宣言の翌朝の帝都は、洗いたての布を指で弾いたときの軽い音で満ちていた。市場へ入ると、値札がどれも新しい癖を身につけている。左に原価三行——仕入/運賃/税。右に祈り三行——祭の供出/返納の割戻し/余剰の寄付。紙の端には小さな黒点が押され、返した分が返ってくる道のりを、人の目で追える。
「本日の小麦、原価はこれ、祈りはこれ。合計はこれ」
 篝が通り一本ぶん歩くあいだに、三度は読み上げが聞こえる。合唱が返る。「了解」。声の押印は朝日より静かで、朝日より早く場に降りる。

 工房の前を抜けると、白羽刻印の桶が縦一列に並び、濡れた木肌から甘い匂いが立っている。臨時だった裏路地配水は、いつのまにか町内の“いつも通り”になっていた。屋根の樋は軽い鎖で屋根と屋根をつなぎ、雨謝は公開帳簿に記される。桶を拭く少年がこちらを見て、指で二・二・三と机を叩いた。拍を数える癖は流行り歌みたいに広がっている。

 孤児院の花壇は、露でゆっくりと湿っていた。背の低い葉の縁が銀色に光る。子どもたちは腰に香り包みを下げ、花壇に向けて小さな挨拶をする。
「返したよ」
 返礼の露は飲めない。だからこそ、町はいま、飲めないものを大切に扱う術を覚え直している。壁に残っていた乾いた匂いは薄れ、笑い声が石に染みた古い寒さを内側から押し出していく。

 誓約庁の庭。白布をかけた低い卓を挟んで、凪雪と向かい合う。彼の輪郭は戻りつつあるが、背の光の羽線はまだ疎らで、時折ふっと霞む。
「休める?」
「十二拍は保てる。——急がぬが、立つ」
 凪雪の言葉は相変わらず短く、真っすぐだ。短い言葉は、長い沈黙を支える梁になる。

「今日は料理の三行を試す日です」
 綾女は布をめくり、木の盆にのせた小さな椀を二つ置いた。
「材料三つ。米・湯・香。手順三つ。洗う・炊く・香を添える。制約一つ。最初の一口は隣の人が味を見る」
「誰かが先に食べる。——前は、罪だった」
「いまは安心の手順です。『待て』を一口分、分け合う合図」
 湯気が二・二・三の呼吸で立ちのぼる。香りは柑の皮を薄く削って湯気に乗せただけ。塩は入れない。鼻で食べる拍を、舌より先に合わせる。

 凪雪が椀を持ち上げ、少し考えるように傾けて、一口すする。その顔はあまり変わらないけれど、まぶたの影が、ほんの少し柔らかくなる。
「……温度が、合う」
「では、二口目を」
 綾女は続けて受け、喉で味わう。味覚はまだ鈍い。だけど鼻と胸で食べればいい。
「湯気の味がします」
「湯気の味は、言葉と仲が良い」

 二人は盃を交わす。常世と現世の水を混ぜた薄い酒。古い婚礼で知った作法のまま、ひとつずつ、名前の片端を返すみたいに。
 凪雪が一口、綾女が二口目を受ける。
「三度目の夜明けだ」
「三度目」
 綾女は首筋の白羽痣に指先を置く。そこは、贄の徴であり、契りの印であり、今年の彼女の暦の“始まり”でもある。
「契りを、更新させてください」
 言葉は短く、けれど歩幅は揃っていた。

 更新の式は、招いた鳥を驚かせない程度に小さな段取りで行われた。三誓をもう一度、歌える長さで言う。
「嘘をつかぬ」
「名を奪わぬ」
「春を急がぬ」
 常夜灯は肩の高さで二・二・三。白羽押印は羽根の震えで判定され、篝が証人として笑いながら押された印の色を確かめる。孤児院の子どもたちは小花を紙でこしらえ、合唱で花を撒いた。紙の花びらには返納の黒点がひとつずつ刷られている。祝言に匂いが混ざると、儀式は暮らしの高さへ降りてくる。

「ねえ、綾女」
 合唱がいったん途切れたとき、柚がそっと袖を引いた。
「味、どれくらい戻ってる?」
「半分、いかないくらい。ちょうどいいです」
「ちょうどいい?」
「香りで食べる町のことを、忘れずにいられるので」
 綾女は少し息を整えて、言葉を選んだ。
「個人的なお願いを、言ってもいいですか」
「聞く」
「味覚を全部は戻さなくていい。——香りで食べるやり方を、町ごと忘れないように。ただ、一皿だけ。いつか、あなたが最初に食べる塩味を、半分わたしにください」
 凪雪は少し首を傾け、ゆっくりと頷いた。
「待とう。春を急がぬ」

 式の場を離れるころ、公開帳簿の前には小さな輪ができていた。文字の読めない老人にも分かるように、篝は数字の横へ香りの印を添える。焙じ、柑、葉。黒点は今日もぽつぽつ増え続け、滞留欄の黒丸は薄い。
「R、週の真ん中でさらに下がっている」
「数字は湯気で割ると飲み込みやすい」
「じゃ、読み上げはお椀半分ずつ」
 やり取りは軽い。軽いけれど、骨がある。

