【4話】

 放課後、教師に暇そうにしているところ見つからないようにとホームルーム後にすぐに席を立つと、
「礼」
 と呼ばれた。
 その方へ顔を上げれば、俺の事を唯一名前で呼ぶ由良と、恐らく彼のクラスメイトらしいぽってりとした丸い体型の男が立っていた。非常に場違いだとおどおどしているのが痛々しい彼の隣で、当たり前のように存在している由良の存在が際立っている。
「もうちょっと申し訳なさそうに来なよ」
 俺は駆け寄りそう伝えると、
「は? なんでだよ。むしろ迎えに来てやってんだから有り難いと思えよ」
 と、当たり前のように返された。
 頼んでないけど、なんて言えば確実に言い合いになるのは目に見えているので、俺はぐっと喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「安藤先輩、こんにちは。僕はね、止めたんですよ? ご迷惑になるって~」
 申し訳なさそうに頭を下げる由良のクラスメイトに、俺は大丈夫だよ、と首を振って応えた――これが正しい反応だぞ、由良。
「メンドくせーな、何だよ。お前の学年来るのにパスコードとかいるのかよ」
「謙虚さがないって言ってんだよ……っ」
「け、喧嘩しないでください~」
 間に入ってきた後輩に、俺は剥きかけた牙を収めると、由良も目を逸らして舌打ちをした。
「さ、今日は久し振りの部活休みなんですから、さっさと集まって予定決めて解散しましょ」
「部活?」
 俺は勿論帰宅部で、由良ももちろん帰宅部だと思い込んでいたので、驚いて後輩の彼に顔を向けた。
「部活? 由良って部活入ってるの?」
「あれ? 由良君言ってない?」
「言ってない」
 由良に協調性を求めることが難しいのは、間違いない――しかし、そんな彼が部活に入っていて、更にはその中で協調性を見せているなんて、予想外も予想外だ。
「知らなかった! 上手くやってるのか?」
「ガキじゃねンだぞ、普通にやってる」
「由良君は、僕らのリーダーなんですよ」
「え……、脅されてない……?」
「お前、ホントいっつも俺に対して失礼だな」
 由良が人を纏める側を務めているなんて、信じられない。極端に単独行動を好むような気質だと言うのに――どういう風の吹き回しだろうか。
「とりあえず行きましょ。ミーティング終われば、今日はフリーなんだし! 僕は今日絶対プラモ塗装の仕上げ入りたいんで!」
 意気込む丸い背中に促され、俺はどこへ行くのかも分からないまま、その背中に続いた。
 なんの部活だろう。運動部というのはまず考え難いから、文化部だろう。漫画とかアニメ? 
ホームルームから解放されて、混雑した廊下を人を縫うように考えながら歩いていると、
「相馬!」
 と声を掛けられて、由良が振り返る。俺も同じように振り返れば、俺と同学年――由良の一つ上の上履きを履いた男が、駆け寄ってきた。いかにも由良が苦手としそうな、見目の良い一軍男子だ。
「先輩、おつです。さよーなら」
「はえーよ、待て待て」
 首根っこ掴まれて、由良が舌打ちする。
「お前等、エントリーしたってマジ?」
「しましたけど、なにか?」
「何で俺誘ってくんねーんだよォ」
「戦力外だからですね」
「オイ、はっきり言うなよ!」
 由良の悪態をけらけらと笑って受け流す同級生に、驚いていると、
「あ、雄大先輩こんにちは!」
 先を歩いていた後輩が表情を明るくした。
「おー、丸山。なあ、コイツ誘ってくれなかったんだけど」
「まあ、三人チームなんで」
 後輩君は、丸山君っていうんだ。
なんてのんびり思いながら三人のやり取りを眺める。何を話しているのか全く分からない、三人だけの共通語が飛び交っていると、何だか蚊帳の外にいるようで、何処となく居た堪れない。俺は本当について行っていいのだろうか。 
