朝と昼の継ぎ目は、音の薄皮でできている。
陽はまだ真上ではなく、影はまだ背を粘らせない。広場の中央に吊られた風鈴が、風の来ない瞬間にもかすかに鳴った。鳴りようのない音が鳴るとき、そこには人の息が混じっている。何十という視線の塊が、音の皮を押し出し、押し出された薄皮が、鈴の舌をひと撫でして戻る——そんなふうに。
綾女は、風鈴の真下で膝をついた。
膝は石の冷たさを拾い、冷たさを骨に渡し、骨が僅かに身構える。身構える骨に、両掌を地へ置く。掌の下の地面は、昨日より一枚深いところで温い。夜明け前の返礼で落とした露が、根の高さに溜まっているのだろう。
指先が、砂の粒を一つ、二つと数えはじめる。数えながら、喉の奥の紙片を湿らせ、三行の祓詞を骨の側へ下ろす。
「——沈め、ほどけ、息を合わせよ」
声は高くない。高くないぶん、遠くへ伸びる。
「沈め」で、群衆の怒りの周波数が一段、低域へ移動する。怒りには膝がある。跳ぶ前に、必ず一度沈む。その沈みへ、こちらの「沈め」を間に合わせる。
「ほどけ」で、焦燥の細い節(ふし)が一箇所だけ緩む。焦る者は、結び目の数を増やして安心する癖がある。増やした結び目のうち、いちばん新しいところからほどいてやる。
「息を合わせよ」で、広場の縁と中央との距離が、呼吸ひとつぶん縮む。縮んだ距離に、綾女は瓶の口をそっと近づけた。
黒い瓶は、胸の真ん中で正しく重い。
白羽栓の微かな振動が、喉の奥の硬さを撫でる。瓶の中では、怒りと焦燥と哀しみと恐れと恥が、それぞれの椅子を引く音を立てている。祓詞は、それらを追い払わない。追えば、角が立つ。祓うとは「場に寝床を作る」ことだ。
受けて、束ねて、寝かせる。
綾女は三行を胸の内側で重ね直し、両掌の下で眠る土の拍と、自分の拍を重ねる。四、八、十二。十二で、掌の下の温が、掌の温と合わさって、瓶の喉に落ちる。
「祓う暇があるなら、今すぐ降らせろ!」
輪の外から、老人の声が突き刺さる。声は正しい。正しさは、ときに刃の形をしている。刃は、手順の上に置けば器具だが、手順の外では武器になる。
瓶が、ぴくりと跳ねた。
跳ねる前に、白い影が横から差し込まれ、軽く瓶の肩に触れる。凪雪の白羽だ。白羽は、触れて押さえない。押さえずに、拍だけを置く。二拍三連。置かれた拍は、心臓の鼓動と同じ速度で、二度だけ凪ぎ、喉の渇きを鎮めた。
綾女は老人を見ない。見ないで、声の硬さの位置だけを拾い上げ、そこに寝床をひとつ追加する——そんな感覚で三行目の「息を合わせよ」を、もう一度だけ細く重ねた。
風鈴が、一拍遅れて鳴る。
広場の音が、半音ほど下がった気配がした。怒号は消えていない。消えていないが、とがりが取れている。石畳にかかった影が、さっきより柔らかい。柔らかい影は、足音を吸う。吸った足音は、あとで返す。返すときに、少しだけ優しい音にして返す。
綾女は震えの残る膝を立て、立ち上がった。
「次は、招」
昼に寄りかかる前の空は、まだ何かを赦してくれる気がした。赦しは気のせいだ。けれど、気のせいでも、拍は整う。
招の準備は、屋根の高さで行う。凪雪が白羽糸の束を持ち上げ、綾女は爪の背で一本ずつほどく。糸は目に見えにくい。見えにくいものほど、触れたときに実体を主張する。指先に、冷たい弦のような感触。弦は東から西へ、禁区を避ける曲線で張られる。
禁区は、空の道に設けられた柵だ。柵は、誰かが何度もぶつかった場所に立つ。立っている柵を見て「邪魔だ」と言うのは自由だ。けれど、柵に礼をするのも自由だ。礼は、道を見えやすくする。
「湿度の粒を、通す」
凪雪が言う。
綾女は、瓶の肩口から細い音を引き、白羽糸に沿わせる。音は、上空の細い水の脈に触れて、粒の姿になる。粒は冷たく、軽く、しかし、すぐには滑らない。滑らせようとすると、糸の張りが変わる。張りが変わると、雲は来ても落ちない。
糸の曲線が、禁区の端に近づく。近づいた瞬間、遠くで黒い旗が翻った。旗は目に映らない。――なのに、綾女の第三紋の底で、かすかな泡が弾ける。
春の小切手。匂いは、墨の匂いではない。水で薄めた朱の匂いでもない。春の節を短く渡すために打った釘の、金気の匂い。釘は、打たれたあとに目立たないように磨かれている。磨かれた釘の頭は、夕方の光で薄く光る。
拍が、半拍だけ乱れた。白羽糸の一部が、その乱れを拾って、たわむ。
「目を閉じろ。音を数えろ」
凪雪の声は低く、命令形でも、叱責の温度ではない。
綾女は目を閉じた。目を閉じると、世界は途端に拍だけになる。拍は、道だ。道が見えないときに、拍は道になる。
