……私は生まれも育ちもこの町なんです。小さい頃から聞かされてきました。
「あの旅館に行ってはだめだ」「あの部屋には近づくな」って。子ども心には、ただの大人の迷信だと思っていました。
でも実際に働き始めてみると……。確かに皆さん、あの部屋の前を通るときだけは妙に静かになるんです。笑っていた声もぴたりと止まって、目を合わせようとしない。

正直、最初は私も理由が分からなくて怖かったです。
でも、辞める勇気もなくて。地元で働き口はそう多くありませんから。
『幸せを呼ぶ部屋』なんて観光パンフレットには書いてありますけど……私たちの間では、そんなふうに呼ぶ人はいません。
ただ『あの部屋』としか言わないんです。……訂正してもいいですか? 誰も口にすらしません。

S様のことはよく覚えています。物腰の柔らかい方で、私にも優しく声をかけてくださって。いろいろ聞かれたんですが、働き始めたばかりの私は、不慣れなもので。私のような新人が話すより、ずっとここで働いている先輩が詳しいはずなので紹介しましょうか? とお伝えしました。

実は、その夜はいつもと違うことがありました。女将が自分からお部屋までご案内したんです。女将が同行するなんて、滅多にありません。襖が閉まるところを遠目に見ましたけど……S様のお姿を見たのは、それきりでした。

翌朝、先輩の中居に布団を片付けるように言われて廊下まで行きましたが、あの部屋は女将に止められて。
「ここは私がやりますから」と。
結局、私は一度もあの部屋の中に入っていません。
けれど……その日から館内の誰も、S様の話をしなくなりました。まるで最初から存在しなかったみたいに。

……だから正直に言えば、今でも少し後悔しているんです。
どうしてあのとき、もっと確かめなかったのかって。
でも、私みたいな新人が首を突っ込んだら……今ごろどうなっていたか分からない。
そう思うと、こうして話しているのも怖いくらいです。