丘の稜線は朝よりも細く、黄昏よりも長かった。
風見の丘と呼ばれるこの場所は、帝都の骨が一度だけ外に露出しているみたいに、土が素直に起伏を見せる。時刻は二夜目の入口。街の灯がまだ本気で点りきらず、空は眠る前に浅く仮眠を取るような薄さで横たわっている。
凪雪は、白羽糸のアンカーを四方に打った。東の杭には朝の名残、西の杭には市の喧騒の麓、南には乾いた工房の屋根の列、北には山のほうから降りてくる冷気の筋。四方を結んで正方のたわみを作り、その中央に綾女は瓶を抱えて座った。白羽栓の振動が、丘の下に眠る石の拍と呼応している。
「蓋を、半分だけ」
凪雪の言葉に、綾女はうなずく。
穢れ瓶の蓋をほんの少し緩める。空気がひと匙入れ替わる感覚が喉の奥に落ち、その落ちたところで哀しみの拍を掬い、白羽糸へ通す。哀しみは、怒りよりも粒が細かい。細かい粒は、糸の撚りに沿いやすく、沿った拍が上空の水の脈に静かに合流していく。
ばらけていた湿度が、一本の細い川になって流れだす。見えない川が空の腹をやさしく撫でると、風見の丘の風車の羽根が、風のないのに、ひとつだけ、ゆっくりと回った。
丘の下から職人衆が上がってきた。
肩に長い樋を担いだ大工、錫の継手を箱に詰めた金物屋、縄を巻いたままの手で帽子を押さえる瓦職人。皆、昼間に約した通り、雨樋を持ち寄っている。丘の斜面へ臨時の配水案内を作り、落ちるべき場所へ落ち、留まるべき場所で留まるように、招と配のあいだを人間の技でつなぐためだ。
綾女は立ち上がり、頭を下げる。
「招が強くなりすぎたら、合図で樋を外してください。雷が来る前に、線を緩めるので」
「合図は?」
「風鈴を二度。——三度は、皆が身を低くする合図です」
短い説明に、職人衆はそれぞれの拍で頷いた。拍の合う礼は、合唱の前奏のように場を整える。
遠雷が鳴った。
山に向かって薄く畳んであった雲の縁が、音もなくほどけ、白羽糸の上を光が走る。
凪雪が指を上げる。綾女は三行を骨に下ろした。
「——寄せて、渡して、離しなさい」
寄せるのは、湿度の薄片。渡すのは、糸の撚りを通して雲核へ。離すのは、落ちる前に、場の拍からいったん手を放すこと。
雲は寄る。寄った雲は、丘の上で一度だけ深呼吸をし、それから、丘の斜面を挟むように長く伸びていく。
だが、禁区の上には穴が空いたままだ。
見えない柵の上空だけ、濃い影が皺のように寄り、そこへ別の速い雨が、突き刺さるように落ちている気配。落とす誰かの手つきは早く、早さがわざと目立たぬように薄く偽装されている。風のない旗が翻った昨日と同じ、気配の速度だった。
篝が、丘の北側、禁区境界に立つ密偵へ手旗を送る。
返ってきた旗は短く、しかし鮮明だった——「不審な朱印の行列」。朱印の軸は細工され、押したときに二重の印影が出るよう削られているという。二重の名は、二重の責任逃れ。名を偽る者は、印もまた二重にする。
綾女の第二紋は、遠くの紙が擦れる音にまで微細に反応し、首筋の痛みが波として広がった。波は一度だけ高く、すぐに引く。引いたあとに残る潮の匂いが、喉の奥の紙片を湿らせる。
招の線は美しく張られていたが、終盤に小さな事故が起きた。
丘の上で見ていた子どもがひとり、石につまずいて転んだのだ。転ぶ前の空白、泣き声があがる直前の、息が逆流する瞬間——瓶は、その瞬間にいちばん敏感だ。