四、八、十二。四は揃えるための数。八は沈めるための数。十二は、暦盤の節回しに合わせて、輪郭へ変わる数。
十二まで数えたとき、白羽糸のたわみが、自分から元の張りに戻っていくのが分かった。戻るのは、誰かに命じられたからではない。整った拍が、糸のほうに「ここだ」と合図したからだ。
禁区の手前で、糸は静かに曲がる。曲がりは、礼だ。礼は、力を失わせない。
招の線を張り終えると、広場の上空の色が、ほんのわずかに厚みを増した。厚みは、雲になる手前の気配だ。気配は、呼び方を間違えると逃げる。逃げる雲は、二度と同じ角度には戻らない。
綾女は瓶の喉を撫で、白羽栓に頼んで、瓶の底の怒りをもう一段、丸めた。丸めた怒りの横に座る哀しみの粒が、自分から白羽糸の張りへ寄っていく。哀しみは、雲核に素直に結びつく。怒りよりも。
それを、手の温度で覚える。覚えるということは、明日になる。明日になるということは、今日を使い切らないことだ。
*
祓と招の儀を終えると、篝が板の影から現れ、短く結果を記した。
「怒号件数の減少、病を訴える声の声量、低下。乾いた土の熱、落ち。招の成功率は六割」
六割。
数字は、慰めにも武器にもなる。篝は武器の握り方を知っているが、いまは握らない。読み上げるだけだ。読み上げは、灯の下の押印だから。
綾女は息を整え、頷いた。
「六割でも、祓は効いた」
「祓が効けば、招は次に届く。配は、夜へ持ち越せ」
凪雪が淡々と付け加える。夜の配は、灯の下で行う。灯の下でなければ、名が逃げる。名が逃げれば、配は配でなくなる。降っても濡れないという事態は、最悪だ。
広場の端に、子どもたちが輪になって座り、数え歌を始めた。四、八、十二。途中で「いち」が混ざる。混ざるたびに、誰かの口角が、ひとつだけ上がる。上がる角の数は、いつもより少し多い。
綾女は瓶を抱え直し、祓の余韻を胸の裏側で寝かせた。寝かせることで、余韻は夜まで持つ。夜まで持てば、配の線が途切れない。
帰り際、角の茶屋の簾がさわり、と持ち上がった。出てきたのは、例の役人だ。灰の衣の裾は乾いていて、靴は泥を嫌っている。泥を嫌う靴は、方向転換が早い。早い靴を履く人は、言葉に余白が少ない。
「祓は気休め、招は偶然。配を我々が担えば早い」
名の発音は、やはり微妙に揺れた。揺れは、意図のない揺れだ。意図のない揺れは、第二紋の針を動かす。
役人は懐から朱印を見せた。朱は赤いが、色が浅い。朱は深いほど、押した手の呼吸が紙に残る。浅い朱は、紙の上で広がって、すぐに乾く。乾く朱は、粉になる。粉は、灯下で舞う。
凪雪は一瞥して言った。
「その朱は、水で薄めてあるぞ」
一瞬、役人の眉が動いた。動きは小さい。小さいが、真ん中より半分だけ高い。恥の位置だ。
綾女の首筋で、第二紋が鋭く疼く。疼きは痛みではない。指差しだ。——名が滑っている。滑りは、わずかだからこそ、見逃せない。
「我々は、急ぎたいのです」
「急ぎたいのは、わかる。だからこそ、急がない」
凪雪の言葉は、冷たいが、冷酷ではない。彼の声は、拍のほうを向いている。向いて喋る声は、相手の胸を狙わない。狙わないから、残る。
役人は唇を結び、「ご健勝で」とだけ言って去った。去る言葉が、来た言葉より丁寧になるのは、言葉の疲れだ。言葉が疲れるほど使われたということ。疲れた言葉は、灯の下で休ませるべきだ。
*
二夜目の準備は、日が傾く少し前から始めた。
祓の拍を、昨日より一段、深くする。そのために、瓶の中で哀しみの拍を多めに寝かせる判断をする。怒りよりも哀しみのほうが、雲核に素直に結びつく——それを、綾女は瓶の温度で学びつつあった。
怒りは、跳ぶ。跳ぶものは、糸を弾く。弾いた糸は、張りを忘れやすい。哀しみは、座る。座るものは、糸に沿う。沿うから、雲のほうが先に近づいてくる。
哀しみの椅子を増やす。増やしすぎれば、場が沈む。沈んだ場には、火が点きにくい。点かない火は、灯にならない。だから、増やしすぎない。それを決めるのは、温度だ。
白羽栓に指を置き、四、八、十二。瓶の底に手をかざすと、昼より一段、温が低い。低い温は、哀しみの座りがよい証拠だ。座りがよければ、音は跳ねない。
「篝、在庫」
凪雪が問う。
篝は帳面をめくり、短く答える。
「香り包み、柑は少。山の葉、多。干した根、十分。焙じた出汁、三夜分。白羽糸、十絡み」
十絡み。絡みは絡まるためにある。絡まりをほどく指の温度は、低いほうがいい。低さは落ち着きを招く。高すぎる温は、糸を膨らませる。膨らめば、雲に先に触れてしまう。先に触れた触感に驚いて、糸は強張る。強張った糸は、撓(たわ)みを忘れる。
