【6話】
『今日の夜、ご飯食べに来ない?』
『悪い、練習あるから無理』
『そっか、頑張ってね』
五月下旬も差し掛かる頃、由良と会わない日々が連続していた。
俺に友達ができたと思ったのか、あの日以来、由良は俺の教室に顔を出す事はめっきりなくなってしまった。放課後も試合が近いこともあって、さっさと一人で帰ってしまう事ばかりだった。
元々約束をしているわけじゃないから、それを不満に思う事はおかしいかもしれないけれど――それでも、一緒に居て甘やかしてくれた日々があったから、彼がそばに居てくれないというのは、身体の何処かがすうすうと冷たい。
『ちゃんとご飯食べてる?』
しつこいかな、と思いながらも、メッセージを飛ばしてしまうと、デリバリーしたであろう牛丼の写真が送られてきた。
牛丼くらい、俺が作ってあげるのに。
そんな小さな不満が胸に蟠る。
俺は洗濯物の山からタオルを引き抜き、畳みながら、由良の家がある方の壁を見つめた。
今頃パソコンに向き合いながら、ゲームの練習してるのかな、なんて考える。
――頑張って欲しいとは、思ってる。
由良の好きな事だから、満足できるまで練習して頑張って欲しい。――それと同時に、少しだけそんな由良に対して、不満を抱いている自分もいる。
でも、自分の甘えたいとかそういう我儘に由良を突き合わせるわけにはいかない。
応援したい、会いたい。
頑張って欲しい、会って抱き締められたい。
ちぐはぐな思いが交錯して、心の中で絡まり、行く当てもないまま転がり続ける。
「ただいま~」
はっとして顔を上げると、ちょうど父さんが背広を脱ぎながら、リビングの扉を開いたところだった。
「おかえりなさい。夕飯できてるから」
「あ、今日食べて来たんだった」
思い出したように言われて、またか、と内心いため息を吐く。
食べて帰る時は前もって言ってくれと、何度もお願いしているのに、父さんは毎度忘れる。その度に、俺は連続して同じ食事をとらなければならなくなるのだ。
「前に何度も要らないなら言ってって、言ってるじゃん」
「ごめんごめん、疲れてるんだよ」
――俺だって疲れてるよ。
そう言いたいのに、それ以上は何となく言い難くて押し黙る。
学校から帰って来て家事をして……でも、それって父さんの仕事よりも、全然大変じゃないのかもしれない。そう思うと、何も言えない気がして、口が閉じてしまう。
「風呂は?」
「沸いてるけど……」
父さんはそのままリビングを通り過ぎ、脱衣所へとそそくさと引っ込んでしまった。俺は閉じられたドアを見つめながら、ゆっくりと息をもらした。
――嫌な事はちゃんと嫌って言え。
由良の言葉が、鼓膜の奥から蘇ってくる。でも、その言葉を簡単に実践するのは難しい。
俺はタオルを畳んで、父さんの肌着をたたみ、靴下を揃え、一枚一枚を丁寧に片づけていく。
嫌って言うの、難しいな。
片付けた洗濯物を、書く場所に運びながら、また由良の事を考える。
どんなゲームをするんだろう。
この前のよりも難しいゲームなのかな。
由良は、ゲームしてて楽しいだろうから、今は俺のこと忘れちゃってるのかな……なんて。
女々し過ぎて、考えた傍から自己嫌悪に陥る。
俺は最後に自分の衣服を胸に抱えると、スマホをポケットに入れて、自室に戻った。
もう今日はさっさと寝てしまおう。
あまりにも女々しくて、情けなくて、泣けてくる。由良は頑張っているというのに、ちょっと会えないだけで、俺は一体何なんだ。父さんに対して「嫌」の一つも言えないくせに。
階段をのぼりながら、ため息が零れる。
自室に入ってしまえば、更に特大の溜息が零れた。
俺ってこんなに、なよなよしてたっけ。
畳んだ衣服をしまってから、ベッドに倒れ込む。ぼふん、とスプリングが弾んで、俺は暫く布団に顔を埋めた。
目を閉じた暗い中で、頭を空っぽにしながら、由良の事を考えないようにしようと思えば思うほど、彼の表情ばかりが浮かんできて、もどかしい。
「……会いたいな」
ぽつん、と声に出してしまうと、欲求は肥大した。空気を吸い込んで膨らむ肺みたいに、当たり前のように、気持ちが大きくなる。
今までに、由良に会いたいなんて思った事あったっけ。ぼんやりとそんな事を思う。
ただの嫌味で言葉のきつい幼馴染。文句を言いながらも、何だかんだ俺の前に立って、俺が突っ撥ねられないものを跳ね返してくれる――そうやって、気付かぬ内にいつも守ってくれていた。
そう思うと、由良が最近見せてくれるようになった、優しい笑顔がほわっと胸の奥から温かく浮き上がってくる。
――恋、したのかな。
そんな事をふと思うと、ポケットに入れていたスマホが震える。それを取り出して確認すると、同じクラスの上野さんからのメッセージだった。
『明日帰り、ドラストとカフェいこー!』
――アイラインを描いた日以来、お昼はあの三人の輪に入れてもらうようになった。三人は底抜けに明るくて、話題も絶えず、一緒に居て楽しい。時折時間が合えば、こうして放課後も誘ってくれる。
それは夢にまで見た、友達のいる学校の生活であった――では、あるけれど。
『いいよ! 俺も欲しいのあるから行こう』
俺は短くそう返すと、スマホを手の内から零れ落とした。
