【3話】

「女装したいから見て欲しい」
 ――なんて、言えるわけがない。
 我に返って数日。俺は由良から言われた言いつけを何度も反芻しては、首を横に振る日々を送っていた。
 勿論、あの日以来SNSに写真をアップロードすることは止めている。いっその事、アカウント削除しようとかと迷いもしたが、数字で満たしていた欲求の賜物を、今更簡単に手放す勇気など俺にはなかった。
 削除は一旦、保留。
 俺は数日前、由良にベッドに押し倒された事を、今日も記憶が擦り切れる位思い出しては、悶々とした頭を抱える。
 もし、あの時スマホがバイブしなかったら、どうなっていたのだろうとか。由良はもう一度俺の女装を見た時、どんな反応するのだろう、とか。
 知りたい事、見てみたい事は山のように積み重なる。
 俺は昼ごはんのおにぎりに、小さく噛り付いて、味気ない白米を咀嚼した。
「おい、安藤」
 不意に呼ばれて顔を上げると、担任教師がこちらに向かって日誌を振っていた。
「これ、頼まれてくれないか。当番が見つからなくてな」
 そう言いながら、当たり前のように差しだされる。俺は反射的に頷きながら手を伸ばすと、
「違ぇだろ、アホ」
 それを遮るように、誰かが俺の手を掴んだ。はっとして顔を上げると、由良が苛立たし気に俺を一瞥してから、担任教師を睨みつける。
 心臓がとくん、と一瞬止まってから少し大きく、鼓動を刻んだ。
「当番がいるのに、そいつは楽させてやって、コイツには押し付けるンすか? それって贔屓ってやつ?」
 相変わらず人を挑発するような口調で反論するから、俺は思わず由良の手を引いた。しかし、そんな事で口を閉じる訳もなく、
「てか、当番にちゃんと仕事しろって言えねえ大人なンすね、センセーって。……それで先生、ふぅん……」
 相手が誰であろうがお構いなく、由良は相手を睨みつける――俺の代わりに。
「由良……っ!」
 そうだ、由良は俺の為に、こういう態度をしてくれてるのだ。俺が大人からの要求に逆らえないから、こうして俺の代わりに威嚇してくれている。
「由良、分かったからやめて」
「うっせ、立場利用して仕事押し付けるとか、パワハラだろ」
「由良!」
 ――庇ってくれるのは嬉しいけど、言葉遣い……!
 そろりと教師へと視線を向けると、何か言い返したいという顔ではあるが、毎度ながら由良が正論だ。担任教師は「悪かったな」と俺に一言呟くと、そのまま教室を足早に出て行った。
 俺は深いため息を吐きながら、机に突っ伏す。
「あーもう……焦った」
「おめーも簡単に受け取ろうとしてンじゃねえよ!」
 ぺしっと後頭部を小突かれる。
 顔を上げると、俺の前の椅子を引いて、どかりと座り込んだ由良が、不機嫌そうに双眸を歪ませながら、こちらを睨みつけていた。――お前がしっかりしねーから。そうはっきりと言い捨てるような眼差し。
 でも、いざとなったら守ってくれる。
「……ありがと」
 俺がそう呟くと、由良は軽く首を傾げてから、小さくため息を吐いた。それから手に持っていた炭酸水のペットボトルの蓋を開く。ぷしゅっと空気が噴き出るような音が響き、微かにしゅわしゅわと炭酸の弾ける音が聞こえてきた。
 俺は身体を起こすと、もう一度おにぎりを手にして、それを齧った。今日は鮭と昆布。でも由良は昆布の佃煮が嫌い。
「……鮭先に食べちゃって、もう昆布しかないから何も渡せないよ?」
「飯たかりに来たンじゃねえよ」
 でなければ、学年違いなのに、何の用だろう。授業の教科書なんて貸せないし、ジャージだって、サイズが違う。
「……アレ、もうしねえの?」
「あれ?」
「アレ」
 俺は少し考えてみる。アレ。由良が言葉を濁しているところからくるもの――アレ。
あれ、しかない。