綾女は自分の指の温度を、呼吸で少しだけ下げた。
「導線は、昨夜と同じ」
凪雪が足で地図の角を押さえ、手で輪郭を示す。
「人命→衛生→生業。順に。逆は、ない」
ない、と言い切ることで、場が安心する。安心の拍が、招の張りを守る。守られた張りは、夜の配へつながる。
篝は、読み上げ文の二頁三行に朱の息継ぎを打ち、灯下で躓くべき箇所に小さな印をつけた。躓く印は、恥のためではない。灯のためだ。灯の下で躓けば、躓きは灯に変わる。
*
夕刻、風鈴が三度、風に合わないタイミングで鳴った。
広場の石に腰を下ろした老人が、帽子を両手で握りしめ、祈りを口の中で折りたたんでいた。折りたたまれた祈りは、祈りの体温を失いがちだ。体温のなくなった祈りは、紙の端のように乾いて、軽く、飛ぶ。飛ぶ前に、水を足す。
綾女は祓の輪の中心に立ち、静かに掌を下ろした。掌の皮膚は、昼よりやわらかい。やわらかい皮膚は、音を吸う。吸った音は、あとで瓶へ返す。
祓詞を、今度は声ではなく、骨の節目で唱える。
——沈め。
——ほどけ。
——息を合わせよ。
声に出さない祓は、場の耳へ働きかける。耳は、声より先に音を受け入れる。音は、息より先に土へ降りる。
瓶の中の怒りの泡が、跳ぶ前に丸くなる。哀しみは、自分で椅子を引いて座る。恐れの長い揺れが、一単位だけ伸び、恥の乾いた薄膜が、隅で光って静かになる。
遠くで、禁区の端に立つ黒い旗が、またひとつ、風のないのに翻った。翻った気配が、第三紋の奥を針で撫でる。撫でるだけで、傷はつけない。撫でられたほうは、それでも「そこ」を忘れない。
綾女は、白羽糸を再び伸ばした。
招の線は、昨夜より一段、深い角度で張る。角度を深くすると、雲の足が地へ届きやすい。届きやすいけれど、落ちやすい。落ちやすいものは、跳ねやすい。跳ねさせないために、祓で寝かせた床の厚みが要る。
白羽糸は、触れると冷たい。冷たさは、良い。冷たさは、熱のいる場所を教える。
凪雪は、糸の端を指で弾いた。弾き方は、弦楽のようでいて、弦楽ではない。音は鳴らない。鳴らないのに、拍は伝わる。拍が伝わると、空の筋が少しだけ近づく。
綾女は目を閉じ、四、八、十二。数えの最後で、白羽糸のたわみが、今度は自分から前へ進んだ。進みは、強がりではない。強がれば、糸は切れる。切れないのは、拍が先に置かれているからだ。
広場の上の色が、さらに厚みを増す。厚みの上を、燕がひと筋に横切った。燕の羽音は軽い。軽さは、拍の側にいる。拍の側の生き物は、眠りの場を見つけるのが上手い。
祓と招の二段を終え、配を今夜に繋ぐ準備をしながら、篝がまた結果を記す。
「祓、二度目の後、怒号は輪の外で半分。病の訴えは、呼吸三回に一回から、四回に一回。土の熱は、足の裏で一段落ち。招の成功率、七割」
七割。
綾女は、瓶の底に手をかざし、温を確かめる。温は、低すぎない。良い。哀しみが座っている温だ。座る温は、跳ねない温だ。
*
日が落ちる前、広場の端に腰かけていた少年が、綾女に近づいた。
「……雨は、いつ、降るの?」
声は小さく、真ん中に空白がある。空白は、嘘のない場所だ。
綾女は、瓶の栓を撫で、少年の目線の高さに腰を落とした。
「眠る雨を呼んでいる。眠ってから、降ろす。起こしたばかりの雨は、すぐに転ぶから」
「転ぶ?」
「うん。転ぶと、傷になる。傷になると、次の季(き)が引きずる。引きずる季は、歩幅を間違える」
少年は、分かったのか分からないのか、頷きと首傾げを同時にした。子どもの頷きは、半分が「わかったふり」ではない。半分が、明日の自分へ渡す合図だ。
綾女は微笑んで、少年の頭のうえの空を見上げた。空は、まだ眠りかけている。眠りかけているのなら、揺らさない。
茶屋の前を、昼間の役人がもう一度通った。
今度は誰にも声をかけない。名の発音は、やはり微妙に揺れ続けている。揺れは癖だ。癖は、直すより先に、灯の下で見せる。見せれば、癖が恥ではなく、印になる。
綾女の第二紋が、小さくつついた。
——灯下で読む。
それだけが、今夜の配に先行する、唯一の決めごとだ。
*
夜の入口で、風は一段、低くなる。
凪雪が白羽の小旗を三本、昨夜より一歩だけ外へ立て直した。輪は広いほうが、祓の床が厚くなる。厚い床は、配で崩れにくい。崩れにくい床は、朝に優しい。
綾女は、広場の真ん中で目を閉じる。
——沈め。ほどけ。息を合わせよ。
骨で唱え、瓶で受け、糸で招き、灯で配る。配る前の、長い吸気。吸気は、物語の行間のように長い。行間があるから、読み上げは骨に届く。