今、ちょっと由良からの連絡かもしれないって、期待してしまった自分が恥ずかしい。
俺はベッドから起き上がると、由良の家と向かい合う窓を見つめた。ブラインドは閉ざされているが、中から細い灯りが洩れているから、きっと部屋には彼がいるのだろう。
こんなに近いのに、ものすごく遠い。
手を伸ばせば届くし、きっと声だって届く。なのに、すごく遠い気がして、窓にすら近づけない。
顔、見せてくれないかな。なんて。
一瞬目を逸らして、また窓の外を見る。けれど、そこには変わり映えのない景色がはめ込まれたまま、一ミリも動いてくれない。
俺はため息を吐くと、天井を見つめた。
天井に、由良の顔は浮かんでくれなかった。
***
「ねー、礼と一年のイケ、どんな繋がりなの?」
新作のメロンを使った季節限定のフラペチーノをストローでかき混ぜながら、上野さんが顔を近づけてくる。
今日は彼氏と放課後デートだから、と他の二人はいないので、上野さんと二人きりで、駅前のカフェに来ていたが、着席早々にそう詰め寄られた。
「幼馴染だよ、家が隣同士で」
「マジか。あんなイケが隣とかマジで少女漫画じゃん」
「俺は男だから少女漫画にはならないけどね」
自分で言って、自分で傷付いてしまう。告白された時は、性別なんて忘れていたのに、いざとなると怖気づいて、気にしてしまっている。
――俺は一体何がしたいんだろう。
「うちも幼馴染男子いるけど、あんなイケメンじゃないんだよな~、マジ羨ましいわ」
上野さんは、煙を払うように手をひらひらさせてから、フラペチーノのストローを噛んだ。彼女の長く細い、しなやかな指先は、俺のように節というものがなく、滑らかだった。
しかも、爪にはきちんとネイルが施されていて、ずっときらきらして眩しい。
由良が本来握る手って、こういう手なんじゃないかな、なんて、心に影が差し込む。
「でも、あの一年イケ、礼のことマジで好き過ぎじゃね?」
「そうかな」
心臓がどきりと弾む。
「だよ! だって、じゃなきゃ二年のクラスにわざわざ行く? ないって。周りは睨むのに、礼にだけは優しい顔してたじゃん」
「気のせいじゃない?」
「いーや、あたしそういう勘はねー、当たるんよー」
きっと本当に勘なのだろう、という事実が怖い。どう答えたらいいのか分からなくて、俺はそうかなあとお茶を濁し、首を傾げて逃げた。
「ていうか、男相手だよ?」
「関係ないよ、関係ない!」
軽くそう言われて、拍子抜けしながら「そう?」と確かめてみると、上野さんは首を傾げながら、
「あたしは別にいいと思うけど?」
と、さらりと応えられてしまう。
「そういうもん?」
「ま、そういうもんじゃね? てか、あたし彼女いるし」
何気ない告白に、周りの雑音が一瞬遠退く。さらりと「そうなんだ」と流しそうになりながらも、はっとして思わず上野さんを見ると、彼女は「ん?」とストローを咥えながら、首を傾げる。さらりと長い茶色の髪が肩から滑り落ちた。
「マジで?」
「マジ。先輩彼女ちゃま」
何故かピースを向けられて、思わず同じように返してしまう。
「変?」
真っ直ぐと問われて、俺は一瞬止まってしまう。――変? 何を変だと思うのだろう。
「変、とは思わないよ。あんまりにも正直だから、ちょっとびっくりしたけど」
そう気持ちを伝えると、彼女は明るく笑った。
「でしょー? 人からの反応なんてそんなもんよ、そんなもん!」
礼が感じたもんくらいだよ、衝撃なんて。全然大したことない!
上野さんはそう言いながら、にやりと笑った。その笑顔には、何か裏がありそうで、俺は閉口してしまう。
「気にしてんのは当人同士だけ」
「まぁ確かに……」
「てか、こっからが本題~、で? 礼はあのイケメン好きなの?」
「ええ……」
意地悪そうな笑顔を浮かべた瞬間から感じた予感が、早い段階で明るみになる。俺はアイスコーヒーの入ったグラスを揺らしながら、そろりと上野さんから視線を逃がし――けれど、自分の気持ちから視線を逃すことが、何故かできなくて。
「……甘えてるだけかなあって思ってて」
俺は自分の中で降り積もった気持ちの山の中から、言葉を一つ一つ吟味するように拾い上げて、舌に乗せてみる。
「考えてはいるんだけど……」
上手く言葉がまとまらないまま、俺は続かない言葉の続きを考え続ける。
「好きな人には、甘えたくなるもんじゃないの?」
「そういうもん?」
「そういうもん以外あんの? 好きな人以外に甘えたいなんて思わないし」
「……なんか、納得してしまう……」
「でしょ!」
どこまでも明るく軽いノリの彼女が、どこまで本気で言っているのかは分からないけれど、胸につっかえていたものが、少しだけ取れた気がする。
「礼もイケメンくん、好きなんだねー」
「……かもしんない」
「うんって言えよー」
肩を叩かれて、俺は「うん」と頷いた。
――そうか、自分の気持ちを自分で疑ってどうするんだろう。理由を一生懸命探さなくても、好きは好きなんだ・
俺はアイスコーヒーをストローでくるりとかき混ぜながら、前よりもはっきりと瞼裏に蘇る由良を見つめた。
頬が熱くなる。
うん、好きだなって思う。
***
『ご飯食べてる?』
