朝の空気は、洗い立ての布を指で広げるときの音に似ていた。常夜灯の大広場。肩の高さに吊るされた灯が三つ、脈を打つように二・二・三で明滅している。中央には白布を張った返納台。脇には公開帳簿と、二頁三行の大書が掲げられていた。
——嘘をつかぬ/名を奪わぬ/春を急がぬ。
墨は昨夜の湿気を残してわずかに艶をもつ。読むだけで、胸の奥の拍が揃う。
「第一段、受けて——始めます」
篝の声が、朝の湯気みたいに素直に広場へひろがる。
人々は順番に、黒点の紙を両手で持って台へ運んだ。黒点は返納の証。紙は家ごとの香りでふちどられている。柑の皮、焙じた出汁、青い葉、よく乾いた布の匂い。香りが乗ると、名は声と結びついた。
「佐七」「おしん」「とら」——祖父母の名を三度呼ぶ声が、灯下でやわらかく重なっていく。
綾女は瓶を胸に抱え、白羽栓の震えを喉に写す。二、二、三。瓶の底に沈めた哀しみが、少しだけ姿勢を正したように感じる。恐れは細い糸のまま梁を渡る。怒りは触れない。触れないぶんだけ泡立たない。
篝が読み上げ、子どもたちが合唱で応じる。
「記名の責——自署と読み上げ、これを以て有効とする」
「了解」
短い返事が黒点の列を押し進め、返納台に置かれた紙の端が風でふるりと揺れた。そのたび、香りが立つ。香りは記憶を開ける鍵。鍵穴は声の奥にある。
端で柚が、香りの小皿を三つ並べる。塩は使わない。鼻で食べる小皿だ。柑の皮は薄く刻んで湯で撫で、焙じた出汁は湯気だけを人に渡す。青い葉は指でちぎって掌にのせる。
「食べられる?」
「うん、香りで」
綾女は小皿に鼻を近づけ、拍で吸って拍で吐く。二、二、三。香りは喉で味わうと、言葉と仲良くなる。
黒点の紙が受け取られるたび、公開帳簿に小さな音が灯る。篝がそろばんを弾き、声で数字を置く。
「返納黒点、午前の時点で百七。累計は千を越え」
「了解」
声の押印は紙より早く場に降りる。降りたものは、ちょっとやそっとでは剥がれない。
*
「第二段、束ねて——」
凪雪が空を見上げた。輪郭は薄いが、背の光の羽線が二本、細く張られた。白い幕は、以前よりも薄い。けれど拍が通る。通り道さえできれば、薄さは弱さではない。
綾女は瓶の蓋を指で半回転させ、哀しみを細糸に解して幕に縫い込む。糸は目に見えないが、灯の二・二・三にかすかに震える。哀しみは速い雨を遅らせる。
その瞬間、禁区の光輪が低くうなった。春配所の偽暦盤が最後の強拍をぶつけてくる。速い雨が、まるで高い橋から砂を落とすみたいに返納の動線へかぶさった。
白い幕はたわみながら受ける。薄いから、折れずにしなる。
「持つ?」
綾女の問いに、凪雪は短く答えた。
「持たせる。——急がぬ」
広場の縁では語り部たちがパッと声を乗せる。
「“上位の名”は屋根の上の味噌汁。口に入らぬなら、湯気だけ拝むの?」
笑いが一度だけ起き、すぐ静まる。笑いは怒りの泡を小珠にし、恥を呼び、乾かす。乾けば、紙の嘘は自分で剥がれる。
幕の震えに合わせて、綾女は瓶の中の恐れを細く束ね直す。恐れは揺れる。揺れは拍と相性がいい。拍に寄り添わせれば、揺れは踊りになる。
黒点の列は崩れない。返す先は花壇と祠。人の口ではない。返礼は待つことの仲間だ。
*
「第三段、寝かせる」
綾女は一歩踏み出し、三誓を短句で唱えた。
「嘘をつかぬ」
「名を奪わぬ」
「春を急がぬ」
群衆が復唱する。常夜灯の明滅が二拍三連で谷を作る。その谷に、綾女は沈黙を置いた。沈黙は欠拍のつぎ糸。音のない糸は、場の端を静かに縫い合わせる。
