【7話】
土曜日の午前中。
オンラインで開会式が行われ、その後早速トーナメント戦が始まった――という内容の連絡を最後に、由良からの連絡は途切れた。
自宅でのオンライン参加というのが、現代を感じさせるなあとぼんやり思いながら、今も引きこもっているだろう由良の部屋を、窓越しに見つめる。
大会は二日に渡り行われ、今日はその一日目。
トーナメン形式の勝ち上がり戦で、最後に残った一チームだけが、地区代表として二週間後に行われる、ファイナルステージに参加できるらしい。
――今はもう午後の四時半。
五時には一日目の試合が終わると言っていたので、そろそろ連絡をしてもいいのだろうかと、そわそわしていたが、邪魔になってしまうかもしれないと思うと、自分から連絡取る事は出来ない。
俺はベッドに投げたスマホを拾い上げ、画面を確認し、また投げて……。を今日だけで何回繰り返した事か分からない。
三人で一チーム、相手陣地の城を崩した方が勝ち――というシンプルなゲームだと聞かされてはいるが、シンプルだからこそ難しいとも言っていた。
負けないよね、大丈夫だよね。
そんな不安が不意に胸を掠める。
「礼、おい」
不意にくぐもった由良の声が聞こえて振り返ると、窓越しにヘッドホンを首にかけたままの由良が窓から手を振っていた。俺は慌てて窓を開く。
お疲れ様、どうだった?
そんなふうに軽く聞きたいのに声が出なくて、由良を見つめると、
「深刻そうな顔してんじゃねーよ、ちゃんと通過した」
「ほんと?」
「ホント。俺達の参加ゲームは今日で終わり。明日は別のゲームのトーナメントだから、ちょっと気ィ抜けたわ」
疲労のある目元に、苦笑いが宿る。
「今、そっち行ったらだめ?」
「もう終わってるし、来いよ」
俺は窓を閉めると、急いで階段を下りて玄関を飛び出した。
本当は疲れているだろうから、休ませてやりたいのに。ここは「ゆっくり休んで」っていうのが、一番いいはずなのに。
どうしても由良のそばに行きたかった。
インターホンを押すと、すぐに玄関のドアが開いて、
「由良、おめでとう! って、うぁ!」
すぐに腕を取られて引きずり込まれると、そのまま腕の中に閉じ込められる。
「すんげー疲れた。やっぱ緊張してたんかな……、なんか礼の顔見たら力抜けた」
ぼんやりと独り言みたいに、由良が呟く。足元を見れば、サンダルも履かない素足のまま、由良は玄関に降りていた。俺はゆっくりとその背中を摩り、
「とりあえず、お疲れ様。一回休もう」
由良は小さく頷くと、俺の手を取ったまま部屋へと戻る。階段を上り、由良の部屋に入ると、パソコンのモニターは明るく点いたまま、今日のトーナメント表が映し出されている。
由良達のチーム名である「丸山キングダム」が一位の座に、その名前を掲げていた。
「チーム名やっぱちょっとダサいね」
「考えるのめんどかった……」
由良は首にかけていたヘッドホンを机に置くと、俺の手を離して、ベッドに倒れ込む。俺はその隣に腰を下ろし、彼を覗き込んだ。
「少し寝たら?」
そう言ってみると、由良の手が伸びて来て、俺の首裏に回り、引き寄せられるままに顔を寄せると、二度目のキスをした。
この前より少し長くて、ちゃんと由良の唇の柔らかさが伝わるキスだ。
「……そばにいて」
「ん、そばにいる」
隣に身体を横たえれば、腕が伸びて来て抱き寄せてくれる。
窓から入る夕暮れを含んだ日差しが、壁に影を作る。身動ぎすれば、腕がそれを阻むように俺の身体を抱き直した。
「二週間後また試合あるから、またあんま会えねーかも」
「うん、頑張って」
由良の長めの前髪を、指先で梳いてみれば、さらさらと白い瞼の上を流れる。
「でも嫌な時は言え」
「嫌な時?」
「俺、お前の気持ち聞かせてもらってねえけど、分ってるつもり。だから、今お前の中にあるその気持ち、もし揺らぎそうなことあったら、なるべく早く言ってくれ」
