【1話】

 #女装男子
 #コスプレ
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『うさぎくん、今日もかわいい!』
『新衣装似合う~!』
『今晩のおかず』
『かわいすぎて涙出て来た』
『セーラー服もいいけどメイドもいい』
『うさぎくん×王道=敵なし』
『うさぎくん、世界一すぎる!』

 三時間前に流した投稿を開いて、通知欄に胸が満たされる。
 俺は風呂から上がって濡れたままの髪を、タオルで拭いながら、コメントをゆっくり遡った。どれもこれもが、俺を称賛する声ばかりで、たまらない。
ついでにリツイート先のコメントまでチェックしてして、更に胸が満たされる。
『この子最近見つけた。男の子とか信じられんくらい可愛い』
『天使じゃん』
『うさぎくんのメイド服~! 似合うと思ってた~!』
『水色フリルメイド服のチョイス最高』
 肯定的なコメントに、思わず頬が緩んでしまう。
 俺は口元をタオルで隠しながら、すいすいとスマホの上で指先を躍らせた。辿る先々での称賛は、ひどく甘い蜜のように中毒性を持って、俺を毒する。――でも、それが毒だと分かってるけど、もうやめられない。
「礼、ご馳走様」
 ダイニングテーブルの向かいに座っていた父さんが、手を合わせる。俺は慌ててスマホを机に伏せて置くと、椅子から立ち上がり、食器類を片付けた。
「おそまつさまー、肉じゃがどうだった?」
「美味かったよ、礼はどんどん料理が上手くなっていくな。助かるよ」
 父さんはそう言うと、
「風呂入ってくる」
 と言い残して、リビングを後にした。
 俺は綺麗に食べられた空の皿を重ねて台所に向かい、泡立てたスポンジで食器を洗う。
冷水が丁度良くなってきた、五月上旬。
俺は油の浮く皿を微温湯で流しながら、洗っている間も気になる伏せたままのスマホをちらりと伺った。
ブブブ、と机の上で振動しているのが見える。
何か通知が来ているようだ。
今すぐ確認したいのを我慢して、俺は食器を急いで洗うと手を拭い、ダイニングテーブルに戻る。
『こんなかわいい子、初めて見た!』
 また胸の奥がじんわりと温かくなる。
 俺はスマホをポケットの中に仕舞うと、電気を全て消して、軽い足取りで自室へと戻った。
 今日は気持ちよく眠れそうだ。

 ***

 小さな画面の中に収められた黒髪ストレートロングの女の子。――正しくは男の娘。
 真新しいウィッグは艶やかで、指通りも良く、新しい衣装のセーラー服に良く映えている。
 少し釣り目を意識したアイラインに、目がぱっちりとなるように上げた睫毛と色白の肌に合わせた、茶色系のマスカラ。初夏新色のオレンジ系リップ。
 動画サイトやSNSで磨き上げたメイク技術を、総動員させて作り込んだ自分の姿に、俺は満足する。
 昨日投稿した写真のいいね数は、七千を越え、コメント数も初めて五十を越えた。
 ――満足だ。満たされた。
 俺はスマホを閉じると、制服のポケットにそれを突っ込んで、開きっぱなしのままのノートや教科書を閉じる。
「安藤、悪いがノート集めて置いてくれるか?」
 席が教壇前という理由だけで、毎度言いつけられる注文を「はい」と笑顔で頷き、俺は席を立った。教師は「安藤にノート渡せよー」とクラス全体に一言声を掛けるだけで、のったりゆったりと、だるまのような巨体を揺らして、教室を出て行く。
 俺はそれを見送ってから教室内へと振り返るけれど、誰もこちらを見ていない。これもいつもの事だ。返事ばかりで、ノートがすぐに集まるわけがない。
 俺は結局クラスの端から端まで渡り歩いてノートを回収すると、残り休憩時間五分となったところで教室を後にした。
「安藤ってホント、パシリって感じだよな」