こんな所で大っぴらに言えないもの、秘密と約束したもの。
 俺は食べかけのおにぎりを見つめる。
 言えるわけがない。幼馴染の男子高校生に、女装見て欲しいなんて、死んでも言えるわけがない。プライドとか一般的な常識として、そんなのおかしい。由良だって、俺が馬鹿な真似しないために言ってくれたんだし。
「……あのチャイナ、見てえなぁー……」
「え」
 顔を上げると、由良は机に肘をついて、手に顎を乗せながら、真っ直ぐ俺を見つめてくる。
 胸の内側から外に向かって押し上げるように、外に出せと言わんばかりに、心臓が鳴っている。
「み、見たい……ってこと?」
「今そう言っただろ」
「そっか……そうなんだ……」
「ん、そう」
 由良が見たいってこと? それなら期待に応えるべき? 由良がまた見たいって、思ってくれてるんだ。変じゃないんだ。変態って思われてないんだ。
 そう思うと、身体の奥で固まっていた何かが、溶けるようにして緩む気がした。
「……見に行っていい?」
「今夜?」
「今夜」
 クラス中の会話が混ざり合って何を話してるか分からない雑音になって、少しだけ遠退いて行く。俺はおにぎりを齧った。鮭の塩気と旨味が舌の上で溶ける。
「何時くらいに来る……?」
「何時からいい?」
 由良が見たいと言ってくれたことが嬉しくて。でもその事実が何だか恥ずかしくて、視線を下げると、それを追いかけるみたいに覗かれる。視線を逸らせば、視界の隅で、由良が黒いマスクの内側で笑っているような気配がした。
「……何時でも」
「じゃあ、帰ったらすぐ行くわ」
 すぐ、か。なら帰ったらすぐに準備して、メイクとウィッグも出して整えないと。服も皺になってないか確認して、由良が来るなら夕飯も用意した方がいいよな。今日は牛丼にしようと思っていたから多めに作ろうかな。それから……。
「礼、ちょっと」
放課後の事を考えていると、耳かして、とシャツの襟を引かれた。俺は右耳を貸すように、彼に向けると、
「……いま、すげえ可愛い顔してる」
 囁きが甘く鼓膜に溶ける。
 驚いて机の上におにぎりを落とすと、由良が俺を見て驚いたように目を丸くして見てくる。俺はかぁっと発火したかのように顔が熱くなるのを感じた。耳たぶに触れた由良の吐息が熱かったのか、それとも驚きのせいか。
由良はそんなふうに戸惑っている俺を見て、吹き出すように笑った。
「由良!」
 揶揄うにしては質が悪くて怒るけれど、彼は反省している態度も見せずに、笑いながら席を立った。
「じゃ、またあとでなァ」
 由良はそう言うと、あっさり教室を出て行った。嵐でも通り過ぎたような眩暈を軽く残して、由良は消えてしまう。
 俺はおにぎりを拾い、ラップに包むと、鞄の中に仕舞った。
 なんだかもう、胸もおなかもいっぱいで、入る気がしない。
 俺はペットボトルのキャップを開き、お茶をひと口流し込む。ふっと息を吐いて、ゆっくりと瞬きをすれば、さっきまでの由良の笑顔がワンカットずつ、瞼の裏に蘇る。
 変なの。
 なんか由良が変だから――らしくないから、俺も変になってしまう。
 俺は胸の内で「由良のばか」と呟くと、窓の外へと視線を投げた。
 初夏には遠いけれど、抜けるような青空が雲一つなく、視界を覆い尽くした。

 ***

 急いで家に帰ると、まず夕飯の準備をした。
 由良も食べるならと、多めに牛丼を作り、付け合わせのサラダも、抜かりなく準備すると、俺はようやく自室にこもることができた。
『もう行っていい?』
 由良からのお伺いが入ったのが一時間前。俺はそれに「一時間後に来て欲しい」と伝えると、由良は律儀に、ちょうど一時間後に家のチャイムを鳴らしてくれた。
 服には折り畳み皺があったが、さほど気にする事はない。ウィッグも箱の中で潰れないようにと丁寧に保管していたから、申し分ない。