祓の拍は、今夜、ようやく「祓の拍」になった気がした。儀式の名称ではなく、場の呼吸のほうが、先にそう呼んだ。人間が何と名付けるかより先に、場が何と呼ぶかを決めるときがある。場の呼び方は、暦に刻まれる。
瓶の黒は、深く、軽い。
軽さは、不足ではない。軽くて深いものは、抱えやすい。抱えやすいから、遠くまで運べる。遠くまで運ぶあいだに、重さを変えない。変えないから、配は配でいられる。
綾女は、白羽栓の微かな振動を胸に集め、喉の奥へ送り、再び胸へ戻した。往復の間に、祓の床は、昨夜より厚くなった。厚くなった床は、誰かの怒りの足を挫(くじ)かない。
風鈴が、初めて風と合うタイミングで鳴った。
鳴った音が、綾女の背をまっすぐ撫でて、喉の紙片をやさしく解いた。紙片は、水に溶けきらず、しかし、喉を傷つける形ではなくなっていた。文字は読めない。読めないから、灯下へ持っていく。
篝が、板の上に読み上げ文の二頁三行を置き、朱の印を一筆、呼吸で乾かした。朱は深い。深い朱は、押した手の呼吸が紙に残る。残った呼吸は、夜の灯の下で浮かび上がる。
*
広場からの帰り道、綾女はふと足を止めた。
石畳の端に、小さな黒い点がある。雨粒ではない。墨の粉だ。粉は、押し損ねた朱から舞い上がる。舞い上がった粉が、灯に向かって集まることがある。
粉を指で拾い、指先に乗せ、吹いた。粉は軽く、闇に溶けた。
指の腹に、出汁の薄い香りが残った気がした。昼に椀へ落とした、焙じた香の名残かもしれない。記憶と現実の境目は、匂いのところでよく混ざる。混ざっても、拍は混ざらない。拍は、嘘をつかない。
「二夜目、招の強度を上げる」
凪雪が、歩きながら言った。
「哀しみを一段、増やす。——増やしすぎない」
「はい」
綾女はうなずき、瓶の底に手をかざした。温度は、夜の入口に相応しい。低すぎない。高すぎない。低すぎれば、座る前に眠る。高すぎれば、寝る前に立つ。
白羽糸が、手の中でほどけ、また束ねられ、ほどかれ、束ねられる。ほどくことと束ねることのあいだに、一本の細い橋がある。橋の名前は、手順だ。手順の橋を渡るとき、人は、強さの半分を置いていく。置いた半分は、弱さの形で、場に残る。残った弱さの形が、他人の強さを呼ぶ。
この人は、怖ろしく強いのに、拍に従って弱いところを見せることを恐れていない——綾女は、凪雪の背を、そんなふうに思いながら見ていた。背は大きくない。大きくない背中が、場を守るのに向いていることがある。大きいものは、風を受けすぎる。小さいものは、風に合わせやすい。
門楼の白が見えた。
白は、夜に入ると、灰の色を一度だけ通過する。通過するたびに、場の音がひとつ、低くなる。低くなった音は、祓の拍に向いている。
綾女は、風鈴の残響を胸にしまい、瓶を抱え直した。白羽栓が、彼女の脈に合わせて細く震える。震えは怖さの震えではない。準備の震えだ。準備は、怖さを眠らせるための手順だ。
*
常世の間に戻ると、篝が既に灯を整えていた。
常夜灯の格子は、昨夜よりひとつ少ない。少ない灯は、影を濃くする。影が濃いほうが、文字の骨が見える。骨が見えれば、読み上げで躓く箇所がはっきりする。はっきりすれば、灯下で乾く。
篝は帳面を開き、短く言った。
「配水局、今日の掲示の末尾、例の文言に、追記。——“技術的措置の詳細は近日”」
「近日は、暦ではない」
凪雪が言い、白羽糸を机の端に置いた。
「暦は、今日と明日のあいだで嘘をつかない」
綾女は、第二紋がさざ波のように疼くのを、喉の奥で受け止めた。疼きは痛みではない。呼び鈴だ。呼び鈴が鳴っている間に、祓の床をもう一段厚くする。呼び鈴が鳴り止む前に、招の線を張る。鳴り止んだら、配の読み上げへ立つ。
読めば、灯はそこにある。
灯があれば、名は逃げない。
名が逃げなければ、雨は濡れる。
濡れた土が、明日の朝、薄い蒸気で広場を撫でる。——それを、想像ではなく、拍として、胸に置く。
綾女は瓶の肩に頬を寄せた。黒い瓶は夜の温度を持ち、白羽栓は彼女の脈に合わせて息をする。
低く、短い合図で、凪雪が言う。
「——行こう」
祓の拍は整った。
招の線は、張られた。
配の文は、灯の下で待っている。
待つことと、呼ぶことと、配ることのあいだに、眠りがひとつ挟まっている。眠りは、仕事だ。仕事のための眠りは、罪ではない。罪の味がするのは、急いだ祓と、急がされた招と、急ぎたがる配だけだ。
綾女は目を閉じ、四、八、十二。
白い塔の影が、灰を一度通過して、夜へ入る。
風鈴が、最後にもう一度だけ、風のないところで鳴った。鳴って、黙った。それで、十分だった。
