に提示した。
「ありましたよ、白蛇の掛け軸。それと、木彫りの蛇の置物。例の宿帳は見当たりませんでした。引き出しの中も見てみたんですが……。祭壇のようなものも、鈴もありませんでした」
私も確認したが、私の泊まる部屋と大差はない。
「ありがとうございます。では、最後に段取りだけ。幸い私の部屋は隣です。外を確認したら、窓を伝ってそちらに入れそうでした。タイミングを見て私に連絡をして下さい。女将にだけは、絶対にバレないように」
「わかりました……大丈夫、っすよね? 俺、消えちまうなんて……」
「最前は尽くします……身の危険を感じたら迷わず逃げてください。鈴の音……鈴には気をつけて」
夕食を終え、●●から連絡があった。
【飯食いました? 最高っすね。これから、女将が貸し切り風呂へ案内をしてくれるみたいです。あ、窓の鍵は空けてあります。お祓い、よろしくお願いします】
私は客室のドアに耳を押し当て、息を殺した。
「お風呂のご用意ができております、参りましょう」
廊下を歩くふたつの足音。女将が●●を連れて廊下の奥へ消えていく。
その声を背に、私は客室の窓から身を乗り出し、『白蛇の間』に忍び込んだ。心臓が強く鳴る。
さぁ、ここからが本番だ。
部屋に足を踏み入れた瞬間、がらりと空気が変わった。
生ぬるい湿気が肌にまとわりつき、線香とも獣臭ともつかぬ匂いが鼻を刺す。●●は気にならなかったのか? と思うほど、私の顔は歪む。
床の間が薄暗い影をたたえ、掛け軸の蛇の眼が、こちらを射抜くように光っている。
「これが、白蛇の掛け軸か……」

畳の上には、まだ祭壇は無い。
ひとつ、足音が近づいてくる。
「やばいっ……!!」
私は咄嗟に押し入れを開け、中に潜り込んだ。板の隙間から床の間を見通せる位置を探し、体を固めた。心臓の鼓動がうるさすぎて、自分の位置を暴いてしまいそうだ。
襖が滑る音がする。女将の着物が見える。
リンッ……リンッ……神楽鈴をかすかに揺らす。
「……よくぞおいでくださいました」
部屋には誰の姿も無い。だが、女将は確かに、誰かに向かって語りかけていた。私の目に見えないナニカに。
女将は静かに祭壇を組み始めた。
供え物を運び込み、ひとつずつ並べていく。
果物。
塩。
酒。
それに、封を切った古びた紙束。
古い宿帳のようなもの。
並べるたびに、祭壇に立てられた神楽鈴が「チリ……ン」と濁った音を立てる。規則的ではない。まるで供え物ひとつひとつに返答があるかのように。
「今日もひとり、血をいただきます。どうか、怒りを収め下さい」
その言葉は、祈りというより契約の宣告に近かった。
血をいただく? 押し入れの中で、寒気が全身に伝う。喉がひりつき、息を止めるのも苦しい。
女将はしばらく頭を垂れ、鈴を振り続けた。何かを舞っているようにも見える。
やがて、女将は事を終えたのか、襖を閉めて去っていった。
静寂が部屋を包む。
押し入れから這い出し、私は祭壇に近づいた。
古い宿帳を開く。
「これだ……赤いバツ……●●、●●…………」
Kの証言通りだ。
すべて辻褄が合った。
上から鋭い視線が突き刺さる。
掛け軸の蛇は、私を見透かしているように見えた。
私は震える手で懐から針を取り出した。
「やるしかないんだ……」
一歩。
二歩。
床の間へ進み、掛け軸に手を伸ばす。
蛇の眼が濡れた光を放ち、飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚える。はぁはぁ……心臓が今にも破裂しそうだ。
「Sさん、あなたの怨念も一緒に。本望でしょ?」
私は一気に白蛇の目に針を突き立てた。
──瞬間。
神楽鈴がひとりでに鳴り響いた。
「チリン……リリ……チリリ……ン!」
床の間の供え物が次々と崩れ落ち、酒が畳に染みる。灯明の炎が荒れ狂い、影が壁一面に蠢いた。
掛け軸の蛇が、ほんの一瞬、身をくねらせたように見えた。
私は恐怖に背中を押され、窓へ走った。
後ろで鈴の音が狂気のように響く。
「チリン、チリンチリン……チリチリン……!」
肩が障子にぶつかり、バタン音が鳴った。だが構わず縁側へ転がり出た。足をもつれさせながら自室へ逃げ込んだ。
遠くに女将の悲鳴にも似た叫びが聞こえる。
私は布団に潜り、耳を塞いだ。
チリン、チリン、チリン。と耳に響き続ける。
深夜零時すぎ、音が消えた。
翌朝。
ろくに眠れなかった私は、協力者に連絡を送る。
【大丈夫ですか……?】
返事は無い。
窓から様子を伺おうか? 外に身を乗り出そうとした私の背中に、「おはようございます。朝食をお持ちいたしました」と声が届いた。お膳を運んできた、以前話を聞いた若い中居に、私は尋ねる。