目を閉じたままだった由良が、ゆっくり瞬きをしてから、俺をじっと見つめる。こつりと額と額が重なると、温かい熱が通い合う。
間近な眼差しが、真摯に俺の胸を貫いた。
「絶対安心させるし、俺はその気持ち離す気ねえから」
頑張りたいは事がある。
でも、お前の事も諦めないから。
はっきりと告げてくれる言葉に、胸の奥がきゅうっと音を立てながら締め付けられる。息苦しいくらいに、咽喉が灼けるような甘さが、胸に満ちる。
「約束しろ」
「ん、わかった。約束するよ」
俺は由良の肩口に額を擦り付けた。由良はそんな俺の背中を摩るように撫でて、とぷん、と深い海に落ちるように眠ってしまった。
「由良……?」
小さく名前を呼ぶけれど、返ってくるのは寝息で。俺は幼い寝顔を覗き込むと、首を伸ばして、その額に唇を押し当てた。
「ありがとう、由良」
***
全く会えないわけじゃないけれど、放課後は部活があって一緒に帰れるような日々は殆どなくなってしまった。
家に帰ってからも、由良の窓の向こう側は明かりがついているが、気配がするだけで、あまり顔も合わせない。時々『顔見たい』とメッセージが入って、窓辺に立つ事はあっても、長話はできないのが常だった。
手を伸ばせば触れられそうで、絶対に触れられない距離というのは、もちろん俺の気持ちを寂しくさせるものではあったけれど――その度にあの時の言葉を思い出しては、自分を鼓舞した。
由良が自分の好きな事を頑張っている、ならば自分も同じように頑張らなければ。
俺はそう思いながら、クローゼットの奥底に隠していた衣装の全てを引っ張り出した。
――捨てよう。
そう決心して、ゴミ袋片手に、今まで必死に集めてきた衣装を眺める。
セーラー服、チャイナ服、ナースにメイド。良くここまで集めたものだと、自分で驚きながら、一着一着を眺めて袋に詰めていく。
一回きりの衣装もあれば、数回着たなと思い出深い衣装もある。――でも、もう俺には必要ない。
もうSNSで女装写真をアップロードするつもりもないし、この衣装を身に纏うこともない。俺にはもう多分、これらは必要ないだろう。
女装が嫌いになったわけではない。
でも、もうSNSで承認欲求を満たす必要もない。
今の俺には由良がいるし、友達もいる。これらの衣装に頼る必要はなくなったのだ。
俺は袋の中に一つ一つ衣装を詰め込むと、最後に一杯になった袋をきつく閉じ、今度は最近殆ど浮上していなかった、女装アカウントに久し振りにログインする。
いくつかのDMとコメント、リツイートといいねが飛んで来ていたけれど、俺は自分の決意が揺らがないように、それらを見ないまま、アカウント削除のページに飛んだ。
最後はみんなに挨拶すべきかと、一瞬過ったけれど、何だか未練がましく思えてやめた。
『本当にアカウントを削除しますか?』
赤文字の最終警告が、画面に映し出される。
俺はその言葉の下に表示された『はい』をタップした。
『アカウントは削除されました。』
そのポップアップが浮かぶと、いつの間にか止めてしまっていた息を吐き出して、肩に籠っていた力を抜く。俺は暫くその文言を眺めてから、顔を上げると、明るい由良の部屋の窓を眺め、部屋を見渡した。クローゼットの前で、大きく膨らんだ衣装の詰められた袋と、メイクボックス。
俺は手を伸ばして、メイクボックスを膝に乗せた。中を開くと、新作のリップや、ずっと使っていても減らないチークなどが幾つも入っていた。
俺は一つ一つを取り出して、買ったその時の記憶を思い出す。
初めてドラスト行って会計してもらった時の緊張感や、店をハシゴして手に入れたコスメアイテム達。――そして、上野さんや友達と一緒に買いに行った新しいリップ。
俺はそれを手に取り、指先でそれを撫でる。
捨てたくないな。
上野さんのアイラインを、初めて引いた時の事や、それ以降も女の子の顔にメイクを施した時の指先の感覚が、直感的にこれら全てを手放したくないと訴えているように思えた。
――メイクをするのは、やっぱり好きだ。