陽はまだ真上ではなく、影はまだ背を粘らせない。広場の中央に吊られた風鈴が、風の来ない瞬間にもかすかに鳴った。鳴りようのない音が鳴るとき、そこには人の息が混じっている。何十という視線の塊が、音の皮を押し出し、押し出された薄皮が、鈴の舌をひと撫でして戻る——そんなふうに。
綾女は、風鈴の真下で膝をついた。
膝は石の冷たさを拾い、冷たさを骨に渡し、骨が僅かに身構える。身構える骨に、両掌を地へ置く。掌の下の地面は、昨日より一枚深いところで温い。夜明け前の返礼で落とした露が、根の高さに溜まっているのだろう。
指先が、砂の粒を一つ、二つと数えはじめる。数えながら、喉の奥の紙片を湿らせ、三行の祓詞を骨の側へ下ろす。
「——沈め、ほどけ、息を合わせよ」
声は高くない。高くないぶん、遠くへ伸びる。
「沈め」で、群衆の怒りの周波数が一段、低域へ移動する。怒りには膝がある。跳ぶ前に、必ず一度沈む。その沈みへ、こちらの「沈め」を間に合わせる。
「ほどけ」で、焦燥の細い節(ふし)が一箇所だけ緩む。焦る者は、結び目の数を増やして安心する癖がある。増やした結び目のうち、いちばん新しいところからほどいてやる。
「息を合わせよ」で、広場の縁と中央との距離が、呼吸ひとつぶん縮む。縮んだ距離に、綾女は瓶の口をそっと近づけた。
黒い瓶は、胸の真ん中で正しく重い。
白羽栓の微かな振動が、喉の奥の硬さを撫でる。瓶の中では、怒りと焦燥と哀しみと恐れと恥が、それぞれの椅子を引く音を立てている。祓詞は、それらを追い払わない。追えば、角が立つ。祓うとは「場に寝床を作る」ことだ。
受けて、束ねて、寝かせる。
綾女は三行を胸の内側で重ね直し、両掌の下で眠る土の拍と、自分の拍を重ねる。四、八、十二。十二で、掌の下の温が、掌の温と合わさって、瓶の喉に落ちる。
「祓う暇があるなら、今すぐ降らせろ!」
輪の外から、老人の声が突き刺さる。声は正しい。正しさは、ときに刃の形をしている。刃は、手順の上に置けば器具だが、手順の外では武器になる。
瓶が、ぴくりと跳ねた。
跳ねる前に、白い影が横から差し込まれ、軽く瓶の肩に触れる。凪雪の白羽だ。白羽は、触れて押さえない。押さえずに、拍だけを置く。二拍三連。置かれた拍は、心臓の鼓動と同じ速度で、二度だけ凪ぎ、喉の渇きを鎮めた。
綾女は老人を見ない。見ないで、声の硬さの位置だけを拾い上げ、そこに寝床をひとつ追加する——そんな感覚で三行目の「息を合わせよ」を、もう一度だけ細く重ねた。
風鈴が、一拍遅れて鳴る。
広場の音が、半音ほど下がった気配がした。怒号は消えていない。消えていないが、とがりが取れている。石畳にかかった影が、さっきより柔らかい。柔らかい影は、足音を吸う。吸った足音は、あとで返す。返すときに、少しだけ優しい音にして返す。
綾女は震えの残る膝を立て、立ち上がった。
「次は、招」
昼に寄りかかる前の空は、まだ何かを赦してくれる気がした。赦しは気のせいだ。けれど、気のせいでも、拍は整う。
招の準備は、屋根の高さで行う。凪雪が白羽糸の束を持ち上げ、綾女は爪の背で一本ずつほどく。糸は目に見えにくい。見えにくいものほど、触れたときに実体を主張する。指先に、冷たい弦のような感触。弦は東から西へ、禁区を避ける曲線で張られる。
禁区は、空の道に設けられた柵だ。柵は、誰かが何度もぶつかった場所に立つ。立っている柵を見て「邪魔だ」と言うのは自由だ。けれど、柵に礼をするのも自由だ。礼は、道を見えやすくする。
「湿度の粒を、通す」
凪雪が言う。
綾女は、瓶の肩口から細い音を引き、白羽糸に沿わせる。音は、上空の細い水の脈に触れて、粒の姿になる。粒は冷たく、軽く、しかし、すぐには滑らない。滑らせようとすると、糸の張りが変わる。張りが変わると、雲は来ても落ちない。
糸の曲線が、禁区の端に近づく。近づいた瞬間、遠くで黒い旗が翻った。旗は目に映らない。――なのに、綾女の第三紋の底で、かすかな泡が弾ける。
春の小切手。匂いは、墨の匂いではない。水で薄めた朱の匂いでもない。春の節を短く渡すために打った釘の、金気の匂い。釘は、打たれたあとに目立たないように磨かれている。磨かれた釘の頭は、夕方の光で薄く光る。
拍が、半拍だけ乱れた。白羽糸の一部が、その乱れを拾って、たわむ。
「目を閉じろ。音を数えろ」
凪雪の声は低く、命令形でも、叱責の温度ではない。
綾女は目を閉じた。目を閉じると、世界は途端に拍だけになる。拍は、道だ。道が見えないときに、拍は道になる。
