【2話】

 クローゼットの奥に隠してある紙袋を引っ張り出して、セーラー服の衣装を取り出す。ウィッグはこのセーラー服に合わせて買った、茶髪のボブ。メイクはピンク系を使い、リップも統一感が出るように同じ色合いをチョイスする。
 三十分ほどで出来上がった、もう一人の自分を鏡の中に映せば、少しだけテンションが上がった。
 いつもならここから撮影するために、試行錯誤するところであるのだが、今日からはそれもできない。上がっていたテンションも、これから由良を呼ばなければと思うと、どんどん下降していく。
 俺は机の上のスマホを手に取り、
『もういいよ』
 と短く由良にメッセージを送った。
 覚悟なんてできていないままだけど、貶されるならさっさと貶されて、風呂に入って眠って、今日の事はきれいさっぱり忘れてしまいたい。
 そんな勢いに任せてはみたものの、ドアの向こう側から階段を上る足音が聞こえてくると、心臓がびくりと大きく跳ね上がる。
 ――怖い。
 近づいてくる足音に、嫌な想像ばかりが高速で頭の中を駆け巡る。開口一番に何と言われるのだろう。
「マジねえわ」「きも」「黒歴史更新」……由良が言いそうな、相手を嘲笑するワードが、冷笑と共に、頭の中をぐるぐると駆けまわる。
 ――もういっそ死にたい。
 俺もなんでこんな素直に着替えてるんだろう。言われるままの言いなりじゃなくて、少しは抵抗しろよ。
 今更になって自分を責めたところで、情けない気持ちが増すばかりだ。何を言っても仕方がないのは分かっている。
 でも、自分を責めずにはいられない。
「遅ぇよ、ンなに時間かかるもんかよ!」
 ノックもなしに、不意に自室のドアが開く。
 終わった――人生が終焉を迎えた。
 待たされたことに苛々している様子の由良は、俺を見るなり、寄せていた眉間の皺を解き、目を丸くした。あからさまな驚愕だ。
 ――無理もない、そりゃ驚くだろう。
 幼馴染の女装なんて。
 俺だってできれば見せたくなかった。
「……馬鹿にしたきゃ、もういいよ馬鹿にしたら」
 俺は半ばやけくそで言葉を吐き捨てると、
「可愛いじゃん」
被せるように、由良の言葉が、鼓膜に届く。
 信じられなくて、思わず背けていた顔を由良に向けると、
「だから、カワイイじゃん。写真より生の方が良い」
 そうはっきりと言われた。
「え、なんで……? 怖い……」
「どういう意味だよ! 褒めてンだろーが!」
 思わず喜びよりも恐怖が勝って、素直に口から思考が零れると、由良は眉間に皺を寄せた。
「へえ、なに。腕と足の毛も剃ってんの?」
「え、あ……うん、え?」
 手が届く範囲に由良が身体を近づけてくる。
「ちゃんと顔見せろよ」
 由良の右手が優しく俺の顎を捉えて、乱暴ではない範囲の力で上を向かせてくる。品定めするような真剣な眼差しを真っ向から受けると、カメラとは全く違う緊張が、身体を竦ませた。
「へえ、メイクもきれいじゃん」
「ほ、ほんと……?」
「マスカラもきれいだし、この目の下の黒子は描いたやつか?」
「そう、カワイイかなって……」
「ン、かわいい。お前下向いてばっかだから目立たねえけど、顔面偏差値高いからな」
「そうなの?」
 俺の問いかけに、由良は「当たり前だろ」と言い切って、ベッドに腰を下ろす。
「そもそもお前メイク薄めだろ。薄メイクでカメラ補正も殆どなし。そんなのもう元の素材の良さしかねえだろ」
 自分が可愛く撮れる角度は研究した事はあったが、写真の補正や加工については何もしてこなかった。
「ほ、褒めてくれてる?」
「これが褒めてなきゃ何なんだよ」
 由良の言葉にじわじわと喜びが、胸の奥から溢れてくる。
 あの由良が、お世辞抜きで可愛いって言ってくれて認めてくれている。メイクも上手いって、細かいところまで見てくれてる。
 そう思うと、SNSでも貰ういいねやコメントと同じくらい嬉しくて、自然と頬が緩んでしまう。
「パンツは?」
 そう言いながらスカートを捲られ、
「変態!」
 俺はその手を叩き落とした。もちろん、下着まで女物なんて用意してない。俺はあくまでも外見の見てくれだけを評価して欲しいわけで、写真で見えない部分までの変身願望はない。