綾女の胸の中で、黒い瓶が暴れた。白羽糸がひと筋、弾かれて切れる。切れた糸の端が、空の緊張を拾って、鋭い音もなく震えた。
「眠れ、束なれ、温くなれ」
綾女は反射的に両手で瓶を抱きしめ、耳元で囁く。祓ではなく、招でもなく、瓶に向けた三行。
凪雪は考えるより先に動いていた。切れた白羽糸の端を歯で噛み、手の甲で糸の張りを固定しながら、自分の羽根を一本裂いて補修に充てる。裂いた瞬間に、彼の肩が一度だけ呼吸を落とした。落とした拍は、すぐに戻る。戻る拍が、糸の撓(たわ)みをかすかに撫でて、結び目の位置を決める。
職人衆のひとりが素早く樋を外し、雨の動線を一拍だけ緩めた。緩んだ分だけ、雷の呼び水が弱まる。弱まった谷間へ、綾女の囁きが落ち、黒い瓶の喉が、ふ、と深く息を吐いた。
雨雲が重さを持ち始め、霧雨が丘を撫でた。
誰も口を開けない。子どもでさえ、手のひらを上に向けて、雫の形を確かめる。濡らすのは皮膚だけ。喉は濡らさない。招の雨は、試し。配の雨は、明日だと繰り返し聞いているからだ。
綾女は言った。
「まだ配ってはいけません。今夜は、眠りを呼ぶだけ。配は明日の灯の下で」
霧雨を舌で受けたい衝動が喉に立ち、それでも大人も子どもも、指の腹を上にして、粒の温度と重みだけを覚えさせる。指の腹で覚えた雨は、嘘をつかない。
篝は板の影で短く記録をとり、職人衆に礼を送る。礼は動作を小さく、しかし二度。二度は、拍の礼だ。
丘を下りると、茶屋の灯の前で例の役人が待っていた。
彼はいつもの灰の衣で、裾は乾き、靴は泥を嫌っている。名の発音は相変わらず微妙に揺れて、揺れの幅だけ、彼の影が石畳の上でぶれているように見えた。
「雷の危険がありましたね。配は、我々のほうが手馴れている。早く、広く、——安全に」
凪雪は無表情のまま歩を進め、すれ違いざま、役人の胸元に吊るされた朱印の面を指で軽く叩いた。
小さな乾いた音。その音は、紙の上で眠っていた朱の粉を思い出させるような、浅い響きだった。
「二重印影。お前は、誰の名を使っている」
役人は口角を上げ、口中の湿り気をわずかに増やして囁く。
「名など、形式だ」
その瞬間、綾女の第二紋が焼けるように痛んだ。
痛みは激しくはない。だが、鋭い。鋭いものは、喉の奥で紙を切る。切れた紙片は、飲み込むのに時間がかかる。時間がかかることが、時に救いになる。
役人は軽く礼をし、去った。去っていく背中は、風のない旗の布目に似ている。微細に揺れ続ける。
綾女は、凪雪の袖の端に指をかけ、小さく首を振った。振るのは拒絶ではない。拍の位置の確認だ。
「……名を、形式と呼ぶ人の呼吸は、浅いです」
「浅い者が深いふりをするとき、紙が二重になる」
凪雪の言葉は、炎の温度ではなく、水面の圧のほうで、綾女の耳へ届く。圧は、傷を増やさない。
篝は、役人の歩幅と足音の周期を帳面に簡潔に記した——目の前で正面から戦うためではない。灯下で読むためだ。灯の下に引き出すと、影は自分の輪郭を選ばされる。
*
常世へ戻る道で、綾女は瓶の肩に頬を寄せた。
黒い瓶は夜の温度を持っている。白羽栓は、彼女の脈と合い、合った拍の上を薄く行き来している。
丘の上で転んだ子どもの泣き声は、もう瓶の中で丸まり、哀しみの椅子の足もとで静かに座っている。暴れた怒りは、なお微熱を取り戻している。微熱は悪ではない。悪ではないが、寝床を選ぶのが下手だ。下手なもののために、寝床を増やす。増やしすぎない。——瓶は、そういう算段を教えてくれる。