清算の瞬間は、思っていたより小さな音だった。門楼の上空から、春一週間の光が一滴だけ降りる。飲めない露。人の口へは入らない。花壇と祠だけが受ける露。
露は、返納台の黒点の列を静かに通り過ぎ、広場の花壇で薄く光った。
国家倉に向かうはずだった代理受領の動線は、灯下で読み上げられた声に押されて迂回し、公開帳簿に黒線で記される。
「代理受領、迂回。返納、直受領へ」
篝が短く読み上げ、子どもたちが合唱で返す。
「了解」
見える返納は吸い上げられない。吸い上げられないから、香りが残る。残った香りは、次の台所へ渡される。
禁区の光輪で、楔が二度鳴いた。一本、外れた。残る一本は、黒く固い。輪のふちがこすれ、拍に雑音が混ざる。
春配所の使いが広場の端で叫んだ。
「上位の名の許しなしに、返納は完結しない!」
声は硬く、灯の高さに合っていない。硬い声は肩で止まる。肩で止まった言葉は、広場の石に届かない。
篝が紙束を掲げた。朱の芯が太い印影が、朝日の中で小さく光る。
「太政より——受理通知。『白羽起案、仮施行を認む』」
合唱が起こる。
「了解」
短い言葉の揃いは、薄い板を支える梁になる。最後の楔に、細い亀裂が走った。
綾女は瓶の栓を親指で押さえた。哀しみは深く座り、恐れは梁を渡り、怒りは小珠のまま眠っている。恥は乾いて、畳の縁みたいに静かだ。
広場の端で柚が合図をくれた。香りの小皿を湯気だけにして、人々へ回す。
「香りが残ってるうちに、息を合わせるよ」
「二、二、三」
合唱は三度目にいちばん静かで、いちばん強い。
*
式の最中、凪雪の背の羽線が一瞬だけ切れた。人の輪郭がぐらりと傾ぎ、黒い鴉へ崩れかける。
「凪雪」
綾女は反射で肩へ白羽栓を当てた。拍を合わせる。四で受け、八で束ね、十二で寝かせる。呼吸が戻る。輪郭が少し戻る。
「持つ?」
「持たせる。……まだ、幕がいる」
「いる」
短い往復は、湯飲みを手のひらで受け止める動作に似ている。こぼさない。急がない。
春配所は最後の紙を放り込んできた。
〈非常条項の常設化を慣行として承認〉
篝は常夜灯の下で白羽起案の右頁をひらき、落ち着いた声で読み上げる。
「非常条項、灯下で宣言の上、一週にて自動失効」
合唱が返る。
「了解」
“慣行”は歌えない。歌えない語は、灯下で形を保てない。紙は自分の角で自分を切り、黒点の列からそっと剥がれ落ちた。
門楼の上、白い幕はまだ震えている。偽暦盤の拍は薄くなったが、残る楔が一つ、黒く頑固だ。
広場の空気がわずかに揺れ、綾女の第三紋がぴくりと拍落ちした。
「残り——一本」
「明日、宣言の日に合わせて折る」
篝がそろばんを弾く。
「R、清算式のこの時点で——六パーセントの追加低下。返納黒点、今日だけで+二百十四。……数字は、見える支柱だ」
「支柱は香りで湿しておくと、長持ちする」
柚が笑い、湯気を返す。笑いは紙の角を丸くする。
*
式のあと、広場の片隅で台所の片付けに似た仕事が始まった。返納台の白布をゆっくり外し、香りを飛ばし過ぎぬように巻く。黒点の紙は家ごとに束ね直し、公開帳簿の片側に刺して立てる。
「片付けも、清算のうち」
柚が言い、綾女が頷く。
「食べなかった分は、明日の鍋へ。——急いで食べない」
子どもが駆け寄ってくる。
「もう一回、言っていい?」
「いいよ」
綾女はしゃがみ、目線を合わせる。
「返すは、見えるところで」
「名は、声で呼ぶ」
「春は、みなで待つ」
欠拍の沈黙を置く。沈黙は、歌の椅子。椅子が多いほど、人は長く座っていられる。
灯が一つ、肩の高さから外された。空がすこし暗くなる。
凪雪が門楼の縁に手を置き、細く息を吐く。
「——明日、宣言の日」