 あの1万3000いいね、を貰った時と同じくらいの出来には違いない。俺は再度鏡の中の自分を前、横、後ろと、眺め直してから、階段を駆け下りた。
 玄関前に付けば、流石に緊張がぴりりと肌の上を走る。
「ゆ、由良だよね……?」
 恐る恐るそう声を掛けると、
「俺以外に誰がいるんだよ、開けろ」
 そう扉にノックが入った。
 施錠を開けて、ゆっくりと扉を開くと、隙間からひょこっと由良が顔を覗かせる。白いロンTに、緩いデニムの飾り気のない、いつも通りの由良がそこに居た。彼は俺を見ると、頭の天辺からつま先までを丁寧に見てから、
「入れて」
 と、扉を開くように促してくる。
 俺は由良の指示に従い、扉を大きく開くと、彼はするりと身体をこちら側へと滑り込ませてくる。扉から手が離れると、由良の後ろで扉ががちゃん、と閉まり、後ろ手に鍵を閉める音がした。
「あ、思った以上に短い」
 そう言いながら、短いドレスの裾を引かれた。
「それは俺も思ってる」
「水色似合うじゃん。てか、何かのアニメキャラみてえ」
「そう……?」
「ン、かわいい」
 ――かわいい。
 その言葉に、身体の芯からぞわりと、心地の良い波が外に向かって湧き立つ。俺は顔を上げて由良を見ると、彼は何かを思うように、じっと俺を見つめてから、
「部屋行こうぜ」
 と手を引いてくる。
「あ、夕飯用意したんだけど」
「ンなの、あとでいいじゃん」
……ごはんより、俺なんだ。
 そんな小さいことにも喜びを感じてしまう。
 階段を上り切り、部屋に入ると、勢いのままに手を引かれて抱き締められた。腰に回る腕が、強くて、その分身体が密着して、心臓が大きな音を立てていることがバレてしまいそうで。
 ――なんだか悪い事してるみたいだ……。
「く、苦し……」
「あ、悪い」
 離して欲しいわけじゃなかったけれど、心臓が痛いくらいに緊張してしまい、苦しいのは本当だった。
「お前、顔真っ赤だけど、大丈夫そ?」
「だめ……、やっぱはずい。女装見られるとか……」
「何万の人間に見せてたじゃん」
「写真と実際じゃワケが違う……っ!」
 ま、そりゃそうか。
 由良はそう言うと、俺のベッドまで移動し、その上に腰を下ろした。
「礼、こっちおいで」
 手招きされると、何だか従わないといけない気がして、そろそろと警戒しながら近寄ると、
「何も変なことしねえよ」
 そう言いながら、ぐいっと手を引かれる。促されるままに由良の膝に腰を下ろしてしまい、慌ててその場から立ち上がろうとすると、力で抑え込まれてしまう。
「お、重いだろ!」
「は? むしろ太れモヤシ」
「もやし! そこまで細くない! ていうか、ンな事言ったら、由良だってひょろひょろじゃん!」
「ハァ? お前と一緒にすんじゃねーよ、俺はちゃんと鍛えてンだよ!」
「どこが? ゲームばっかで学校以外引きこもりじゃん。陰キャ代表みたいな生活してるくせに……っ」
「お前それ、フツーに悪口だかんな!」
 いつも通りの言い合いをすると、不思議と緊張が少し解れていく。
 わずかな言い合いの隙間に沈黙が降りると、由良の手が「ちっとは落ち着け」と言うように、俺の背中を撫でた。それが心地良くて、少しだけ体重を預けてみると、彼は当たり前のようにそれを受け止めてくれる。
 うれしい。
 ちゃんと、受け入れてくれてる。
「……礼、今日のメイクすげー俺好み」
「え、ほんと?」
 アイシャドウはブラウンをメインにして、アイラインは猫目になるように、目尻を綺麗に跳ねさせる――その微妙なラインの長さが意外と難しいのだ。
「アイライン綺麗だし、チークの入れ方もすげえかわいい」
「わかる? 嬉しい!」
幼さを出すために、今日は薄いピンクのチークを丸く入れ、更に鼻筋にも少し足す事で、全体的に体温が高そうな印象が浮き出たせた。