自分じゃなくても、誰かを綺麗にして喜ばれるのは好きだし、きらきらしたこの形も、魔法が詰まっているみたいで好きだ。
俺はこれをまだ、手放したくない。
膝に乗せたメイクボックスを見つめてから、俺は中身を綺麗に整理した。ゆっくりとその口を閉じると、俺は机のそばにそれを移動させる。
それからスマホを取り出し、
『アカウント消したよ』
と由良にメッセージを送った。
すると、すぐにメッセージが既読になり、今は手が空いているんだと、少し嬉しくなった。
『まじで? なんで?』
『女装はもういいかなって思って』
『そっか』
『でもメイクは人にするのも、自分にするのも好きだから、まだ続ける。もっと上達したいし。』
決意を言葉にしてみたくて、そう由良に宣言してみる。なんて思われるだろうと、指先が緊張でぴりぴりしていた。けれど、そんな緊張を余所に、すぐに既読のマークがついて、返事が飛んでくる。
『いいじゃん、お前ならもっとうまくなれる』
由良らしいその一言に、なんだか嬉しくなってしまう。認められたというより、自分が宣言したことを、きちんと受け止めてもらえているという事実が嬉しかった。
こんなふうに思っている事を口にできるようになったのも、自分の好きなものを探し、見つけることができたのも、由良がいたからかもしれない。
俺はそんなことを考えながら、窓の向こう側を見つめる。明かりはまだ、煌々と灯っていた。
***
「礼、今日一緒帰ろ―よ!」
上野さんに声を掛けられて顔を上げると、視界の隅に見知った顔を見つけた。俺の視線にすぐ気づいたのか、上野さんは俺の視線の先へと振り返る。
教室の後方のスライド式のドアの前、教室を出ていくクラスメイトの邪魔にならないように、ひょろりと背の高い身体を端に寄せる、黒いマスクをした一人がいた。
「おお! 一年年のイケメン君!」
珍獣でも発見したように、上野さんの声が跳ねた。
「約束してたんだ」
「いや、してないんだけど……」
この二週間、学校でも殆ど顔を合わさないままだったので、こうして教室から由良を見るのは久し振りで、何だか少し緊張してしまう。
けれど、そんな俺の胸の内等知らない由良は、相変わらず遠慮と言うものを知らないまま、教室に入り込んで、真っ直ぐに俺のところへと歩み寄ってくる。
「帰ろーぜ」
一方的に言われて、上野さんへと視線を投げる。――嬉しいけど。
「……もしかして、先に約束してたか?」
俺の視線と空気を察したのか、由良が上野さんへと視線を流した。彼女は「してないよー」と笑顔で手を振ってくれたが、
「悪い、んじゃいいや」
由良はすぐに引き返してしまった。
「え、待って由良」
反射的に声を変えるけれど、その声はクラスメイトの雑音に掻き消されて、届かなくて。
「礼、追いかけて!」
真っ直ぐ教室を出て行こうとする由良と上野さんを見比べていると、彼女に背中を叩かれた。俺は「ごめん」と両手を合わせてから、由良の背中を追いかける。
「由良、待って」
「あ? あの女と一緒に帰るんじゃねえの?」
「ちょっと、話してただけだよ、一緒に帰ろ」
隣に並ぶと、由良は少しだけ歩調を緩めてくれる。
「いいの?」
「なにが?」
「どっかに出かける予定とかじゃねえの?」
「違うって。それより、なんか久し振りだね、由良が俺のクラス来るの」
どうしても気になるのか、由良が話を逸らそうとしないので、俺から話題の骨を折ってみる。それで諦めたのか、由良は「べつに」と、廊下に続く窓の外を眺めた。
「明日の為に今日は放課後なんもしねーって決めたから、久し振りに時間できた」
「そっか、明日試合なんだ。緊張してる?」
通り過ぎる人波に紛れながら、由良の顔を覗き込むと、由良は少しだけ笑った。
「してる。ゲロ吐きそう」
「大丈夫だよ、そのために練習してたんだろ?」
夜遅くまで、由良の部屋の明かりがついていたのを俺は見ていた。
俺は由良に何かをしてあげる事は、出来なかったけど。