「明日」
「白鴉の幕を降ろす。最後の楔を折り、春一週間の返納を法に座らせる。個人の返礼は——遮らない」
「遮らない」
短い繰り返しに、綾女は胸の奥で拍をそろえた。二、二、三。瓶の中で、哀しみは深く座り、恐れは細糸のまま梁を渡り切り、怒りは小珠のまま眠っている。
夕餉は、清算の延長にある。柚が鍋の火を弱め、昨日の湯に今日の香りをひと回しだけ重ねる。塩はやはり使わない。
「明日も、香りで」
「うん。声で押して、灯で見る」
「味は?」
「待つ味」
待つ味は、舌より喉で分かる。喉で分かった味は、言葉と手を取る。
夜の端、禁区の光輪は黒い縁をわずかに痩せさせた。一本だけ残った楔が、かすかに軋む。音は小さいが、屋根と屋根の間を風のように渡る。
綾女は返納台の端に指で小さな円を描き、昨日の円の隣に重ねた。
「二つあれば、待ちやすい」
「三つあれば、歌いやすい」
「二、二、三」
円は水を呼ぶ器。器は名と同じで、輪郭がはっきりしているほど、なかみはこぼれない。
篝が紙束を抱え直し、灯の芯を確認した。朱の芯は太い。声の芯もある。
「明日、灯下で宣言。太政の読み上げ、白羽の押印、群衆の合唱。三手揃いで——」
「最後の楔は、折れる」
凪雪が静かに言う。
綾女は白羽栓を彼の肩に当て、十二拍で呼吸を合わせた。
「急がない」
「急がぬ」
湯気みたいな約束が、夜の骨にゆっくり沁みていく。
広場を去る人々は、黒点の紙の匂いを少し衣に移したまま、それぞれの家路へ散っていった。灯は二つ残され、肩の高さで小さく明滅し続ける。
最後の楔はまだ残る。だが、座る椅子はもう用意した。歌える三行は口にあり、香りは手に、数字は掲示板に、拍は胸に。
清算は終わりでなく、次のための片付けである。片付けが終われば、明日の鍋に火を入れられる。
綾女は胸の前でいちど拍を刻む。二、二、三。
そして、静かに息を合わせた。明日の宣言を迎えるために。
——嘘をつかぬ/名を奪わぬ/春を急がぬ。
墨は昨夜の湿気を残してわずかに艶をもつ。読むだけで、胸の奥の拍が揃う。
「第一段、受けて——始めます」
篝の声が、朝の湯気みたいに素直に広場へひろがる。
人々は順番に、黒点の紙を両手で持って台へ運んだ。黒点は返納の証。紙は家ごとの香りでふちどられている。柑の皮、焙じた出汁、青い葉、よく乾いた布の匂い。香りが乗ると、名は声と結びついた。
「佐七」「おしん」「とら」——祖父母の名を三度呼ぶ声が、灯下でやわらかく重なっていく。
綾女は瓶を胸に抱え、白羽栓の震えを喉に写す。二、二、三。瓶の底に沈めた哀しみが、少しだけ姿勢を正したように感じる。恐れは細い糸のまま梁を渡る。怒りは触れない。触れないぶんだけ泡立たない。
篝が読み上げ、子どもたちが合唱で応じる。
「記名の責——自署と読み上げ、これを以て有効とする」
「了解」
短い返事が黒点の列を押し進め、返納台に置かれた紙の端が風でふるりと揺れた。そのたび、香りが立つ。香りは記憶を開ける鍵。鍵穴は声の奥にある。
端で柚が、香りの小皿を三つ並べる。塩は使わない。鼻で食べる小皿だ。柑の皮は薄く刻んで湯で撫で、焙じた出汁は湯気だけを人に渡す。青い葉は指でちぎって掌にのせる。
「食べられる?」
「うん、香りで」
綾女は小皿に鼻を近づけ、拍で吸って拍で吐く。二、二、三。香りは喉で味わうと、言葉と仲良くなる。
黒点の紙が受け取られるたび、公開帳簿に小さな音が灯る。篝がそろばんを弾き、声で数字を置く。
「返納黒点、午前の時点で百七。累計は千を越え」
「了解」
声の押印は紙より早く場に降りる。降りたものは、ちょっとやそっとでは剥がれない。