送ったメッセージに返ってきたのは、カップラーメンの写真だった。
どんどん食事が疎かになっている気がするのは、俺の気のせいだろうか。
『作りに行こうか?』
さすがに迷惑かな、と思いながらも、メッセージを送ってみると、由良の部屋の窓から明かりは漏れているのに、返事は止まってしまった。
練習の時間になってしまったのだろうか。
既読になったまま動かなくなってしまった会話を見つめて、俺はそれをベッドに投げた。
由良は会いたいって、思ってくれないのだろうか。
そんな女々しい事が頭を過ると、スマホを手に取れない。
――でも、逆に言えば、由良は俺に会うために、今まで色々と動いてくれていたのだと痛感する。会いに来てくれるのは、いつも由良からだった。スマホを鳴らしてくれるのも、扉を開けてくれるのも、声を掛けてくれる一言目も……。
俺は一つ一つの行動を思い返してから、もう一度スマホを手に取ると、由良とのメッセージアプリを起動させる。
『窓来て』
アプリを起動させると殆ど同時に、新着メッセージが表示された。
短く用件だけの書かれた言葉に、窓へと反射的に振り返る。慌ててカーテンを開けば、そこにはいつもは閉じたままのブラインドを、大きく開いた部屋から明かりが洩れて、そこに由良がいた。首には大きめのヘッドホンが掛かり、手にはスマホが握られている。
由良だ。
久し振りに見るような気がして、心臓がまた早く胸を叩く。少し気だるげに見えるのは、疲労だろうか。背後からの明かりに、表情が暗く映っていて、元気がないように見える。
「由良、大丈夫?」
窓を開けながらそう問いかけると、由良は「おー」と曖昧な言葉で頷きながら、
「疲れたから、ちょっと顔見たくなった」
と笑った。
「なにそれ」
「お前のバカ面安心すンだよな」
「いきなり喧嘩売ってくるなよ」
そう突っ撥ねると、由良は楽しそうに笑った。よく眠れていないのか、暗がりのせいなのか、目元が少し暗く窪んでいるように見えるのは、俺の気のせいだろうか。
「何か、手伝いに行こうか?」
「いい。顔見たかっただけだから」
緩く頭を振って断られると、少しだけ胸の中が寒くなる。細い隙間風が入ってくるみたいな寂しさが、身に染みた。
「んじゃ、またなー」
そう言いながらからからと音がして、ゆっくりと窓が閉まっていく。俺は殆ど反射的に「あ!」とその窓の隙間に声を滑り込ませた。
まだ言葉なんて決まってないし、どんな顔をすればいいのかも決まってないけれど――どうしても、今はまだその窓を閉めて欲しくない。
まだ、もう少し――いなくならないで。
心臓がばくばくと大きな音を立てながら、身体の中で暴れ回る。俺の意思など無視するように、傍若無人に俺の感情を振り回すように。
「お、俺が会いたいのは、だめ?」
顔を上げると、開かれた窓のそこに、まだ由良がいてくれた。
――嬉しい。
「俺が由良と一緒に居たいのは、だめ?」
驚いたように、形の良いアーモンド形の由良の双眸が見開かれる。すぐ返ってこない返事に、俺は視線を落とした。家と家の間の暗がりを見つめながら、迷惑だよな、と言い訳を考えてしまう。
今きっと練習中で、友達もいて、三人のチーム戦って言ってたから、俺がわがまま言ってしまったら、他のメンバーに迷惑掛かるかもしれない。
「……なんかアイス、食いたくね?」
顔を上げると、由良が窓枠に寄り掛かりながら、
「コンビニ、行こーぜ」
そう言ってくれた。
「いいの?」
「俺がアイス食いて―の。行くぞ」
由良はそう言い切ると、窓を閉めた。俺も急いで窓を閉めると、部屋着のまま財布とスマホをポケットに入れて、階段を駆け下りた。
「ちょっとコンビニ行ってくる!」
リビングに居る父さんに声を掛けると、
「気をつけろよ~」
と言う声だけ返ってきた。
家を出ると、由良も殆ど同じタイミングで玄関から出てくる。なんだかこうやって顔を合わせるのが久し振りな気がして、少しだけ照れ臭く感じるのは、俺だけかな。
「なんか久し振り」
「由良さっさと帰るし、クラス来ないから」
「ダチいるし、邪魔したくねーなって思って」
行くぞ、と促されて、街頭に照らされた細い住宅街を歩いて行く。隣に並びながら、自分よりも背の高い由良を見上げると、ぱちりと視線が重なった。
「珍しいじゃん、そっちから」
「あー、うん……俺も、由良のバカ面見たくて」
「悪口言うなよ」
「先にそっちが言ったんじゃん!」
そう訴えると、由良は笑った。俺は彼の腕を掴んで軽く揺すってみる。由良は俺の手を払うこともなく、素直に身体を揺すぶられながら、
「なんだよ」
と、こちらに視線を向けてくれる。その眼差しが街灯の光を受けて、柔らかな光を放つ。穏やかな夜浮かぶ満月みたいに、俺を照らした。
「なんでもない!」
「なんでお前がキレてんだよ、ブス」
「ブスって言うな!」
いつも通りの小競り合いをしながら、家から一番近いコンビニに入ると、由良はアイスと言っていたのに、ペットボトルのコーラを買っていた。店内に流れる流行りの曲に耳を傾けながら、アイスは? と聞くと、やっぱいらない、と首を横に振る。