 教室を出る間際に、そんな悪気のない声が飛んでくる。
「イエスマンっつーの? ダルくねえのかな」
「いい子ちゃんで居たいんじゃねえの?」
「そういうポイントの稼ぎ方?」
「あー、ありそう」
 ……別に、そんなつもりないけど、そう見えるんだろうな。
 俺は両腕に伸し掛かるクラス人数分のノートを抱えながら、悪口とも言い難いクラスメイトの意見を小耳に、教室を後にした。
廊下にはまだ休憩を楽しむ生徒たちで溢れ、会話はまだらに入り組み、雑音だけが耳を塞ぐ。あと五分で届けられるかと、ぼんやりと考えながら、窓から差し込む日差しに目を細めると、
「オイ」
 背後から、声で背中を小突かれた。
 振り返ると、見慣れた顔が不満気に俺を見下ろしている。
「由良。移動教室?」
 長めの黒髪に襟足だけ金色にインナーを入れた彼は、俺の声に形の良いアーモンド形の右目を引きつらせた。
「お前またパシられてンのかよ」
 俺の質問なんて聞く耳もないように、由良が吐き捨てた。俺は両手に抱えているノートを見下ろして、「これは」と言葉に詰まってしまう。
 先生からの指示を「パシられた」と言うべきなのか、分からない。周りから見れば、そうかもしれないけど……。
「クッソだりィ……」
 由良は目と眉を歪めながら振り返ると、
「なあ、俺の教科書持ってっといて」
 彼の背後にいる少し太めの少年に、手に持っていた教科書を渡した。
「了解、あとでな~。安藤先輩、また~」
 由良と同じクラスらしい彼は、眼鏡の奥でにっこりと微笑み去って行く。ぽてぽてという歩き方が合いそうな、丸い背中を呆けながら見送ると、
「職員室だろ」
 と、腕の中がふいに軽くなった。
「い、いいよ! 移動教室だったんだろ?」
「うるせー、黙れ。行くぞ」
 殆ど暴言に近い形で言葉を遮ると、由良は足早に歩きだす。俺は彼の隣――相馬由良の隣に並ぶと、俺よりも五センチ以上は背の高い顔を見上げた。
 形は良いけどきつめの眼差し、普段から風邪でもないのに付けている黒いマスク――総合してイケメンの代表格とも言える小さい頭の由良は、俺の幼馴染で一つ後輩に当たる――が、後輩らしさの欠片もない。
「礼さァ、イヤな事はイヤって言えよ。マジで」
「別に、これは先生の指示だから」
「ダル過ぎンだろ、こんなん。良いようにコキ使われてるの気づけよ」
「……分かってるけど」
 ――そんなに言わなくてもいいじゃん……。
 拗ねたような気持ちで、何も言い返せず(何せ彼の方が正論なので)閉口すると、ちらりと視線が降りてくる。
 一つだけど、年下のくせに由良は態度も身長も俺よりデカい。家が隣近所で小さい頃からずっと一緒だったけど、可愛かったのは小学校低学年までだ。
「……由良が可愛かったのは、小学校までだな。そんなに言わないでもいいじゃん」
「可愛くなりたくもねえわ。つか、お前が何でもハイハイ引き受けるからだろうが」
 由良はそう言うと、先に職員室に入っていく。
「オイ。ノート集めろつったの、小池だよな」
 そう確認されて素直に頷くと、由良は足早に、俺へノートの回収を命じた教師の元へと歩いて行く。
「お待たせしやしたぁ~、ノートでーす」
由良は少し大きめの声でそう言うと、教科書やプリントで埋め尽くされた机に、ノートをばさばさと乱暴に置いた。俺はその態度に驚いて、頭から血が足元へ一気に下がっていくのを感じる。
――そんな態度あるか、バカ由良!
由良の態度に一瞬呆気に取られた教師も、すぐに状況を理解すると、きっと眦を吊り上げて、由良を睨みつける。しかし、それに対する由良の態度は、改まる様子など一ミリも見せず、挑発するように目元が人を小馬鹿にするように歪んでいる。――ヤバい、まずい、本当最悪!
