常世の夜は、終わるときに音がする。
 音といっても、耳で拾えるほどの大きさではない。白布の天井の縁が、ひと目盛りだけ薄くなる。常夜灯の格子の影が、一段やさしく崩れる。崩れた影は床に届く前に消え、消えた分だけ空気の密度が変わる。
 凪雪は門楼の白に掌を置き、もう片方の手で白羽栓の振動を、綾女の抱える黒い瓶の口へ渡した。羽根は、綾女の脈に合わせて細く震え、震えを瓶が覚え、瓶の中の粒の輪郭が丸くなる。丸くなると、重さが均等になる。

「降りる」

 彼は短く言い、綾女の目をいちどだけ見た。そこに「いる」とだけ置いて、門の拍に合わせる。
 門は拍で開く。今日の拍は、昨夜より半拍だけ深い。深さは、待った時間の分だけ増す。増えたぶんだけ、急がずに配れる。

 白い塔の呼吸が横に開き、常世の縁に薄い裂け目ができる。裂け目の向こうに、帝都の夜明け前の色が見えた。夜の青に、冷たい灰をひとさじ落としたような色。音はまだ薄い。鍋の蓋は閉じたまま、湯が立ち上がる直前の静けさに似ている。
 綾女は瓶を胸に抱えた。白羽栓は軽い。軽いのに、抱える腕は重みを感じる。重いのは、瓶の中身ではなく、ここまで寝かせてきた幾夜の層だ。

      *

 帝都の夜は、もう少しで朝になる。
 石畳は冷たく、冷たい石は足音を吸う。吸った音を、朝に返す準備をしているみたいに。屋根の上に溜まった夜露が、軒の先でかすかに揺れ、揺れては落ちず、落ちずに待っている。
 凪雪と綾女は、裏道を縫い、孤児院の塀へ出た。塀の上の瓦は、数えると一枚足りない。足りない瓦の分だけ、空がよく見える。
 門はまだ閉まっている。鍵の音はしない。柚は早く起きるが、鍵はいつも、日の縁が塀の肩にかかってからだ。
 凪雪は門の右の柱に軽く指を置き、拍を合わせた。指は木の年輪に触れ、年輪が、昨年の乾きと、今年の薄い湿りとを一息に語る。語るあいだに、綾女の胸の瓶の栓が、半拍だけ深く座り直した。

「庭へ」

 彼が顎で示す。塀の内側の庭は、花壇の土が白く乾き、乾いた土の上に小さな皿のようなひび割れがいくつか広がっている。ひびは悪ではない。呼吸の跡だ。けれど、呼吸が浅くなりすぎれば、根は舌を出し、舌は土の塩を舐め、舌が荒れる。
 綾女は膝をつき、瓶の口を花壇の縁へ下ろした。瓶は、夜のあいだに寝かせた粒の重みで安定している。白羽栓を指で軽く撫で、拍を合わせ、息を整える。

「受けて、束ねて、寝かせる」

 声は小さい。唱えというより、骨に向けた合図。
 受けるのは、庭に残っていた、怒りの泡ではない。夜のあいだに土が吐き出した熱の名残と、子どもたちの寝息の端にぶら下がった心配の薄片、柚の指から落ちた古い祈りの粉。それらを、糸で撫でるように集め、束ねる。束ねたものへ、寝床を用意する。寝床は、花壇の土。土は寝かせ上手だ。
 白羽栓の振動が、瓶の口で音になり、音がさらに薄くなって、空気の奥で光に変わる。変わった光が、露になる。露は、花の根にだけ、落ちる。土の表に一粒も残らず、葉の上にも乗らない。人の口には入らない。配当は、器に合わせる。器が今必要としているぶんだけ、器の入り口に添う。

