朝の光は、紙の角を丁寧になぞる指みたいに屋根を渡ってくる。誓約庁の玄関に貼られた一枚の紙は、遠目にも不機嫌で、近寄るほどに息が詰まる質の悪さをまとっていた。宮中某局の印。だが、その朱は灰色に褪せ、滲みは水で延ばしたみたいに間延びしている。

 篝が指先で印影をなぞり、眉をひそめた。
「真正じゃない。太政の正式印影は、芯の朱が太い。これは紙の上で薄めた色。声の芯がない」
「声の芯?」
「灯下で読み上げられた印は、朱の内側に拍の芯がある。これは……濁ってる」

 綾女は瓶を胸に抱え、白羽栓の震えを喉で重ねた。二、二、三。瓶の底の哀しみがゆっくり動き、恐れが糸になって梁を渡る。怒りはまだ触らない。触れば泡立つ。泡立てば、場が煮こぼれる。

 午前、春配所は強行に出た。偽暦盤を門楼に直接つなぎ、速い雨を返納露の動線へ重ねてくる。返す露が薄まると、返納の可視が鈍る。さらに“上位の名”による通達を連打。読み上げ要員の肺を狙った文字の洪水だ。紙は息を奪うためにあるのではない、はずなのに。

 凪雪は門楼へ上がり、白い幕を再び展開した。以前より薄い。羽根の残量が少ないのだろう。幕は拍で震え、露と速い雨の境界に薄い膜を張る。分ける。遅くする。落とす先を選ばせる。
「持つ?」
 綾女が問うと、凪雪は短く首を縦に振った。
「持たせる。——急がない」

 広場では、読み手たちが紙の壁に押し返されかけていた。通達の列は長く、名は大きく、息継ぎの位置が人間の喉に合わない。合わない言葉は刃になる。
 綾女は瓶の栓を回し、三層の仕込みに着手した。
「底に哀しみ、中ほどに恐れ、いちばん上に怒り」
 篝が横で頷く。
「上層だけ、薄く吸うんだね」
「うん。怒りは笑いに混ぜて薄める。——語り部を立てる」

 市場区の角、工房区の角、孤児院区の角。それぞれの角に、綾女は語り部を一人ずつ置いた。通達の文言をそのままにしない。笑い話に仕立てて、客席を作る。
「“上位の名”って、屋根の上から毎日味噌汁を飲ませるってこと? 口へ入らないよ」
「『非常の常設』? じゃあ、ずっと非常食だけ食べるの。お腹、ずっとさみしいね」
 笑いが一度だけ起きて、すぐ静まる。笑いは怒りの泡を小珠にする。恥を呼び、乾かす。乾けば、紙の嘘は自分で脆くなる。

 門楼の上では、白い幕が薄く震え続けていた。光輪の縁に打ち込まれた黒い楔は二つ、残っている。輪のきわが擦れて、拍に雑音が混ざった。
 綾女の第三紋がじり、と拍落ちする。
「まだ、二つ」
「二つは——声で抜く」
 凪雪は羽根を指で挟んで、三度、規則的に明滅させた。合図は短い。短くて、届く。

 綾女は第二の準備に入った。「名の読み上げ」の拡張。各広場の掲示の前で、祖父母の名を三度呼ぶ小さな式を行う。
「——佐七」
「——おしん」
「——とら」
 読み上げと同時に、返納黒点に家の香りを一滴落とす。柑の皮、煎り麦、干し大根。名は匂いと結ぶと、偽物を拒む。
 首筋の第二紋が、久しぶりに快い熱を帯びた。疼きが痛みの手前で温度に変わる。偽名の紙が剥がれやすくなるのが、皮膚の内側で分かった。
「名の椅子を増やす。嘘の座る場所を減らす」
 篝が合図し、読み上げの合唱を回す。
「名は、声で呼ぶ」
 声は押印。押印は記憶。記憶は匂いに強い。匂いは偽物に鈍い。

 昼すぎ、春配所は最後の文書を投げ込んできた。
〈非常条項の常設化を“慣行”として承認〉
 紙の角は鋭く、手が切れそうだ。
 篝は白羽起案の右頁を即座に掲げ、常夜灯の下で読み上げる。
「非常条項は灯下にて宣言、一週で自動失効」
 合唱が返る。
「了解」
 “慣行”は歌えない。歌えない三行は場に降りず、灯下で言葉の形を保てない。紙は自分で重さに負け、掲示板の端でふるふる震えた。

 午後の終わり、数字は静かに応えた。篝がそろばんを弾く。
「R、午前と昼の押し返しで——三パーセント。公開帳簿の黒点はプラス百二」
「小さいけれど、骨」
「骨は、夕方に丈夫になる」
 会話は味見みたいに短く、喉ごしがよい。

 日が傾く。門楼の上で、凪雪の羽線が一瞬だけ切れた。人の輪郭が鴉へ崩れかける。
「凪雪!」
 綾女は駆け上がり、肩へ白羽栓を当てた。十二拍で呼吸を合わせる。四で受け、八で束ね、十二で寝かせる。拍が戻る。輪郭が戻る。
 凪雪は短く息を吐き、囁いた。
「——最後は清算だ」
「清算」
「春一週間を、国に返す。だが、急がぬ」
 急がぬ、の一語が、綾女の胸に静かな重石を置く。焦りは軽いので、風に煽られる。重石は、風で動かない。