「あ、ファイナルステージって、動画サイトで配信あるからさ、あとでURL送っとくな」
「ほんとに? 絶対見る!」
「お前酔いそうだけどな、画面展開激しいゲームだし」
「大丈夫だよ、絶対見ながら応援する!」
階段を下りて昇降口に向かい、学校を出ると、由良は口元を覆う黒いマスクを取った。通り過ぎる学校の生徒の視線が、それだけで集まってくる。
確かに、顔の半分をどうして隠しているのか分からない程、由良の口元や鼻の形は、神様が贔屓して作っていると思うくらいに整っている。
「相馬くんの素顔だ~……」
「かっこよ……っ」
そんな声が、人と擦れ違い、通り過ぎるたびに聞こえてくる。
「……視線がうぜえ」
「口に出てるよ……っ!」
「出してんだよ」
不機嫌に寄せられる眉間の皺が、一層深くなる。俺は落ち着いてと、由良の二の腕を撫でた。
「……なあ、ちょっとは寂しかったりした?」
不意に聞かれて、顔を覗き込まれる。俺は予想していなかった問いかけに、何と答えればいいのか分からなくて、言葉に詰まってしまった。
確かに会いたかったし、寂しいなと思うこともあった。けれど、俺は由良が頑張っているって思っていたから、寂しいとは少し違う感覚かもしれない。
寂しいだけじゃない。
それ以上に、由良には自分の楽しいと思う事を頑張ってほしかったから……。
「寂しかったし、会いたかったけど……でも、それ以上に頑張って欲しいって思ってた」
ちゃんと自分の気持ちは、言葉で伝えられているだろうか。少しのそんな不安を持ちながら、由良を見上げると、彼は力を抜くように笑った。
「ありがと」
俺よりも大きな手が、俺の髪を掻き混ぜるように撫でてくる。髪が乱れて、くしゃくしゃにされると、俺はやめろ、とその手を握った。
「なんか、ちょっと落ち着いた」
「ん?」
「緊張してる事は変わんねーけど、それでも少し気持ち落ち着いた」
「……なんか、由良も緊張すんだね」
「お前俺の事なんだと思ってんだよ」
握った手を握り返される。離すタイミングを見失って――でも、このまま手を繋いでいていいのか分からなくて、由良を見上げると、
「いいだろ」
そう返ってきた。
俺達の右側を自転車が通り過ぎる。往来する人の中、ざわめきが俺達の事を、何か言っているかもしれない。そう思うと、少し不安な気もした。
――でも。
「頼むからさ」
そうやって見つめられたら、断る術なんてどこにもなくて。
「仕方ないな……!」
俺は気持ちを振り切って、由良の手を握りしめた。由良は我儘が通ったと、幼く笑みを浮かべて、
「さっさと帰ろーぜ」
と手を引いてくれた。
土曜日の午前中。
オンラインで開会式が行われ、その後早速トーナメント戦が始まった――という内容の連絡を最後に、由良からの連絡は途切れた。
自宅でのオンライン参加というのが、現代を感じさせるなあとぼんやり思いながら、今も引きこもっているだろう由良の部屋を、窓越しに見つめる。
大会は二日に渡り行われ、今日はその一日目。
トーナメン形式の勝ち上がり戦で、最後に残った一チームだけが、地区代表として二週間後に行われる、ファイナルステージに参加できるらしい。
――今はもう午後の四時半。
五時には一日目の試合が終わると言っていたので、そろそろ連絡をしてもいいのだろうかと、そわそわしていたが、邪魔になってしまうかもしれないと思うと、自分から連絡取る事は出来ない。
俺はベッドに投げたスマホを拾い上げ、画面を確認し、また投げて……。を今日だけで何回繰り返した事か分からない。
三人で一チーム、相手陣地の城を崩した方が勝ち――というシンプルなゲームだと聞かされてはいるが、シンプルだからこそ難しいとも言っていた。
負けないよね、大丈夫だよね。
そんな不安が不意に胸を掠める。
「礼、おい」
不意にくぐもった由良の声が聞こえて振り返ると、窓越しにヘッドホンを首にかけたままの由良が窓から手を振っていた。俺は慌てて窓を開く。
お疲れ様、どうだった?