俺を連れ出す口実に、アイスなんて言ってくれたんだと思うと、胸の内側がくすぐったくて、何とも言い難い気持ちになってしまう。
嬉しいのに、嬉しいとまだ認めてはいけないと思う自分が何処かに居る。人の少ないコンビニを後にすると、由良はコーラを、俺はシュークリームを片手に、ゆっくりと家路に着いた。
自分たちを追い抜いていく車の風に、由良の黒髪がさらさらと乱れる。俺はそれを眺めながら、由良に一番近い左腕が温かいと感じる。
可愛いと言われなくても、甘やかされなくても、由良のそばにいると、安心する。
あたたかい気持ちになれる。
――もうどこも否定しようもなく、由良が好きなんだと自覚した。
ただの手のかかる、口の悪い幼馴染としか意識してなかったのに。もう変わってしまった気持ちは変えられない。
ゲームの練習具合を話す由良を、横で眺めながら、好きだなと思う。口が悪くて、ゲームばっかで俺のことを見てなくても、それでも由良のことが好きだと思う。
男同士であったとしても、それでもやっぱり、気持ちは変えられそうにない。
頬が熱い。
「明後日の土曜日が予選なんだよな」
「そんな近いの?」
「そー、今追い込み」
「一日どのくらい練習してたの?」
「学校あるし六時間くらいか?」
そんな長時間椅子の前に座ってるなんて、俺は我慢できないかもしれない……。
でも、それでも由良にとっては、楽しい時間なのかもしれない。
「楽しい?」
「あー、まあ。疲れるけど」
五月のまだ少しの冷たさと、夏の気配の混じる穏やかな風が通り過ぎていく。不意に由良の手が伸びて来て、風に遊ばれている髪を梳いてくれた。
久し振りに触れられた気がして、鼓動が早まる。
「なぁ、俺んち来る?」
気づけばもう家の前まで来ていて、俺は自分の家と由良の家を見比べた。
どういう意味だろう。今日の練習はもう終わりなのだろうか。今日は由良の両親っているのかな――そんなまとまりのないことが頭の中を駆け巡る。
――そうだ、衣装どうしよう。
今日はメイド服にした方が良いかな。合わせてメイクも考えなくては。
「あ、えっと……邪魔じゃない、のか?」
由良を伺うと、彼はじっと少し高い位置から俺を見つめてくる。その眼差しの意味とするところが読み取れなくて、俺は一体何を言うべきなのかと、言葉が口の中で絡まってしまう。
「あ、衣装と化粧も時間かかるんだけど……」
「いらねえよ。お前のまんまがいい」
ぐいっと強い力で手首を掴まれて、半ば強制的に引っ張られる。俺は縺れるように歩き出し、勢いのまま由良の家の玄関をくぐった。
「おい! 急に引っ張ったら危ないだろ!」
突然の予期できなかった行動に、そう訴える。すると、それと同時に――背後で玄関の扉が閉まり、由良の長い両腕が伸びて来て、次の言葉が口に届く前に、それは俺を抱き締めた。
「堪んねぇ……っ、何だよお前」
深い息を吐き、由良が項垂れながら呟く。――俺は何かしてしまっただろうか。
「まじでふざけんな。一緒に居たいとかさぁ……かわいーこと言うなよ、こっちは死ぬほど我慢してんだよ」
それは、由良も俺に会いたかった、と言う事なのだろうか。
俺は由良の背中に手を回して、その身体を抱き締めてみる。ぴったりと平らな胸が重なると、そこから身体が蕩けて、繋がって、心臓がどきどきと音を立てているのが伝わってしまいそうで、恥ずかしい。だけど――俺は背中の服をぎゅっと握り締めた。
ずっとこうしたかったんだと、重なり合って初めて気付く。
「……礼、ちょっと顔見せてくんね?」
静かな声音に言われて、指先に込めていた力を緩めると、そっと身体が離れて、鼻先同士が触れ合いそうな距離で覗き込まれる。
どうしても由良の目が見れなくて、俺は薄く開いた彼の唇を見つめた――薄くて、少しかさついてそうな唇。
「練習中断してもらってっから、もう行かなきゃなんだけど……」
そう言いながら、由良の右手が俺の頬に触れる。長い指先が耳朶を擽り、身体が微かに震えてしまう。その震えは、微弱な電流みたいに、一瞬で身体の中を巡った。
「由良、くすぐったい」
優しい力で顎を持ち上げられると、自然と視線も上がってしまい、火花が飛ぶみたいに視線が交わる。ちりっと赤い火花に眩暈がする。
そこからもう躊躇いなんてものはなかった。
顔を傾けると、自然と唇同士が触れ合った。目を閉じれば、感覚は由良に触れている場所が全てになる。
けれど、それはすぐに離れてしまい、俺に名残惜しさと寂しさを教えてくる。――でも、嫌じゃない。
「……大会終わったらさ、返事貰えたりする……?」
いつにもまして真剣な眼差しで問われて、俺は頷いた。
好き。――すごく、好きだ。
顔を上げると、由良の赤い耳が見えて、彼も同じように緊張しているのがすぐに分った。
俺はそれに何だかほっとしてしまい、由良の耳を摘まんで軽く揺らしてみる。
「赤いよ? 大丈夫?」
「うっせーな、仕方ねえだろ……っ」
意地になって、口が悪くなっているその子どもみたいな仕草が面白くて笑ってしまうと、強く抱き締められる。
「なあ、このまま一分だけ……」
そう言いながら、腕に力を込められる。
「うん」
ぴったりと隙間なく身体が重なると、俺も頷いて強く由良の身体を抱き締めた。
――うれしい、好きだ。
