夜がほどける瞬間を、街は目に見えない手つきで受け止める。
屋根瓦の端に留まっていた露が、まだ落ちない。落ちないうちに、役所の掲示板の前だけが先に目覚める。紙を貼る音は、朝の鍋の最初の火と同じ高さで響き、通りの石はそれを秘密みたいに吸い込んだ。
掲示は三枚。三枚とも、ほとんど同じ文言で、違うのは末尾だけだった。
——〈春期配当、技術的措置により補填可〉。
柔らかい言い回しが、紙の白を滑る。滑るから、指に残らない。残らない言葉ほど、後で喉に引っかかる。
綾女は、掲示を読み上げる群衆の背中をかいくぐり、紙の端の朱に目をやった。朱は新しいのに、息継ぎがない。押した手の呼吸が紙に残っていない印は、乾き方が早い。乾く朱は、粉になる。粉は灯の下で舞い、舞うと、見える。
首筋の白羽の内側で、第二紋がぷつりと軽く疼いた。痛みは針の先ほど。知らせるだけの力で、脅さない強さ。
「名義と責任を曖昧にする匂い」
自分に向かって呟いた声は、朝の空気に溶けた。隣で凪雪が、紙には目をやらず、群衆の呼吸の拍に耳を澄ませている。
怒りの泡は、朝が早い。怒ること自体は悪ではない。けれど、泡は寝かせないと昼に持ち越す。昼に持ち越した怒りは、夜の鍋の火を強くしすぎる。
「行く」
凪雪は短く言い、掲示板から背を向けた。常世の門へ続く路地は、パン屋の甘い匂いと、濡れた麻袋の湿った匂いを薄くまとい、朝の犬が二匹、互いの匂いを確認し合っている。確認は、良い。名を呼ぶ前に、匂いで輪郭を撫でる行為だ。
綾女は瓶を抱え直した。白羽栓は軽い。軽いのに、胸の前で重さが変わる。変わる重さは、瓶の中の粒が朝の音へ耳を傾けた合図だ。
*
誓約庁の一室は、紙と木と薄い鉄の匂いがした。窓から入る光は白布で一度やわらぎ、机の上の地図に柔らかい影を落としている。影があると、白が厚くなる。
篝が既に待っていた。帳面を開き、筆の先で余計な墨を二度払ってから、顔を上げる。
「三段の段取りを」
凪雪がうなずく。
机の上には、暦盤の小さな写し、帝都の地図、白羽糸の束、香り包み、読み上げ文の二頁三行。整っていながら、余白がある。余白は作業の呼吸だ。呼吸のない段取りは、紙の上では美しいが、場で滑る。
「祓は、穢れの拍を静音域へ落とす」
凪雪の指が、机の端を軽く叩いた。二拍三連。叩く音だけで、場の膝が少し緩む。
綾女は小さく息を吸い、瓶の栓に触れる。瓶の中には、怒りと焦燥が朝から泡立っている。孤児院の子の泣き声、商人の罵声、役所の舌打ち。声が多い日は、粒の角が荒くなる。角を丸めるには、先に受ける。受けて、束ねて、寝かせる。三行だけ。
祓で雑音を沈められなければ、招で雲を連ねても、配で地図を色分けしても、乱流が上から落ちてきて、拍を壊す。壊れた拍は、次の季の天候へ傷を残す。
「招は、上空の湿度脈から雲核を白羽糸で連結する」
篝が白羽糸を一本取り、光に翳した。糸は白いのに、光ではなく影で形を見せる。影の筋が、空の筋と繋がる。
凪雪が続ける。
「配は、落ちてきた水を暦盤の節に沿って地図へ分配する。節を外せば、雨は雨でなくなる。降っても降らないのと同じになる」
「単独でやれば、短期には効く」
篝が言葉を足す。
「けれど、三つを外せば拍が乱れ、次季が歪む。……紙の上でも、そのように記録が残っている」
紙の上で正しくても、場で手順を守れなければ、文字はすぐに乾いて粉になる。粉は、恥に似ている。灯下で舞わせ、乾かして飛ばす。