目は切りっとしてるけど、まだまだ幼くて甘い雰囲気。それを出すために、メイク動画サイトを漁り続けた日々が報われる。
「リップも新色で可愛いだろ? これすげー人気で、買うのも大変だったんだ。ドラスト五軒ハシゴしちゃったよ」
 ――あ、喋りすぎた。
 はっと我に返り慌てて口を噤む。
「ごめん、男がこんな話……」
 男がメイク用品の話をべらべら喋るって、なんか変だ。女の子ならまだしも……・
「俺が新規カード求めて、ハシゴするのと同じだろ」
 いつの間にか俯いていた顔を上げると、由良は首を傾げた。
「良かったじゃん。五軒で済んで。俺なんか十軒回って、結局手に入らないとかあるぜ」
「……同じこと?」
「何が違うんだよ。欲しい物の話しだろ?」
 俺は由良の言葉に、肌の上がぞわぞわするような喜びに下唇を噛締めた。
 ――嬉しい。
 いいんだ、話しても。俺がリップ欲しさにドラスト五軒ハシゴした事なんて、普通の事なんだ。
「下唇噛むなよ、もったいねえだろ」
 そう言いながら由良の指先が、俺の唇に触れる。思わず唇を緩めると、
「うまそうな色……」
 顔が少し近づいて、腰に回った大きな手が、短い裾の上を撫でる。太ももを撫でられて、ぞくりと内腿が甘く痺れた。
 嫌悪はない、でもむずむずする。
 指先が裾を通り過ぎ、直に足に触れる。
「由良、近いよ……」
 心臓が痛いくらいに身体の中でどくどくと、暴れている。
「ン~?」
 曖昧な返事をしながら、由良は俺の胸に顔を押し付けると、
「平らだ……」
 とぼそりと呟く。
 俺はその後頭部を軽く叩いた。
「いて。でも、お前いいにおいする」
「いい匂い? 牛丼作ってたからかな」
「そうじゃねえよ、なんで今牛丼の話し出すんだよ」
「だって、由良も食べるかなって思って」
「いや、食うけど」
 そうじゃないんだよ、と由良は少し不機嫌な、むっすりとした声を出して、顔を上げた。
「お前香水とか付ける?」
「付けない。由良は意外とつけてるよね」
「意外ってなんだよ」
「おしゃれっぽい事嫌いじゃん」
「嫌いじゃねえよ、陽キャが嫌いなだけ」
 属性が全く合わなさ過ぎて、ノリが面倒臭い。
 由良はそう言うと、鼻を効かせるように、すんと鼻先を俺の服に擦り付ける。
「ボディーソープ?」
「服の防腐剤の匂い、かな……」
「ちげえよ、このバカ。お前空気読めよ」
「空気は読むんじゃない、吸うもんだって良く自分で言うくせに……」
 由良はチっと盛大な舌打ちをして、俺のウィッグの髪を撫でた。優しい柔らかな手つきで触れられると、心がとろん、と蕩けてしまう。
気持ちいい。
「……普通に、お前の顔好みだわ」
 不意に告げられて、俺はじっと由良を見つめた。嘘を吐くことを、面倒だと思っている彼の本心だとは、分かっているけれど、驚きが隠せない。
「そんな女の子に見える?」
 写真ならまだしも、実物を前にしてそんなに言ってもらえるなんて、予想外だ。女の子の服を着ているけれど、骨格まではどうしても弄れない。顔だって光で飛ばして粗隠しもできない。
 装っても、俺は所詮男だ。
 それを「好み」と言い切る由良が信じられなかった。
「……お前、ホントうぜえわ」
 喜びも束の間、一言で喜びの頂から叩き落とされてしまい、俺は少しムッとしながら、
「なんだよ急に……っ」
 その理不尽を訴えた。
 舌打ちしたと思えば、深い溜息を吐かれて、苛立ちから由良の肩を揺らすと、逸れていた視線が戻って来た。
「……でもまあ」
 また再度視線が絡み合う。俺は感情があまり表面に出にくい彼の双眸を見つめた。
「そういうところも、俺は割と好きかもな」
 そう言うと、大きな掌が俺の頬を撫でる。
――好き? 由良が? 
