朝の冷たさは、洗い立ての布を両手でぴんと張る感じに似ていた。常夜灯の大広場には太政の布告板が立ち、白布の垂れから薄い光がこぼれている。肩の高さに吊られた灯が二・二・三で明滅し、その手前に二頁三行の大書。
 ——嘘をつかぬ/名を奪わぬ/春を急がぬ。
 墨の艶がまだ生きている。読むだけで胸の拍がその三行に寄っていく。

 篝が布告文を高く掲げた。
「白羽起案、今日より仮施行。一月を目処に本施行へ。『記名の責』『公開帳簿』『節の停止』を有効化——灯下で読み上げのうえ確認する」
 群衆が合唱で応える。
「了解」
 声の押印が国家の骨に差し込まれる音は、とても小さかった。小さいのに、遠くへ届く。

 布告板の背後で、春配所の使いが黒い紙束を抱えたまま固まっている。顔に貼りついた笑みは紙と同じで、湿気に弱そうだ。嫌な予感は当たるものだ。
 禁区の上空、光輪の縁がきゅっと細り、偽暦盤の楔に黒い影が集まる。紙が重なり、言葉が重なり、歌えない三行が増殖した。
〈上位の名により代理受領を恒常化〉
〈非常条項、平時に準用〉
〈返納は国家経由に限る〉
 読むそばから喉が乾く文言たち。綾女の首筋で第二紋がじく、と痛む。第三紋は一拍だけ落ちて、胸の内側に小さな空白が生まれた。

「無理に飲み込まないで」
 柚が袖口をそっと引く。布の感触は現実のほうを思い出させる。
「今日は粥に青い葉を多めに刻んでおいたよ。香りで食べる日」
「ありがとう。——あとで皆で食べよう」

 凪雪は門楼の上に立ち、細い光の羽線を背に展げていた。輪郭は薄いが、十二拍に合わせれば人の姿に収まる。
 綾女は瓶を胸に抱え、白羽栓の震えを喉で合わせた。二、二、三。哀しみは深く座り、恐れは細い糸のまま梁を渡る。怒りはまだ触らない。泡立てるには、早すぎる。

「押してくるぞ」
 篝の声は乾いていた。
「来るなら、灯下へ降りてもらうだけ」

 春配所は降りてこない。代わりに、紙が空から降ってきた。どれも歌えない三行。読み手の舌がもつれ、合唱が薄く途切れる。その間隙を狙って、偽暦盤の楔に上位の名が上書きされる。墨の黒は濃く、だが芯がない。声の芯が、まるで。

 綾女は瓶の蓋に親指を置いた。自分の願いを胸の中央へ引き寄せる。孤児院の花壇。子らの粥。まだ戻りきらない味覚の舌。
 ——この街が、待てるように。
 手を伸ばす。凪雪の掌は冷たい。けれど拍は合う。
「凪雪」
「いる」
「わたしの春一週間を、あなたに預けます」
 第三の誓いの裏側。前借りではなく、預託。急がぬが、託す。
 凪雪の瞳に、灯の明滅が小さく映った。
「預かる。返すまで、急がない」

 その一言で羽線がゆっくり光を帯び、白い幕が一枚、もう一段厚みを得た。預けられた春は速い雨にならず、幕の強度になった。
 凪雪は白羽で空を一筆、裂く。薄皮を切るみたいに静かに。最後の楔に細い白い線が入り、光輪が小さく呻いた。
 綾女は呼吸を合図に変える。
「四で受ける」
「八で束ねる」
「十二で寝かせる」
 合唱が二拍三連から四拍へ広がり、童謡と二頁三行が重ね歌になって街全体を囲う。小さな子の声が落ちるところを、年寄りの声が持ち上げる。声は楔を嫌う。楔は声を嫌う。

「上意である!」
 春配所の使いが叫ぶ。私印を胸で握りつぶした。朱がにじみ、掌が汚れる。篝が常夜灯の下で首を小さく振る。
「灯下で読めない上意は、上意じゃないよ」
 乾いた一言に、広場の空気がすこし笑う。笑いは怒りの泡を小珠にする。恥を呼び、乾かす。乾けば、紙の嘘は自分から剥がれていく。

 綾女はその朱色を見て、第二紋の痛みがふっと消えるのを感じた。名は声で支えられ、声は恥で磨かれ、恥は灯で乾く。乾いた場所に嘘は根を張れない。

 偽暦盤の最後の楔が、ぎ、と深く鳴った。
「もう一押し」
 凪雪が白羽を握り直す。
「押すのは、私じゃない」
 篝が布告板の前へ出る。手に抱えたのは太政からの受理通知。朱の芯が太い、真正の印影。
「読み上げます。——『白羽起案、仮施行を認む。記名の責・公開帳簿・節の停止を、灯下にて実施せよ』」
 合唱が返る。
「了解」
 その「了解」の最後の母音が、楔に細いひびを走らせた。