綾女は瓶の内側に立つ泡の、一粒ずつに糸をかけるように、指先の意識を細かくした。怒りの拍は、跳ねる寸前に膝が一度沈む。焦燥の拍は、足踏みの周期が短すぎる。哀しみは座る場所を探す。恐れは視線を泳がせ、恥は乾いて紙の端へ寄る。
瓶の喉に、白羽栓の微かな振動が伝わり、粒の角がひとつ、またひとつ、丸くなる。丸め方は、押さえつけるのではなく、寝床を用意してやる感覚で。寝床に先に手を当て、温度を作る。四、八、十二。
凪雪は、彼女の呼吸に合わせるように歩幅を揃え、机のまわりを半周する。足音は小さく、紙の音と喧嘩をしない。
「優先順位は、人命→衛生→生業」
凪雪は短く定義した。紙に書けば三語。場で運ぶと、三本の導線になる。
「人命は、倒れている者と眠れていない者。衛生は、手と器。生業は、市(いち)での交換の拍。——順に触れる。逆へは、行かない」
綾女は頷きながら、地図の上で指を動かした。指は街の道を覚えている。孤児院から市場へ、工房へ、配水局の裏口へ。裏口の板札。善意の先払い。春期配当、技術的措置により補填可。言葉は柔らかいが、拍を削る。
戸口に、硬い紙の擦れる音がした。
配水局の役人が来た。灰の衣、薄い帯。帯は新しいのに、結び目だけが疲れている。名刺が差し出され、墨は新しいのに、字の骨が若すぎる。若い手で古い名をまねると、骨に呼吸が入らない。
役人は名乗り、名の音が舌の上で一瞬滑った。滑りは、わずか。わずかなのに、第二紋がちくりと反応する。名を隠す呼吸。息の位置が違う。
「断水解除には追加の春期配当が必要です。——誓約庁の印璽を」
役人の声は、婉曲で、膝を折らない。折らない声は、膝の使い方を知らない。
凪雪は、一字分の間も置かずに拒んだ。
「春は急がぬ。代わりに、三段式で渇水区を限定復旧する」
役人の唇が、わずかに歪んだ。歪みは軽い苛立ちではない。苦笑の位置すら、練習したように見える。
「ご高説を」
退き際の言葉だけが、素直だった。素直さは、命ではないが、呼吸の一種だ。
足音が去ってから、綾女は凪雪に問う。
「いまの人……名が滑っていた」
「滑らせるのが、仕事の人間もいる」
凪雪は淡々と答えた。答えは冷たく、冷酷ではない。冷たさは熱の近くにしか置けない。
篝が、読み上げ用の帳面を抱えて入ってくる。
「雨乞いの許認可手順。——読み上げます」
彼は条項をひとつずつ、短く読み上げていった。読み上げの声は、押印の声と同じ。押すのは手だけではない。声も押す。
最後の頁の末尾に、不自然な空白欄がある。白い。白いのに、冷たい。そこは本来、“二重行政”の取り決めにより常世側の押印が必要なはずの位置だ。空白は、勝手に埋められる余地を残す穴。穴は、名を隠すために開けられる。名を隠すなら、灯の下で読む。
「ここは、灯下で押す」
凪雪の声は短く、場に残る。
綾女は、喉の奥の紙片が形を変えるのを感じた。紙片は固くない。固くないほうが、飲み込みにくい。だから、灯下で読み上げる。読み上げれば、誰かの喉が躓き、躓いた位置に朱が落ちる。
*
準備の最後に、綾女は穢れ瓶の訓練を繰り返した。
受けて、束ねて、寝かせる。
祓では、先に雑音を沈める。沈めるといっても、押し込むのではない。寝床を用意し、そこに座らせる。怒りは丸め、哀しみは座らせ、恐れは揺れの周期を長くし、恥は乾かして隅へ寄せる。