当たり前みたいに告げられた言葉と、優しく包まれている左頬を意識すると、また心臓がとくとくと主張を始める。
「なぁ、あれからネットに写真とか上げてねえよな?」
 由良の視線に力が入り、俺はハッとして首を横に振った。 
「してないよ。アカウントだって作ってないし、動かしてない」
「そんならいいけど」
 そんなに怖い事だったのだろうか。今まで本当に怖いという思いをしてない俺の危機管理意識が薄いせいか、由良の心配性は少し過保護にも思える。
 でも、実際問題として度々SNSでのストーカー被害や、トラブルはテレビのニュースでも取り上げられるから、俺の防犯意識が低いのだろう。
「そんなに心配させた……?」
 思い切ってそう聞いてみると、頬にあった由良の手が首裏に回り、そっと引き寄せられる。抵抗し難い力に従う他なく、顔を近づけると、耳朶を擦るように弄られた。ぞくりと脇の辺りから腰へと痺れのようなものが降りて、吸い込まれるようにして、身体の奥に消えていく。
「由良……っ」
「嫌だった」
「……いや?」
 心配ではなく嫌と言うのはどういう意味だろうと考えていると、由良の額が俺の胸に押し付けられる。甘えるみたいに、ぐりぐりと。
「お前が知らねー誰かに見られてると思うと、腹立ってすげー嫌な気持ちになった」
「ご、ごめん……」
 いつもの責め立てるような口調ではなく、俺の胸に顔を埋めながら、弱ったように言うから、思わず謝ってしまう。悪いことをしていたつもりはないけれど、由良が嫌だと思う事を、無意識にしていたのだと思うと、何だか罪悪感が湧いてくるから不思議だ。
「もうしないから」
 彼の背中に手を回して、撫でてみると、強く抱き締められた。
「……礼、俺お前に言いたい事があって」
 由良はそう言うと、ふっと顔を上げて見つめてくる。――しかし、ブブっと何かが振動する音がその言葉を遮った。
「クソが! またかよ!」
 いつも通りの由良が吼えると、彼はポケットからスマホを探り出し、画面を睨みつける。
「……悪い、帰る」
「え、もう? ご飯は?」
「あー……食いてえけど」
 言葉を濁す由良が、気まずそうに視線を落とした。どうやら、その時間もないらしい。
俺は時間がない中、無理に来てくれたのかもしれないと思うと、何だか申し訳ない気持ちになり、早々に由良の膝から立ち上がった。このまま引き止め続けて、困らせる事をしても仕方ない。
しかし、俺が離れると、それを拒むように、くいっと手を引かれた。
「俺んち来るか?」
「え?」
 思ってもない誘いに、思わず由良を見つめると、
「他の衣装着て、うち来て」
「ええ」
「あと牛丼も食いたい」
矢継ぎ早にリクエストされて、断る理由は俺の手の内からなくなってしまう。何だかんだ、お願い事には弱い性分なのだ。
「ええ~……わかった」
「待ってる」
 俺は先に由良が出ていくのを見送ってから、ウィッグを変えて、衣装も傍から一瞬見ても変に思われないように、ブレザーの制服に着替え、髪も茶髪のストレートに変えてみる。
 メイクは時間がないので、省略させてもらい、そのままで行く事にした。
 身支度を整えると、次にタッパー二つに白米と温めた牛丼を詰め込んだ。それらを紙袋に入れると、俺はそろりと玄関の外を伺ってから、そそくさと由良の家へ急ぐ。
 インターホンを連打すると、ばたばたと階段を下りてくる足音が聞こえ、
「早く開けて!」
 と俺は玄関の扉を叩いた。
「お、ブレザーもいいじゃん」
「早く入れて! ご近所に見られたら!」
「大丈夫だって」
 由良はあっけらかんと笑いながら扉を大きく開くと、俺はささっとその隙間から身体を家の中に忍び込ませた。