「な、隣座れよ」
「……なに、次は何企んでるんだよ」
「企んでねえよ、俺の事どんだけ警戒してんだよ」
 心外だと訴えるように、由良が笑う。
その笑顔が怖いのは、正直なところ――でも全てがバレてしまった今、彼に従わないという選択がないことも、また確かな事で……。
 俺は躊躇いながらも、由良の隣に腰を下ろした。
 何されるんだ? 次はどんなことを言われるんだろう。
 そう思うと、心臓がまたばくばくと俺の心を置き去りにして、一人走りを始める。
「お前、自分の事、承認欲求モンスターとか思ってんだろ」
 由良がすっぱりと言い切る。
 俺はその言葉に、心臓が軋むのを感じた。――まさしく、言葉を選ぶことをしなければ、由良の指摘は、ドンピシャに俺の考えていることに当てはまるから胸が痛い。
 認められたい、自分の価値を確認したい。
「……そうだけど」
 反論する余地がない事は分かっていても、言葉が「けど」と弁護に回ってしまう。情けない。
「……俺は、ちょっと違うと思うんだよな」
 由良の腕が腰に回り、何の前触れもなく、力強く引き寄せられる。ぴったりと身体が密着して――もう残り数センチで頬同士が触れ合うくらい顔が近づくと、由良の空いてるもう片方の手が、俺の右手に優しく触れた。
 由良の長い人差し指と親指が、俺の爪先を確かめるように、優しく触れ、擦る。
 それだけで顔がかあっと熱くなった。
「爪、綺麗……」
「そ、そう……?」
 由良が喋ると、唇から零れた温い吐息が、唇の辺りを漂った。それだけで、また心臓が、ひと際大きく跳ね上がってしまう。
 ――まるで少女漫画みたいだ。
 予想外のシチュエーションに頭が付いて行かない。一体由良は、何を企んでいるのだろう。
「……礼、何して欲しい?」
「え?」
「お前、人の言う事ばっかで、自分の事なんていつも二の次だろ。お前は根本的に甘え足りてねンだよ」
 由良の大きな手が、俺の右手を優しく握る。繋いだ手のひらから、由良のあたたかい温もりが伝わって来て、それが俺の体温と繋がっていくのを感じた。
「思えばガキの頃から、愛想良くて手伝いもよくやって、背伸びしまくってたよなァ」
 腰にあった由良の手が、今度は俺の頭を優しく抱き寄せてくれる。俺は促されるまま、もたれるようにして、由良の肩口に頭を寄せた。
 あたたかい。
 いつも乱暴な言葉ばかり使って、こちらを睨んでばかりなのに、こんなふうに甘やかすみたいな態度取られると、どうしていいか分からなくなる――ていうか、これって甘やかされてる? その事実は怖いのに、由良の腕の中は不思議と居心地が良くて、ずっとここに居たいと思わせるような、魔法みたいな甘さが漂っていた。
「はい、だけじゃなくていい。ヤダとか無理とかちゃんと言え」
 ――はい、って言わないでいい。
 俺はその言葉に、何とも言えない気持ちになった。それと同時に、胸の奥で自分を無意識の内に締め付けている紐が、少しだけ緩んだ気がして、緊張していた身体が僅かに解けていく。
「なに、なんでそんな事言うんだよ」
 らしくないじゃん。
全然由良らしくない。
いつもみたいに「甘えんな」とか「うざい」って言えばいいのに。
「別に、礼の事甘やかして―だけ」
 そうさらりと言い放つ由良の長い両腕が、今度はしっかりと俺の身体を抱きしめる。
「え、え? なに、怖い。由良熱でもあるのか?」
「さっきから失礼なことしか言わねえな、キスして黙らせるぞ」
「ええ……!」
 キス? 俺と由良が?
 言われてすんなりと容易に想像できてしまった事に、思わず頭が爆発しそうになった。
「陰キャのクセに軽い!」
「お前それ悪口だかンな!」
 騒いでないと正気が保てる気がしない。
 けれど、不思議とこの腕の中から抜け出したいとは思わなかった。離して欲しい、この腕を緩めて欲しい――なんて、言えないまま、俺は初めて感じる大きくなった由良の身体に、心臓がまたさっきとは別の意味で、どくどくと大きな音を立てているのを感じる。
「お前身体あちーけど、大丈夫か?」
「……むり」
 少し身体を離すと、顔を覗き込まれ、由良が噴き出すように笑った。
「真っ赤じゃん!」
 ――誰のせいだと思ってんだよ!