招では、湿度の脈を探る。上空の細い水の筋に糸をかけ、糸の張りを調えていく。強すぎる張りは、雨脚を速める。弱すぎる張りは、雨脚をほどく。ほどけた雨は、留まらない。
配では、暦盤の節に沿って、地図を色分けする。色は目に見えない。見えない色を、拍で塗る。塗る順番は、呼吸だ。呼吸の順に置けば、人命→衛生→生業の順で、水は濡れる。
凪雪は淡々と、しかし綾女の呼吸に合わせるように歩幅を揃え続けた。揃うたびに、彼の肩から余分な力が抜ける。抜ける瞬間、綾女はいつも少し救われる。この人は、怖ろしく強いのに、拍に従って弱いところを見せることを恐れていない。
強さの半分は、弱さの置き方で決まる。置き方を間違えると、瓶は跳ねる。跳ねる前に、寝かせる。寝かせる方法は、すでに骨が知っている。
「香り包みは、柑が少ない」
篝が帳面をめくり、在庫を読み上げる。
「山の葉と、干した根。焙じた出汁は、あと二日分。——足りないぶんは、温度で補う」
「温度は拍だ」
凪雪が言う。
綾女はうなずき、白羽糸をひと束、指先でほぐした。糸は軽い。軽いものは、すぐに絡む。絡むから、先に指の温度で撫でる。撫で方を間違えると、糸は芯を忘れる。芯を忘れた糸は、空と繋がらない。
*
黄昏。
最初の儀式地点は、下町の広場だ。広場の真ん中にある井戸の口は乾き、風が吹くたびに井戸の壁の古い藻が白く光る。光る白は、乾いた証拠だ。
子どもたちは、祈りの輪の外側に半歩離れて座り、目だけで大人の動きを追っていた。目は口より先に学ぶ。
綾女が小瓶を胸に抱えて現れると、視線が瓶に吸い寄せられた。吸い寄せられるのは、光ではない。黒だ。黒は深さで人を呼ぶ。呼ぶ深さが浅いと、覗き込んだ者が落ちる。深いと、落ちない。落ちない深さは、待って作る。
「今日は、眠る雨を呼ぶよ」
綾女は輪の中心に立ち、子どもたちの目線の高さに合わせて腰を落とした。声は高くない。高くしないほうが、遠くまで届くときがある。
凪雪が白羽の小旗を三本、輪の三点に立てる。旗の白は、夕暮れの色で灰に傾いている。灰に傾いた白は、灯の準備をはじめている白だ。
第一夜の祓。
綾女は目を閉じ、瓶の栓に触れた。触れ方は、朝から何度も確認した通り、力を抜いて、拍に先に触らせる。
受けて、束ねて、寝かせる。
読み上げの声が広場に降り、合唱の低い音が地面に薄く座る。座った音の上に、香りが広がり、柑の皮の小さな光が鼻の奥で列を作る。
怒りの泡は、膝が沈む前に小さくなり、哀しみは自分から椅子を探して座り、恐れは揺れを長くして跳ねなくなり、恥は乾いて隅に寄った。
広場の中央で、井戸の縁の石が一度だけ鳴った。鳴る音は、水音ではない。石の音だ。石は、拍を覚える。
祓の三行を終えると、広場の空気が半拍だけ深くなった。深くなったぶんだけ、呼吸が楽になる。楽になる呼吸は、笑いとよく結ぶ。
子どもたちのひとりが、数え歌を小さく始めた。四、八、十二。途中で「いち」が混ざる。混ざって、誰かが笑い、笑いが泡をひとつ潰した。
綾女は、瓶の黒が少し軽くなるのを確かめ、凪雪を見た。凪雪は頷き、輪の外で手を下ろす。下ろした手の位置が、次の拍への合図になっているのを、常夜灯のないこの広場でも、綾女の身体は読み取れるようになっていた。