四、八、十二。四は揃えるための数。八は沈めるための数。十二は、暦盤の節回しに合わせて、輪郭へ変わる数。
十二まで数えたとき、白羽糸のたわみが、自分から元の張りに戻っていくのが分かった。戻るのは、誰かに命じられたからではない。整った拍が、糸のほうに「ここだ」と合図したからだ。
禁区の手前で、糸は静かに曲がる。曲がりは、礼だ。礼は、力を失わせない。
招の線を張り終えると、広場の上空の色が、ほんのわずかに厚みを増した。厚みは、雲になる手前の気配だ。気配は、呼び方を間違えると逃げる。逃げる雲は、二度と同じ角度には戻らない。
綾女は瓶の喉を撫で、白羽栓に頼んで、瓶の底の怒りをもう一段、丸めた。丸めた怒りの横に座る哀しみの粒が、自分から白羽糸の張りへ寄っていく。哀しみは、雲核に素直に結びつく。怒りよりも。
それを、手の温度で覚える。覚えるということは、明日になる。明日になるということは、今日を使い切らないことだ。
*
祓と招の儀を終えると、篝が板の影から現れ、短く結果を記した。
「怒号件数の減少、病を訴える声の声量、低下。乾いた土の熱、落ち。招の成功率は六割」
六割。
数字は、慰めにも武器にもなる。篝は武器の握り方を知っているが、いまは握らない。読み上げるだけだ。読み上げは、灯の下の押印だから。
綾女は息を整え、頷いた。
「六割でも、祓は効いた」
「祓が効けば、招は次に届く。配は、夜へ持ち越せ」
凪雪が淡々と付け加える。夜の配は、灯の下で行う。灯の下でなければ、名が逃げる。名が逃げれば、配は配でなくなる。降っても濡れないという事態は、最悪だ。
広場の端に、子どもたちが輪になって座り、数え歌を始めた。四、八、十二。途中で「いち」が混ざる。混ざるたびに、誰かの口角が、ひとつだけ上がる。上がる角の数は、いつもより少し多い。
綾女は瓶を抱え直し、祓の余韻を胸の裏側で寝かせた。寝かせることで、余韻は夜まで持つ。夜まで持てば、配の線が途切れない。
帰り際、角の茶屋の簾がさわり、と持ち上がった。出てきたのは、例の役人だ。灰の衣の裾は乾いていて、靴は泥を嫌っている。泥を嫌う靴は、方向転換が早い。早い靴を履く人は、言葉に余白が少ない。
「祓は気休め、招は偶然。配を我々が担えば早い」
名の発音は、やはり微妙に揺れた。揺れは、意図のない揺れだ。意図のない揺れは、第二紋の針を動かす。
役人は懐から朱印を見せた。朱は赤いが、色が浅い。朱は深いほど、押した手の呼吸が紙に残る。浅い朱は、紙の上で広がって、すぐに乾く。乾く朱は、粉になる。粉は、灯下で舞う。
凪雪は一瞥して言った。
「その朱は、水で薄めてあるぞ」
一瞬、役人の眉が動いた。動きは小さい。小さいが、真ん中より半分だけ高い。恥の位置だ。
綾女の首筋で、第二紋が鋭く疼く。疼きは痛みではない。指差しだ。——名が滑っている。滑りは、わずかだからこそ、見逃せない。
「我々は、急ぎたいのです」
「急ぎたいのは、わかる。だからこそ、急がない」
凪雪の言葉は、冷たいが、冷酷ではない。彼の声は、拍のほうを向いている。向いて喋る声は、相手の胸を狙わない。狙わないから、残る。
役人は唇を結び、「ご健勝で」とだけ言って去った。去る言葉が、来た言葉より丁寧になるのは、言葉の疲れだ。言葉が疲れるほど使われたということ。疲れた言葉は、灯の下で休ませるべきだ。
*
二夜目の準備は、日が傾く少し前から始めた。
祓の拍を、昨日より一段、深くする。そのために、瓶の中で哀しみの拍を多めに寝かせる判断をする。怒りよりも哀しみのほうが、雲核に素直に結びつく——それを、綾女は瓶の温度で学びつつあった。
怒りは、跳ぶ。跳ぶものは、糸を弾く。弾いた糸は、張りを忘れやすい。哀しみは、座る。座るものは、糸に沿う。沿うから、雲のほうが先に近づいてくる。
哀しみの椅子を増やす。増やしすぎれば、場が沈む。沈んだ場には、火が点きにくい。点かない火は、灯にならない。だから、増やしすぎない。それを決めるのは、温度だ。
白羽栓に指を置き、四、八、十二。瓶の底に手をかざすと、昼より一段、温が低い。低い温は、哀しみの座りがよい証拠だ。座りがよければ、音は跳ねない。
「篝、在庫」
凪雪が問う。
篝は帳面をめくり、短く答える。
「香り包み、柑は少。山の葉、多。干した根、十分。焙じた出汁、三夜分。白羽糸、十絡み」
十絡み。絡みは絡まるためにある。絡まりをほどく指の温度は、低いほうがいい。低さは落ち着きを招く。高すぎる温は、糸を膨らませる。膨らめば、雲に先に触れてしまう。先に触れた触感に驚いて、糸は強張る。強張った糸は、撓(たわ)みを忘れる。