 昼近くになると、市場の真ん中で「祈り三行」が子守唄みたいに口ずさまれていた。
「返すは見えるところで」
「名は声で呼ぶ」
「春はみんなで待つ」
 子どもたちは歌いながら並び、合唱の息継ぎで喧嘩をやめる。喧嘩の代わりに順番が生まれ、順番の代わりに小さな冗談が生まれる。
「順番って、お粥の表面の薄い皮に似てるね」
「破ると熱いからね」
 笑うと、湯気の向こうの顔が丸くなる。

 午後、工房通りで小さな騒ぎがあった。印璽貸与の古い癖が、最後の一箇所に残っていたらしい。若い吏が古い印を借り、空白伝票に押そうとする。
 綾女は急がず、灯下でゆっくりと声を置く。
「あなたの名はあなたの器。——乾かしてから、声で呼び戻しましょう」
 若い吏は唇を噛み、やがて小さく頷いた。彼の第二紋の痛みは、乾いたあとに軽くなる。恥は照らされると乾く。乾いたところから、名は戻る。
 篝がその場で読み上げに切り替え、合唱が返る。
「了解」
 声が届くと、紙の癖は肩でほどける。

 夕方、孤児院の厨房。大鍋の湯がゆっくり呼吸をしている。綾女は杓文字で湯の表面をそっと撫でながら、香りを拍で重ねる。焙じの湯気をひと息、柑の皮をひとかけ、青い葉を三つ。
「姉ちゃん、まだ?」
「待つのがいちばん難しいところ」
「なんで?」
「お腹は『いま』の味方だから。——だから、歌う」
 綾女は二・二・三で数え、歌い、混ぜる。待つことを、歌えるやり方に変えるのは、台所の知恵だ。

 凪雪が戸口に立っていた。肩の羽線はまだ薄いが、声は平らだ。
「灯の芯、少しだけ替えた。明滅が安定する」
「ありがとう。——食べる?」
「最初の一口は、隣の人が」
「はい」
 湯気の向こうで笑う。笑いは塩の代わりにはならないが、湯気の味をやさしくする。

 夜。屋根と屋根の間を紙鳥がときどき横切る。腹の黒点は軽く、でも濃い。返納は祭の形をとって定着し、読み聞かせの時間には公開帳簿が教材になっている。子どもでも知っている常識がひとつ増えた——偽名は声に弱い。
 篝がそろばんを弾き、今日の締めを読み上げる。
「滞留、薄い。返納、ぽつぽつ増加。記名の責、灯下で定着」
「湯気が逃げないうちに、今夜のまとめを鍋に溶かしておいて」
「了解」

 綾女は瓶の栓をそっと撫でた。中の哀しみは寝かされ、怒りは小珠、恐れは揺れても拍に収まる。瓶は温い。胸の温度と似ている。
「ねえ、綾女」
 柚が鍋の火を弱めながら問う。
「明日から、どうやって暮らしていこう」
「三行で」
「三行で?」
「三行で温まるやり方を、忘れないように」
 綾女は台帳の余白に小さな字で一行を書いた。
——三行で温まれ。
 それは、料理の指示であり、法の覚え書きであり、愛の言い換えでもある。湯気のように見えないものを、見えるところで分かち合う練習。

 凪雪は灯の芯に白羽を差し、二・二・三を刻む。
「嘘をつかぬ」
「名を奪わぬ」
「春を急がぬ」
 子どもたちが合唱で応じる。合唱は心臓の外側で心臓の役目を果たし、台所に拍を連れてくる。拍に合わせて椀が配られ、椀の縁で「お先に」と「どうぞ」が行き来する。前は罪だった手順が、いまは安心の挨拶へ変わる。

「春は、ゆっくり来る」
 凪雪が低く言う。
「待つ間に、温まっていよう」
「はい」
 綾女は頷き、椀を両手で包む。香りは台所の壁に薄く染み、言葉は湯気の中で角を落とす。屋根の上では紙鳥が風を拾い、遠くの畑では芽がひとつ、音のしない音で伸びた。

 白羽起案はその月のうちに本施行となり、記名の責は祝言の作法として街に根を張った。返納は小さな祭になり、公開帳簿は読み書きの最初の練習帳になり、偽名は声に弱いことが“みんなの知ってること”になった。祟りの発生率Rの曲線はなだらかに下がり、滞留欄は白くなる。
 でも、完全に何も起こらない日はない。怒りは、時々泡立つ。哀しみは、時々立ち上がる。恐れは、風で揺れる。
 だからこそ、三行は口癖である必要がある。
 嘘をつかぬ。
 名を奪わぬ。
 春を急がぬ。
 湯気みたいな言葉だけれど、湯気があるところに人は集まる。

 夜更け、綾女は瓶を戸棚に戻し、戸を静かに閉めた。戸の向こうでは、凪雪が灯の高さを肩に合わせている。肩の線は前より少し太い。戻りつつある、という言葉の重さは軽くて、頼もしい。
「いつか、一皿の塩味を半分こしよう」
「春になったら」
「急がないで」
「急がぬ」
 短い約束が、部屋の骨に染みる。

 翌朝の帝都も、洗い上がりの匂いで満ちていた。値札には祈り三行が並び、桶には白羽刻印、花壇は露で湿り、子どもの笑いが乾いた壁を埋めてゆく。
 綾女は鍋の蓋を少しだけ開け、湯気を招き入れる。
「いただきます」
 声が重なった。その重なりは、法であり、暮らしであり、やさしさの拍子である。
 三行で温まれ。
 ゆっくり、ゆっくり。
 白鴉の影は薄い羽音を残して、朝の空へ溶けていった。
——完。