招は、空を見る儀だ。けれど、今夜はまだ、呼ばない。祓で寝かせた拍が、街の骨に吸い込まれていくのを待つ。急いだ儀は、翌朝を疲れさせる。疲れた朝は、怒りが起きやすい。怒りは悪くないが、配りにくい。
井戸の縁に座っていた老人が、帽子を取り、胸に当てた。合図ではない。彼の拍の「ありがとう」が、その動作の高さで読めた。
綾女は、小さく首を下げた。首の内側で白羽がふわりと揺れ、第二紋が遠くの名の滑りを短く指で指した。
“春期配当、技術的措置により補填可”。
掲示の末尾の句は、夕暮れの色に紛れても、匂いだけは薄く残り続ける。
*
儀のあと、広場の端で、男がひとり、掲示の写しを握りしめて立っていた。
役所の人間に見えない。靴が泥を嫌っていない。泥を嫌わない靴は、長く歩ける。長く歩ける人間は、言葉を短く持つ。
男は何か言いかけて、やめた。やめた言葉は、腹に落ちて泡になり、泡は寝ない。寝ない泡は、夜に持ち越される。
綾女は見ずに、瓶の栓を撫で、子どもたちの輪をもう一度見渡した。小さな手が、合図もなく、同じ高さに上がり、下りる。拍は、言葉より先に伝わる。
凪雪が近寄り、短く言う。
「——今夜はここまで。明日は山側の筋だ」
明日は、招へ入る。招へ入れば、雲は来る。来るが、落ちるかどうかは、配まで持っていけるか次第だ。持っていく力を、今夜の眠りで作る。
綾女はうなずき、瓶を胸に抱え直した。白羽栓の振動が、彼女の脈と合っている。合っていること自体が守りになる。守りがあると、人は優しくなれる。優しさは手順に変える。手順は、街を守る。
黄昏の最後の光が、井戸の縁で薄く跳ね、跳ねた光が、明日の朝の匂いを少しだけ先に連れてきた。
匂いは、約束の骨格になる。
約束は、灯の下で読む。
灯は、ここにも、ちゃんと来る。
屋根瓦の端に留まっていた露が、まだ落ちない。落ちないうちに、役所の掲示板の前だけが先に目覚める。紙を貼る音は、朝の鍋の最初の火と同じ高さで響き、通りの石はそれを秘密みたいに吸い込んだ。
掲示は三枚。三枚とも、ほとんど同じ文言で、違うのは末尾だけだった。
——〈春期配当、技術的措置により補填可〉。
柔らかい言い回しが、紙の白を滑る。滑るから、指に残らない。残らない言葉ほど、後で喉に引っかかる。
綾女は、掲示を読み上げる群衆の背中をかいくぐり、紙の端の朱に目をやった。朱は新しいのに、息継ぎがない。押した手の呼吸が紙に残っていない印は、乾き方が早い。乾く朱は、粉になる。粉は灯の下で舞い、舞うと、見える。
首筋の白羽の内側で、第二紋がぷつりと軽く疼いた。痛みは針の先ほど。知らせるだけの力で、脅さない強さ。
「名義と責任を曖昧にする匂い」
自分に向かって呟いた声は、朝の空気に溶けた。隣で凪雪が、紙には目をやらず、群衆の呼吸の拍に耳を澄ませている。
怒りの泡は、朝が早い。怒ること自体は悪ではない。けれど、泡は寝かせないと昼に持ち越す。昼に持ち越した怒りは、夜の鍋の火を強くしすぎる。
「行く」
凪雪は短く言い、掲示板から背を向けた。常世の門へ続く路地は、パン屋の甘い匂いと、濡れた麻袋の湿った匂いを薄くまとい、朝の犬が二匹、互いの匂いを確認し合っている。確認は、良い。名を呼ぶ前に、匂いで輪郭を撫でる行為だ。
綾女は瓶を抱え直した。白羽栓は軽い。軽いのに、胸の前で重さが変わる。変わる重さは、瓶の中の粒が朝の音へ耳を傾けた合図だ。
*