*
「第二段、束ねて——」
凪雪が空を見上げた。輪郭は薄いが、背の光の羽線が二本、細く張られた。白い幕は、以前よりも薄い。けれど拍が通る。通り道さえできれば、薄さは弱さではない。
綾女は瓶の蓋を指で半回転させ、哀しみを細糸に解して幕に縫い込む。糸は目に見えないが、灯の二・二・三にかすかに震える。哀しみは速い雨を遅らせる。
その瞬間、禁区の光輪が低くうなった。春配所の偽暦盤が最後の強拍をぶつけてくる。速い雨が、まるで高い橋から砂を落とすみたいに返納の動線へかぶさった。
白い幕はたわみながら受ける。薄いから、折れずにしなる。
「持つ?」
綾女の問いに、凪雪は短く答えた。
「持たせる。——急がぬ」
広場の縁では語り部たちがパッと声を乗せる。
「“上位の名”は屋根の上の味噌汁。口に入らぬなら、湯気だけ拝むの?」
笑いが一度だけ起き、すぐ静まる。笑いは怒りの泡を小珠にし、恥を呼び、乾かす。乾けば、紙の嘘は自分で剥がれる。
幕の震えに合わせて、綾女は瓶の中の恐れを細く束ね直す。恐れは揺れる。揺れは拍と相性がいい。拍に寄り添わせれば、揺れは踊りになる。
黒点の列は崩れない。返す先は花壇と祠。人の口ではない。返礼は待つことの仲間だ。
*
「第三段、寝かせる」
綾女は一歩踏み出し、三誓を短句で唱えた。
「嘘をつかぬ」
「名を奪わぬ」
「春を急がぬ」
群衆が復唱する。常夜灯の明滅が二拍三連で谷を作る。その谷に、綾女は沈黙を置いた。沈黙は欠拍のつぎ糸。音のない糸は、場の端を静かに縫い合わせる。
清算の瞬間は、思っていたより小さな音だった。門楼の上空から、春一週間の光が一滴だけ降りる。飲めない露。人の口へは入らない。花壇と祠だけが受ける露。
露は、返納台の黒点の列を静かに通り過ぎ、広場の花壇で薄く光った。
国家倉に向かうはずだった代理受領の動線は、灯下で読み上げられた声に押されて迂回し、公開帳簿に黒線で記される。
「代理受領、迂回。返納、直受領へ」
篝が短く読み上げ、子どもたちが合唱で返す。
「了解」
見える返納は吸い上げられない。吸い上げられないから、香りが残る。残った香りは、次の台所へ渡される。
禁区の光輪で、楔が二度鳴いた。一本、外れた。残る一本は、黒く固い。輪のふちがこすれ、拍に雑音が混ざる。
春配所の使いが広場の端で叫んだ。
「上位の名の許しなしに、返納は完結しない!」
声は硬く、灯の高さに合っていない。硬い声は肩で止まる。肩で止まった言葉は、広場の石に届かない。
篝が紙束を掲げた。朱の芯が太い印影が、朝日の中で小さく光る。
「太政より——受理通知。『白羽起案、仮施行を認む』」
合唱が起こる。
「了解」
短い言葉の揃いは、薄い板を支える梁になる。最後の楔に、細い亀裂が走った。
綾女は瓶の栓を親指で押さえた。哀しみは深く座り、恐れは梁を渡り、怒りは小珠のまま眠っている。恥は乾いて、畳の縁みたいに静かだ。
広場の端で柚が合図をくれた。香りの小皿を湯気だけにして、人々へ回す。
「香りが残ってるうちに、息を合わせるよ」
「二、二、三」
合唱は三度目にいちばん静かで、いちばん強い。
*
式の最中、凪雪の背の羽線が一瞬だけ切れた。人の輪郭がぐらりと傾ぎ、黒い鴉へ崩れかける。
「凪雪」
綾女は反射で肩へ白羽栓を当てた。拍を合わせる。四で受け、八で束ね、十二で寝かせる。呼吸が戻る。輪郭が少し戻る。
「持つ?」
「持たせる。……まだ、幕がいる」
「いる」
短い往復は、湯飲みを手のひらで受け止める動作に似ている。こぼさない。急がない。