 柚が合図を送り、広場の四隅で風鈴が鳴る。白羽の鈴は二・二・三で、子どもたちは鼻で数える。
「二、二、三」
 拍は、人の高さまで降りてきた。降りてきた拍は、楔を嫌う。
 最後の楔が折れた。音は小さく、でも屋根と屋根の間を渡って遠くまで行った。偽暦盤は支えを失い、黒い板は自重で崩れた。禁区の光輪は薄くなり、門楼の上に柔らかな雲がかかる。速い雨は止み、待つ雨が戻る。

「布告——続き」
 篝が声を整え、短く宣言した。
「飢饉、終息」
 合唱が波になって、屋根と屋根を渡る。市場の天幕が、ほんの少しだけ濡れて、すぐ乾く。遠くの畑で若い芽が風に揺れた。

 綾女は瓶を抱えた。中に残っていた哀しみが、柔らかな出汁みたいに身体に染みてくる。減るのではなく、温まる。返すという行為は、そういう温度なのだとやっと思い当たる。

「——終わったの?」
 そばで柚が尋ねた。
「今日のぶんは、ね」
「じゃあ、粥を食べよ」
「うん。香りで」
 台所の言葉に戻ると、法は暮らしの高さに座り直す。

 粥の湯気は青い葉の匂いを連れて来て、綾女の喉の奥にやさしく触れた。味覚はまだ鈍い。だけど鼻で食べればいい。鼻と喉と胸で。
「春を急がないと、粥は焦げないね」
 子どもが小さく笑い、合唱の名残みたいな声で「了解」と言った。合唱は日常に薄く残り、言葉の角を丸める。

 門楼の上で、凪雪がゆっくりと膝を折った。人の輪郭はぎりぎりで保たれている。綾女は肩に白羽栓を当てた。
「持つ?」
「持たせる。今日は——預かった春がある」
「返してね」
「春に。——急がないで」
 短い往復に、湯飲みの温度がある。指の腹に、羽毛の震えが細かく伝わる。拍は合っている。

 篝が公開帳簿を掲げ、そろばんで軽く音を打つ。
「R、最終集計。三日間の合唱と今日の清算で、累計マイナス三十七パーセント。返納黒点、総計一万二百三十四。代理受領、灯下で迂回——継続監視」
「長い数字は、湯気で切り分けると飲み込みやすい」
「じゃ、椀に半分ずつ」
 会話は匙みたいに短く、ちょうどよい。

 春配所の使いは、私印で汚れた掌を見つめたまま動かなかった。篝が近づき、灯下で穏やかに言う。
「あなたの名は、あなたの器。——乾かして、声で呼び戻せる」
 使いは何も言わず、ほんの少し肩を落とした。恥は照らされると乾く。乾いたあとに残るものは、たいてい軽い。

 広場の片隅で、綾女は返納台の白布をそっと外した。香りが逃げすぎないように、端からくるくると巻く。布の手触りは、安心の形に似ていた。
「片付けも、宣言のうち」
「うん。明日の鍋の準備だもの」

 子どもが走ってくる。
「ねえ、もう一度、三行!」
「いいよ」
 綾女はしゃがみ、目線を合わせた。
「返すは、見えるところで」
「名は、声で呼ぶ」
「春は、みなで待つ」
 欠拍の沈黙を置く。沈黙は、歌の椅子。椅子が増えると、人は長く座っていられる。

 雲の下、光はやわらかい。遠くの屋根の上に、紙鳥が一羽遅れて旋回した。腹の黒点は濃く、でも重くはない。
 綾女は胸の前で拍を刻む。二、二、三。瓶の中の哀しみは深く座り、恐れは梁を渡り切り、怒りは小珠のまま眠っている。恥は乾いて、畳の縁みたいに静かだ。

 宣言の日は、叫んで終わらない。片付けて、息を合わせて、台所の火を弱くして終わる。
 急がないで続けること。返しながら待つこと。名を声で呼ぶこと。
 そうして街の味は、ゆっくり変わっていく。香りのほうへ、拍のほうへ。
 綾女は小さく、しかし手応えのある疲労を抱いて立ち上がった。次に必要なのは、守る作業だ。法を、声で、生活で。
 まだ温かい白布を両手で抱え、彼女は広場を振り返った。肩の高さの灯が二つ、ゆっくりと明滅している。二、二、三。
 その拍に合わせて、遠い畑の芽が、またひとつ、音のしない音で伸びた。