「なぁ、こーゆー姿で外歩きたいとかあんのか?」
 ふと問われて、考えた事もなかった事を、改めて頭の中に巡らせてみる。しかし、すぐに出た解答は「NO」だ。女装することは好きだし、それを可愛いと認められたい気持ちはあるけれど、それはリアルじゃなくていい。あくまで、仮想の中での出来事で留めたい。
「それはない」
「ふぅん」
 由良はまたスカートを捲ろうとするから、慌ててその手を軽く払い退ける。
「捲るな変態」
「なんか捲らなきゃって思って……」
「小学生かよ」
「そーかもな」
 なにそれ、と呟いたところで、ふっと会話が途切れて、身体だけが重なる。夜の静けさを意識すると、由良の温かさや、微かに感じる胸の鼓動が聞こえてくる気がして、俺は少し目を伏せた。
 由良の腕が、少し強く、俺を抱き直してくれると、布の擦れる音が部屋に滴る。
 ……ちょっと、嬉しい、かも。
 幼い頃、両親に抱かれた記憶はあるけれど、それ以外に身体をぴたりとくっつけて、腕を背中に回される記憶なんてない。
「……由良、俺も抱き締めていい?」
「いいよ」
 あっさりと許可が下り、自分からも由良の背中に手を回してみる。不意に、母さんの首裏に手を回して抱き着いた、幼い頃の記憶が、ゆるやかに蘇ってくる。抱き上げられて、振り落とされないように、母さんの髪に顔を埋め、必死にしがみ付いた記憶。
「こんなふうに抱き締めてもらうの、小さい頃以来だな」
 幼い記憶を一歩一歩辿りながら呟くと、由良の腕が、一層強く俺を抱き締める。暫く二人で無言で抱き合っていると、不意にゆっくりと由良の体重が身体に掛かって来て――そのまま流れるように、布団の上に押し倒された。
「あのさ、礼」
 由良が俺を見下ろしながら、真剣な眼差しを向けてくる。
なんだろう、また俺の見た事ない顔だ――そう思った時、くぐもった振動音が聞こえてきた。ブブブと、確かに伝わってくる微かな振動。それはベッドに置かれた由良のスマホだった。
 一瞬身体を固めた由良は、俺の上から素直に引き上げていくと、スマホの画面を見ながら、
「あー……時間だ」
 と呟く。
「時間?」
「ゲームのな」
 アラームまで掛けてるなんて、相当気に入っているゲームなのだろうか。
 由良はスウェットのポケットにスマホを突っ込むと、ベッドから立ち上がった。
 わずかに軋んだベッドの音が、離れた由良の身体を惜しむ心の音に重なる。くっついていたはずの場所がすうすうして、少しだけ冷たい気がする。
「礼」
 呼ばれて起き上がると、ベッドの前にしゃがみ込んだ由良が、見上げるようにして、その双眸で真っ直ぐと俺を射抜いてくる。嘘とか誤魔化しが苦手で嫌いな、彼の純粋な眼差しは、昔から変わらない。
 それなのに。
 昔から知っているはずの眼差しなのに、初めて見られるみたいに、心臓が緊張している。
「……女装したくなったら、俺に見せて。もう他の奴に晒すとかヤメろ」
 そう言いながら、ベッドについている俺の手に、大きく骨ばった由良の手が重なる。指先が優しく筋を辿り、少しだけ擽ったい。
 ――うん、って言えよ。
 由良の眼差しと、俺の手の甲を撫でる指の腹に促されて、俺はわずかに頷いた。
「いい子」
 由良はそう言うと、俺のウィッグの髪を少しだけ乱暴に撫でて、部屋を出て行ってしまった。
 何だろう、この気持ち。俺はどうして、由良の言うことに頷いてしまったんだろう。
 でも、言うことを聞いていたら、また可愛いって言って褒めて、抱き締めてくれるのかな。綺麗にできたって、メイクやウィッグを褒めてくれるのだろうか。
 甘やかすみたいに。
 溶けるみたいに。