 綾女は息を吐いた。瓶の黒が、いくらか軽くなる。軽くなるというより、深さが増す。深さの増した瓶は、抱えやすい。抱えやすいと、街へ戻る腕が前に出る。
 花壇の土は、濡れた色になった。濡れた色だが、塀の外の井戸の釣瓶の音は変わらない。水位は変わっていない。変わらないことに腹を立てる人もいるだろう。腹を立てる権利は、誰にでもある。
 綾女は手の甲で土に触れた。冷たさが指へ上がってくる。上がってきて、止まる。止まる場所が、根の高さだ。根が飲んでいる。飲む音はしない。音はしないのに、確かだ。

 門の内側で、布が擦れる音がして、柚が現れた。髪は薄く結わえられ、目尻には眠りの皺が一本、まだ残っている。
 柚は、花壇と、綾女と、凪雪と、瓶と、塀の向こうの空を順に見て、最後に、声ではなく喉で笑った。喉の笑いは、花に似ている。音が少ないぶん、香りが出る。

「……戻ったかい」

「はい」

 綾女は立ち上がり、土の色を指に残したまま、柚の袖を軽くつまんだ。つまむ指の強さは、嘘をつかない。
 奥の部屋から、小さな足音が近づいてくる。丈の短い布の擦れる音、寝起きの喉のかすれ、戸口の敷居に爪を打つ音。
 子どもたちは、庭の土の色に気づく。気づいても、誰も声を上げない。上げないのは、教えられたからではない。目の前にある「わかったこと」を、口より先に胸で確かめる癖がついているのだ。
 土は湿っているが、井戸の水位は変わらない。誰かが覗き、釣瓶を降ろして確かめる。確かめたあと、誰かが笑い、誰かが首をかしげ、誰かが手を合わせ、誰かが鼻をすすった。
 返礼は、急がない。急がないと、持つ。持つと、次の朝が楽になる。楽になる朝が、何度か続くと、誰かの怒りの泡は寝やすくなる。

      *

 朝の台所は、音で満ちる。
 炊いた米の匂いが薄く立ち、鍋の蓋が、呼気に合わせてかすかに揺れる。揺れるたびに、鍋の縁が小さく鳴る。鳴る音の高さは、塩の量に似ている。
 柚が匙を握り、鉢に粥をよそう。粥は白い。白は、光を受ける。受けて、跳ね返さない。跳ね返さないから、器の色で味わいが変わる。
 綾女は椀を受け取って、湯気を鼻で受け、舌に落とした。
 ——薄い。
 わかっていた。わかっていたが、舌が想像していたよりも薄い。塩の輪郭はまだ戻らない。戻らないという事実が、胸の中の瓶の壁を一度だけ小さく鳴らす。鳴った音は痛みではない。知らせだ。知らせがあるのは、前に進むための合図だ。

 凪雪が、箸を取り、薬味皿から香りの強いものをひとつまみ落とす。刻んだ柑の皮、細く切った青い葉、焙じた香。
 香りは、味の輪郭を呼ぶ。呼ぶ声は、塩の代わりにはならないが、輪郭の影を濃くする。影が濃くなると、中央が浮く。浮いた中央は、舌の上ではなく、上顎の手前で形になる。形になったものは、喉を通るときに、拍で動く。

「不足は、不良ではない」

 凪雪が言った。箸の先が、椀の縁に軽く触れて、音を置く。

「足りないものは、待つ。待つあいだに、別の輪郭で場を支える。支えは、代わりではない。支えは、支えだ」

 綾女は頷いた。頷きは、首筋の白羽の内側の拍を落ち着かせる。落ち着いた拍は、瓶にも伝わり、瓶の黒が深くなる。深くなった黒は、軽く抱ける。
 粥は、少し温度が下がった。下がった温度が、輪郭をもうひとつ、別の場所に置いてくれた。温度は拍だ。拍は、味の仕事の半分を受け持つ。
 不足を認める。認めたうえで、食べる。食べることは、仕事だ。食べることで、明日の朝に返礼できる。返礼に、力が要る。力は、食べものの名前を呼ぶ。呼んだ名が、骨の内側で灯る。