綾女は自分の指の温度を、呼吸で少しだけ下げた。
「導線は、昨夜と同じ」
凪雪が足で地図の角を押さえ、手で輪郭を示す。
「人命→衛生→生業。順に。逆は、ない」
ない、と言い切ることで、場が安心する。安心の拍が、招の張りを守る。守られた張りは、夜の配へつながる。
篝は、読み上げ文の二頁三行に朱の息継ぎを打ち、灯下で躓くべき箇所に小さな印をつけた。躓く印は、恥のためではない。灯のためだ。灯の下で躓けば、躓きは灯に変わる。
*
夕刻、風鈴が三度、風に合わないタイミングで鳴った。
広場の石に腰を下ろした老人が、帽子を両手で握りしめ、祈りを口の中で折りたたんでいた。折りたたまれた祈りは、祈りの体温を失いがちだ。体温のなくなった祈りは、紙の端のように乾いて、軽く、飛ぶ。飛ぶ前に、水を足す。
綾女は祓の輪の中心に立ち、静かに掌を下ろした。掌の皮膚は、昼よりやわらかい。やわらかい皮膚は、音を吸う。吸った音は、あとで瓶へ返す。
祓詞を、今度は声ではなく、骨の節目で唱える。
——沈め。
——ほどけ。
——息を合わせよ。
声に出さない祓は、場の耳へ働きかける。耳は、声より先に音を受け入れる。音は、息より先に土へ降りる。
瓶の中の怒りの泡が、跳ぶ前に丸くなる。哀しみは、自分で椅子を引いて座る。恐れの長い揺れが、一単位だけ伸び、恥の乾いた薄膜が、隅で光って静かになる。
遠くで、禁区の端に立つ黒い旗が、またひとつ、風のないのに翻った。翻った気配が、第三紋の奥を針で撫でる。撫でるだけで、傷はつけない。撫でられたほうは、それでも「そこ」を忘れない。
綾女は、白羽糸を再び伸ばした。
招の線は、昨夜より一段、深い角度で張る。角度を深くすると、雲の足が地へ届きやすい。届きやすいけれど、落ちやすい。落ちやすいものは、跳ねやすい。跳ねさせないために、祓で寝かせた床の厚みが要る。
白羽糸は、触れると冷たい。冷たさは、良い。冷たさは、熱のいる場所を教える。
凪雪は、糸の端を指で弾いた。弾き方は、弦楽のようでいて、弦楽ではない。音は鳴らない。鳴らないのに、拍は伝わる。拍が伝わると、空の筋が少しだけ近づく。
綾女は目を閉じ、四、八、十二。数えの最後で、白羽糸のたわみが、今度は自分から前へ進んだ。進みは、強がりではない。強がれば、糸は切れる。切れないのは、拍が先に置かれているからだ。
広場の上の色が、さらに厚みを増す。厚みの上を、燕がひと筋に横切った。燕の羽音は軽い。軽さは、拍の側にいる。拍の側の生き物は、眠りの場を見つけるのが上手い。
祓と招の二段を終え、配を今夜に繋ぐ準備をしながら、篝がまた結果を記す。
「祓、二度目の後、怒号は輪の外で半分。病の訴えは、呼吸三回に一回から、四回に一回。土の熱は、足の裏で一段落ち。招の成功率、七割」
七割。
綾女は、瓶の底に手をかざし、温を確かめる。温は、低すぎない。良い。哀しみが座っている温だ。座る温は、跳ねない温だ。
*
日が落ちる前、広場の端に腰かけていた少年が、綾女に近づいた。
「……雨は、いつ、降るの?」
声は小さく、真ん中に空白がある。空白は、嘘のない場所だ。
綾女は、瓶の栓を撫で、少年の目線の高さに腰を落とした。
「眠る雨を呼んでいる。眠ってから、降ろす。起こしたばかりの雨は、すぐに転ぶから」
「転ぶ?」
「うん。転ぶと、傷になる。傷になると、次の季(き)が引きずる。引きずる季は、歩幅を間違える」
少年は、分かったのか分からないのか、頷きと首傾げを同時にした。子どもの頷きは、半分が「わかったふり」ではない。半分が、明日の自分へ渡す合図だ。
綾女は微笑んで、少年の頭のうえの空を見上げた。空は、まだ眠りかけている。眠りかけているのなら、揺らさない。
茶屋の前を、昼間の役人がもう一度通った。
今度は誰にも声をかけない。名の発音は、やはり微妙に揺れ続けている。揺れは癖だ。癖は、直すより先に、灯の下で見せる。見せれば、癖が恥ではなく、印になる。
綾女の第二紋が、小さくつついた。
——灯下で読む。
それだけが、今夜の配に先行する、唯一の決めごとだ。
*
夜の入口で、風は一段、低くなる。
凪雪が白羽の小旗を三本、昨夜より一歩だけ外へ立て直した。輪は広いほうが、祓の床が厚くなる。厚い床は、配で崩れにくい。崩れにくい床は、朝に優しい。
綾女は、広場の真ん中で目を閉じる。
——沈め。ほどけ。息を合わせよ。
骨で唱え、瓶で受け、糸で招き、灯で配る。配る前の、長い吸気。吸気は、物語の行間のように長い。行間があるから、読み上げは骨に届く。