『今日の夜、ご飯食べに来ない?』
『悪い、練習あるから無理』
『そっか、頑張ってね』
五月下旬も差し掛かる頃、由良と会わない日々が連続していた。
俺に友達ができたと思ったのか、あの日以来、由良は俺の教室に顔を出す事はめっきりなくなってしまった。放課後も試合が近いこともあって、さっさと一人で帰ってしまう事ばかりだった。
元々約束をしているわけじゃないから、それを不満に思う事はおかしいかもしれないけれど――それでも、一緒に居て甘やかしてくれた日々があったから、彼がそばに居てくれないというのは、身体の何処かがすうすうと冷たい。
『ちゃんとご飯食べてる?』
しつこいかな、と思いながらも、メッセージを飛ばしてしまうと、デリバリーしたであろう牛丼の写真が送られてきた。
牛丼くらい、俺が作ってあげるのに。
そんな小さな不満が胸に蟠る。
俺は洗濯物の山からタオルを引き抜き、畳みながら、由良の家がある方の壁を見つめた。
今頃パソコンに向き合いながら、ゲームの練習してるのかな、なんて考える。
――頑張って欲しいとは、思ってる。
由良の好きな事だから、満足できるまで練習して頑張って欲しい。――それと同時に、少しだけそんな由良に対して、不満を抱いている自分もいる。
でも、自分の甘えたいとかそういう我儘に由良を突き合わせるわけにはいかない。
応援したい、会いたい。
頑張って欲しい、会って抱き締められたい。
ちぐはぐな思いが交錯して、心の中で絡まり、行く当てもないまま転がり続ける。
「ただいま~」
はっとして顔を上げると、ちょうど父さんが背広を脱ぎながら、リビングの扉を開いたところだった。
「おかえりなさい。夕飯できてるから」
「あ、今日食べて来たんだった」
思い出したように言われて、またか、と内心いため息を吐く。
食べて帰る時は前もって言ってくれと、何度もお願いしているのに、父さんは毎度忘れる。その度に、俺は連続して同じ食事をとらなければならなくなるのだ。
「前に何度も要らないなら言ってって、言ってるじゃん」
「ごめんごめん、疲れてるんだよ」
――俺だって疲れてるよ。
そう言いたいのに、それ以上は何となく言い難くて押し黙る。
学校から帰って来て家事をして……でも、それって父さんの仕事よりも、全然大変じゃないのかもしれない。そう思うと、何も言えない気がして、口が閉じてしまう。
「風呂は?」
「沸いてるけど……」
父さんはそのままリビングを通り過ぎ、脱衣所へとそそくさと引っ込んでしまった。俺は閉じられたドアを見つめながら、ゆっくりと息をもらした。
――嫌な事はちゃんと嫌って言え。
由良の言葉が、鼓膜の奥から蘇ってくる。でも、その言葉を簡単に実践するのは難しい。
俺はタオルを畳んで、父さんの肌着をたたみ、靴下を揃え、一枚一枚を丁寧に片づけていく。
嫌って言うの、難しいな。
片付けた洗濯物を、書く場所に運びながら、また由良の事を考える。
どんなゲームをするんだろう。
この前のよりも難しいゲームなのかな。
由良は、ゲームしてて楽しいだろうから、今は俺のこと忘れちゃってるのかな……なんて。
女々し過ぎて、考えた傍から自己嫌悪に陥る。
俺は最後に自分の衣服を胸に抱えると、スマホをポケットに入れて、自室に戻った。
もう今日はさっさと寝てしまおう。
あまりにも女々しくて、情けなくて、泣けてくる。由良は頑張っているというのに、ちょっと会えないだけで、俺は一体何なんだ。父さんに対して「嫌」の一つも言えないくせに。
階段をのぼりながら、ため息が零れる。
自室に入ってしまえば、更に特大の溜息が零れた。
俺ってこんなに、なよなよしてたっけ。
畳んだ衣服をしまってから、ベッドに倒れ込む。ぼふん、とスプリングが弾んで、俺は暫く布団に顔を埋めた。
目を閉じた暗い中で、頭を空っぽにしながら、由良の事を考えないようにしようと思えば思うほど、彼の表情ばかりが浮かんできて、もどかしい。
「……会いたいな」
ぽつん、と声に出してしまうと、欲求は肥大した。空気を吸い込んで膨らむ肺みたいに、当たり前のように、気持ちが大きくなる。
今までに、由良に会いたいなんて思った事あったっけ。ぼんやりとそんな事を思う。
ただの嫌味で言葉のきつい幼馴染。文句を言いながらも、何だかんだ俺の前に立って、俺が突っ撥ねられないものを跳ね返してくれる――そうやって、気付かぬ内にいつも守ってくれていた。
そう思うと、由良が最近見せてくれるようになった、優しい笑顔がほわっと胸の奥から温かく浮き上がってくる。
――恋、したのかな。
そんな事をふと思うと、ポケットに入れていたスマホが震える。それを取り出して確認すると、同じクラスの上野さんからのメッセージだった。
『明日帰り、ドラストとカフェいこー!』
――アイラインを描いた日以来、お昼はあの三人の輪に入れてもらうようになった。三人は底抜けに明るくて、話題も絶えず、一緒に居て楽しい。時折時間が合えば、こうして放課後も誘ってくれる。
それは夢にまで見た、友達のいる学校の生活であった――では、あるけれど。
『いいよ! 俺も欲しいのあるから行こう』
俺は短くそう返すと、スマホを手の内から零れ落とした。