 食卓の端で、子どもが匙を握る手を止め、綾女を見た。見て、ふっと笑う。笑いは短く、早い。早い笑いは、朝の音に馴染む。
 柚が咳払いを一度し、いつもの声で言った。

「お代は、あとでいい。まずは仕事」

 仕事。
 仕事は、待つことと、配ることと、読み上げることと、寝かせることと、笑うことの、どれでもある。どれでもよく、今日の朝に必要なものが、仕事になる。

      *

 帰路、凪雪と綾女は、門前の掲示板の前で足を止めた。
 役所の掲示が夜明けと同時に張り出されている。紙は新しいのに、角が少し丸い。丸い角は、何度か貼り直された紙の癖だ。貼り直しは、文言の差し替えの跡。
 断水令の補足がある。細い字で、丁寧に。丁寧な字は、呼吸が浅い。浅い呼吸は、読み上げでひっかかる。

「“春の配当の技術的措置”」

 綾女が読み、声がひとところで躓いた。躓いた瞬間、第二紋が、首筋の内側でちくりと痛む。痛みは針の先ほど。
 名を偽る匂い。匂いは薄い。薄い匂いほど、遠くまで残る。
 “技術的措置”という言い換えは、誰かの呼吸を隠すための布だ。布は、灯の下では透ける。透けさせるには、声が要る。声は、拍で支える。

 掲示板の前で、数人が立ち止まり、紙の前で言葉を飲み込む気配がした。飲み込んだ言葉は、腹の中で泡になり、泡は、寝なければ夜まで残る。
 凪雪は紙を見ず、綾女の首筋の拍をいちどだけ指先で確かめた。拍は整っている。整っているが、奥に薄い揺れがある。揺れは悪くない。揺れは、向きを教えてくれる。
 彼はそれ以上何も言わず、歩き出した。歩幅は、門の拍に合わせている。合わせていれば、急いでいても、急いで見えない。

      *

 常世へ戻る門は、朝の青に薄い金が差し、塔の白に微かな影ができていた。白い塔は、影のときに美しい。影があると、白が厚みを持つ。
 門の内側で、篝が待っていた。紙の匂い、墨の匂い、乾いた指の匂い。匂いで人を覚えると、言葉の前に状況を掴める。
 篝は簡潔に言った。

「誓約の初週は、安全化に成功。——市場・孤児院・工房、三地区の滞留指標、黒丸から黒点へ。返納の板も定着しつつある」

 黒丸は塊、黒点は返し。
 綾女は、胸の瓶の中の粒の位置を思い、うなずいた。粒は、昨夜から一段落ち着いている。怒りは丸まり、哀しみは座り、恐れは、揺れの周期を長くした。恥は乾き、隅で光る。
 篝は少し間を置いて続けた。

「だが、帝都の配分表が、どこかで改ざんされている。帳面の呼吸の合わない箇所が増えた。次週は“雨乞い式”を三段で行い、渇水区の復旧を狙う」

 雨乞い式。三段。
 綾女の背骨が、ひとつひとつ、拍を思い出す。第一段は、読み上げと合唱で拍を場に降ろす。第二段は、香と湯気で鼻の奥の路を広げ、空の方角と地の方角を同じ高さにする。第三段は、白羽起案の二頁三行を、灯下で押す。押すことで、配分の順を場に刻む。
 凪雪は頷き、短く宣言した。

「三誓を守ったまま、やる」

 言葉は短いが、重さを持つ。短い言葉は、場に残り、残ったぶんだけ道になる。
 綾女は小さく拳を握った。指先に、白羽栓の微かな振動が触れる。凪雪が以前言った「優しさを手順に変える」という言葉が、拳の中で灯に変わる。灯は、手の中で熱を持たない。持たない灯は、長く持てる。