祓の拍は、今夜、ようやく「祓の拍」になった気がした。儀式の名称ではなく、場の呼吸のほうが、先にそう呼んだ。人間が何と名付けるかより先に、場が何と呼ぶかを決めるときがある。場の呼び方は、暦に刻まれる。
瓶の黒は、深く、軽い。
軽さは、不足ではない。軽くて深いものは、抱えやすい。抱えやすいから、遠くまで運べる。遠くまで運ぶあいだに、重さを変えない。変えないから、配は配でいられる。
綾女は、白羽栓の微かな振動を胸に集め、喉の奥へ送り、再び胸へ戻した。往復の間に、祓の床は、昨夜より厚くなった。厚くなった床は、誰かの怒りの足を挫(くじ)かない。
風鈴が、初めて風と合うタイミングで鳴った。
鳴った音が、綾女の背をまっすぐ撫でて、喉の紙片をやさしく解いた。紙片は、水に溶けきらず、しかし、喉を傷つける形ではなくなっていた。文字は読めない。読めないから、灯下へ持っていく。
篝が、板の上に読み上げ文の二頁三行を置き、朱の印を一筆、呼吸で乾かした。朱は深い。深い朱は、押した手の呼吸が紙に残る。残った呼吸は、夜の灯の下で浮かび上がる。
*
広場からの帰り道、綾女はふと足を止めた。
石畳の端に、小さな黒い点がある。雨粒ではない。墨の粉だ。粉は、押し損ねた朱から舞い上がる。舞い上がった粉が、灯に向かって集まることがある。
粉を指で拾い、指先に乗せ、吹いた。粉は軽く、闇に溶けた。
指の腹に、出汁の薄い香りが残った気がした。昼に椀へ落とした、焙じた香の名残かもしれない。記憶と現実の境目は、匂いのところでよく混ざる。混ざっても、拍は混ざらない。拍は、嘘をつかない。
「二夜目、招の強度を上げる」
凪雪が、歩きながら言った。
「哀しみを一段、増やす。——増やしすぎない」
「はい」
綾女はうなずき、瓶の底に手をかざした。温度は、夜の入口に相応しい。低すぎない。高すぎない。低すぎれば、座る前に眠る。高すぎれば、寝る前に立つ。
白羽糸が、手の中でほどけ、また束ねられ、ほどかれ、束ねられる。ほどくことと束ねることのあいだに、一本の細い橋がある。橋の名前は、手順だ。手順の橋を渡るとき、人は、強さの半分を置いていく。置いた半分は、弱さの形で、場に残る。残った弱さの形が、他人の強さを呼ぶ。
この人は、怖ろしく強いのに、拍に従って弱いところを見せることを恐れていない——綾女は、凪雪の背を、そんなふうに思いながら見ていた。背は大きくない。大きくない背中が、場を守るのに向いていることがある。大きいものは、風を受けすぎる。小さいものは、風に合わせやすい。
門楼の白が見えた。
白は、夜に入ると、灰の色を一度だけ通過する。通過するたびに、場の音がひとつ、低くなる。低くなった音は、祓の拍に向いている。
綾女は、風鈴の残響を胸にしまい、瓶を抱え直した。白羽栓が、彼女の脈に合わせて細く震える。震えは怖さの震えではない。準備の震えだ。準備は、怖さを眠らせるための手順だ。
*
常世の間に戻ると、篝が既に灯を整えていた。
常夜灯の格子は、昨夜よりひとつ少ない。少ない灯は、影を濃くする。影が濃いほうが、文字の骨が見える。骨が見えれば、読み上げで躓く箇所がはっきりする。はっきりすれば、灯下で乾く。
篝は帳面を開き、短く言った。
「配水局、今日の掲示の末尾、例の文言に、追記。——“技術的措置の詳細は近日”」
「近日は、暦ではない」
凪雪が言い、白羽糸を机の端に置いた。
「暦は、今日と明日のあいだで嘘をつかない」
綾女は、第二紋がさざ波のように疼くのを、喉の奥で受け止めた。疼きは痛みではない。呼び鈴だ。呼び鈴が鳴っている間に、祓の床をもう一段厚くする。呼び鈴が鳴り止む前に、招の線を張る。鳴り止んだら、配の読み上げへ立つ。
読めば、灯はそこにある。
灯があれば、名は逃げない。
名が逃げなければ、雨は濡れる。
濡れた土が、明日の朝、薄い蒸気で広場を撫でる。——それを、想像ではなく、拍として、胸に置く。
綾女は瓶の肩に頬を寄せた。黒い瓶は夜の温度を持ち、白羽栓は彼女の脈に合わせて息をする。
低く、短い合図で、凪雪が言う。
「——行こう」
祓の拍は整った。
招の線は、張られた。
配の文は、灯の下で待っている。
待つことと、呼ぶことと、配ることのあいだに、眠りがひとつ挟まっている。眠りは、仕事だ。仕事のための眠りは、罪ではない。罪の味がするのは、急いだ祓と、急がされた招と、急ぎたがる配だけだ。
綾女は目を閉じ、四、八、十二。
白い塔の影が、灰を一度通過して、夜へ入る。
風鈴が、最後にもう一度だけ、風のないところで鳴った。鳴って、黙った。それで、十分だった。