今、ちょっと由良からの連絡かもしれないって、期待してしまった自分が恥ずかしい。
俺はベッドから起き上がると、由良の家と向かい合う窓を見つめた。ブラインドは閉ざされているが、中から細い灯りが洩れているから、きっと部屋には彼がいるのだろう。
こんなに近いのに、ものすごく遠い。
手を伸ばせば届くし、きっと声だって届く。なのに、すごく遠い気がして、窓にすら近づけない。
顔、見せてくれないかな。なんて。
一瞬目を逸らして、また窓の外を見る。けれど、そこには変わり映えのない景色がはめ込まれたまま、一ミリも動いてくれない。
俺はため息を吐くと、天井を見つめた。
天井に、由良の顔は浮かんでくれなかった。
***
「ねー、礼と一年のイケ、どんな繋がりなの?」
新作のメロンを使った季節限定のフラペチーノをストローでかき混ぜながら、上野さんが顔を近づけてくる。
今日は彼氏と放課後デートだから、と他の二人はいないので、上野さんと二人きりで、駅前のカフェに来ていたが、着席早々にそう詰め寄られた。
「幼馴染だよ、家が隣同士で」
「マジか。あんなイケが隣とかマジで少女漫画じゃん」
「俺は男だから少女漫画にはならないけどね」
自分で言って、自分で傷付いてしまう。告白された時は、性別なんて忘れていたのに、いざとなると怖気づいて、気にしてしまっている。
――俺は一体何がしたいんだろう。
「うちも幼馴染男子いるけど、あんなイケメンじゃないんだよな~、マジ羨ましいわ」
上野さんは、煙を払うように手をひらひらさせてから、フラペチーノのストローを噛んだ。彼女の長く細い、しなやかな指先は、俺のように節というものがなく、滑らかだった。
しかも、爪にはきちんとネイルが施されていて、ずっときらきらして眩しい。
由良が本来握る手って、こういう手なんじゃないかな、なんて、心に影が差し込む。
「でも、あの一年イケ、礼のことマジで好き過ぎじゃね?」
「そうかな」
心臓がどきりと弾む。
「だよ! だって、じゃなきゃ二年のクラスにわざわざ行く? ないって。周りは睨むのに、礼にだけは優しい顔してたじゃん」
「気のせいじゃない?」
「いーや、あたしそういう勘はねー、当たるんよー」
きっと本当に勘なのだろう、という事実が怖い。どう答えたらいいのか分からなくて、俺はそうかなあとお茶を濁し、首を傾げて逃げた。
「ていうか、男相手だよ?」
「関係ないよ、関係ない!」
軽くそう言われて、拍子抜けしながら「そう?」と確かめてみると、上野さんは首を傾げながら、
「あたしは別にいいと思うけど?」
と、さらりと応えられてしまう。
「そういうもん?」
「ま、そういうもんじゃね? てか、あたし彼女いるし」
何気ない告白に、周りの雑音が一瞬遠退く。さらりと「そうなんだ」と流しそうになりながらも、はっとして思わず上野さんを見ると、彼女は「ん?」とストローを咥えながら、首を傾げる。さらりと長い茶色の髪が肩から滑り落ちた。
「マジで?」
「マジ。先輩彼女ちゃま」
何故かピースを向けられて、思わず同じように返してしまう。
「変?」
真っ直ぐと問われて、俺は一瞬止まってしまう。――変? 何を変だと思うのだろう。
「変、とは思わないよ。あんまりにも正直だから、ちょっとびっくりしたけど」
そう気持ちを伝えると、彼女は明るく笑った。
「でしょー? 人からの反応なんてそんなもんよ、そんなもん!」
礼が感じたもんくらいだよ、衝撃なんて。全然大したことない!
上野さんはそう言いながら、にやりと笑った。その笑顔には、何か裏がありそうで、俺は閉口してしまう。
「気にしてんのは当人同士だけ」
「まぁ確かに……」
「てか、こっからが本題~、で? 礼はあのイケメン好きなの?」
「ええ……」
意地悪そうな笑顔を浮かべた瞬間から感じた予感が、早い段階で明るみになる。俺はアイスコーヒーの入ったグラスを揺らしながら、そろりと上野さんから視線を逃がし――けれど、自分の気持ちから視線を逃すことが、何故かできなくて。
「……甘えてるだけかなあって思ってて」
俺は自分の中で降り積もった気持ちの山の中から、言葉を一つ一つ吟味するように拾い上げて、舌に乗せてみる。
「考えてはいるんだけど……」
上手く言葉がまとまらないまま、俺は続かない言葉の続きを考え続ける。
「好きな人には、甘えたくなるもんじゃないの?」
「そういうもん?」
「そういうもん以外あんの? 好きな人以外に甘えたいなんて思わないし」
「……なんか、納得してしまう……」
「でしょ!」
どこまでも明るく軽いノリの彼女が、どこまで本気で言っているのかは分からないけれど、胸につっかえていたものが、少しだけ取れた気がする。
「礼もイケメンくん、好きなんだねー」
「……かもしんない」
「うんって言えよー」
肩を叩かれて、俺は「うん」と頷いた。
――そうか、自分の気持ちを自分で疑ってどうするんだろう。理由を一生懸命探さなくても、好きは好きなんだ・
俺はアイスコーヒーをストローでくるりとかき混ぜながら、前よりもはっきりと瞼裏に蘇る由良を見つめた。
頬が熱くなる。
うん、好きだなって思う。
***
『ご飯食べてる?』