そんな事を考えていると、
「オイ、時間ねンだけど」
 不機嫌に由良が放った。
丸山君と雄大先輩と言われた同級生の視線が、何故か由良ではなく、俺に向けられる。思わず警戒心から一歩引き下がってしまった。
「安達礼、だよね? 俺は森野雄大。たぶん隣のクラスで、相馬の先輩なんだ」
「違う、ただの他人だろ」
「おい!」
 由良のつれない言葉に、森野が肩を叩く。その親し気なやり取りに、俺はやはり自分が何だか場違いな気がして、何も言えなくなってしまった。
 でもこの場の空気を悪くしたくない。何か言わなきゃ、そう思いながらなんとか笑みだけ口元で象ってみる。
「……パソコン部っていう名のゲーマーの集い」
「え?」
「言ってなくて悪い、パソコン部ってゲームばっかやってる部活があって、俺もこいつも、この他人も、そこの部員なんだわ」
 見えてなかったものが少しクリアになり、何となく全貌が見えてくると、胸の蟠りがすっと消えていく。
「そうだったんだ……」
「他人って言うなよ、先輩って言え」
「ハイハイ、強い強い」
「安達、コイツの教育どうなってんだよ」
 泣きつくように言われて、俺は苦笑いをする他なかった。昔からなんで、もう多分変わりません――以外言えない。
「行くぞ、じゃーな、先輩」
 由良はそう払うように言い放つと、俺の手を掴んでさっさと歩き始めてしまう。
 本当にあんな態度で良いのだろうか、先輩後輩以前に、部員仲間として、あの態度は問題がある気がする。けれど、由良が築いた人間関係に、俺がわざわざ口出しする事じゃない。
 そもそも、俺には友達の一人だっていないのだから、由良もそんな俺から言われたくないだろう。
「礼、あいつなんかちょっかい掛けて来ても無視しとけよ」
「なんで? いい人そうだよ。それに、俺とはタイプが違うから、話しかけられる事もないと思うけど……」
「わかんねーだろ。てか、俺が節操なしタイプの陽キャ、一番嫌いなんだよ」
 心底嫌そうに、由良が顔を歪めるので、俺はそれ以上深追いせずに「わかった」と頷く事にした。――どうせ、由良がいなければ、関わる接点もない。由良の取り越し苦労に終わるに違いない。
「井上くんもういるって」
「マジか、あのオッサンのせいだ」
「雄大先輩に厳しいよね~、由良君」
「ファッションオタクだろ、あんなクソ雑魚」
 俺達は四階にあるパソコン室に、急いで向かった。がらりとスライド式のドアを開くと、並ぶパソコンモニター越しに、一人佇む男子生徒を見つける。
「井上くん、ごめーん」
 井上君と呼ばれた彼は、俺達を眼鏡越しに認めると「おそいぞー!」と憤慨しながら立ち上がった。
「コラボカフェの予約間に合わなくなるから、由良氏、手短に頼む! てか、え、安藤先輩? 由良氏の幼馴染設定の」
「設定じゃなくて、事実な」
 喋り方が独特な井上君は、分厚い眼鏡の底で小さくなった目を丸くしながら、俺をじっくりと観察してくる。俺は不意に、ネットに上げていた写真も、こんなふうに見られていたのかな、なんて思う。
「初めまして、由良氏と同じクラスの井上です」
 突然自己紹介されて、思わず「安藤です」と倣って一礼する。
「オイ、五分で終わらすぞ」
 由良がそう声を掛けると、井上君と丸山君は由良の前に腰を下ろし、三人は俺には到底理解できない単語で会話をしていく。
 恐らくゲームに関する事なのだとは予想がつくけれど、パソコンに関する横文字が出てくると、途端に支離滅裂の会話になる。これが三人通じているのがすごい。俺とは全く違う世界の言葉みたいだ。
「じゃあ、明日は夕方六時から。クリアリングとカバーの徹底と、連携の課題な」