「こんな置き方があるか!」
「あ~? せっかく持ってきてやったのにその態度? まずお礼じゃね? てか、机汚すぎて置き場ねーし」
相手を馬鹿にするような笑みを双眸に宿したまま、由良は教師を挑発し始める。
「まずは、持ってきてくれて、ありがとうゴザイマス、だろーが」
怖いもの知らずも良いところの言葉を、躊躇うことなく発するから、俺はぎょっとして彼の腕を引いた。近くにいる教師や生徒数名が、驚いたように由良に注目している。
「てかさー、教師はァ~、こんなちっこい机の掃除もできねーンすかァ? 生徒にはうるせークセに?」
「やめろって、由良!」
 俺は挑発を加速させる由良と教師の間に割り込むと、崩れそうなノートの山の上に、更にノートを重ね置いた。由良の態度と言動に、顔を赤くしている教師は唇を震わせていて、今にもその口から叱責を飛ばしかねないところまできている。
「あ、えっと……これノートでーす。失礼しました!」
 俺は由良の腕を乱暴に引っ掴むと、彼を引きずるようにして、急いで職員室を後にした。廊下に出ると、ちょうど予鈴が長い廊下に響き始め、周りの騒めきが少し大きくなる。
「ホントうざー、置き方ってなんだよ。置く場所ねえのに置き方もクソもねーだろ」
 正論だとばかりに、舌打ちをして由良が文句を言う。
「あのなあ……俺の事なんかいいから! そういう風にすぐ人に噛みつくのヤメロ!」
「噛みついてねえよ、正論だろ」
 ああ言えばこう言うの代表格のように、全く反省の色を見せない由良に、俺は思わずため息を零した。
 俺がホイホイ何でも言われた事をするから、心配をかけてしまっているのは分かっているから、強く責められない。けれど、教師にああいう態度をずっと取っていたら、いつか良くない形で由良にツケが返ってきてしまう。
 それは由良にとって、不利益でしかない。
「由良、大人を全員敬えとか言ってるわけじゃないけど……」
「あーあー説教ならパス。無理」
「無理じゃねーの、お前には一回聞かせないと」
「もう百万回聞いてる。じゃあな」
 人の流れが教室に吸い込まれていく廊下を、由良は逃げるようにして、俺に背を向け、人波に紛れて行ってしまった。
 一回きつく説教しなきゃ、という思いつつも、お礼言うの忘れたなという申し訳ない気持ちで、一人取り残される。
俺はため息を吐くと、教室へと足取り重く向けた。

 ***

 メイク道具から衣装一式、そしてウィッグまで、全てがインターネット注文で完結してしまう有り難さを噛締めて、俺は新品の衣装を開いた。
 ずっと試してみたかったチャイナ服。
 水色の生地に桃色の蓮の花のあしらわれた刺繍が綺麗な、ミニスカート丈のチャイナドレス。勿論既製品であり、男子高校生の懐から捻出できる程度の代物なので、縫製は若干甘い。
 でも、スマホで撮る分には問題ない。
 袋から出したそれを手に、全身鏡の前で合わせてみる。
 丈は膝上くらいだが、これを着て誰かに会う訳でもないので気にする必要もない。それよりも、上半身が綺麗に撮れるかが問題だ。
 俺は自室に掛けてある時計を見上げる。
 ――十時二分。
 今日、父さんは夜勤で返って来ないし、今から三十分程メイクに時間をかけても撮影をしても、十二時過ぎにはベッドに入れるはず。
 俺は着ていた寝巻代わりのTシャツを脱ぐ。――と、その時間を見計らったように、机の上に置いてあるスマホが震えた。
 SNSの通知かな、と思いながらそれを手に取ると、画面には着信を知らせる緑と赤のボタン画面が映っていた。
『由良』
 表示された名前に一瞬、心臓がどきりと鳴る。
 昼間以降何も話せないまま、夜まで来てしまったことを思い出し、気まずさに指が止まってしまった。けれど、家が隣同士ということもあり、どうせ部屋が明るいから起きている事もバレているはずだから、出ないのも不自然だ。
俺は意を決して通話ボタンを押すと、スマホを耳に押し当てた。……怒ってませんように。
「窓開けろ」
 開口一番に命令が飛んできて、俺はそそくさとTシャツを着直し、広げていたチャイナ服を隠してから部屋のカーテンを開く。
 狭い家の囲い塀を一つ挟んで、隣り合う家の二階の窓には、不機嫌そうな由良がいた。昼間と違い、マスクは外しており、形の良い唇やその下唇の右の際についている小さな黒子。細い鼻梁の高い鼻が露わになっている。
 ――マスクを取ったら更にイケメンではあるけど、不機嫌さは昼間と変わった様子もない。
怒ってる……。
 それだけでずん、と気持ちが沈んでしまう。