 いけない事をしているような気持から(おそらくは間違いなくいけない事)、心臓がばくばくと音を立てている。怖い、見られたらどうなる事か――そんな不安からゆっくりと解放されながら、俺は由良に手を引かれるまま、階段を上がると、彼の部屋にお邪魔した。
 物の少ない部屋は広々としていて、目立っている家具と言えば、ベッドと大きなデスクに、パソコンのモニターが二枚。両画面には既にゲームらしき画面が展開されていた。
「悪い、今から一戦あるから、ちょっと待てるか?」
 そう言いながら由良が、しっかりと音を遮断するようなヘッドホンで耳を覆う。
「うん。……見てていい?」
「ん、おいで」
 俺は用意し着てきたタッパーの入った紙袋を地面に置いて、由良の隣に膝立になり、画面を覗いた。
 ふっと由良の視線がこちらに降りて来て、なに? と彼を見上げると、
「かわいい……」
 としみじみ言われた。じんわりと頬が熱くなり、言葉に迷ってると、
「あ? 女? いねーよ、黙れ!」
 由良が突然暴言を吐くから驚く。目を瞬かせていると、由良の長い指先がスマホの画面を指さした。
 どうやら通話中らしい。
「ご、ごめん」
 慌てて口元をおさえると、
「気にしないでいい」
 そう言いながら由良の長い指が俺の髪を、梳くように優しく撫でてくれる。その手は髪からいったん離れると、
「やっぱ短くね?」
 と俺のスカートの後ろを捲り上げた。
「変態!」
 俺が訴えると、どうやら通話中の向こう側にいる人たちも何か由良に訴えているようで、彼の眉間に不機嫌な皺が深く刻まれる。
「うっせーな、やるぞやるぞ。童貞ども」
 そう蹴散らすように言いながら由良の左手は、斜めに構えられたキーボードに。そして聞き手はマウスを握った。
 俺はそれを眺めてから、大きな画面へと視線を上げる。
モニターでは、既にカウントダウンが始まっていた。ゲームがスタートすると、由良の手も同時に動き始める。
 俺はそれがどんなゲームなのか分からないまま、ただ眺めた。由良の動かすキャラクターは、どこか廃墟のような倉庫の中をぐるぐると回りながら、手に銃を構えたり、物陰に隠れたりをしていて、何かを探しているようだ。
「丸山、今出ようとすんなって」
 舌打ちが聞こえて、由良を見上げる。
「作戦はそのままでいいけど、ちゃんと見ろよ」
 どうやら他の人に指示を送っているらしい。いつにない真剣な眼差しで、こんな由良を見るのは、初めてかもしれない。そして、先程までの甘いやり取りのあとと言うこともあってか、なんだかそのギャップに心臓が簡単に早鐘を打つ。――その時、不意に画面から銃撃の激しい音が響いて、びくりと肩が震えた。
「大丈夫か?」
 そう言いながら、由良の手が俺の肩を撫でる。由良は一瞬だけ俺に視線を送ると、すぐに触れた手をマウスへと戻してしまった。
「ん、ちょっとびっくりした」
「でけーもんな。……いちゃついてねえよ!」
 そう言いながら由良のキャラクターが機関銃のようなものを構えて、それを容赦なく、狙いを定めた方へと撃ち放つ。
「井上もうちょいで着きそう? オケ。んじゃそのまま上から狙って」
 カタカタと激しく指先でキーボードを叩きながら、それと同時にマウスでも何か作業していて、何もかもが目まぐるしい。
 由良の動かすキャラクターが何かを投げると、それは爆発して、その煙が当たりを包む。
 ゲームってこんな難しそうだっけ。
 俺を置いてきぼりにしながら、ゲームは苛烈さを増しながら進んでいく。
 目が回りそうだと、視線を逸らすと、
「はい、終了」
 由良が言うと同時に、画面には勝利を知らせる『WIN』という文字が煌びやかに浮かび上がっていた。