そんなふうに軽く聞きたいのに声が出なくて、由良を見つめると、
「深刻そうな顔してんじゃねーよ、ちゃんと通過した」
「ほんと?」
「ホント。俺達の参加ゲームは今日で終わり。明日は別のゲームのトーナメントだから、ちょっと気ィ抜けたわ」
疲労のある目元に、苦笑いが宿る。
「今、そっち行ったらだめ?」
「もう終わってるし、来いよ」
俺は窓を閉めると、急いで階段を下りて玄関を飛び出した。
本当は疲れているだろうから、休ませてやりたいのに。ここは「ゆっくり休んで」っていうのが、一番いいはずなのに。
どうしても由良のそばに行きたかった。
インターホンを押すと、すぐに玄関のドアが開いて、
「由良、おめでとう! って、うぁ!」
すぐに腕を取られて引きずり込まれると、そのまま腕の中に閉じ込められる。
「すんげー疲れた。やっぱ緊張してたんかな……、なんか礼の顔見たら力抜けた」
ぼんやりと独り言みたいに、由良が呟く。足元を見れば、サンダルも履かない素足のまま、由良は玄関に降りていた。俺はゆっくりとその背中を摩り、
「とりあえず、お疲れ様。一回休もう」
由良は小さく頷くと、俺の手を取ったまま部屋へと戻る。階段を上り、由良の部屋に入ると、パソコンのモニターは明るく点いたまま、今日のトーナメント表が映し出されている。
由良達のチーム名である「丸山キングダム」が一位の座に、その名前を掲げていた。
「チーム名やっぱちょっとダサいね」
「考えるのめんどかった……」
由良は首にかけていたヘッドホンを机に置くと、俺の手を離して、ベッドに倒れ込む。俺はその隣に腰を下ろし、彼を覗き込んだ。
「少し寝たら?」
そう言ってみると、由良の手が伸びて来て、俺の首裏に回り、引き寄せられるままに顔を寄せると、二度目のキスをした。
この前より少し長くて、ちゃんと由良の唇の柔らかさが伝わるキスだ。
「……そばにいて」
「ん、そばにいる」
隣に身体を横たえれば、腕が伸びて来て抱き寄せてくれる。
窓から入る夕暮れを含んだ日差しが、壁に影を作る。身動ぎすれば、腕がそれを阻むように俺の身体を抱き直した。
「二週間後また試合あるから、またあんま会えねーかも」
「うん、頑張って」
由良の長めの前髪を、指先で梳いてみれば、さらさらと白い瞼の上を流れる。
「でも嫌な時は言え」
「嫌な時?」
「俺、お前の気持ち聞かせてもらってねえけど、分ってるつもり。だから、今お前の中にあるその気持ち、もし揺らぎそうなことあったら、なるべく早く言ってくれ」
目を閉じたままだった由良が、ゆっくり瞬きをしてから、俺をじっと見つめる。こつりと額と額が重なると、温かい熱が通い合う。
間近な眼差しが、真摯に俺の胸を貫いた。
「絶対安心させるし、俺はその気持ち離す気ねえから」
頑張りたいは事がある。
でも、お前の事も諦めないから。
はっきりと告げてくれる言葉に、胸の奥がきゅうっと音を立てながら締め付けられる。息苦しいくらいに、咽喉が灼けるような甘さが、胸に満ちる。
「約束しろ」
「ん、わかった。約束するよ」
俺は由良の肩口に額を擦り付けた。由良はそんな俺の背中を摩るように撫でて、とぷん、と深い海に落ちるように眠ってしまった。
「由良……?」
小さく名前を呼ぶけれど、返ってくるのは寝息で。俺は幼い寝顔を覗き込むと、首を伸ばして、その額に唇を押し当てた。
「ありがとう、由良」
***
全く会えないわけじゃないけれど、放課後は部活があって一緒に帰れるような日々は殆どなくなってしまった。
家に帰ってからも、由良の窓の向こう側は明かりがついているが、気配がするだけで、あまり顔も合わせない。時々『顔見たい』とメッセージが入って、窓辺に立つ事はあっても、長話はできないのが常だった。
手を伸ばせば触れられそうで、絶対に触れられない距離というのは、もちろん俺の気持ちを寂しくさせるものではあったけれど――その度にあの時の言葉を思い出しては、自分を鼓舞した。
由良が自分の好きな事を頑張っている、ならば自分も同じように頑張らなければ。
俺はそう思いながら、クローゼットの奥底に隠していた衣装の全てを引っ張り出した。
――捨てよう。
そう決心して、ゴミ袋片手に、今まで必死に集めてきた衣装を眺める。
セーラー服、チャイナ服、ナースにメイド。良くここまで集めたものだと、自分で驚きながら、一着一着を眺めて袋に詰めていく。