 小さい頃はこの隣あっている窓から、由良とどうでも良い話を延々とすることが大好きだった。でも、大きくなればなるほど、この窓から覗く由良の顔は不機嫌さを増していった。全部、イエスマン根性が染みついた、自分の性分のせいなのは分かっているけど。
 からからと乾いた音を立てながら窓を開くと、由良はスマホの通話を切った。
「ンな顔すんなよ。ブスだぞ」
「うるさいな」
「……あの後なんか言われてねーか?」
 ぶっきらぼうに言われて、いつの間にか俯いてしまっていた顔を上げる。由良は俺と目が合うと、ふっと明後日方向に視線を逸らしてしまった。
 ……もしかして、由良なりに気にしてくれているのだろうか。昼間の事。
「……特に何も、言われてない」
「ならいい」
「気にしてたのか?」
「あ? ……まあ、俺の態度でお前が適当に責められんの違うからな」
 面倒くさいという顔で、由良が舌打ちをする。
「由良って、いい子なんだけど伝わり難いんだよね……」
「は? 良い子とかマジキモいんすけど」
「あと口の悪さな……」
「説教なら聞かねえぞ」
 俺は窓枠に肘を着きながら、窓越しの由良を眺める。
 小さい頃は割とにこにこしていることが多いように思えたけれど、思春期を経た由良は無愛想に育った。幼い頃から口は達者ではあったが、ここまで口が悪いわけでもなかったのに――どこで方向を間違えたんだか。
 でも、
「ノート運ぶの手伝ってくれて、ありがとね」
 ――由良は優しい。
 幼い頃からずっと優しくて、すぐに手を差し伸べてくれる。そんなのは、十七年間生きて来て、ずっと由良だけだ。
「由良は口悪いけど、ずっと優しいよね」
 思っていることを口にすると、不機嫌だった表情が、不意を突かれたように少しだけ驚いて、目を瞬かせる。しかしそれはすぐに消え去り、いつも通りの無表情に戻ると、
「別に」
 とだけ、短い言葉を返された。
瞬きをした次の瞬間には、不機嫌に唇は歪んでいるけれど、こうやって優しいから、俺は彼を憎み切れない。
「……へらへらしてんじゃねえよ、しっかりしろや」
憎まれ口の減らない由良は、舌打ちしながら、吐き捨てた――その時。
「あ」
不意にピーピーという機械音が、由良の方から響いた。
「やべ、時間だ」
「風呂の時間?」
「ゲーム」
「あんま遅くまでやるなよ!」
「お前はあんまナメられんなよ」
 最後の最後まで可愛くない台詞を捨てて、由良は窓を閉めると、あっさりとブラインドの向こう側へと消えてしまう。閉ざされたブラインドの向こう側から、まだ起きている彼の明かりが細く漏れていた。
 俺はそれを眺めてから、夜空を見上げる。街灯に照らされた薄い群青色の夜空に、硝子の破片のような小さく白い光が、弱々しくもしっかりと瞬いていた。

 ***

『待って、チャイナヤバい』
『理性の破壊力ヤバい』
『これは、一万回イイネした』
『チャイナ服とお団子って可愛いのなんで?』
『うさぎくんのぺたんこ胸、最高』
『このリップうさぎくんとお揃いだ』
『待って無理無理可愛すぎる!』
 ……チャイナ服ってこんなに需要あるんだ。
 そんな事をしみじみ思いながら、朝のトーストに噛り付く。テレビからは今日の天気が流れていて、窓の外からは、道行く小学生の声がわあわあと響いている。いつもの日常だ――でも、いつもとは少しだけ違う。
 俺はスマホの画面を眺めながら、昨日由良と会った後に撮影し、投稿した写真の反響を眺めている。
 1385リツイート、1万3000いいね。
 間違いなく、歴代トップのいいね獲得数。
 画像の下に連なる賞賛のコメントに、朝から胸が温かい。認められているという承認欲求が、はっきりと満たされていくのが分かる。
『うさぎくんの可愛さだけで、今日も生きれる』
 ――俺もこのコメントだけで一週間は生きられる。
 コメント全てにお礼代わりの「いいね」を付けて、俺はスマホを伏せて置くと、朝食の消えた皿を台所に運ぶ。
「おはよう~」
 皿を洗おうと水を流し始めたところで、寝起きの父さんがリビングに入ってきた。父さんはテレビ台のそばに置かれた、母さんの写真にまず手を合わせると、すぐにダイニングテーブルの席に着いた。
「トースト二枚ちょーだい」
「はーい」
 濡れた手を一度タオルで拭い、言われるがままにトースターに二枚食パンを突っ込む。冷蔵庫からバターやジャムを取り出し、テーブルに並べると、俺は手早く洗い物を済ませて、
「俺もう行くからね!」
 と、テレビ前のソファに置いてある鞄を肩に掛けた。
「じゃあ、行ってくるね」
 俺も五歳の頃に病死した母に、手を合わせた。
「礼、今日夜飲み会あるから夕飯いらないからな」
「りょーかい」
 欠伸交じりの言葉に頷いて、俺は家を出た。