常世の間へ入ると、凪雪は白羽の小旗を三本だけ立て、常夜灯の格子を一段落として光の芯を細くした。細い光は、文字の骨を浮かび上がらせる。
篝が記録を読み上げる。
「密偵より追伸。——不審な朱印の行列、押印の順が逆。名の上に年号、次に“技術的措置”。年号の墨の乾きが、他の文言より新しい。二重印影は、軸の細工による」
乾き方の順は、嘘を愛していない。だから、役人は“形式だ”と言うのだ。形式なら、嘘でなくて済む、という顔で。
綾女は喉の奥の紙片が、息をするたびに位置を変えるのを感じていた。位置が変わる紙片は、まだ言葉にならない。ならないうちは、骨の近くへ置いておく。
「明日は、配」
凪雪が言った。
「灯の下で読む。二頁三行。押すのは、手と声と、拍。——三つを外さない」
「はい」
返事の短さが、場に残る。残る短い言葉は、支えの柱になる。柱が立てば、眠れる。眠りは、仕事の一部だ。
綾女は瓶を抱いて、白布の床に横になった。瞼の裏に、風見の丘の霧雨が広がる。指の腹に残った粒の形が、時おり内側から触れてくる。触れるたび、胸の奥の奥で、哀しみの椅子が少し軋む。
眠りは来ない。
来ない眠りは、悪い知らせと同義ではない。来ない夜が、時に、耳を開く。
綾女は仰向けになり、四、八、十二と数えた。
四は、場に入る戸口。八は、床へ沈む階段。十二は、骨の棚へ戻す仕舞いの手。
十二を過ぎても、眼差しの裏で雨粒が鳴る。鳴り方は、昼の霧雨と違う。粒の角が、わずかに尖っている。尖る粒は、誰かの手で急かされた雨だ。
都市のどこかで、また“春の小切手”が切られた。
切られる瞬間の、硯の石の冷たさまで、第二紋は拾ってしまう。拾ってしまうからこそ、灯の下へ持っていくしかない。
寝返りを打つと、瓶の黒が胸の真ん中でほどよく重く、重さが、眠りの手前の境界を守ってくれる。
綾女は目を閉じ、ゆっくり数え直した。
四。
八。
十二。
眠りは来ない。
それでも、拍は整う。
拍が整えば、夜は持ちこたえる。
持ちこたえた夜だけが、朝を配れる。
*
夜半過ぎ、凪雪が静かに入ってきた気配がした。気配は、音ではない。白羽栓の震えが、綾女の脈を数えるように少しだけ間隔を変え、すぐに戻す。
「起こしたか」
「起きています」
「起きているのは、悪くない」
凪雪は白羽を一本、指先で撫でた。その撫で方は、糸をほどく前の温度の作り方に似ていて、綾女の肩から余計な力が抜ける。
「子の泣き声で、糸が切れた。——よく繋いだ」
「あなたが、羽根を裂いたから」
「裂くのは簡単だ。戻すのに時間がかかる」
「戻りますか」
「戻る。時間が味方のときは、必ず」
味方、という言葉は、綾女の喉の紙片に水を足した。紙片は、そこですこし溶け、形を変えて喉の側壁に貼りついた。貼りついた紙は、朝に灯の下で読める。
凪雪はそれ以上何も言わず、綾女の頭のほうに座った。座る位置は、常夜灯の斜め下、白布の縁の影の中。影は濃いほど、呼吸が楽になる夜がある。
「怒りが、戻ってきました。微熱の高さで」
「微熱は悪くない。寝かせる時刻を、間違えるな」
「はい」
綾女は再び目を閉じ、瓶の肩に頬を置いた。
凪雪の指が、白羽栓のすぐ脇に軽く触れる。触れ方は、拍を数える触れ方だ。数える声は出さない。声にしない数は、骨の内側でだけ鳴る。
ようやく、ひとつの眠りが来た。
眠りは浅い。浅いが、拍を壊さない。壊さない眠りが、いちばん強い眠りだ。
