朝は魚の匂いで始まる。市場区の広場。屋根より高く掲げられた公開帳簿が、夜露を乾かしながら白く光っている。板張りの仮舞台に立った篝が、声をひとつ清めてから宣言した。

「第一景——原価三行/祈り三行の読み上げ、始めます」

 返事は拍手ではなく、息の一致だった。綾女は瓶を胸に抱え、白羽栓の震えを喉の奥でなぞる。二、二、三。哀しみと恐れを「合唱用の束」へ組み替え、怒りには触れない。怒りは泡立ちが早い。泡は立てずに、下火で煮る。

「本日の小麦——原価三行、仕入・運賃・税。祈り三行、祭の供出・返納の割戻し・余剰の寄付」

 篝が読み上げる。声の上に、子どもたちが合いの手を置いた。

「了解」

 短い声は軽いが、軽さのぶんだけ広がった。屋台の端では柚が香りの小皿を差し出す。ひと皿は柑の皮、ひと皿は焙じた出汁、ひと皿は青い葉。塩は使わない。代わりに、鼻で食べる。小皿の前で綾女は内心の三行をそっと繰り返す。受けて、束ねて、寝かせる。香りは名とつながる。匂いで覚えた店は、帳面を二冊にしてもすぐばれる。

 読み上げが進むにつれて、掲示板の数字が薄墨のまま明滅を覚えた。返納の黒点は、昨夜の祭からさらに二十四増え、滞留の黒丸は目に見えて痩せていく。行列の角が丸くなり、頬の尖りが一段落ちる。
 篝が合図する。
「合唱——いくよ」
 合唱隊は市から集まった姿のまま、手を前に組む。囃子は二・二・三。
「嘘をつかぬ」「名を奪わぬ」「春を急がぬ」
 歌える三行は、紙より先に身体へ落ちる。落ちた歌は、値札の裏へも沁みる。

 午前の終わり、綾女は瓶の温度で街の機嫌を測る。哀しみは深い椅子に座り、恐れは細糸になって梁を渡る。怒りは触れなくても小珠に変わりはじめている。
 篝がそろばんを弾く。
「R、午前で——二パーセント」
「小さい?」
「骨になる数字はたいてい小さい」
 会話は台所の味見みたいに、短くて頼もしい。

     *

 昼は木屑の匂い。工房区の広場は、樽と桶の円で縁取られている。樽の口には白羽の刻印。返納の黒点の押印台が中央に据えられ、常夜灯の小型が肩の高さで淡く明滅する。

「第二景——返納黒点の押印、始めます」

 篝が読み上げると、女職人たちが前に出てきた。ひとりは袖を少し捲り、自署の筆圧を灯下で見せてから、黒点のスタンプを押す。ぽん、と優しい音。幼児の手で押す黒点は少し斜めに傾き、周りの笑いを誘う。笑いが弾んでも、拍は乱れない。二、二、三。

 綾女は瓶の蓋をわずかに緩め、押印台の上に薄く哀しみを塗る。哀しみは本物に吸い寄せられる性質がある。偽の押印は弾かれる。弾かれた印の縁が、乾いた音で自分の軽さを知らせる。
 押印の列の横で、柚が子どもに声をかける。
「黒点は、返した印。好きな場所へ返す、って覚えて」
「好きな場所?」
「花壇か祠か、お腹の中じゃないところ」
「わかった」
 子どもは鼻を鳴らして、黒点を誇らしげに掲げた。

 押印の間、篝は公開帳簿を広げ、声で増えた黒点の数を読み上げる。
「本日、返納——百三。累計、千を超える」
 合唱が自然に重なる。
「了解」
 数字は歓声とよく馴染む。書かれた数ではなく、声で起動された数は、骨になる。

 昼下がり、偽暦盤の速い雨が遠くの空で糸を引いた。工房の屋根に吊った白羽糸はそれを受け止めず、臨時樋が静かに裏路地を経て桶へ導く。人は飲まず、 木は飲む。飲み方の作法が決まっていると、嘘の水はこぼれ落ちる。

     *

 夜は布の匂い。孤児院区の広場。焚き火の代わりに灯を三つ。肩の高さで並べる。子どもたちが丸く座り、柚がその輪の背後にそっと立つ。
 第三景——童謡と二頁三行の重ね歌。
 篝が最初の音を取る。笛の代わりに風鈴。二、二、三。
「白い烏は名を運ぶ」
 童謡の二行目に、白羽起案の一行を重ねる。
「嘘をつかぬ」
 三行目にもう一つ。
「名を奪わぬ」
 欠拍で沈黙を置き、最後の行へ。
「春を急がぬ」

 綾女は瓶の中の哀しみと恐れを、合唱用の束として緩く回転させる。怒りに触れない。哀しみは歌に、歌は誇りに変わる。誇りの拍は、背筋を静かに伸ばす。棒のような誇りではなく、布のようにしなやかなもの。
 広場の端で、公開帳簿の黒点がまたひとつ灯る。滞留の黒丸は、火を落とした鍋の脂のように薄く引いていく。
 篝が数字を読み上げる。
「R、追加で——八パーセント」
「了解」
 大人の声と子どもの声が重なる。重なりは和音になって、灯の明滅とぴたりと合う。