「ぷるみんさんに、声掛けておきます?」
「それは昨日、DMで了承済なり」
 ぷるみん、ハンドルネームだろうか……。
 そうなると、この三人にもそれぞれハンドルネームはあるという事か。由良はなんていうんだろう。
「てか、もう電車乗らないと間に合わない! 解散でおけ?」
「おー、お疲れ」
「じゃ! また明日! 由良氏鍵よろしくです!」
 そう言いながら押し付けられた鍵を手に、由良が手を振る。
「僕も急ぐから、由良君、安達先輩また!」
 二人は急ぎ足でパソコン室から出ていくと、しん、と二人きりになった広い教室に沈黙が落ちてくる。硝子一枚隔てた窓から、校庭にいるだろう運動部の掛け声が小さく響いていた。
「話し分かんなかっただろ」
「あ、うん……全然」
 由良へ顔を上げると、俺は素直に頷いた。
「eスポーツって分かるか? それの十八歳以下が参加できる大会みたいなのがあって、俺等それに出んの」
「そうだったんだ! ……だからずっとゲームしてたの?」
「そ、俺等が出るゲームが、三人人チームでのバトルゲームでさ、それの練習ずっとやってた」
 なるほど、それでアラームを掛けてまで部屋に籠っていたのか。
「そうだったんだ」
「隠してる気はなかった。ただ、礼はゲームとか興味なさそうだったし」
 そんなことない、と口から出そうになって、慌ててそれを咽喉の奥へ押しやる。由良がしている事なら知りたかったけれど、ゲームが得意なわけでもないし、いつもやっている事ではない。――そう思うと、興味ないという言葉を否定はできなかった。
 ――でも、知りたかった。
「……知りたかった?」
 由良の体温の気配が近づいて、顔を覗き込まれる。それだけの事で、幼馴染相手に、心臓がどくりと大きく鳴ってしまう。
 ――なんだか、最近おかしい。
「俺の事、知りたかった?」
「な、なんで……?」
「そんな顔してる気がしたから」
 真っ直ぐとこちらを見つめてくる双眸が、俺の裏側を覗き込もうとする。知られたくないのに、勝手に暴かれてしまいそうで、無意識に視線を逸らしてしまうと、
「可愛い顔すんなよ」
 由良の長い人差し指の背が、俺の頬を掠めるように撫でた。その仕草に、思わず心臓が甘やかされている時みたいにとくとくと、走り始めてしまうのが、止められない。
「聞いてくれりゃ答えるのに」
「でも、由良詮索されるの嫌いじゃん」
「お前になら、何でも答えられる。詮索なんて、思わねえよ」
 なんで? そう聞きたいのに、ぶつかった視線があまりにも熱を含んでいて、言葉が咽喉の奥で渋滞して出て来ない。
「お前が聞きてぇって思う俺の事なら、全部答えるし、俺ができる事なら、応えてやるけど?」
「……なんで?」
 ようやく零れた俺の問いかけに、既に近い距離が、また一歩と詰められる。触れていなくても、由良の体温が分ってしまいそうで、緊張みたいなぴりぴりとした痺れが、肌の上を走る。
「何でだと思う?」
 確信を逸らされて、かっと頬が熱くなった。そんな俺を見て、由良は楽し気に唇に笑みを描いる――手の内で、玩ばれているみたいで、少しムカつく。
「何でも答えてくれるって言ったのに……」
 悔し紛れに呟くと、由良は何故か嬉しそうに目を細めた。その笑顔があまりにも優しくて、俺は何も言えずにただ彼を見つめるしかできなくなってしまう。
 ――ずるいとすら、思ってしまう。
「お前のことが好きだからに決まってんだろ」
 由良の腕が俺の背中を優しく抱き寄せる。その優しい力に、抗う術がなくて、俺は引き寄せられるままに、彼の腕の中に入った。
 由良の指先が、ウィッグではなくて、俺の髪を撫でて、髪の間を指がさらりと通り抜ける。
 ――すき?