*
その夜の終わり際、綾女は夢を見た。
風見の丘の上に、白い羽衣が張られている。白羽糸が組み上げた薄膜は、空の骨組みを一瞬だけ見せ、膜の間を霧雨がゆっくり歩く。歩く雨は、急がない。急がない雨は、誰かの額を濡らさず、誰かの背中を温め、誰かの掌にひとつだけ重みを残し、どこかの土の奥で小さな根に吸い込まれていく。
羽衣の端に、黒い針が二本、同じ角度で刺さっている。刺した手つきは似ているが、墨の乾き方が違う。乾く順の違いが、夢の中でも分かった。
夢の綾女は、夢の自分に向けて言う。——灯の下で、読み上げる。読み上げ、押し、配る。
羽衣は、風に破れない。破れないのは、結び目が見えないからではない。結び目が、灯の下でほどけるように結ばれているからだ。ほどける結び目は、美しい。美しいものは、長く持つ。
目が覚めると、常夜灯の格子はひとつだけ増え、白布の上に朝の前の色が薄く落ちていた。
綾女は瓶を抱き直し、喉の奥で紙片がやわらかくなっているのを確かめた。
今日は、配だ。
灯の下で——名を、呼び、押し、渡す。
招の羽衣は、まだ丘の上にかかっている。かかっているというより、胸の内側に静かに畳まれている。畳まれていれば、ほどけるのも早い。ほどけるときは、拍が先に歩く。拍が先に歩けば、雨は、濡れる。
彼女はゆっくり起き上がり、四、八、十二。
凪雪はすでに立っていた。篝は紙を抱え、灯の下へ向かう歩幅をひとつだけ広げた。
風見の丘の風車の羽根が、風に合わせて回った。今度は、風があった。
その風は、夏の前の匂いを、ほんの少し先に運んできた。
先を見せる匂いは危うい。けれど、匂いは嘘をつかない。
朝が、近い。
朝は急がない。だから、必ず来る。
風見の丘と呼ばれるこの場所は、帝都の骨が一度だけ外に露出しているみたいに、土が素直に起伏を見せる。時刻は二夜目の入口。街の灯がまだ本気で点りきらず、空は眠る前に浅く仮眠を取るような薄さで横たわっている。
凪雪は、白羽糸のアンカーを四方に打った。東の杭には朝の名残、西の杭には市の喧騒の麓、南には乾いた工房の屋根の列、北には山のほうから降りてくる冷気の筋。四方を結んで正方のたわみを作り、その中央に綾女は瓶を抱えて座った。白羽栓の振動が、丘の下に眠る石の拍と呼応している。
「蓋を、半分だけ」
凪雪の言葉に、綾女はうなずく。
穢れ瓶の蓋をほんの少し緩める。空気がひと匙入れ替わる感覚が喉の奥に落ち、その落ちたところで哀しみの拍を掬い、白羽糸へ通す。哀しみは、怒りよりも粒が細かい。細かい粒は、糸の撚りに沿いやすく、沿った拍が上空の水の脈に静かに合流していく。
ばらけていた湿度が、一本の細い川になって流れだす。見えない川が空の腹をやさしく撫でると、風見の丘の風車の羽根が、風のないのに、ひとつだけ、ゆっくりと回った。
丘の下から職人衆が上がってきた。
肩に長い樋を担いだ大工、錫の継手を箱に詰めた金物屋、縄を巻いたままの手で帽子を押さえる瓦職人。皆、昼間に約した通り、雨樋を持ち寄っている。丘の斜面へ臨時の配水案内を作り、落ちるべき場所へ落ち、留まるべき場所で留まるように、招と配のあいだを人間の技でつなぐためだ。
綾女は立ち上がり、頭を下げる。
「招が強くなりすぎたら、合図で樋を外してください。雷が来る前に、線を緩めるので」
「合図は?」
「風鈴を二度。——三度は、皆が身を低くする合図です」