 そこへ、空が濁った。禁区の光輪の中心に、黒い楔が打ち込まれる。音はないのに、胸の奥で何かが引っかかる感じ。三つの偽拍が降りてきた。
「上位の名」——誰のかわからない大きな名。
「非常の常設」——非常が常に居座る矛盾。
「返納の代理受領」——返したものを別の倉が横取りする言葉遊び。
 どれも歌えない三行。読み手の舌が躓き、合唱が一瞬途切れた。
 綾女の第三紋が拍落ちし、胸の内側に白い空白ができる。音のない音。
 柚がそっと肩に触れ、二・二・三で呼吸を戻す。
「大丈夫。数える」
「数える」
 綾女はうなずき、瓶を抱え直す。怒りには触れない。触れないぶんだけ、歌の座りが良くなる。

 舞台へ、凪雪が上がった。人の姿は半ば、背の光の羽線が半ば。剣は抜かない。白羽を一本、空の黒へ差し上げ、ひと筆で大書する。
 ——嘘をつかぬ/名を奪わぬ/春を急がぬ。
 筆画は光で、拍に合わせて滲む。滲みは雨の前触れに似て、でも降らない。文字は空に留まり、その下で合唱の和音が戻る。
 篝が声を置く。
「読み手、条を——」
 読み手が読む。
「群衆、歌を——」
 群衆が歌う。
「常夜灯、白羽の押印——」
 灯の下で白羽が震え、押印の音が乾いて響く。読み・歌い・押す。三手が揃ったところで、禁区の楔が軋んだ。ひとつ、抜ける。音は小さいが、街の屋根に伝わる。楔は声を嫌う。嫌うものは、声の場所で力を失う。

 春配所の使いが遠巻きに立ち尽くす。灯の下へは来ない。来れば、声が要る。彼らは声を持たない。

     *

 合唱の波は、三つの広場から三本の帯になって、屋根と屋根のあいだを渡っていった。市場の帯には魚の匂い、工房の帯には木の匂い、孤児院の帯には布の匂い。三本の帯は夜風で撚り合わされ、帝都の背骨に沿ってゆっくり進む。
 撚り合わされたところから、紙鳥が一斉に舞い上がった。腹には黒点と自署。子どもが押した斜めの黒丸、大人の震えの少ない黒丸、職人の力強い黒丸。それぞれの丸に、それぞれの匂い。
 紙鳥は灯の明滅に合わせて高度を取り、禁区の光輪の縁でふっと浮いた。楔は三つのうちひとつが抜け、残りの二つはまだ黒く口を開けている。
 篝が綾女に耳打ちする。
「今夜はここまで。残り二つは——明日と明後日。三度目の夜明け、約束どおりに」
「了解」

 合唱の余韻の中、柚が大鍋の火を弱めた。香りの小皿の残りをひとつずつ集め、薄い湯に通して香りをなじませる。塩の代わりに、記憶の味。
「食べられる?」
「香りで、食べる」
 綾女は匙を重くしない。舌でなく、喉で味わう。喉で味わう味は、言葉と仲がいい。

 篝がそろばんを弾く。
「今日の累計、R——八パーセントの追加。三週と祭の総計から見て、底は脱した」
「底を脱したなら、息が長くなる」
 凪雪が短く言い、肩で息をする。輪郭は薄いが、拍は合っている。
「大丈夫?」
「声があれば、持つ」
「声はある」
 会話は甘いはずなのに、湯飲みの温度で落ち着く。

 帰り支度の前、綾女は舞台から一歩だけ下り、広場の石に指で小さな円を描いた。円は返礼露の受け皿。今は水はない。けれど、拍が合えば満ちる。
 柚が横にしゃがみ、同じ大きさの円をもう一つ描く。
「二つあれば、待ちやすい」
「うん。二・二・三」

 人々が帰路につくと、灯は肩の高さからそっと下ろされ、白羽は細く折りたたまれた。紙鳥はまだ空にあり、黒点と自署をお腹に抱えたまま旋回を続けている。
 春配所の使いは遠くで回覧の束を握りしめていたが、灯の下へ来る気配はなかった。灯を避ける文言は、祭の拍に居場所がない。

 夜更け。広場の端で、綾女は瓶を胸に、白羽栓を掌で鳴らす。
 二、二、三。
 哀しみは歌へ戻り、恐れは細糸のまま梁を渡り切る。怒りは触れられずに小珠へ変わる。恥は乾き、布になる。
 風が袋小路から抜け、小さな紙片を一枚だけ足元へ転がした。拾うと、かすれた文字。〈上位の名〉。読み上げの型にはまらない、歌えない言葉。綾女は紙片を灯の下で二秒だけ見つめ、静かに折りたたんだ。
「灯の外は、座れない」
 凪雪が言い、篝が頷く。
「明日は、残り二つ。非常の常設と、代理受領」
「歌えない三行は——声でほどく」
「うん」

 孤児院の門がきしみ、子どもが一人だけ顔を出す。
「もう一回、歌っていい?」
「いいよ」
 綾女はしゃがみこみ、子どもの目の高さでうたいはじめた。
「返すは、見えるところで」
「名は、声で呼ぶ」
「春は、みなで待つ」
 最後の欠拍で沈黙を置く。沈黙は布の裏側みたいに手触りがあり、歌の形を支える。子どもは満足して、扉の向こうへ消えた。

 灯を肩から外すと、夜は深くなる準備に入る。
 綾女は瓶の栓を確かめ、凪雪の肩にそっと当てる。拍が合う。輪郭が少し戻る。
「明日も、合唱」
「合唱」
 短い語を二回重ねるだけで、胸の奥に骨が立つ。骨は軽いが、折れにくい。

 上空の光輪は、抜けた楔の穴から少しだけ風を吐いた。風は三つの広場を順に撫で、紙鳥の腹の黒点をひとつ、さらに濃くした。
 数字は笑いと香りに混ざり、法の椅子の足もとへ沁みていく。
 歌は続く。二・二・三で。明日のために。