「不器用で、要領悪くて、人の事しか考えてないバカなお前が、何でか好きなんだよ」
 悪口を言われているはずなのに、声に宿る優しい音が、俺の心臓を更に加速させる。
「好きって……初めて聞いた」
「初めて言った」
「……揶揄ってる?」
「ンなふざけた事するかよ。お前こそキモいって思わねえのかよ」
「どうして?」
 身体がそっと離れると、由良は少し眉を下げて、困ったように俺を見つめてきた。そんな表情も初めてた。
「あのな、男同士」
「あ、……そっか」
 そう言えばそうだ、と言われて気付いた事に、自分でも驚いてしまう。
「そこ気付かねえのかよ、マジねェわ。うける」
 由良は喉奥で笑いながら、俺の肩に額を押し付ける。
「あー……よかった」
 心底ほっとしたように、由良が呟く。
「引かれると思った」
「そんなこと……」
「わかんねーだろ」
 そう言いながら顔を上げると、少し傷付いたような顔で由良が薄く笑む。その儚い笑顔がいつもの由良からは想像できない程弱々しくて、戸惑ってしまった。
「お前の目に俺がどう映ってるか、分んねえけど、これでも結構お前の事意識してんだよ」
 両手をゆっくりと取られて、繋がれて、指先に由良の指がしっかりと絡まると、皮膚の間がひりひりするくらい熱く感じてしまう。
 幼い頃に手をつなぐのとは違う熱が、俺と彼の間をゆっくりと通う。
「見えねえかもしんねーけど」
「……知らなかった」
「言ってねえし、ついこの前までは態度に出さないようにしてた」
「この前?」
「お前にSNSに女装上げるなって言った日」
「どうして? 俺、由良に何かした?」
「お前が自分は一人ぼっちだ、みたいな事言うから、違うって言いたかった」
 俺はつい先日の事を思い出した。
 確かにあの時、ぽろっと本音を零してしまった気がする。
自分のことを誰も気にかけてくれないと、拗ねた幼い子どもみたいに。
「そんな思いさせてたんだって思ったら、そんな事ないってお前に知って欲しくて」
 少なくとも、俺はお前の事が大事だし、お前の為なら、らしくないことくらいできる。そう伝えたくて……。
 由良が俺の指先を、大切そうに擦る。
「礼が寂しいとか、泣きそうな思いしてんのは、すげー嫌なんだよ、俺は」
 真っ直ぐと揺らぐことなく、由良の言葉と眼差しが、胸を射る。深く、温かく、胸の奥まで優しい光で照らすように。
 不意に、前触れもなく視界が振れて、咽喉の奥がつんと痛んだ。俺は由良の手を握り返し、彼の肩口に顔を押し付けた。
 俺の為に、隠していた事を曝け出してくれてたの? ――そう思うと、嬉しくて。
「だから甘やかしてくれてたの?」
「分かり易く、お前の事好きだって表すには丁度良いと思った」
 由良の長い指先が、ゆっくりと何度も、髪の隙間を通るのを感じる。
「……今すぐに答えくれって言わねえから、キモいって思わねえなら、ちょっと考えて欲しい」
 顔を上げると、普段冷たい白い肌が、ほんの少しだけ蒸気しているように見えた。涙が薄く滲んだ網膜のせいでそうみているのかもしれないけれど。
「お前が好きなんだよ。幼馴染じゃなくて、お前に手ェ出したい。付き合いたい」
 はっきりと言葉にされて、自分の顔が、由良以上に赤く熱を持っていくのが分かった。
「じゃ、それは考えておけよ。帰るぞ」
 手を引かれて、促されるままにパソコン室を出ると、廊下は先ほどまでの騒めきを忘れ、しんと静まり返っていた。遠くから部活に勤しむ掛け声や、吹奏楽部の演奏が響いてくる。
 廊下はまだ日の高い白い光に照らされて、明るく輝いているように見えた。
「今日は来るよな?」
「あ、うん……」
「……いきなり手ェ出したりしねえから」
「手を出すって……」
「キスとかセックス迫ったりしねえってこと」
「は、はっきり言うなよ!」
「言わねえとお前、全然理解しねえだろ!」
 自分の人生の中で、縁の遠いと無意識に思い込んでいた単語を、さらりと言われて眩暈がする。
「ほら、帰るぞ」
 くいっと問答無用で手を握られて、それから逃れる機会を失ってしまう。――でも、この手を離したいと、不思議と思わない。
 俺は由良よりも弱い力で、彼の手を握り返すと、
「もっとゆっくり歩いて」