誓約庁の一室は、紙と木と薄い鉄の匂いがした。窓から入る光は白布で一度やわらぎ、机の上の地図に柔らかい影を落としている。影があると、白が厚くなる。
篝が既に待っていた。帳面を開き、筆の先で余計な墨を二度払ってから、顔を上げる。
「三段の段取りを」
凪雪がうなずく。
机の上には、暦盤の小さな写し、帝都の地図、白羽糸の束、香り包み、読み上げ文の二頁三行。整っていながら、余白がある。余白は作業の呼吸だ。呼吸のない段取りは、紙の上では美しいが、場で滑る。
「祓は、穢れの拍を静音域へ落とす」
凪雪の指が、机の端を軽く叩いた。二拍三連。叩く音だけで、場の膝が少し緩む。
綾女は小さく息を吸い、瓶の栓に触れる。瓶の中には、怒りと焦燥が朝から泡立っている。孤児院の子の泣き声、商人の罵声、役所の舌打ち。声が多い日は、粒の角が荒くなる。角を丸めるには、先に受ける。受けて、束ねて、寝かせる。三行だけ。
祓で雑音を沈められなければ、招で雲を連ねても、配で地図を色分けしても、乱流が上から落ちてきて、拍を壊す。壊れた拍は、次の季の天候へ傷を残す。
「招は、上空の湿度脈から雲核を白羽糸で連結する」
篝が白羽糸を一本取り、光に翳した。糸は白いのに、光ではなく影で形を見せる。影の筋が、空の筋と繋がる。
凪雪が続ける。
「配は、落ちてきた水を暦盤の節に沿って地図へ分配する。節を外せば、雨は雨でなくなる。降っても降らないのと同じになる」
「単独でやれば、短期には効く」
篝が言葉を足す。
「けれど、三つを外せば拍が乱れ、次季が歪む。……紙の上でも、そのように記録が残っている」
紙の上で正しくても、場で手順を守れなければ、文字はすぐに乾いて粉になる。粉は、恥に似ている。灯下で舞わせ、乾かして飛ばす。
綾女は瓶の内側に立つ泡の、一粒ずつに糸をかけるように、指先の意識を細かくした。怒りの拍は、跳ねる寸前に膝が一度沈む。焦燥の拍は、足踏みの周期が短すぎる。哀しみは座る場所を探す。恐れは視線を泳がせ、恥は乾いて紙の端へ寄る。
瓶の喉に、白羽栓の微かな振動が伝わり、粒の角がひとつ、またひとつ、丸くなる。丸め方は、押さえつけるのではなく、寝床を用意してやる感覚で。寝床に先に手を当て、温度を作る。四、八、十二。
凪雪は、彼女の呼吸に合わせるように歩幅を揃え、机のまわりを半周する。足音は小さく、紙の音と喧嘩をしない。
「優先順位は、人命→衛生→生業」
凪雪は短く定義した。紙に書けば三語。場で運ぶと、三本の導線になる。
「人命は、倒れている者と眠れていない者。衛生は、手と器。生業は、市(いち)での交換の拍。——順に触れる。逆へは、行かない」
綾女は頷きながら、地図の上で指を動かした。指は街の道を覚えている。孤児院から市場へ、工房へ、配水局の裏口へ。裏口の板札。善意の先払い。春期配当、技術的措置により補填可。言葉は柔らかいが、拍を削る。
戸口に、硬い紙の擦れる音がした。
配水局の役人が来た。灰の衣、薄い帯。帯は新しいのに、結び目だけが疲れている。名刺が差し出され、墨は新しいのに、字の骨が若すぎる。若い手で古い名をまねると、骨に呼吸が入らない。
役人は名乗り、名の音が舌の上で一瞬滑った。滑りは、わずか。わずかなのに、第二紋がちくりと反応する。名を隠す呼吸。息の位置が違う。
「断水解除には追加の春期配当が必要です。——誓約庁の印璽を」
役人の声は、婉曲で、膝を折らない。折らない声は、膝の使い方を知らない。