一回きりの衣装もあれば、数回着たなと思い出深い衣装もある。――でも、もう俺には必要ない。
もうSNSで女装写真をアップロードするつもりもないし、この衣装を身に纏うこともない。俺にはもう多分、これらは必要ないだろう。
女装が嫌いになったわけではない。
でも、もうSNSで承認欲求を満たす必要もない。
今の俺には由良がいるし、友達もいる。これらの衣装に頼る必要はなくなったのだ。
俺は袋の中に一つ一つ衣装を詰め込むと、最後に一杯になった袋をきつく閉じ、今度は最近殆ど浮上していなかった、女装アカウントに久し振りにログインする。
いくつかのDMとコメント、リツイートといいねが飛んで来ていたけれど、俺は自分の決意が揺らがないように、それらを見ないまま、アカウント削除のページに飛んだ。
最後はみんなに挨拶すべきかと、一瞬過ったけれど、何だか未練がましく思えてやめた。
『本当にアカウントを削除しますか?』
赤文字の最終警告が、画面に映し出される。
俺はその言葉の下に表示された『はい』をタップした。
『アカウントは削除されました。』
そのポップアップが浮かぶと、いつの間にか止めてしまっていた息を吐き出して、肩に籠っていた力を抜く。俺は暫くその文言を眺めてから、顔を上げると、明るい由良の部屋の窓を眺め、部屋を見渡した。クローゼットの前で、大きく膨らんだ衣装の詰められた袋と、メイクボックス。
俺は手を伸ばして、メイクボックスを膝に乗せた。中を開くと、新作のリップや、ずっと使っていても減らないチークなどが幾つも入っていた。
俺は一つ一つを取り出して、買ったその時の記憶を思い出す。
初めてドラスト行って会計してもらった時の緊張感や、店をハシゴして手に入れたコスメアイテム達。――そして、上野さんや友達と一緒に買いに行った新しいリップ。
俺はそれを手に取り、指先でそれを撫でる。
捨てたくないな。
上野さんのアイラインを、初めて引いた時の事や、それ以降も女の子の顔にメイクを施した時の指先の感覚が、直感的にこれら全てを手放したくないと訴えているように思えた。
――メイクをするのは、やっぱり好きだ。
自分じゃなくても、誰かを綺麗にして喜ばれるのは好きだし、きらきらしたこの形も、魔法が詰まっているみたいで好きだ。
俺はこれをまだ、手放したくない。
膝に乗せたメイクボックスを見つめてから、俺は中身を綺麗に整理した。ゆっくりとその口を閉じると、俺は机のそばにそれを移動させる。
それからスマホを取り出し、
『アカウント消したよ』
と由良にメッセージを送った。
すると、すぐにメッセージが既読になり、今は手が空いているんだと、少し嬉しくなった。
『まじで? なんで?』
『女装はもういいかなって思って』
『そっか』
『でもメイクは人にするのも、自分にするのも好きだから、まだ続ける。もっと上達したいし。』
決意を言葉にしてみたくて、そう由良に宣言してみる。なんて思われるだろうと、指先が緊張でぴりぴりしていた。けれど、そんな緊張を余所に、すぐに既読のマークがついて、返事が飛んでくる。
『いいじゃん、お前ならもっとうまくなれる』
由良らしいその一言に、なんだか嬉しくなってしまう。認められたというより、自分が宣言したことを、きちんと受け止めてもらえているという事実が嬉しかった。
こんなふうに思っている事を口にできるようになったのも、自分の好きなものを探し、見つけることができたのも、由良がいたからかもしれない。
俺はそんなことを考えながら、窓の向こう側を見つめる。明かりはまだ、煌々と灯っていた。
***
「礼、今日一緒帰ろ―よ!」
上野さんに声を掛けられて顔を上げると、視界の隅に見知った顔を見つけた。俺の視線にすぐ気づいたのか、上野さんは俺の視線の先へと振り返る。
教室の後方のスライド式のドアの前、教室を出ていくクラスメイトの邪魔にならないように、ひょろりと背の高い身体を端に寄せる、黒いマスクをした一人がいた。
「おお! 一年年のイケメン君!」
珍獣でも発見したように、上野さんの声が跳ねた。
「約束してたんだ」
「いや、してないんだけど……」
この二週間、学校でも殆ど顔を合わさないままだったので、こうして教室から由良を見るのは久し振りで、何だか少し緊張してしまう。