 とその手を軽く引いた。

 ***

 手は出さないと言われたものの、告白されてのこのこと由良の部屋に入り込むのは、アリなのだろうか。
 由良の家のダイニングで、宅配されてきたばかりのピザを手に、俺は目の前の由良を見つめる。テレビのバラエティー番組を退屈そうに見つめる双眸は、あまりにも無感情で、今何を考えているのかが全く分からない。
「俺、ピザとか久し振りかも」
 俺がそう呟くと、由良は興味を引いたように俺へと視線が戻ってくる。
「そ? 俺割と取るかも」
「由良の両親、不在多いもんね」
「料理もしねーしなァ。お前の料理か、こういうのばっか」
 大きくひと口、シンプルなマルゲリータを頬張り、由良はコーラを流し込んだ。
「身体に悪いよ、なければうちに来て良いのに」
「マジで毎回になるぞ」
「別にいいじゃん」
「いや、ダメだろ」
「そういうところは気を使おうとするんだね」
「食費かかるだろ」
「二人分が三人分に変わるくらい、殆ど変わらないよ」
 由良は何故か不服という表情で閉口すると、俺をじっと見つめてくる。長い指先がポテトを摘まんで、それを口には運んだ。俺も手の中のピザを頬張る。
 とろりとしたチーズとトマトの甘みのある酸味。もちもちのピザ生地、久し振りに食べる宅配のピザは、背徳感を纏いながら、俺の口いっぱいに幸福を広げた。
「美味しい、たまにはこういうのもいいね」
「だろ。毎日じゃさすがに飽きるけどな」
 軽く笑うと、俺達はテレビをBGMに、学校の事について、時間の隙間を埋めるように話した。学年が違うので、由良の学校での時間の過ごし方を、俺は殆ど知らない。たまにふらりと現れることはあれど、俺が自ら由良のクラスに行く事は今までに一度もないのだ。
 そもそも、彼を尋ねる用事がない。
 用事があったとしても、わざわざ学年違いの彼を訪ねる理由もない。
 ――そう思うと、由良は何か理由を付けては、俺の様子をわざわざ見に来てくれていたのだなと、自覚する。
 きっと友達のいない俺を、心配して覗きに来てくれていたに違いない。
 嬉しいような、申し訳ないような……。
「由良はクラスで浮いてない?」
「浮いてねえよ。ただ顔が良くて注目はされる」
「ナルシストじゃん……」
「潔くみんなの言うことを認めてンだよ。そんなことねーよってヘラヘラしてる方が鬱陶しいだろ」
「……由良って、なんていうか……強いよね」
「んなことねーだろ」
「あるよ、俺にはそう見える。自分の思ってる事ちゃんと言うし、こうやって話してても、自分持ってるなって思う」
 俺は空になったコップに、お代わりのコーラを注いだ。
しゅわしゅわと弾ける炭酸の気泡を眺めながら、自分がもし由良みたいな自信を持っていたらと、あり得ない事を考えてみる。
 けれど、俺には由良みたいに恵まれた美貌もなければ、得意とする事なんて一つもない。それどころか、彼みたいな自分の芯と言うものを持ってない。人の目や言う事で、俺はすぐに自分の心を見失ってしまうのだ。
 想像するだけ無駄。
「……礼」
 呼ばれていつの間にか俯いていた顔を上げると、ティッシュで指先の脂を拭い、伸びてきた由良の手が、俺の頬を優しく摘まむ。柔らかな力に痛みはない。
 由良へと視線を投げれば、彼は目が合うと少し笑った。
「お前はお前のままでいいんだよ」
「……そうかな」
「そのお人好し加減は、どうにかすべきだとは思うけどな」
 う、……。と、俺はぐうの音も出ない気持ちで押し黙ると、意地悪に成功した子どもみたいに、由良が笑った。
「お前のお人好しは、まあ紙一重ってとこだけどな」
 そんな話をしていると、ちょうど良く話の区切りを察したように、由良のスマホが震えた。彼は画面を覗き込むと、一瞬だけ眉間に皺を寄せる。
「どうしたの?」
「あー、ゲームのギルド参加頼まれた」
「してきていいよ、俺の事は気にしないで」
「なんでだよ、お前いるのに」
 ……一応、優先してくれるんだ。
 そんな小さいことに、喜びを感じてしまっている自分がいて、少しだけ恥ずかしいと思いつつも、でもやっぱり素直に嬉しいのは否定できない。いつも二の次というのが、俺の立ち位置だったから、由良の最優先に今自分がいると思うと、何だかそわそわする。