「式を設計する」
 綾女は言い、瓶の栓に指をかけた。
「返す——待つ——見える、の三段。名前——香り——押印、の三手。場所は——灯下」
「人の高さで」
 篝が補う。
「肩の高さで」
 凪雪が小さく笑う。
「二・二・三で」
 三人の短い言葉が、屋上の白布にしずかに座った。

     *

 夕餉の用意は、清算の稽古みたいに進んだ。柚が鍋の蓋を少しずらし、香りを逃がしては戻す。逃がしたい香りは少し外へ、残したい香りは中へ。
「塩、どうする?」
「今日も香りで」
「了解」
 柚は皮を細く削ぎ、焙じた出汁を湯で揺らし、青い葉を手でちぎる。指の腹に残った香りを、鼻で数えた。二、二、三。
「ねえ、清算って、台所で言うと何?」
「——片付け。食べなかった分を、明日の鍋に回す。急いで全部食べない」
「うち、ずっとそれで生きてきたね」
「うん。それを法に上げるだけ」
 暮らしの高さで言い直すと、難しい言葉は少しだけやさしくなる。

 食後、孤児院の庭で小さな予行をした。子どもたちが輪になり、祖父母の名を呼ぶ。黒点のスタンプに、家の香りを一滴。返す先は花壇と祠。人の口ではない。
「返すは、見えるところで」
「名は、声で呼ぶ」
「春は、みなで待つ」
 欠拍で沈黙を置くと、土の匂いが僅かに濃くなる。沈黙は、香りの椅子だ。

     *

 夜のはじめ、最後の足掻きが来た。禁区の光輪が一段低く唸り、楔の一本が深く刺さる。空気の密度が一瞬、変わった。読み手の舌がつまずき、合唱が小さくよろける。
 綾女は階段を二段飛ばしで上り、凪雪の隣へ並んだ。
「私が読む」
「読ませる。——歌わせる」
 凪雪は白羽をひらき、空に細い線を引いた。二頁三行の大書。
「嘘をつかぬ」
「名を奪わぬ」
「春を急がぬ」
 筆画は光で、拍に合わせて滲む。滲みは雨の前触れみたいで、でも降らない。文字は空に留まり、その下で合唱の和音が戻る。
 篝が手をあげる。
「読み手——上位の名、読み直し」
 読み手は、紙を持ち替えた。
「上位の、名」
 灯下で読むと、言葉は自分の体重を知る。重すぎる言葉は、読み手の膝を折る。
「読めないね」
 柚が小声で言い、子どもが鼻で数えた。二、二、三。
 合唱は、歌える言葉だけを受け入れる。残りは置いていく。置かれた言葉は、風にさらされ、自分の角で自分を傷つける。

 楔が、もう一つ抜けた。音は微かだが、帝都の背骨を伝って遠くまで届く種類の音。残りは、ひとつ。
 篝がそろばんを弾く。
「R、夜の時点で——さらに二パーセント。返納黒点、合計+百五十六」
「数字は、湯気と仲良しだね」
「冷めやすいけどね」
「明日、温め直す」
 会話は短い。短いから、夜に長持ちする。

 門楼の上で、凪雪がわずかに傾いだ。綾女は肩に白羽栓を当て、十二拍で呼吸を受ける。
「ここまで、来た」
「来た」
「明日、清算する。——春一週間を、国に返す。個人の返礼は遮らない」
「遮らない」
 短い繰り返しは、誓いの骨を太くする。骨が太いと、急がなくて済む。

     *

 夜更け。風は角を丸め、紙はしゅるしゅると重さを失っていく。
 綾女は瓶を胸に抱え、庭の端で小さな円を描いた。昨日の円の隣に、今日の円。
「二つあれば、待ちやすい」
 柚が同じ大きさの円をもう一つ描いた。
「三つあれば、歌いやすい」
「二、二、三」
 声にすると、土がわずかに柔らかくなる。待てる土。待つための土。

 篝が紙束を小脇に抱え、控えめに近づいた。
「明朝、灯下で清算式。——第一段、返納の読み上げ。第二段、黒点の押印。第三段、白鴉の幕を降ろす」
「露は?」
「蓋をずらして、香りを逃がしすぎない」
「了解」
 台所の言葉で合わせると、法は座りなおす。

 凪雪が空を見上げた。光輪は黒い縁をまだ握っている。けれど、輪の内側は少し透けて、星の気配が薄く見える。
「明け方、三度目の夜明け」
「託宣の、約束」
「人の声に、従う」
 綾女は頷き、白羽栓を掌で鳴らした。二、二、三。
 瓶の中で、哀しみは深く座り、恐れは梁を渡りきり、怒りは小珠のまま眠った。恥は乾いて、畳の縁みたいに静かになった。

 最後の妨害は、笑いと歌でほどかれた。残る楔はひとつ。明日、灯下で抜く。抜いたあと、返す。返しながら、待つ。
 清算の式は、台所の片付けに似ている。食べなかった分を、明日の鍋に回す。急いで食べない。香りは残す。
 法の手順を、暮らしの高さで言い直す。——それが、国の味を変えるやり方だ。

 夜の最後の風が、屋根と屋根のあいだを抜けた。紙鳥が一羽だけ遅れて旋回し、禁区の縁でふっと浮く。腹の黒点が、ひときわ濃い。
 綾女は目を閉じ、声にならない声で言った。
「明日、灯下で」
 そして息を合わせた。二、二、三。
 沈黙が、式の余白をひとつ増やし、夜は深くなる準備に入った。