送ったメッセージに返ってきたのは、カップラーメンの写真だった。
どんどん食事が疎かになっている気がするのは、俺の気のせいだろうか。
『作りに行こうか?』
さすがに迷惑かな、と思いながらも、メッセージを送ってみると、由良の部屋の窓から明かりは漏れているのに、返事は止まってしまった。
練習の時間になってしまったのだろうか。
既読になったまま動かなくなってしまった会話を見つめて、俺はそれをベッドに投げた。
由良は会いたいって、思ってくれないのだろうか。
そんな女々しい事が頭を過ると、スマホを手に取れない。
――でも、逆に言えば、由良は俺に会うために、今まで色々と動いてくれていたのだと痛感する。会いに来てくれるのは、いつも由良からだった。スマホを鳴らしてくれるのも、扉を開けてくれるのも、声を掛けてくれる一言目も……。
俺は一つ一つの行動を思い返してから、もう一度スマホを手に取ると、由良とのメッセージアプリを起動させる。
『窓来て』
アプリを起動させると殆ど同時に、新着メッセージが表示された。
短く用件だけの書かれた言葉に、窓へと反射的に振り返る。慌ててカーテンを開けば、そこにはいつもは閉じたままのブラインドを、大きく開いた部屋から明かりが洩れて、そこに由良がいた。首には大きめのヘッドホンが掛かり、手にはスマホが握られている。
由良だ。
久し振りに見るような気がして、心臓がまた早く胸を叩く。少し気だるげに見えるのは、疲労だろうか。背後からの明かりに、表情が暗く映っていて、元気がないように見える。
「由良、大丈夫?」
窓を開けながらそう問いかけると、由良は「おー」と曖昧な言葉で頷きながら、
「疲れたから、ちょっと顔見たくなった」
と笑った。
「なにそれ」
「お前のバカ面安心すンだよな」
「いきなり喧嘩売ってくるなよ」
そう突っ撥ねると、由良は楽しそうに笑った。よく眠れていないのか、暗がりのせいなのか、目元が少し暗く窪んでいるように見えるのは、俺の気のせいだろうか。
「何か、手伝いに行こうか?」
「いい。顔見たかっただけだから」
緩く頭を振って断られると、少しだけ胸の中が寒くなる。細い隙間風が入ってくるみたいな寂しさが、身に染みた。
「んじゃ、またなー」
そう言いながらからからと音がして、ゆっくりと窓が閉まっていく。俺は殆ど反射的に「あ!」とその窓の隙間に声を滑り込ませた。
まだ言葉なんて決まってないし、どんな顔をすればいいのかも決まってないけれど――どうしても、今はまだその窓を閉めて欲しくない。
まだ、もう少し――いなくならないで。
心臓がばくばくと大きな音を立てながら、身体の中で暴れ回る。俺の意思など無視するように、傍若無人に俺の感情を振り回すように。
「お、俺が会いたいのは、だめ?」
顔を上げると、開かれた窓のそこに、まだ由良がいてくれた。
――嬉しい。
「俺が由良と一緒に居たいのは、だめ?」
驚いたように、形の良いアーモンド形の由良の双眸が見開かれる。すぐ返ってこない返事に、俺は視線を落とした。家と家の間の暗がりを見つめながら、迷惑だよな、と言い訳を考えてしまう。
今きっと練習中で、友達もいて、三人のチーム戦って言ってたから、俺がわがまま言ってしまったら、他のメンバーに迷惑掛かるかもしれない。
「……なんかアイス、食いたくね?」
顔を上げると、由良が窓枠に寄り掛かりながら、
「コンビニ、行こーぜ」
そう言ってくれた。
「いいの?」
「俺がアイス食いて―の。行くぞ」
由良はそう言い切ると、窓を閉めた。俺も急いで窓を閉めると、部屋着のまま財布とスマホをポケットに入れて、階段を駆け下りた。
「ちょっとコンビニ行ってくる!」
リビングに居る父さんに声を掛けると、
「気をつけろよ~」
と言う声だけ返ってきた。
家を出ると、由良も殆ど同じタイミングで玄関から出てくる。なんだかこうやって顔を合わせるのが久し振りな気がして、少しだけ照れ臭く感じるのは、俺だけかな。
「なんか久し振り」
「由良さっさと帰るし、クラス来ないから」
「ダチいるし、邪魔したくねーなって思って」
行くぞ、と促されて、街頭に照らされた細い住宅街を歩いて行く。隣に並びながら、自分よりも背の高い由良を見上げると、ぱちりと視線が重なった。
「珍しいじゃん、そっちから」
「あー、うん……俺も、由良のバカ面見たくて」
「悪口言うなよ」
「先にそっちが言ったんじゃん!」
そう訴えると、由良は笑った。俺は彼の腕を掴んで軽く揺すってみる。由良は俺の手を払うこともなく、素直に身体を揺すぶられながら、
「なんだよ」
と、こちらに視線を向けてくれる。その眼差しが街灯の光を受けて、柔らかな光を放つ。穏やかな夜浮かぶ満月みたいに、俺を照らした。
「なんでもない!」
「なんでお前がキレてんだよ、ブス」
「ブスって言うな!」
いつも通りの小競り合いをしながら、家から一番近いコンビニに入ると、由良はアイスと言っていたのに、ペットボトルのコーラを買っていた。店内に流れる流行りの曲に耳を傾けながら、アイスは? と聞くと、やっぱいらない、と首を横に振る。
俺を連れ出す口実に、アイスなんて言ってくれたんだと思うと、胸の内側がくすぐったくて、何とも言い難い気持ちになってしまう。