「でも、困ってるんだろ? 俺もゲーム見たい!」
 俺の言葉に、由良の視線が動く。
「……礼が言うなら……でも、大きく動くようなゲームじゃねえから、画面地味だぞ?」
「それでもいい。由良が好きなゲーム知りたい」
 そう言うと、由良はスマホの画面の上で親指をすいすいと動かし、
「九時から始まるから、部屋行こうぜ」
 九時から、そう壁に掛かる時計を見上げれば、既に約束十五分前となっていた。
「間に合うの?」
「よゆー」
 そう言うと、コーラの入ったコップを片手に立ち上がり、部屋に向かう。一緒に階段を上りながら、
「どういう繋がりの人達? 学校の友達もいるの?」
 と、その背中に声を掛けてみる。
「ああ、丸山。あいつのギルド。でも他メンツは知らねーな、ネット上の奴ばっか」
 部屋に入ると、由良はパソコンデスクには向かわず、ベッドに腰を下ろした。壁に背中を預けながら、ちょいちょいと手招きされたので、彼の隣に腰を下ろすと、
「こっちだろ」
 と腕を引かれて、由良の足の間に移動させられる。
「横から覗くより、この方が良いだろ」
 背後から抱き締めるような形を作られ、思わず身体が固まってしまう。けれど、そんな俺の事などお構いなしに、由良はスマホのゲームアプリを起動させて、画面を展開していく。
「寄り掛かれ。画面が見にくい」
「でも、重いよ。邪魔じゃない?」
「邪魔じゃねえから、さっさと寄り掛かれ」
 二回言われて従わないのも気が引けて、素直に由良の胸に背中を預けると、何の抵抗もなく受け入れてくれた。
「もう始まる?」
「もうちょいだな。でも結構集まってるな。ほら、キャラの吹き出し見てみろよ」
 言われるままに画面を眺めていると、
『よろしくー』 
『今日も殴るぞー』
『アイバくん今日参加~?』
 などのコメントが、待機中のデフォルメキャラの口元から、吹き出しが浮き上がっては消えていく。
「アイバくんってもしかして、由良の事?」
「おー、相馬の読み違い」
「なるほど、由良はどのキャラ?」
「後衛のこれ」
 画面が切り替わり、六人いるキャラの中の、水色の杖を抱えた白い衣服に身を包む金髪の女の子を指さす。
「簡単に説明すると、前衛六人後衛六人で戦うゲームな。後衛は味方のHP回復したり、対戦相手の防御力下げたりする担当。前衛は相手の前衛をぶっ倒す担当。で、俺は後衛で、主に相手の前衛に対して、防御力を下げる担当。まあそんな感じ」
「それぞれ役割あるんだ……」
「そうだな、それぞれ得意分野があるし」
 そう言いながらスマホを弄ると、音楽が流れ出し、緊張感のある、重いサウンドが鼓膜に響いた。
「音楽カッコいいね」
「だろ。このゲーム、サントラもいいんだよな」
 機嫌良さそうな声音が、耳元で跳ねる。吐息が掛かるような距離感で、俺は由良に他意はないと知りつつも、意識してしまうのを止める事ができない。
 ゲームをするだけなのに、くっつき過ぎじゃないか? でも、この方が良いって由良は言うし……。なんて、言い訳を自分に言い聞かせながら、俺はバトル開始までのカウントダウンを見つめる。
「今回、俺も要らねえ雑魚だと思うけどなー」
 そう言いながら由良の指先が、アイテムをタップすした。
 開戦と同時に、一斉に小さなキャラ達が動きだし、攻撃や魔法を仕掛け始める。俺はあまり見た事ないゲームの画面を食い入るように見つめた。BGMに紛れて、魔法や物理的な衝撃音なども細かく響き、思ったよりも引き込まれてしまう。
「こういうの初めて見た」
「そう? 礼、ゲームとかしねーの?」
「あんまり。やってもパズルゲームくらいかな」
 スマホの中に入っている、動物の絵柄を揃えるパズルゲームを思い出しながら頷くと、おもしれーのに、と由良が呟く。
「由良はゲームが好きだね」
「おー、好き。楽しい」
さらりと零れる言葉に、羨ましいなと素直に思えた。好きなことを好きと、他人の前で肯定するのは、意外と勇気がいる事だ。俺はそれを身をもって実感している。
 メイクも女装も、俺は他人には言えない。
「礼は何が好きなんだよ。女装?」