凪雪は、一字分の間も置かずに拒んだ。
「春は急がぬ。代わりに、三段式で渇水区を限定復旧する」
役人の唇が、わずかに歪んだ。歪みは軽い苛立ちではない。苦笑の位置すら、練習したように見える。
「ご高説を」
退き際の言葉だけが、素直だった。素直さは、命ではないが、呼吸の一種だ。
足音が去ってから、綾女は凪雪に問う。
「いまの人……名が滑っていた」
「滑らせるのが、仕事の人間もいる」
凪雪は淡々と答えた。答えは冷たく、冷酷ではない。冷たさは熱の近くにしか置けない。
篝が、読み上げ用の帳面を抱えて入ってくる。
「雨乞いの許認可手順。——読み上げます」
彼は条項をひとつずつ、短く読み上げていった。読み上げの声は、押印の声と同じ。押すのは手だけではない。声も押す。
最後の頁の末尾に、不自然な空白欄がある。白い。白いのに、冷たい。そこは本来、“二重行政”の取り決めにより常世側の押印が必要なはずの位置だ。空白は、勝手に埋められる余地を残す穴。穴は、名を隠すために開けられる。名を隠すなら、灯の下で読む。
「ここは、灯下で押す」
凪雪の声は短く、場に残る。
綾女は、喉の奥の紙片が形を変えるのを感じた。紙片は固くない。固くないほうが、飲み込みにくい。だから、灯下で読み上げる。読み上げれば、誰かの喉が躓き、躓いた位置に朱が落ちる。
*
準備の最後に、綾女は穢れ瓶の訓練を繰り返した。
受けて、束ねて、寝かせる。
祓では、先に雑音を沈める。沈めるといっても、押し込むのではない。寝床を用意し、そこに座らせる。怒りは丸め、哀しみは座らせ、恐れは揺れの周期を長くし、恥は乾かして隅へ寄せる。
招では、湿度の脈を探る。上空の細い水の筋に糸をかけ、糸の張りを調えていく。強すぎる張りは、雨脚を速める。弱すぎる張りは、雨脚をほどく。ほどけた雨は、留まらない。
配では、暦盤の節に沿って、地図を色分けする。色は目に見えない。見えない色を、拍で塗る。塗る順番は、呼吸だ。呼吸の順に置けば、人命→衛生→生業の順で、水は濡れる。
凪雪は淡々と、しかし綾女の呼吸に合わせるように歩幅を揃え続けた。揃うたびに、彼の肩から余分な力が抜ける。抜ける瞬間、綾女はいつも少し救われる。この人は、怖ろしく強いのに、拍に従って弱いところを見せることを恐れていない。
強さの半分は、弱さの置き方で決まる。置き方を間違えると、瓶は跳ねる。跳ねる前に、寝かせる。寝かせる方法は、すでに骨が知っている。
「香り包みは、柑が少ない」
篝が帳面をめくり、在庫を読み上げる。
「山の葉と、干した根。焙じた出汁は、あと二日分。——足りないぶんは、温度で補う」
「温度は拍だ」
凪雪が言う。
綾女はうなずき、白羽糸をひと束、指先でほぐした。糸は軽い。軽いものは、すぐに絡む。絡むから、先に指の温度で撫でる。撫で方を間違えると、糸は芯を忘れる。芯を忘れた糸は、空と繋がらない。
*
黄昏。
最初の儀式地点は、下町の広場だ。広場の真ん中にある井戸の口は乾き、風が吹くたびに井戸の壁の古い藻が白く光る。光る白は、乾いた証拠だ。
子どもたちは、祈りの輪の外側に半歩離れて座り、目だけで大人の動きを追っていた。目は口より先に学ぶ。
綾女が小瓶を胸に抱えて現れると、視線が瓶に吸い寄せられた。吸い寄せられるのは、光ではない。黒だ。黒は深さで人を呼ぶ。呼ぶ深さが浅いと、覗き込んだ者が落ちる。深いと、落ちない。落ちない深さは、待って作る。