「段取りは?」

 篝が訊ねると、凪雪は淡々と挙げた。

「一段目、広場の読み上げ。白羽の小旗、合唱の導線。二段目、香の配当。湯の温度は三段階、順に。三段目、返納の板の前で、二頁三行。押印は灯下、名の読み上げを伴う」

「渇水区は?」

「南の三筋。配水局の裏口に近い区は後回しにする。先に、待てる拍を持つ区域から整える。——急がぬ」

 急がぬ、は、逃げぬ、に近い。
 綾女は、息を吸って、四、八、十二。吸いながら、孤児院の庭の土の冷たさを思い出す。冷たさは、返礼の道のりを教える。道は、ひとつではない。けれど、今は、この道。

「香り包みを増やす。柑は少なくなっている。代わりに、山の葉を」

 綾女が言うと、篝は頷いた。

「山側の倉に在庫。帳面の呼吸は生きている」

 生きている帳面は、場で役に立つ。死んだ帳面は、紙だけが重い。
 凪雪は、常夜灯の格子を指先で叩き、拍を締めた。「二拍三連」。拍が整ったところで、門楼の上から風が少し降りて、白布の端が素直に揺れた。

      *

 その夜、常世の空は、よく眠っていた。眠っている空は、低い音を出す。低い音は、瓶に効く。瓶の中の粒は、低い音でよく寝る。
 綾女は、白布の床に腰を下ろし、黒い瓶を胸に抱えた。白羽栓は、彼女の脈と合っている。合っていること自体が、守りになる。
 窓の外、門楼の白の向こうに、夜明けの前の色がうっすらと差している。差す色は薄い。薄い色ほど、変化の前触れになる。

 そのときだ。
 夜明けの空に、黒い雲の裂け目が走った。
 裂け目は最初、遠い山の尾根の向こう側で生まれ、あっという間にこちら側に伸びてきた。伸びる速度が、拍に合わない。合わない速度は、見ていて胸の中が冷える。
 裂け目の下だけ、雨脚が異様に速い。雨は本来、速度を選ばない。場所が雨を選ぶ。選ばれた場所が、ゆっくり水を受け、ゆっくり返す。それが、雨の配当のやり方だ。
 いま、空は、場所の言葉を聞いていない。
 誰かが、“春を急いでいる”。

 綾女の第三紋が、わずかに拍落ちした。
 心臓が、一拍、遅れる。遅れは、恥ではない。標識だ。——止まれ。
 止まって、見た。
 黒い裂け目の縁が、わずかに白い。白は、光ではない。泡だ。泡のなかに、紙の破れのような細い線が走り、線は、名に触れている。名を偽るとき、空にも痕が出るのだろうか。そんな馬鹿な、と誰かが笑う声が、遠くで小さくした。

「見たな」

 凪雪が横にいた。いつから、どのくらい、そこに立っていたのか。彼は白羽栓に指を置き、綾女の肩に手を乗せた。重くはない。重くないのに、止まる。止まることで、前が見える。

「急ぐ者がいる。——急ぐ者は、いつも、名を隠す」

 篝が背後で息を詰め、帳面を閉じた。閉じる音が、夜の隙間で、やけに大きく響いた。
 常夜灯が二拍三連を刻み続ける。拍は嘘をつかない。拍が嘘をつかない限り、道は折れない。折れない道は、長い。長い道に、眠りが要る。眠らなければ、同じ拍は刻めない。

 綾女は、白羽栓の振動を胸に集め、瓶の中で、怖さの揺れを少しだけ長くした。長い揺れは、すぐには跳ねない。跳ねないあいだに、言葉を置ける。
 ——第2章「帝都の雨乞い—暦を取り戻せ」。
 言葉は紙にはまだ書かれていない。けれど、骨の内側にはもう置かれている。置かれた言葉は、眠りの前に静かに明滅し、明滅のたびに、拍は深くなる。
 深くなった拍の底で、綾女は、短く、しかし確かに、息を合わせた。

 受けて、
 束ねて、
 寝かせる。

 返礼は、夜明けと同じ速さで。
 夜明けは、急がない。
 だから、必ず、来る。