けれど、そんな俺の胸の内等知らない由良は、相変わらず遠慮と言うものを知らないまま、教室に入り込んで、真っ直ぐに俺のところへと歩み寄ってくる。
「帰ろーぜ」
一方的に言われて、上野さんへと視線を投げる。――嬉しいけど。
「……もしかして、先に約束してたか?」
俺の視線と空気を察したのか、由良が上野さんへと視線を流した。彼女は「してないよー」と笑顔で手を振ってくれたが、
「悪い、んじゃいいや」
由良はすぐに引き返してしまった。
「え、待って由良」
反射的に声を変えるけれど、その声はクラスメイトの雑音に掻き消されて、届かなくて。
「礼、追いかけて!」
真っ直ぐ教室を出て行こうとする由良と上野さんを見比べていると、彼女に背中を叩かれた。俺は「ごめん」と両手を合わせてから、由良の背中を追いかける。
「由良、待って」
「あ? あの女と一緒に帰るんじゃねえの?」
「ちょっと、話してただけだよ、一緒に帰ろ」
隣に並ぶと、由良は少しだけ歩調を緩めてくれる。
「いいの?」
「なにが?」
「どっかに出かける予定とかじゃねえの?」
「違うって。それより、なんか久し振りだね、由良が俺のクラス来るの」
どうしても気になるのか、由良が話を逸らそうとしないので、俺から話題の骨を折ってみる。それで諦めたのか、由良は「べつに」と、廊下に続く窓の外を眺めた。
「明日の為に今日は放課後なんもしねーって決めたから、久し振りに時間できた」
「そっか、明日試合なんだ。緊張してる?」
通り過ぎる人波に紛れながら、由良の顔を覗き込むと、由良は少しだけ笑った。
「してる。ゲロ吐きそう」
「大丈夫だよ、そのために練習してたんだろ?」
夜遅くまで、由良の部屋の明かりがついていたのを俺は見ていた。
俺は由良に何かをしてあげる事は、出来なかったけど。
「あ、ファイナルステージって、動画サイトで配信あるからさ、あとでURL送っとくな」
「ほんとに? 絶対見る!」
「お前酔いそうだけどな、画面展開激しいゲームだし」
「大丈夫だよ、絶対見ながら応援する!」
階段を下りて昇降口に向かい、学校を出ると、由良は口元を覆う黒いマスクを取った。通り過ぎる学校の生徒の視線が、それだけで集まってくる。
確かに、顔の半分をどうして隠しているのか分からない程、由良の口元や鼻の形は、神様が贔屓して作っていると思うくらいに整っている。
「相馬くんの素顔だ~……」
「かっこよ……っ」
そんな声が、人と擦れ違い、通り過ぎるたびに聞こえてくる。
「……視線がうぜえ」
「口に出てるよ……っ!」
「出してんだよ」
不機嫌に寄せられる眉間の皺が、一層深くなる。俺は落ち着いてと、由良の二の腕を撫でた。
「……なあ、ちょっとは寂しかったりした?」
不意に聞かれて、顔を覗き込まれる。俺は予想していなかった問いかけに、何と答えればいいのか分からなくて、言葉に詰まってしまった。
確かに会いたかったし、寂しいなと思うこともあった。けれど、俺は由良が頑張っているって思っていたから、寂しいとは少し違う感覚かもしれない。
寂しいだけじゃない。
それ以上に、由良には自分の楽しいと思う事を頑張ってほしかったから……。
「寂しかったし、会いたかったけど……でも、それ以上に頑張って欲しいって思ってた」
ちゃんと自分の気持ちは、言葉で伝えられているだろうか。少しのそんな不安を持ちながら、由良を見上げると、彼は力を抜くように笑った。
「ありがと」
俺よりも大きな手が、俺の髪を掻き混ぜるように撫でてくる。髪が乱れて、くしゃくしゃにされると、俺はやめろ、とその手を握った。
「なんか、ちょっと落ち着いた」
「ん?」
「緊張してる事は変わんねーけど、それでも少し気持ち落ち着いた」
「……なんか、由良も緊張すんだね」
「お前俺の事なんだと思ってんだよ」
握った手を握り返される。離すタイミングを見失って――でも、このまま手を繋いでいていいのか分からなくて、由良を見上げると、
「いいだろ」
そう返ってきた。
俺達の右側を自転車が通り過ぎる。往来する人の中、ざわめきが俺達の事を、何か言っているかもしれない。そう思うと、少し不安な気もした。
――でも。
「頼むからさ」
そうやって見つめられたら、断る術なんてどこにもなくて。
「仕方ないな……!」
俺は気持ちを振り切って、由良の手を握りしめた。由良は我儘が通ったと、幼く笑みを浮かべて、
「さっさと帰ろーぜ」
と手を引いてくれた。