 ***

 昼休みはいつも一人だ。
 誰かと話すような話題もないし、そもそもの話し、俺に友達はいない。
 大人の言うことをはいはい聞いている俺は、同世代からはあまり好かれないようだ。別に「良い子」を演じているわけではない。けれど、俺の態度は周りからしたら、あまり面白いものではないらしい。
「お父さんの言う事ちゃんと聞くのよ」
 不意に病室で母さんが俺の頭を撫でながら、繰り返し呟いていた事を思い出す。
 俺はただ、それを忠実に守っているだけだ。
 幼い頃、病弱だった母親は、自分が母親らしいことができない事をよく嘆いていた。そして、その嘆きと同じくらい、
「自分を守ってくれる大人の言う事を、ちゃんと聞きなさい」
 と、俺に言っていた。
 俺はしっかりしている方ではないから、きっと母さんの目には、ぼんやりした俺が不安定に映っていたのだろう。
「大人の言うことを聞いてれば、問題はない」
 俺は母さんにそう教えられ、未だにその教えを守り続けている。
「ねえ、そのリップ可愛い」
「新作のやつ~、昨日ラスイチだったの」
「それ私も探してたやつ! えーもうどこも売ってなかった~!」
「これ絶対再販ないんだよね~」
 不意に聞こえてきた右斜め前のクラスの女子三人の会話に耳が動く。視線を動かせば、できた小さな輪の中の一人が、自慢げに銀色の新色カラーのリップを周りに見せていた。
 ――それ、かわいいよね。俺もこの前買った。
 そんな事を心の中でぽつりと零してから、作ってきたサンドイッチに噛り付く。
「礼」
 不意に名前を呼ばれて顔を上げると、教室の前扉の入り口に、由良がいた。
「あ、由良くんじゃん。かっこよ~」
 由良の登場に、女子が声を黄色くさせる。しかし、そんな事には一切興味のない由良は、ずかずかと教室に躊躇いなく入ってくると、俺の目の前の椅子を引いて、どかりと腰を下ろした。
「どうした? なんかあった?」
 由良は俺の問いかけにじっと、俺を見つめると、視線をわずかに伏せた。
 見慣れない仕草に首を傾げると、
「……お前さ」
 と、ますくの内側で言葉を曇らせる。
「うん」
 どうしたんだろう。
 珍しい態度の由良を前に、サンドイッチをひと口頬張る。
口の中でハムの僅かな塩気と、マヨネーズの酸味が絡み合い、そこにさっぱりとした歯ごたえの良いピクルスがぱりっと弾けた。美味しい。
「……今日夜話あんだけど、空いてる?」
 何か色々と口の中に言葉を残したまま、由良は短くそう言った。
「空いてるけど……、今日は父さん飲み会だし」
「そっか。分かった、夜お前ンち行くから」
「夕飯どうする?」
「食いたい」
「分かった、リクエストある?」
「中華」
「りょーかい」
 由良の為に料理するの久し振りだな、なんて思いながら頷く。――すると、不意に由良の手が伸びてきて、なんだろう、と思うと同時に、唇の端を指先が拭った。長くて骨ばった白い指先が、ゆっくりと離れ、由良は顔の半分を隠す黒いマスクを下げると、その先についた何かを舐める。
「マヨついてた、だっせぇ……」
「え、マジで?」
 鏡がないので、手の甲で唇全体を擦る。
「もう取れてる」
「ありがと。てか、食うなよ!」
「ハンカチとか持ってねーし」
 そう言いながら舐めた指先を、俺のワイシャツに擦りつけてくる。
「おい! 汚い!」
「汚くねえよ! 失礼な奴だな!」
 本気では怒ってない。由良なりの冗談を交えた嫌がらせに、思わず笑いながら手を叩くと、由良も笑って更に指を押し付けてくる。
 こういう時、小さい頃に戻ったみたいで、少しだけ嬉しくなってしまう。
 今も仲が悪いわけではないし、以前と変わらず仲良くしていると思っている。けれど、由良は成長して、少しだけ表情が硬くなったから、こうやって笑い合うことも少なくなった。
 だから、由良の笑顔を見れると、素直に嬉しい。
「卵サンド半分食っていい?」
「いいよ。てか、由良の昼は?」
「食った、二時間目の後に」
「いや、早過ぎだろ。俺はもういいから、卵サンドとこっちのハムサンドも食べていいよ」
「お前の飯は?」
「俺はお腹空いてないから大丈夫」
 俺はラップに包まれた二つを由良に譲ると、ご馳走様、と手を合わせた。由良はサンドイッチを見下ろしてから、
「ありがと……」
 と、呟く。
「はい、どういたしまして」
 生意気で口も性格も悪いけど、こういうところは素直なんだよなと、幼馴染の変わらない一部を見つけては、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「由良くん、何でうちのクラスにいるの?」