短い説明に、職人衆はそれぞれの拍で頷いた。拍の合う礼は、合唱の前奏のように場を整える。
遠雷が鳴った。
山に向かって薄く畳んであった雲の縁が、音もなくほどけ、白羽糸の上を光が走る。
凪雪が指を上げる。綾女は三行を骨に下ろした。
「——寄せて、渡して、離しなさい」
寄せるのは、湿度の薄片。渡すのは、糸の撚りを通して雲核へ。離すのは、落ちる前に、場の拍からいったん手を放すこと。
雲は寄る。寄った雲は、丘の上で一度だけ深呼吸をし、それから、丘の斜面を挟むように長く伸びていく。
だが、禁区の上には穴が空いたままだ。
見えない柵の上空だけ、濃い影が皺のように寄り、そこへ別の速い雨が、突き刺さるように落ちている気配。落とす誰かの手つきは早く、早さがわざと目立たぬように薄く偽装されている。風のない旗が翻った昨日と同じ、気配の速度だった。
篝が、丘の北側、禁区境界に立つ密偵へ手旗を送る。
返ってきた旗は短く、しかし鮮明だった——「不審な朱印の行列」。朱印の軸は細工され、押したときに二重の印影が出るよう削られているという。二重の名は、二重の責任逃れ。名を偽る者は、印もまた二重にする。
綾女の第二紋は、遠くの紙が擦れる音にまで微細に反応し、首筋の痛みが波として広がった。波は一度だけ高く、すぐに引く。引いたあとに残る潮の匂いが、喉の奥の紙片を湿らせる。
招の線は美しく張られていたが、終盤に小さな事故が起きた。
丘の上で見ていた子どもがひとり、石につまずいて転んだのだ。転ぶ前の空白、泣き声があがる直前の、息が逆流する瞬間——瓶は、その瞬間にいちばん敏感だ。
綾女の胸の中で、黒い瓶が暴れた。白羽糸がひと筋、弾かれて切れる。切れた糸の端が、空の緊張を拾って、鋭い音もなく震えた。
「眠れ、束なれ、温くなれ」
綾女は反射的に両手で瓶を抱きしめ、耳元で囁く。祓ではなく、招でもなく、瓶に向けた三行。
凪雪は考えるより先に動いていた。切れた白羽糸の端を歯で噛み、手の甲で糸の張りを固定しながら、自分の羽根を一本裂いて補修に充てる。裂いた瞬間に、彼の肩が一度だけ呼吸を落とした。落とした拍は、すぐに戻る。戻る拍が、糸の撓(たわ)みをかすかに撫でて、結び目の位置を決める。
職人衆のひとりが素早く樋を外し、雨の動線を一拍だけ緩めた。緩んだ分だけ、雷の呼び水が弱まる。弱まった谷間へ、綾女の囁きが落ち、黒い瓶の喉が、ふ、と深く息を吐いた。
雨雲が重さを持ち始め、霧雨が丘を撫でた。
誰も口を開けない。子どもでさえ、手のひらを上に向けて、雫の形を確かめる。濡らすのは皮膚だけ。喉は濡らさない。招の雨は、試し。配の雨は、明日だと繰り返し聞いているからだ。
綾女は言った。
「まだ配ってはいけません。今夜は、眠りを呼ぶだけ。配は明日の灯の下で」
霧雨を舌で受けたい衝動が喉に立ち、それでも大人も子どもも、指の腹を上にして、粒の温度と重みだけを覚えさせる。指の腹で覚えた雨は、嘘をつかない。
篝は板の影で短く記録をとり、職人衆に礼を送る。礼は動作を小さく、しかし二度。二度は、拍の礼だ。
丘を下りると、茶屋の灯の前で例の役人が待っていた。
彼はいつもの灰の衣で、裾は乾き、靴は泥を嫌っている。名の発音は相変わらず微妙に揺れて、揺れの幅だけ、彼の影が石畳の上でぶれているように見えた。
「雷の危険がありましたね。配は、我々のほうが手馴れている。早く、広く、——安全に」