 その単語に思わずどきりとしてしまう。他意はないと分かっていても、表に軽々しく出す言葉ではないと自負しているので、なんだか耳障りが悪い気がしてしまうのだ。
「女装は……承認欲求の道具に近い、かな。でもメイクは好きかも」
 アイライン一つ、マスカラ一つ、ちょっとチークを入れるだけで、表情はがらりと変わるものだ。それを見るのは面白い。研究して、自分の想像した通りの顔が作れた時の達成感は、何事にも代えがたいと思う。
 ――あまり人に言える趣味ではないけど。
「礼は器用だしな」
「そうかな」
「料理もメイクも人並み以上だと思ってる」
「褒め過ぎじゃない?」
「妥当。あんま卑屈になるな、自信持て。好きな事だろ」
 由良はそう言うと、コメントを書き込み、呪いみたいな魔法を相手にかけ続ける。由良の魔法にかかった相手の前衛の周りを、紫色の毒々しい靄のようなものが包み込んだ。
 その紫色の靄のようなものが、まるで自分を取り巻く言葉のように思えた。母の言いつけ、教師や父からの言いつけ、クラスメイトからの思ってもみなかった自分への評価。
「別に好きな事をひけらかせって言ってるわけじゃねーけどよ。好きなもんを、フツーに好きって言うだけの事に、何の躊躇いがあんだよ。あー……そっちの攻撃じゃねえよ、雑魚」
 由良はそう吐き捨てると、再びコメントを書き込んだ。
「てか、お前のこと馬鹿にする雑魚いたら、俺がぶん殴ってやるよ」
 由良の頬が俺のこめかみに寄り添う。
 俺は学校でのことを思い出した。
 俺が嫌だと言う前に、由良は俺の気持ちを代弁するように、拳ではなく言葉を振るい上げてくれたこと。それが良いとか悪いとか、俺には分からないけれど、――でも、確実にその言葉は俺を守ってくれたし、支えてくれていたのは事実だった。
 この乱暴な腕の中にいるみたいに、乱暴だけど、温かい由良の言葉の中で、俺は守られているんだ。
「由良は喧嘩っ早いからなあ」
「手は出してねえだろ……」
「相手に手を出させるような言葉は、使ってるけどね」
「……うるせーな」
 拗ねたように、耳元で口を尖らせている由良が想像できる。それが何だか可愛いように思えて、少し笑ってしまうと、笑うなよ、と後頭部を軽く頭突きされた。
「……ありがと、由良」
 俺は優しく身体に回る腕を撫でながら、そう呟いてみる。
「おー、有り難てぇって思うなら、キスしてくれてもいいぞ」
「ばか! しないよ!」
 突然考えもしてない事を言われて、頭を振るうと、背後で由良が笑うような気配がした。
「冗談だよ、バカ真面目だな、バカ」
 揶揄われているのが悔しくて、腕の中で軽く暴れると、押さえつけるように腕の力が強くなる。
「おい! ブレんだろ!」
「由良が悪いんじゃん!」
 思わず笑ってしまうと、由良も同じように笑ってくれた。くっついて同じ体温になって、同じように笑ってくれる。
 こんな小さい事が、堪らなく幸せに感じる。
「俺、礼がこうやって笑ってんのが好き。ずっと小せぇ頃から」
 告白するように、由良が優しい声音で呟く。その声に、心臓がどきどきと音を立てて、俺の感情を胸の中で転がす。落ち着かない。いつもみたいに、棘のある声じゃなくて、優しく言い聞かせるような――相手を押さえつける訳じゃないのに、抵抗を奪うような声音。
「母ちゃん居なくなってから、礼あんま笑わねえから」
「え、そんな事ないよ」
「ある。俺ずっと見てたから、お前以上に知ってる」
 どこからそんな自信が湧いてくるのか、由良はそう言い切ると、
「あと一分」
 とバトル時間をカウントした。
 スマホの小さな画面の中、激しく戦い続ける愛らしいミニキャラ達。その画面上部に天秤のような針があり、由良のいるギルドが相手を押しているのが見て取れた。
「にこにこはしてたけど、別に笑ってねえだろ。ガキで作り笑いとか、マジで悲惨だなって思った」
「思ってたんだ」
「思ってた。気づいている大人はいなかったと思うけど。案外大人って、自分の事で一杯一杯なんだよな、誰も守ってくれねえし」
 何だか大人びた言い方に、少し驚きながら振り返ると、視線を上げた由良と目が合う。
「なに」
「意外と大人っぽいこと言うんだ」
「あ? 普通だろ、フツー」
 よし、終わった!