 声がして二人で顔を上げると、クラスの所謂一軍女子二人いた。その内の一人が由良の肩に手を置くと、由良の眉が僅かに跳ねる――良くない兆候だ。
一軍なだけあって、化粧も髪も全てが自然に計算されたようにできていて、可愛い。だが、由良の瞳の奥がすぅっと冷えていくのが分かる。
「は? 誰?」
目の前の女の子たちは確かに可愛い。俺が話し掛けられたら緊張する位可愛いけれど――可愛さは、由良には通用しない。
「え? 誰って……」
 戸惑う女子を前に、由良は触るな、と触れてきた手を軽く払い退けた。
由良には可愛い子や、目上に対する愛想の良さを完備した仮面など、はなから持ち合わせていない。おそらく本人も、そんな仮面持つ気はないだろう。
だから、気に入らないとなれば、とことん排除に徹するのは、幼い頃からの悪いところだ。
「知らねー人と話すなって、母ちゃんに言われてるんで」
 結構です、と言わんばかりの拒絶に、空気が固まる。話しかけてきた女子は、そんな彼の態度に目配らせをすると、これ以上ここに居ても何もないと分かったのか、そそくさと退散していった。
「もうちょっと愛想よく……」
 ダメ元でそう注意すると、舌打ちがすぐに返ってくる。気に入らないとすぐに舌打ちするのは、由良の悪い癖だ。これも直させたい。
「知らねえよ、どうでもいいだろ。俺は礼と話してんだよ。つかそもそも、お前誰だよ、って話」
「それは、そうかもだけどさぁ」
 間違ってはない。
由良の言う事は、全てにおいて「そうなんだけど」という前置きができてしまうから、反論し難い。
俺は訴えたいはずのことを口の中で形にならないまま、もごもごしていると、
「じゃ、サンドイッチ貰ってくわ」
 先に由良が席を立った。
 説教が始まると踏んだのだろう。逃げるが早いと言わんばかりの速足で教室を出ていく。俺は小さくため息を吐いて、食べ終わったラップを小さくたたむ。嵐が去ったように、由良が座っていた場所の空白が目立つ。
 麻婆豆腐とエビチリ、由良はどっちが好きだったっけ……なんて考えながら、窓の外へと視線を投げた。

 ***

 麻婆豆腐と春雨中華サラダに、卵スープ。
 準備が簡単な方を選んで作ったら、由良は思いの外上機嫌にそれらを食べてくれた。辛みの好きな由良に合わせて、四川風の痺れを効かせると、由良はとても喜んだ。
「このくらい辛くないと物足りない」
 由良はそう言いながら、男子高校生らしい食いっぷりを披露する。
「なあ、お前小食過ぎね?」
 食事を終えると、由良が眉を潜める。
「元々あんまり食べないから」
 食事を作っているだけでお腹いっぱいになってしまう現象に、名前があれば、俺はきっとそれだ。お腹が空いて食事を作っても、作ってる最中に「作った事」に満たされて、結局あまり食べられない。
「にしたって、食わなさ過ぎだろ」
「由良が結局食べてくれるし、いいじゃん」
「それは結果だろ。夏とかそんなんでやべーだろ」
「それがそうでもないんだよね~」
 由良曰く、俺は小食ということではなるが、別にそれは今に始まった事でもないし、毎年ちゃんと夏を乗り越えている。
 俺は食器を洗いながら、自分の手首を眺めた。
 確かに、同年代の男子に比べれば些か細いようにも見えるが、女の子並みの華奢な身体かと言われれば、そういう訳でもない。
 スポンジを泡立て、大皿を洗い、流水で泡を流す。心地良いぬるま湯に両手を浸しながら、俺は、
「まあ、食べれる時に食べるよ」
 と由良の心配に、そう応えた。
 由良はダイニングテーブルから立ち上がると、台所まで来て、俺に並ぶと、飲み終わったグラスを流水で濯ぐ。
「コーラ飲んでいい?」
「好きにどうぞ」
「礼は?」
「じゃあ注いでおいて」
 由良は冷蔵庫を開くと、俺の隣で二人分のコップにコーラを注ぐ。しゅわしゅわと炭酸の弾ける音が聞こえた。
「そう言えば、話したい事ってなに?」
 洗い物を終えて、流水を止めると、俺は濡れた手を拭いながら、由良を見上げる。彼は俺の問いかけに、一瞬表情を固くしてから、ちらりとこちらを見た。
その眼差しには複雑な感情が混じり合い、彼が何を考えているのか、はっきりとは分からない。
 普段は無表情でいることが多いが、喜怒哀楽が出る時は、割とはっきりと分かり易いとは思っていたけれど……どうやら今日はそうではないらしい。こんな事は珍しい。
「なに、話し難い事?」
 固まっている由良を促すと、彼はコップの飲み口に軽く歯を当てた。
「あー……まあ」
「珍しいね、はっきりしないの」
「……とりあえず、礼の部屋がいい」
「……うん、わかった」
 ――なんだなんだ?
