□□温泉の山道を抜けると、旅館△△の木造三階が見えてきた。瓦屋根は黒ずみ、外壁は白く塗り直されているが、どこか歪んで見える。
帳場に入ると、女将が待ち構えていたように立ち上がり、丁寧に一礼した。年齢は五十代半ばだろうか。姿勢はまっすぐで、笑顔は柔らかい。だがその目だけが、妙に乾いていた。
「ようこそお越しくださいました。……お部屋は、もうご用意してございます」
私が名を告げると、女将は筆を走らせ、宿泊簿に記録していく。墨の匂いが濃く漂った。切り出すべきか迷ったが、ここまで来て黙っているのも不自然だと思い、私は口を開いた。
「できれば、例の部屋に泊めていただきたいのですが。ほら、有名な。『幸せを呼ぶ部屋』……でしたっけ?」
ほんの一瞬、女将の手が止まった。目元の皺がぴくりと動き、すぐに微笑み直す。
「申し訳ございません。特別なお部屋ですので、今宵はご用意ができません……」
それ以上の理由は言わなかった。
ただ「今宵は」と言う言葉がひっかかる。
私が案内されたのは二階の端の和室だった。障子を開けると、裏山の稜線が黒々と迫り、風に揺れる木々がざわめいている。
和座椅子にもたれながら、天井を見上げる。
廊下を曲がる際に見えた、重厚な扉のことが頭から離れない。あれが──『幸せを呼ぶ部屋』だろう。
あの場所でSに何があったのか?
夕食の膳が運ばれてくるとき、仲居の若い女性が、ちらりと私を見て、目を逸らした。
声をかけると、彼女は少し驚いたように苦笑いし、俯いた。
「……どうか、ごゆっくり」
それだけ言って、襖を閉めていった。
夜が深まるにつれて、館内は不気味なほど静まり返った。隣室に客がいるはずなのに、話し声ひとつ聞こえない。
私は布団の上で横になりながら、集めた資料を何度も読み返した。宿泊者の証言。週刊誌の記事。ネットの書き込みも、くまなく目を通す。
そして、失踪した人間達。誰も最後に出ていく姿を見ていないということ。
翌朝、昨日の仲居が布団を片付けに来たので、私は思い切って尋ねた。
「先日、あの部屋……幸せを呼ぶ部屋に泊まったSさんのことを、何かご存じありませんか?」
仲居の手が止まり、しばし沈黙する。やがて小さな声で、私にだけ聞かせるように言った。
帳場に入ると、女将が待ち構えていたように立ち上がり、丁寧に一礼した。年齢は五十代半ばだろうか。姿勢はまっすぐで、笑顔は柔らかい。だがその目だけが、妙に乾いていた。
「ようこそお越しくださいました。……お部屋は、もうご用意してございます」
私が名を告げると、女将は筆を走らせ、宿泊簿に記録していく。墨の匂いが濃く漂った。切り出すべきか迷ったが、ここまで来て黙っているのも不自然だと思い、私は口を開いた。
「できれば、例の部屋に泊めていただきたいのですが。ほら、有名な。『幸せを呼ぶ部屋』……でしたっけ?」
ほんの一瞬、女将の手が止まった。目元の皺がぴくりと動き、すぐに微笑み直す。
「申し訳ございません。特別なお部屋ですので、今宵はご用意ができません……」
それ以上の理由は言わなかった。
ただ「今宵は」と言う言葉がひっかかる。
私が案内されたのは二階の端の和室だった。障子を開けると、裏山の稜線が黒々と迫り、風に揺れる木々がざわめいている。
和座椅子にもたれながら、天井を見上げる。
廊下を曲がる際に見えた、重厚な扉のことが頭から離れない。あれが──『幸せを呼ぶ部屋』だろう。
あの場所でSに何があったのか?
夕食の膳が運ばれてくるとき、仲居の若い女性が、ちらりと私を見て、目を逸らした。
声をかけると、彼女は少し驚いたように苦笑いし、俯いた。
「……どうか、ごゆっくり」
それだけ言って、襖を閉めていった。
夜が深まるにつれて、館内は不気味なほど静まり返った。隣室に客がいるはずなのに、話し声ひとつ聞こえない。
私は布団の上で横になりながら、集めた資料を何度も読み返した。宿泊者の証言。週刊誌の記事。ネットの書き込みも、くまなく目を通す。
そして、失踪した人間達。誰も最後に出ていく姿を見ていないということ。
翌朝、昨日の仲居が布団を片付けに来たので、私は思い切って尋ねた。
「先日、あの部屋……幸せを呼ぶ部屋に泊まったSさんのことを、何かご存じありませんか?」
仲居の手が止まり、しばし沈黙する。やがて小さな声で、私にだけ聞かせるように言った。