春配所は最後の紙を放り込んできた。
〈非常条項の常設化を慣行として承認〉
篝は常夜灯の下で白羽起案の右頁をひらき、落ち着いた声で読み上げる。
「非常条項、灯下で宣言の上、一週にて自動失効」
合唱が返る。
「了解」
“慣行”は歌えない。歌えない語は、灯下で形を保てない。紙は自分の角で自分を切り、黒点の列からそっと剥がれ落ちた。
門楼の上、白い幕はまだ震えている。偽暦盤の拍は薄くなったが、残る楔が一つ、黒く頑固だ。
広場の空気がわずかに揺れ、綾女の第三紋がぴくりと拍落ちした。
「残り——一本」
「明日、宣言の日に合わせて折る」
篝がそろばんを弾く。
「R、清算式のこの時点で——六パーセントの追加低下。返納黒点、今日だけで+二百十四。……数字は、見える支柱だ」
「支柱は香りで湿しておくと、長持ちする」
柚が笑い、湯気を返す。笑いは紙の角を丸くする。
*
式のあと、広場の片隅で台所の片付けに似た仕事が始まった。返納台の白布をゆっくり外し、香りを飛ばし過ぎぬように巻く。黒点の紙は家ごとに束ね直し、公開帳簿の片側に刺して立てる。
「片付けも、清算のうち」
柚が言い、綾女が頷く。
「食べなかった分は、明日の鍋へ。——急いで食べない」
子どもが駆け寄ってくる。
「もう一回、言っていい?」
「いいよ」
綾女はしゃがみ、目線を合わせる。
「返すは、見えるところで」
「名は、声で呼ぶ」
「春は、みなで待つ」
欠拍の沈黙を置く。沈黙は、歌の椅子。椅子が多いほど、人は長く座っていられる。
灯が一つ、肩の高さから外された。空がすこし暗くなる。
凪雪が門楼の縁に手を置き、細く息を吐く。
「——明日、宣言の日」
「明日」
「白鴉の幕を降ろす。最後の楔を折り、春一週間の返納を法に座らせる。個人の返礼は——遮らない」
「遮らない」
短い繰り返しに、綾女は胸の奥で拍をそろえた。二、二、三。瓶の中で、哀しみは深く座り、恐れは細糸のまま梁を渡り切り、怒りは小珠のまま眠っている。
夕餉は、清算の延長にある。柚が鍋の火を弱め、昨日の湯に今日の香りをひと回しだけ重ねる。塩はやはり使わない。
「明日も、香りで」
「うん。声で押して、灯で見る」
「味は?」
「待つ味」
待つ味は、舌より喉で分かる。喉で分かった味は、言葉と手を取る。
夜の端、禁区の光輪は黒い縁をわずかに痩せさせた。一本だけ残った楔が、かすかに軋む。音は小さいが、屋根と屋根の間を風のように渡る。
綾女は返納台の端に指で小さな円を描き、昨日の円の隣に重ねた。
「二つあれば、待ちやすい」
「三つあれば、歌いやすい」
「二、二、三」
円は水を呼ぶ器。器は名と同じで、輪郭がはっきりしているほど、なかみはこぼれない。
篝が紙束を抱え直し、灯の芯を確認した。朱の芯は太い。声の芯もある。
「明日、灯下で宣言。太政の読み上げ、白羽の押印、群衆の合唱。三手揃いで——」
「最後の楔は、折れる」
凪雪が静かに言う。
綾女は白羽栓を彼の肩に当て、十二拍で呼吸を合わせた。
「急がない」
「急がぬ」
湯気みたいな約束が、夜の骨にゆっくり沁みていく。
広場を去る人々は、黒点の紙の匂いを少し衣に移したまま、それぞれの家路へ散っていった。灯は二つ残され、肩の高さで小さく明滅し続ける。
最後の楔はまだ残る。だが、座る椅子はもう用意した。歌える三行は口にあり、香りは手に、数字は掲示板に、拍は胸に。
清算は終わりでなく、次のための片付けである。片付けが終われば、明日の鍋に火を入れられる。
綾女は胸の前でいちど拍を刻む。二、二、三。
そして、静かに息を合わせた。明日の宣言を迎えるために。