由良の声にスマホ画面を見れば、WIN! と大きく金色の文字が画面を占めていた。
「お疲れ様」
「雑魚だったけどな」
「その割に一生懸命倒してたじゃん」
「クソ雑魚に、雑魚だって叩き込むのがおもしれえンだろ」
「なかなか性格悪いね」
「まあな」
 得意気に意地悪く、由良が背後で笑う。
 俺は由良の胸に背中を、もう一度預けてみる。やっぱりその胸で身体を受け止めてくれる由良に、俺は少しほっとしながら、スマホを放り投げた由良の右手に触れた。俺よりも長い指先は、間接で骨が浮き、かくかくしていて、男っぽい。男らしい手だ。俺はその手のひらに自分の、由良の手よりも少しだけ小さな手を重ねてみる。
 由良ほど骨ばっているわけではないけれど、どう見ても柔らかみのない、骨ばった男の手。
「……なんだよ」
「由良は、俺が男だってわかっても好きなの?」
 何となく聞いてみたくなり、掌を重ねたまま聞いてみると、
「うん」
 素直で幼い返事が返ってきた。
「好きだけど、なんかあんの?」
「色々あると思うけど……」
「あっそ、俺には関係ないわ」
「ないの?」
「俺が礼を好きでいる事になんの問題があんの?」
「おっぱいないけど」
「あるだろ、平らだけど」
 それは「ある」と判断されるのだろうか。
「女装しても、下はついてるよ……?」
「なにが?」
「ちん、こ」
「……お前がちんこって言うの、なんか背徳感あって良いな」
「変態!」
 何だかうまく煙に巻かれているような気がして、俺は暴れてから由良の腕を抜け出した。
「悪かったって、揶揄い過ぎた」
 そう言いながら腕を引かれて、引き寄せらると、抵抗する間もなく、由良の腕の中へとすっぽりと納まってしまう。抵抗したいのに――この胸を突っ撥ねてしまいたいのに、腕に力が入ってくれない。
 どうしてだろう、揶揄われてムカつくって思うのに、心臓が由良のそばによると、ぐらぐらとネジが緩んだように振れて、力が入らず気持ちが揺れてしまう。
「急に好きって言われても、分かんないよ」
「……お前が困って嫌だって言うなら、前言撤回してもいいけど」
「え?」
 驚いて顔を上げると、由良は少し笑った。
「言った事、なかった事にしてほしい?」
 そう迫られると、俺は喉まで出かかっている言葉に、息を詰める。
「由良のばか!」
 俺は彼の胸をつっぱねると、腕の中から飛び出し、部屋を出た。
「オイ、礼! 待てよ!」
 追いかけてくる言葉を無視して、俺は階段を駆け下り、食べかけのピザを一瞥して、玄関を飛び出した。
 自宅に入り、玄関の鍵を閉めると、俺は自室に戻って、布団の中に潜り込んだ。
 布団の中の暗闇で、由良のさっきの薄い笑顔が浮かんでは、閉じた瞼の奥へと沈んでいく。
――なかった事にしてほしい?
――やだ。
言われたと同時に、浮かんできた言葉も反芻すると、かあっと頬が今までに感じた事ないほど熱く発火する。
俺は、由良が好きなのだろうか。
告白してくれたことが嬉しくて、優しくて甘い彼の事を好きになってしまったのだろうか。
そして、これは本当に俺の気持ちなのだろうか?
優しくされたから、甘え切っているだけの感情ではないだろうか。
俺は枕に顔を擦り付けながら、由良の言葉や表情を思い返す。頭の中で回るそれらを眺めていると、眩暈を起こしたように、頭がくらくらしてきて、飛び出すように帰ってきてしまったことを少しだけ後悔した。
……由良はなんて思ったかな。――なんて、考えていると、ポケットに入れっぱなしのスマホが振動する。のろのろとそれを取り出し、画面を確認すると、メッセージが入っていた。
由良からだ。
『いじめてごめん。嘘だから。でももし、前言撤回しろって言われても、俺が礼を好きでいる事は止めない。それは覚えといて。おやすみ』
 何て返せばいい? なんて返すのが正解?
 由良の言葉から、白い星が飛び出してきたようにちかちかして眩しい。
 ――だめだ、好きになっちゃうかもしれない……。
 押し負けるように、白旗が胸の中ではためく。
 俺はスマホの明かりを落として、息を殺すように枕に顔を押し付けた。