「今日は、眠る雨を呼ぶよ」
綾女は輪の中心に立ち、子どもたちの目線の高さに合わせて腰を落とした。声は高くない。高くしないほうが、遠くまで届くときがある。
凪雪が白羽の小旗を三本、輪の三点に立てる。旗の白は、夕暮れの色で灰に傾いている。灰に傾いた白は、灯の準備をはじめている白だ。
第一夜の祓。
綾女は目を閉じ、瓶の栓に触れた。触れ方は、朝から何度も確認した通り、力を抜いて、拍に先に触らせる。
受けて、束ねて、寝かせる。
読み上げの声が広場に降り、合唱の低い音が地面に薄く座る。座った音の上に、香りが広がり、柑の皮の小さな光が鼻の奥で列を作る。
怒りの泡は、膝が沈む前に小さくなり、哀しみは自分から椅子を探して座り、恐れは揺れを長くして跳ねなくなり、恥は乾いて隅に寄った。
広場の中央で、井戸の縁の石が一度だけ鳴った。鳴る音は、水音ではない。石の音だ。石は、拍を覚える。
祓の三行を終えると、広場の空気が半拍だけ深くなった。深くなったぶんだけ、呼吸が楽になる。楽になる呼吸は、笑いとよく結ぶ。
子どもたちのひとりが、数え歌を小さく始めた。四、八、十二。途中で「いち」が混ざる。混ざって、誰かが笑い、笑いが泡をひとつ潰した。
綾女は、瓶の黒が少し軽くなるのを確かめ、凪雪を見た。凪雪は頷き、輪の外で手を下ろす。下ろした手の位置が、次の拍への合図になっているのを、常夜灯のないこの広場でも、綾女の身体は読み取れるようになっていた。
招は、空を見る儀だ。けれど、今夜はまだ、呼ばない。祓で寝かせた拍が、街の骨に吸い込まれていくのを待つ。急いだ儀は、翌朝を疲れさせる。疲れた朝は、怒りが起きやすい。怒りは悪くないが、配りにくい。
井戸の縁に座っていた老人が、帽子を取り、胸に当てた。合図ではない。彼の拍の「ありがとう」が、その動作の高さで読めた。
綾女は、小さく首を下げた。首の内側で白羽がふわりと揺れ、第二紋が遠くの名の滑りを短く指で指した。
“春期配当、技術的措置により補填可”。
掲示の末尾の句は、夕暮れの色に紛れても、匂いだけは薄く残り続ける。
*
儀のあと、広場の端で、男がひとり、掲示の写しを握りしめて立っていた。
役所の人間に見えない。靴が泥を嫌っていない。泥を嫌わない靴は、長く歩ける。長く歩ける人間は、言葉を短く持つ。
男は何か言いかけて、やめた。やめた言葉は、腹に落ちて泡になり、泡は寝ない。寝ない泡は、夜に持ち越される。
綾女は見ずに、瓶の栓を撫で、子どもたちの輪をもう一度見渡した。小さな手が、合図もなく、同じ高さに上がり、下りる。拍は、言葉より先に伝わる。
凪雪が近寄り、短く言う。
「——今夜はここまで。明日は山側の筋だ」
明日は、招へ入る。招へ入れば、雲は来る。来るが、落ちるかどうかは、配まで持っていけるか次第だ。持っていく力を、今夜の眠りで作る。
綾女はうなずき、瓶を胸に抱え直した。白羽栓の振動が、彼女の脈と合っている。合っていること自体が守りになる。守りがあると、人は優しくなれる。優しさは手順に変える。手順は、街を守る。
黄昏の最後の光が、井戸の縁で薄く跳ね、跳ねた光が、明日の朝の匂いを少しだけ先に連れてきた。
匂いは、約束の骨格になる。
約束は、灯の下で読む。
灯は、ここにも、ちゃんと来る。