凪雪は無表情のまま歩を進め、すれ違いざま、役人の胸元に吊るされた朱印の面を指で軽く叩いた。
小さな乾いた音。その音は、紙の上で眠っていた朱の粉を思い出させるような、浅い響きだった。
「二重印影。お前は、誰の名を使っている」
役人は口角を上げ、口中の湿り気をわずかに増やして囁く。
「名など、形式だ」
その瞬間、綾女の第二紋が焼けるように痛んだ。
痛みは激しくはない。だが、鋭い。鋭いものは、喉の奥で紙を切る。切れた紙片は、飲み込むのに時間がかかる。時間がかかることが、時に救いになる。
役人は軽く礼をし、去った。去っていく背中は、風のない旗の布目に似ている。微細に揺れ続ける。
綾女は、凪雪の袖の端に指をかけ、小さく首を振った。振るのは拒絶ではない。拍の位置の確認だ。
「……名を、形式と呼ぶ人の呼吸は、浅いです」
「浅い者が深いふりをするとき、紙が二重になる」
凪雪の言葉は、炎の温度ではなく、水面の圧のほうで、綾女の耳へ届く。圧は、傷を増やさない。
篝は、役人の歩幅と足音の周期を帳面に簡潔に記した——目の前で正面から戦うためではない。灯下で読むためだ。灯の下に引き出すと、影は自分の輪郭を選ばされる。
*
常世へ戻る道で、綾女は瓶の肩に頬を寄せた。
黒い瓶は夜の温度を持っている。白羽栓は、彼女の脈と合い、合った拍の上を薄く行き来している。
丘の上で転んだ子どもの泣き声は、もう瓶の中で丸まり、哀しみの椅子の足もとで静かに座っている。暴れた怒りは、なお微熱を取り戻している。微熱は悪ではない。悪ではないが、寝床を選ぶのが下手だ。下手なもののために、寝床を増やす。増やしすぎない。——瓶は、そういう算段を教えてくれる。
常世の間へ入ると、凪雪は白羽の小旗を三本だけ立て、常夜灯の格子を一段落として光の芯を細くした。細い光は、文字の骨を浮かび上がらせる。
篝が記録を読み上げる。
「密偵より追伸。——不審な朱印の行列、押印の順が逆。名の上に年号、次に“技術的措置”。年号の墨の乾きが、他の文言より新しい。二重印影は、軸の細工による」
乾き方の順は、嘘を愛していない。だから、役人は“形式だ”と言うのだ。形式なら、嘘でなくて済む、という顔で。
綾女は喉の奥の紙片が、息をするたびに位置を変えるのを感じていた。位置が変わる紙片は、まだ言葉にならない。ならないうちは、骨の近くへ置いておく。
「明日は、配」
凪雪が言った。
「灯の下で読む。二頁三行。押すのは、手と声と、拍。——三つを外さない」
「はい」
返事の短さが、場に残る。残る短い言葉は、支えの柱になる。柱が立てば、眠れる。眠りは、仕事の一部だ。
綾女は瓶を抱いて、白布の床に横になった。瞼の裏に、風見の丘の霧雨が広がる。指の腹に残った粒の形が、時おり内側から触れてくる。触れるたび、胸の奥の奥で、哀しみの椅子が少し軋む。
眠りは来ない。
来ない眠りは、悪い知らせと同義ではない。来ない夜が、時に、耳を開く。
綾女は仰向けになり、四、八、十二と数えた。
四は、場に入る戸口。八は、床へ沈む階段。十二は、骨の棚へ戻す仕舞いの手。
十二を過ぎても、眼差しの裏で雨粒が鳴る。鳴り方は、昼の霧雨と違う。粒の角が、わずかに尖っている。尖る粒は、誰かの手で急かされた雨だ。
都市のどこかで、また“春の小切手”が切られた。
切られる瞬間の、硯の石の冷たさまで、第二紋は拾ってしまう。拾ってしまうからこそ、灯の下へ持っていくしかない。