嬉しいのに、嬉しいとまだ認めてはいけないと思う自分が何処かに居る。人の少ないコンビニを後にすると、由良はコーラを、俺はシュークリームを片手に、ゆっくりと家路に着いた。
自分たちを追い抜いていく車の風に、由良の黒髪がさらさらと乱れる。俺はそれを眺めながら、由良に一番近い左腕が温かいと感じる。
可愛いと言われなくても、甘やかされなくても、由良のそばにいると、安心する。
あたたかい気持ちになれる。
――もうどこも否定しようもなく、由良が好きなんだと自覚した。
ただの手のかかる、口の悪い幼馴染としか意識してなかったのに。もう変わってしまった気持ちは変えられない。
ゲームの練習具合を話す由良を、横で眺めながら、好きだなと思う。口が悪くて、ゲームばっかで俺のことを見てなくても、それでも由良のことが好きだと思う。
男同士であったとしても、それでもやっぱり、気持ちは変えられそうにない。
頬が熱い。
「明後日の土曜日が予選なんだよな」
「そんな近いの?」
「そー、今追い込み」
「一日どのくらい練習してたの?」
「学校あるし六時間くらいか?」
そんな長時間椅子の前に座ってるなんて、俺は我慢できないかもしれない……。
でも、それでも由良にとっては、楽しい時間なのかもしれない。
「楽しい?」
「あー、まあ。疲れるけど」
五月のまだ少しの冷たさと、夏の気配の混じる穏やかな風が通り過ぎていく。不意に由良の手が伸びて来て、風に遊ばれている髪を梳いてくれた。
久し振りに触れられた気がして、鼓動が早まる。
「なぁ、俺んち来る?」
気づけばもう家の前まで来ていて、俺は自分の家と由良の家を見比べた。
どういう意味だろう。今日の練習はもう終わりなのだろうか。今日は由良の両親っているのかな――そんなまとまりのないことが頭の中を駆け巡る。
――そうだ、衣装どうしよう。
今日はメイド服にした方が良いかな。合わせてメイクも考えなくては。
「あ、えっと……邪魔じゃない、のか?」
由良を伺うと、彼はじっと少し高い位置から俺を見つめてくる。その眼差しの意味とするところが読み取れなくて、俺は一体何を言うべきなのかと、言葉が口の中で絡まってしまう。
「あ、衣装と化粧も時間かかるんだけど……」
「いらねえよ。お前のまんまがいい」
ぐいっと強い力で手首を掴まれて、半ば強制的に引っ張られる。俺は縺れるように歩き出し、勢いのまま由良の家の玄関をくぐった。
「おい! 急に引っ張ったら危ないだろ!」
突然の予期できなかった行動に、そう訴える。すると、それと同時に――背後で玄関の扉が閉まり、由良の長い両腕が伸びて来て、次の言葉が口に届く前に、それは俺を抱き締めた。
「堪んねぇ……っ、何だよお前」
深い息を吐き、由良が項垂れながら呟く。――俺は何かしてしまっただろうか。
「まじでふざけんな。一緒に居たいとかさぁ……かわいーこと言うなよ、こっちは死ぬほど我慢してんだよ」
それは、由良も俺に会いたかった、と言う事なのだろうか。
俺は由良の背中に手を回して、その身体を抱き締めてみる。ぴったりと平らな胸が重なると、そこから身体が蕩けて、繋がって、心臓がどきどきと音を立てているのが伝わってしまいそうで、恥ずかしい。だけど――俺は背中の服をぎゅっと握り締めた。
ずっとこうしたかったんだと、重なり合って初めて気付く。
「……礼、ちょっと顔見せてくんね?」
静かな声音に言われて、指先に込めていた力を緩めると、そっと身体が離れて、鼻先同士が触れ合いそうな距離で覗き込まれる。
どうしても由良の目が見れなくて、俺は薄く開いた彼の唇を見つめた――薄くて、少しかさついてそうな唇。
「練習中断してもらってっから、もう行かなきゃなんだけど……」
そう言いながら、由良の右手が俺の頬に触れる。長い指先が耳朶を擽り、身体が微かに震えてしまう。その震えは、微弱な電流みたいに、一瞬で身体の中を巡った。
「由良、くすぐったい」
優しい力で顎を持ち上げられると、自然と視線も上がってしまい、火花が飛ぶみたいに視線が交わる。ちりっと赤い火花に眩暈がする。
そこからもう躊躇いなんてものはなかった。
顔を傾けると、自然と唇同士が触れ合った。目を閉じれば、感覚は由良に触れている場所が全てになる。
けれど、それはすぐに離れてしまい、俺に名残惜しさと寂しさを教えてくる。――でも、嫌じゃない。
「……大会終わったらさ、返事貰えたりする……?」
いつにもまして真剣な眼差しで問われて、俺は頷いた。
好き。――すごく、好きだ。
顔を上げると、由良の赤い耳が見えて、彼も同じように緊張しているのがすぐに分った。
俺はそれに何だかほっとしてしまい、由良の耳を摘まんで軽く揺らしてみる。
「赤いよ? 大丈夫?」
「うっせーな、仕方ねえだろ……っ」
意地になって、口が悪くなっているその子どもみたいな仕草が面白くて笑ってしまうと、強く抱き締められる。
「なあ、このまま一分だけ……」
そう言いながら、腕に力を込められる。
「うん」
ぴったりと隙間なく身体が重なると、俺も頷いて強く由良の身体を抱き締めた。
――うれしい、好きだ。