「幸せの間に泊まった客は、昨晩……幸せを貰えたんでしょうか?」
中居の返事に、私は言葉を失った。
「女将がこう申しておりました。お部屋に気に入られなかったんでしょうね。と。今朝早くに宿を発ったと……」
「嘘……ですよね?」
小さく首を振る中居を見て、ようやく事を理解した。私は朝食を断り、荷物をまとめ、逃げるように旅館を出ようとした。ロビーに女将が立っている。
「ごゆっくり、お寛ぎ頂けたでしょうか?」
穏やかな口調が不気味だ。
しかし、その目は底知れぬ笑みを湛えていた。
「……えぇ、まあ」
「そうだ、昨日、こちらを落とされたんじゃないですか?」
女将は懐から何かを差し出した。
私はギョッとした。あの針だった。
私が掛け軸に突き立てたはずの、あの黒い鉄の針。
女将は指先で鈍く光る針を、もう片方の指でゆっくりと撫でる。
「なんと美しい針でしょうか……大切なものでしょう。忘れては大変なこと」
女将は私にすっと差し出す。何事もなかったかのように私の手に戻ってきた。
「また、どうぞ。心よりお待ち申しております。貴方様を、お部屋はたいそう気に入っておられますからね」
あの女将の微笑みが焼きついて離れない。
私は針を握る手の震えを抑えられなかった。掌が熱く、冷たく、痺れるように疼いていた。
私はもう踏み込むべきではない。
ただし、二度とあの部屋での惨事が起きぬよう、記録をここに残す。
ただの観察ではなく、今回は当選者として選ばれた協力者●●に同行する。先に宿帳の記入を終えた私は、他人を装い、ロビーで彼の到着を待った。
よくある話だ。●●は友人の勧めで、仮想通貨に手を出し、多額の負債を抱えてしまった。『幸せを呼ぶ部屋』に泊まった成功者達の記事を見て、一念発起で応募したのだという。
『幸せを呼ぶ部屋』に泊まれば、自分も富を得られる。こんな生活から脱却できるのなら、喜んで協力をする。だから、その怨念? みたいなものがあるのなら、必ず払ってくださいよ? もし失敗したら、責任はとってくださいよ? と、事前の顔合わせで語っていた。
玄関で●●を出迎えた女将は、彼とは初対面のはずなのに、どこか既知の者を見るような目をしていた。
「当選者の●●様、ご本人様でございますね」
フロントで念押しをされたとき、●●の顔が緊張した。
Sを思い出し、私の背筋に冷たいものが走る。彼を危険な目に遭わせてはいけない。女将の言葉は形式的な確認のように思えたが、ただの決まり文句にしては妙に重たく、●●の逃げ道を封じるように響いた。
協力者は『白蛇の間』へ案内された。部屋に入るのを確認した私は、自分が割り当てられた二階の部屋に向かう。 これは、私には好都合だった。『白蛇の間』の隣り。
内装は前回と同じ、清潔な和室だ。お茶請けを口に放り込み、ぐいっと茶を飲んだ。
部屋の床の間には、花鳥風月の掛け軸。それをじっと見つめ、私は覚悟を決めました。
昼過ぎ、私達は宿から随分離れた喫茶店で落ち合った。
「●●さん、こっちです」
彼は挙動不審に辺りを確認しながら、席に着く。
「き、来ちゃいましたね……」
「部屋の様子を伺いたいんですが、万が一を考えて、手短に」
「わかりました」
彼はスマホを取り出し、数枚の写真を私に提示した。
「ありましたよ、白蛇の掛け軸。それと、木彫りの蛇の置物。例の宿帳は見当たりませんでした。引き出しの中も見てみたんですが……。祭壇のようなものも、鈴もありませんでした」
私も確認したが、私の泊まる部屋と大差はない。
「ありがとうございます。では、最後に段取りだけ。幸い私の部屋は隣です。外を確認したら、窓を伝ってそちらに入れそうでした。タイミングを見て私に連絡をして下さい。女将にだけは、絶対にバレないように」
「わかりました……大丈夫、っすよね? 俺、消えちまうなんて……」
「最前は尽くします……身の危険を感じたら迷わず逃げてください。鈴の音……鈴には気をつけて」
夕食を終え、●●から連絡があった。
【飯食いました? 最高っすね。これから、女将が貸し切り風呂へ案内をしてくれるみたいです。あ、窓の鍵は空けてあります。お祓い、よろしくお願いします】
私は客室のドアに耳を押し当て、息を殺した。
「お風呂のご用意ができております、参りましょう」
廊下を歩くふたつの足音。女将が●●を連れて廊下の奥へ消えていく。
その声を背に、私は客室の窓から身を乗り出し、『白蛇の間』に忍び込んだ。心臓が強く鳴る。
さぁ、ここからが本番だ。
部屋に足を踏み入れた瞬間、がらりと空気が変わった。
生ぬるい湿気が肌にまとわりつき、線香とも獣臭ともつかぬ匂いが鼻を刺す。●●は気にならなかったのか? と思うほど、私の顔は歪む。
