……私は帳場に立って二十年になります。客の名前を書き入れ、鍵を渡し、会計をする。それが仕事です。ですから宿泊簿の字は、いまでも一人ひとり思い出せます。けれど、あの部屋だけは違うんです。

『幸せを呼ぶ部屋』に泊まられるのは、必ずお一人様だけ。ご家族やご夫婦での利用は受け付けません。お問い合わせの際に、どう説明するか迷うこともありますが……女将からは「ご本人様にしか効力がない」と言い聞かされてきました。私たちは従うしかありませんでした。

不可解なのは、宿泊簿の扱いです。普通ならチェックインとチェックアウトの両方に印をつけます。ところが白蛇……『あの部屋』に泊まったお客様の中には、翌朝の退館時刻が書かれていないことがある。……正確に言えば、最初から空白のまま残されるんです。帳場に立つ私が空欄を残すなんてあり得ません。見送った女将が書き忘れただけなら、いいんですけど。

そうだ、数年前にも一度ありました。確か……都内から来られた男性でした。チェックインの欄にしっかりと記入し、サインもいただきました。ですが翌日、宿泊簿を見返すとサインの部分がかすれて消えていたんです。まるで墨が紙に乗らなかったみたいに。私は慌てて書き直そうとしましたが、女将に「手を加えなくていい」と止められました。「ご本人様が出られたのですから、それで構いません」と。

でも、見送りに立った覚えはないんです。帳場に座っていたのは私でしたし、玄関を通る姿も見ていません。なのに、女将だけが「確かにお帰りになりましたよ」と断言する。記録と記憶が、どうしても噛み合わないんです。

ここだけの話、昔の帳場係の先輩からはこんなことを聞きました。
「白蛇の間に泊まった客は、帳場に現れないことがある。支払いも、鍵の返却も、全部、済んだことにされている。だから宿帳は必ず確認しろ。文字が薄れていたら、すぐ閉じて見なかったことにしろ。知ろうとするな」
私は、その忠告をずっと守ってきました。

……本当は怖いんです。今こうして話していることも。

え?……あの方に、ですか?
もう、こちらにはおりません。引退されて、今は□□養護老人ホームにいると伺っておりますが……。