 はっきりしない態度に、疑念が深まる。けれど、本当に何も心当たりがない。
俺は由良に促されるまま、自室に向かう。後ろから付いてくる由良の気配がいつもより小さい気がするのは、俺の勘違いだろうか。胸に蟠る薄い靄を感じながら、俺は自室に入る。
 扉がぱたん、と由良によって閉められると、
「礼、お前さ」
 早速本題とばかりに、由良が放つ。
 振り返ると、由良は自分のスマホを俺に差し出していた。なに? と思って、そのまま覗き込むと――俺はその瞬間、絶句した。
「これ。このうさぎって、お前……?」
 小さな画面に映されていたのは、今朝1万3000いいねを貰ったばかりの、チャイナ女装の自分だった。
 ばくばくと心臓が、身体の外側へ飛び出す勢いで鳴り響いている。
 どうしよう。どうしよう、どうしようどうしよう。よりにもよって、由良にバレるなんて……!
 身体中の毛穴から汗が噴き出すのを感じる。それなのに、身体は冷たくなっていく一方で、眩暈までしてきた。
「だ、だれかな……?」
「嘘下手過ぎんだろ。……やっぱお前かよ」
 由良は深いため息を吐きながら、その場にしゃがみ込むと、額を抑えながら暫く黙り込んだ。俺はなんて声を掛ければいいか分からず、ただただ由良のつむじを見つめる。
 あ、右向きなんだ、なんてどうでも良いことで現実逃避をするくらい、何も考えれない。
「お前さ、とりあえずヤメロ」
「は、はい……」
「SNSに顔晒すなんて、マジでヤメロ」
「はい……」
 ――はい、以外もう何も言えない。
 俺はすでに感覚すらなく冷え切った指先を擦りながら、由良の言葉に項垂れる。身体全体が心臓になってしまったように、どくんどくんと冷や汗とともに身体が揺らいでいた。
「女装ヤメロって言ってるわけじゃない。ネットに素顔晒して、変なのに目ェつけられたらどうすんだよって話」
「……分かってる」
 よく考えなくても、由良の言っていることは間違いなく正論だ。
「いくら女装してても、俺みたいに、見れば一発で分かるなんて、いくらでもあんだよ」
「ごめん、なさい……」
 由良はもう一度溜息を深く、長く息を吐くと、立ち上がって、俺を見下ろした。由良が今どんな顔をして俺を見ているのか分からなくて、顔を上げられない。俺は自分の手元を見つめながら、罪を犯し、その判決を聞く囚人みたいな気持ちで、由良と自分の足を見つめる。
「……変な奴からDM来たりは?」
「あるけど、無視してる」
「しつこい奴は?」
「今のところいない……」
 女装していると、俺の外見から性別を勘違いした男の人から、ダイレクトメールが届いたりする事はよくある。でも、俺の目的はただの「承認欲求の捌け口」だから、届いた全ては、中身を確認せずに削除が基本だ。
「礼」
 名前を呼ばれても、申し訳なくて、情けなくて、恥ずかしくて、顔を上げられない。
「礼、こっち向け」
 殆ど無理矢理、顎を掴まれ上向かされると、由良がじっと俺を見つめていた。僅かな苛立ちが双眸の中でちりちりと熱を上げている。
「危ない事すんな」
「え……、あ」
「なんかあったらどうすんだよ、バカ」
 もっときつい言葉で責められると思った手前、心配に満ちた言葉が降りて来て、俺は驚きから目を瞬かせる。由良は少し不本意だ、と言う目で俺を探るように見下ろすと、
「心配かけんな、アホ」
 そう、ぶっきらぼうに言い放った。
「ご、ごめん……なさい」
 女装なんて恥ずかしい、気持ち悪い、くらいは言われるだろうと覚悟したのに、由良の口から零れた声音があまりにも柔らかくて。俺はなんて言えばいいのか分からなくなってしまう。
「分かれば良い」
 そう言うと、顎から由良の手が離れて、彼は頭を掻きながら、もう一度スマホを覗き込む。