床の間が薄暗い影をたたえ、掛け軸の蛇の眼が、こちらを射抜くように光っている。
「これが、白蛇の掛け軸か……」

畳の上には、まだ祭壇は無い。
ひとつ、足音が近づいてくる。
「やばいっ……!!」
私は咄嗟に押し入れを開け、中に潜り込んだ。板の隙間から床の間を見通せる位置を探し、体を固めた。心臓の鼓動がうるさすぎて、自分の位置を暴いてしまいそうだ。
襖が滑る音がする。女将の着物が見える。
リンッ……リンッ……神楽鈴をかすかに揺らす。
「……よくぞおいでくださいました」
部屋には誰の姿も無い。だが、女将は確かに、誰かに向かって語りかけていた。私の目に見えないナニカに。
女将は静かに祭壇を組み始めた。
供え物を運び込み、ひとつずつ並べていく。
果物。
塩。
酒。
それに、封を切った古びた紙束。
古い宿帳のようなもの。
並べるたびに、祭壇に立てられた神楽鈴が「チリ……ン」と濁った音を立てる。規則的ではない。まるで供え物ひとつひとつに返答があるかのように。
「今日もひとり、血をいただきます。どうか、怒りを収め下さい」
その言葉は、祈りというより契約の宣告に近かった。
血をいただく? 押し入れの中で、寒気が全身に伝う。喉がひりつき、息を止めるのも苦しい。
女将はしばらく頭を垂れ、鈴を振り続けた。何かを舞っているようにも見える。
やがて、女将は事を終えたのか、襖を閉めて去っていった。
静寂が部屋を包む。
押し入れから這い出し、私は祭壇に近づいた。
古い宿帳を開く。
「これだ……赤いバツ……●●、●●…………」
Kの証言通りだ。
すべて辻褄が合った。
上から鋭い視線が突き刺さる。
掛け軸の蛇は、私を見透かしているように見えた。
私は震える手で懐から針を取り出した。
「やるしかないんだ……」
一歩。
二歩。
床の間へ進み、掛け軸に手を伸ばす。
蛇の眼が濡れた光を放ち、飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚える。はぁはぁ……心臓が今にも破裂しそうだ。
「Sさん、あなたの怨念も一緒に。本望でしょ?」
私は一気に白蛇の目に針を突き立てた。
──瞬間。
神楽鈴がひとりでに鳴り響いた。
「チリン……リリ……チリリ……ン!」
床の間の供え物が次々と崩れ落ち、酒が畳に染みる。灯明の炎が荒れ狂い、影が壁一面に蠢いた。
掛け軸の蛇が、ほんの一瞬、身をくねらせたように見えた。
私は恐怖に背中を押され、窓へ走った。
後ろで鈴の音が狂気のように響く。
「チリン、チリンチリン……チリチリン……!」
肩が障子にぶつかり、バタン音が鳴った。だが構わず縁側へ転がり出た。足をもつれさせながら自室へ逃げ込んだ。
遠くに女将の悲鳴にも似た叫びが聞こえる。
私は布団に潜り、耳を塞いだ。
チリン、チリン、チリン。と耳に響き続ける。
深夜零時すぎ、音が消えた。
翌朝。
ろくに眠れなかった私は、協力者に連絡を送る。
【大丈夫ですか……?】
返事は無い。
窓から様子を伺おうか? 外に身を乗り出そうとした私の背中に、「おはようございます。朝食をお持ちいたしました」と声が届いた。お膳を運んできた、以前話を聞いた若い中居に、私は尋ねる。
「幸せの間に泊まった客は、昨晩……幸せを貰えたんでしょうか?」
中居の返事に、私は言葉を失った。
「女将がこう申しておりました。お部屋に気に入られなかったんでしょうね。と。今朝早くに宿を発ったと……」
「嘘……ですよね?」
小さく首を振る中居を見て、ようやく事を理解した。私は朝食を断り、荷物をまとめ、逃げるように旅館を出ようとした。ロビーに女将が立っている。
「ごゆっくり、お寛ぎ頂けたでしょうか?」
穏やかな口調が不気味だ。
しかし、その目は底知れぬ笑みを湛えていた。
「……えぇ、まあ」
「そうだ、昨日、こちらを落とされたんじゃないですか?」
女将は懐から何かを差し出した。
私はギョッとした。あの針だった。
私が掛け軸に突き立てたはずの、あの黒い鉄の針。
女将は指先で鈍く光る針を、もう片方の指でゆっくりと撫でる。
「なんと美しい針でしょうか……大切なものでしょう。忘れては大変なこと」
女将は私にすっと差し出す。何事もなかったかのように私の手に戻ってきた。
「また、どうぞ。心よりお待ち申しております。貴方様を、お部屋はたいそう気に入っておられますからね」
あの女将の微笑みが焼きついて離れない。
私は針を握る手の震えを抑えられなかった。掌が熱く、冷たく、痺れるように疼いていた。
私はもう踏み込むべきではない。
ただし、二度とあの部屋での惨事が起きぬよう、記録をここに残す。