「目まぐるしくて、よくわかんなかった……」
「だろうな。……なぁ、悪い。俺ちょっとまだ飯食ってねえから時間もらっていい?」
 由良はそう言って、二言三言会話すると、スマホを弄り、画面を暗くする。
「もう繋がってねえから」
 そう言いながらヘッドホンを外して、ベッドに投げ置いた。
「すごいね、なんか難しそうだった」
「そうでもねーよ、慣れだろ」
 そう言いながら俺の持ってきた紙袋を見つけると、由良は嬉しそうにその中からタッパーを取り出して、目を輝かせる。
「うまそ。食っていい?」
 由良は俺の「いいよ」という言葉を待てないまま、お箸も探し当てると、いただきまーすとそれを掻き込む。気持ちいいくらいの食べっぷりに安心しながら、俺も一つ取り出し、手を合わせた。
「……お前さ」
 由良はじっと俺を見つめてから、タッパーを床に置いて、手を伸ばしてきたかと思うと、ウィッグを引っ張り取り去ってしまった。
「あ!」
 髪を抑える為のネットも取り去ると、由良は俺の髪を手櫛で整える。驚きのあまり、文句すら出ずにいると、
「ん、こっちの方が可愛い」
 由良はじっと俺を見つめながらそう言った。
「え……」
 ショートカットの方が好きなのかな……。
「つーか隣来いよ」
 指示されて、そろりと場所を移動すると、ベッドの枠に寄り掛かっている由良の隣に腰を下ろした。
「えっろ……」
 そう言いながらスカートの隙間から手を入れられ、内腿を撫でられた。
「お、おい!」
「セーラー服もそうだけど、制服ってだけで背徳感」
「エロ漫画の読み過ぎじゃない?」
 触れられた場所からぞくりと湧き上がった甘い痺れが、腰の奥に消えていく。俺は慌てて由良の手を引っ張り抜くと、
「も、ダメって。変なとこ触らないで!」
 目を見て訴えた。
「なんか触りたくなんだよ、お前の事」
「だめ。これ以上触ったら帰る!」
 由良はじっと俺を見つめてから、諦めたようにチッと舌打ちをして、
「じゃあ膝きて」
 と違う要求をしてくる。俺は触られるよりマシかと譲歩の気持ちで、由良の胡坐を掻いた膝の上に腰を下ろした。
 横抱きされて、ぎゅっと柔らかな力で腰を抱かれ、胸に由良の頭を押し付けられる。
子どもが甘えてくるみたいで、何だか胸の奥がきゅんとしてしまう。これが「母性を擽られる」という事だろうか。俺は由良の髪をゆっくりと撫でた。
「なあ、明日空いてる?」
「明日? うん、特に予定はないけど……」
「明日の夜も飯一緒にしねぇ?」
「いいけど……」
「明日はピザとか取ってさ」
 ピザか、そう言えば久しく食べていない気がする。出前を取るにしても、一人分となることが多いから、注文し難いのだ。
「いいね! 久し振りに食べたい!」
「じゃあ決まりな」
 そう言いながら、由良の鼻先が首筋に擦り当てられる。
「ん、……擽ったい」
「いい匂い」
「ひゃ、あ、ちょっと……」
 由良の唇が、首の筋を優しく食む。驚いて肩を押すと、離れた身体が、自分よりもずっと大きくて、広いことを自覚する。
 それは怖さとは違う、何か別の思いを俺に感じさせた。
「由良、やりすぎ」
 顔がぼんやりと熱で、浮かされているような感覚がする。由良はそんな俺をじっと見つめてから、キーボードを乱暴に操作していた指先で、優しく撫でてくれる。
「なんか、お前のそういう顔好き」
「そういう顔って……?」
「俺の行動とか言葉で、真っ赤になってうろたえてる顔」
「性格悪い……っ」
 軽く頬を叩くと「いて」と由良は笑った。
 その笑顔がどうしても憎み切れなくて――それどころか、その笑顔すら、好きだと思えてしまって、心臓が走り出してしまう。
 もうやだ、この気持ちは何だろう。