「てか、なんでこんな黒歴史生成してんだよ」
 由良はそう言いながら、コーラ片手にスマホの上ですいすいと指を泳がせた。
「おい、結構枚数あるな……てか、いつから女装趣味あったんだよ」
 由良の質問に、もう一滴の嘘だって許されないような気がして、正直に答えようと、俺は記憶を巡らせた。
「……なんていうか、いつだったかな」
 俺は初めて女装した事を頭の中で思い返す。
「別に、普通にSNS見てて……」
 たまたま流れてきたお勧め画像の中に、女装をした男の子がいたのだ。ただその子がびっくりするくらい可愛かったのを、今でもはっきりと覚えてる。
 ぱっちりした目に、ぷっくりとした涙袋、地雷系の服とストレートの黒髪。肌も白く、何処からどう見ても女の子にしか見えなかった。
「その子のアカウント覗いたら、すごく……なんていうか、自分は可愛いって自信に満ちてて、すごいなあって」
 自分にはないものだなあって思って。
「こんなふうに俺も自信欲しいなって思って……」
 そこが始まりだ。――最初はウィッグと化粧品を手に入れて、見よう見真似でやってみた。でもアイラインは上手く引けないし、マスカラはいつも目に刺さるし、ファンデーションは合わないし。
「最初は全然メイクも上手くいかなかったけど、色々試行錯誤するのが、途中から楽しくなってきちゃって……」
「んで、極めちゃったわけ?」
「極めちゃった……」
 由良は俺のベッドに腰を下ろすと、ふぅんと、興味があるんだかないんだか分からない、曖昧な頷きでコーラを一口飲んだ。
「その内いいねとか、カワイイって言葉貰うようになって、嬉しくなっちゃって」
「だろうな」
 由良はスマホを見ている。
「現実ではみんな俺の事否定するけど、ここは俺が頑張って可愛くすれば、みんな可愛いって褒めてくれるから……」
 ずっと思っていた事を、何となくぽろりと吐露してしまうと、由良が顔を上げた。
「言う事聞いているだけなのに、周りはそれを否定するように文句を言うし、大人は俺が言うことを聞くのが当たり前だと思ってる。誰も、……俺が何か考えてるって、気付いてくれない……」
 ――だから、俺を認めてくれる場所が欲しかった。
そんな俺の気持ちに対して、SNSはぴったりの場所だったのだ。目に見える数字と言う形で、多くの人が俺のやる事に「いいね」をくれる――認めてくれる。ものすごく分かり易くて、簡単に俺を満たしてくれる。優しくしてくれる。
「……でも、もう辞める。ごめん、心配かけて」
 俺は由良に頭を下げた。
 ――SNSは確かに俺の居場所だったけど、由良の言うことも分かる。簡単に満たされる承認欲求で目が霞んでいたけれど、由良が言うように、メイクをしていると言え、顔を載せるなんて、あまりにも無防備だった気がする。今なら彼が正論だとも理解できる――これが潮時かもしれない。
「……じゃあ、俺に見せれば?」
 思いがけない言葉に、はっとして顔を上げると、
「お前の承認欲求、俺が満たしてやるよ」
 由良はなんの根拠もなくそう言い切った。
「どうやって……?」
「……とりあえず、女装してみて」
「え、なんで?」
「いいから早くしろ。部屋出ててやっから。終わったら呼び出せ」
 由良はそう言うと、さっさと俺の部屋を出て行ってしまった。取り残された俺は、今の状況を理解できずに、ただただ固まる事しかできない。
 承認欲求を満たしてやる――どうやって? あの由良が、どうやって俺の承認欲求を満たすんだ? 貶してくるところは想像できるけれど、彼が俺を褒める姿なんて想像できない。
 謎が深まるばかりの宣言に、俺は身震いした。――けれど、今は由良に従っておいた方が良い気がする。
 何せ、俺の最大の秘密を知られてしまったのだから。