寝返りを打つと、瓶の黒が胸の真ん中でほどよく重く、重さが、眠りの手前の境界を守ってくれる。
綾女は目を閉じ、ゆっくり数え直した。
四。
八。
十二。
眠りは来ない。
それでも、拍は整う。
拍が整えば、夜は持ちこたえる。
持ちこたえた夜だけが、朝を配れる。
*
夜半過ぎ、凪雪が静かに入ってきた気配がした。気配は、音ではない。白羽栓の震えが、綾女の脈を数えるように少しだけ間隔を変え、すぐに戻す。
「起こしたか」
「起きています」
「起きているのは、悪くない」
凪雪は白羽を一本、指先で撫でた。その撫で方は、糸をほどく前の温度の作り方に似ていて、綾女の肩から余計な力が抜ける。
「子の泣き声で、糸が切れた。——よく繋いだ」
「あなたが、羽根を裂いたから」
「裂くのは簡単だ。戻すのに時間がかかる」
「戻りますか」
「戻る。時間が味方のときは、必ず」
味方、という言葉は、綾女の喉の紙片に水を足した。紙片は、そこですこし溶け、形を変えて喉の側壁に貼りついた。貼りついた紙は、朝に灯の下で読める。
凪雪はそれ以上何も言わず、綾女の頭のほうに座った。座る位置は、常夜灯の斜め下、白布の縁の影の中。影は濃いほど、呼吸が楽になる夜がある。
「怒りが、戻ってきました。微熱の高さで」
「微熱は悪くない。寝かせる時刻を、間違えるな」
「はい」
綾女は再び目を閉じ、瓶の肩に頬を置いた。
凪雪の指が、白羽栓のすぐ脇に軽く触れる。触れ方は、拍を数える触れ方だ。数える声は出さない。声にしない数は、骨の内側でだけ鳴る。
ようやく、ひとつの眠りが来た。
眠りは浅い。浅いが、拍を壊さない。壊さない眠りが、いちばん強い眠りだ。
*
その夜の終わり際、綾女は夢を見た。
風見の丘の上に、白い羽衣が張られている。白羽糸が組み上げた薄膜は、空の骨組みを一瞬だけ見せ、膜の間を霧雨がゆっくり歩く。歩く雨は、急がない。急がない雨は、誰かの額を濡らさず、誰かの背中を温め、誰かの掌にひとつだけ重みを残し、どこかの土の奥で小さな根に吸い込まれていく。
羽衣の端に、黒い針が二本、同じ角度で刺さっている。刺した手つきは似ているが、墨の乾き方が違う。乾く順の違いが、夢の中でも分かった。
夢の綾女は、夢の自分に向けて言う。——灯の下で、読み上げる。読み上げ、押し、配る。
羽衣は、風に破れない。破れないのは、結び目が見えないからではない。結び目が、灯の下でほどけるように結ばれているからだ。ほどける結び目は、美しい。美しいものは、長く持つ。
目が覚めると、常夜灯の格子はひとつだけ増え、白布の上に朝の前の色が薄く落ちていた。
綾女は瓶を抱き直し、喉の奥で紙片がやわらかくなっているのを確かめた。
今日は、配だ。
灯の下で——名を、呼び、押し、渡す。
招の羽衣は、まだ丘の上にかかっている。かかっているというより、胸の内側に静かに畳まれている。畳まれていれば、ほどけるのも早い。ほどけるときは、拍が先に歩く。拍が先に歩けば、雨は、濡れる。
彼女はゆっくり起き上がり、四、八、十二。
凪雪はすでに立っていた。篝は紙を抱え、灯の下へ向かう歩幅をひとつだけ広げた。
風見の丘の風車の羽根が、風に合わせて回った。今度は、風があった。
その風は、夏の前の匂いを、ほんの少し先に運んできた。
先を見せる匂いは危うい。けれど、匂いは嘘をつかない。
朝が、近い。
朝は急がない。だから、必ず来る。



