日暮れは、灯油を一滴ずつ垂らしたみたいにゆっくり濃くなる。広場の石は昼の熱を薄く残し、白布の屋台が肩の高さで風を受けて、ふわ、と一度だけ膨らむ。紐の結び目は二拍で締まり、三拍目で落ち着いた。のぼりに書いた字は大きく、やさしい。〈反攻の祭〉。攻め返すといっても、武器は声と香りと、ごはんの湯気だ。

 柚が台所から駆けてきて、綾女の袖を軽く引いた。
「火、弱めた。焦げない」
「ありがとう。香りの方は?」
「三皿、出せるよ。皮、出汁、葉。塩なしでいける」
 柚はひとつ深呼吸して笑い、指先で空気を丸めるように、三皿の輪郭を宙に描いた。柑の皮は黄色い月の香り、焙じた出汁は夕方の梁みたいに落ち着く匂い、青い葉は洗いたての布の手触り。綾女は瓶を胸に、白羽栓の震えを喉でなぞる。二、二、三。味覚はまだ遠い。けれど、香りは近い。

 広場の中央に、白羽の風鈴を下げた。最初の音は、少し背伸びして鳴らす。からん、からん。二拍三連で揺れて、風が言葉を呼ぶ。篝が台に上がり、読み上げた。
「公開帳簿——本日、返納の黒点、四百二十三。滞留の黒丸は、昨日より薄い」
「了解」
 輪の内側から、合唱が返った。肩の高さで揃う声は不思議と手触りがあり、読み上げの紙を支える。子どもたちは列を作って、返納板に黒いスタンプを押した。ぽん、と軽い音が連なり、春一週間の返礼が目に見える丸になって増えてゆく。

 屋台のあいだを抜ける風は、油と木と布の匂いを混ぜ合わせて、塩のいない旨味へ落ちる。綾女は香りの小皿の前で、三行の手順を心の中でなぞる。受けて、束ねて、寝かせる。柑の皮を湯で軽く揺らし、出汁の影を重ね、葉で最後の息継ぎを置く。香りは記憶に直行する。記憶は名を守る。名が守られれば、法が座る。

「呼吸、合わせていくよ」
 凪雪が小さく言って、白羽を一本、風鈴の紐に結んだ。羽が鳴る。彼の輪郭は相変わらず薄いが、音があると輪郭は戻る。明滅する灯と鈴の間に、見えない拍子木が一本通ったような感覚が広場の空気に生まれた。

 舞台では読み手の一座が、白羽起案の二頁三行を囃子に乗せる。太鼓は二、二、三で打ち、笛は合間に短く息を入れる。
「——嘘をつかぬ」
「——名を奪わぬ」
「——春を急がぬ」
 合いの手は子どもたち。小さな声は軽いが、軽さのぶん広がる。歌える三行が脳に刻まれ、紙より前に身体が覚える。祭りの囃子は、法をやわらかくする。

 中盤、「返納行列」。草の籠に香り包みを入れた人々が、列を作って舞台へ上がり、小さな返礼露を受け取る。露は杯へではなく、花壇と祠へ注ぐ約束。飲まない。春を急がない返礼。待つを祝いに変える。
「はい、花壇側。四、八、十二の拍で歩いて——」
 篝の合図で行列が進むたび、簿記帳の貸方に黒点が増えてゆく。読み上げる数が増えるほど、歓声が湧いた。
「返した!」「返したね!」
 数字は歓声と相性がいい。声の押印が喜びに混ざると、数字は骨より強くなる。

 屋台の隅、柚が子どもたちと香りの小皿を囲んでいる。
「今日は塩なし。代わりに、香りは三重」
「三重?」
「皮の明るさ、出汁の陰、葉の青さ。——順番を守ると味が出る」
 子どもが鼻で数える。「いち、に、さん」
「二、二、三、だよ」
「……に、に、さん」
 笑いが一度だけ起きて、すぐに落ち着いた。笑いは怒りを乾かす。乾いた場所に湿った嘘は滑り込めない。

 その時、回覧板が押し込まれた。真四角で、厚くて、乱暴な角。春配所の声明——〈返納は国家倉にて一括管理〉。署名の下に、宮中某局の私印の写し。灯はない。読み上げの筋もない。言葉は重いふりをして、呼吸の椅子を持っていない。
 綾女の第二紋が鈍く痛んだ。歌えない三行が、祭の拍に逆流してきた。

 綾女は舞台の中央へ出た。瓶を胸に、白羽栓が二、二、三で震える。凪雪が横でうなずき、指先で風鈴を軽く押して、音の柱をもう一本立てた。
「宣言、三行」
 綾女は息を吸い、短く、厚く、置いた。
「返すは、見えるところで」
「名は、声で呼ぶ」
「春は、みなで待つ」

 輪の内側から復唱が返る。三行は白羽起案の二頁三行と重なり、歌の拍に溶け合った。硬い文言は歌に乗らず、弾かれる。回覧板の角が、居場所を失ったように重く見えた。篝が静かに手を伸ばし、掲示板の端に回覧を括りつけた。灯の真下。灯は紙の厚みより強い。

 舞台では「記名の責・祝言」。市井代表が次々と自署し、読み上げ、常世側の押印を受ける模擬儀式。押印の瞬間、灯が明滅し、白羽が震えた。拍が合っていない押印は沈む。沈むと分かる。見せ物にすることで、人は嘘の押印を恥ずかしく思うようになる。法は恥に支えられる。

「次、工房代表」
 女職人は袖を少し捲り、肩で息を吸って、筆を持った。自署の線は無理がなく、灯の高さで止まる。読み上げも、二拍置いてから始めた。
「私は——わたしの名で押す」
「了解」
 合唱が柔らかく重なる。押印は白羽の震えで肯(うべな)われ、灯は二度速く明滅して、すぐに定速へ戻る。拍があると、礼は短くて済む。

 夜は深まる手前でいったん浅くなり、屋台の影が形を変える。香りの小皿はよく出て、出汁の鍋が何度も撫でられた。綾女はひと匙だけ香りを舌の上に乗せて、喉で味わいを確かめる。——塩はまだ遠い。遠いけれど、待てる味になっている。

 広場の端で、篝が短く読み上げる。
「R、祭の夜に——七パーセント低下」
「了解」
 歓声ではなく、息の一致が返る。数字は骨になり、骨は祭りのうちに身になる。子どもたちは黒点のスタンプのインクで指先を染め、笑いながら手を洗いに走る。水は樋を伝って静かに落ち、白羽の刻印のある桶にきちんと溜まる。

 舞台の脇、凪雪が一歩だけよろめいた。綾女はすぐに肩口へ白羽栓を当て、十二拍で彼の呼吸を受ける。四で受け、八で束ね、十二で寝かせる。彼の輪郭は薄いが、声を重ねると戻ってくる。戻ってくるたび、綾女の胸は静かに温かくなる。
「ここまで来た」
 凪雪が低く囁き、視線を上へやる。
「次は——上」

 花火の代わりに、白い紙鳥を夜空へ放った。紙鳥には二頁三行が細い活字で刷ってあり、裏に黒点がひとつずつ。紙鳥は風に乗って上がり、禁区の上空の光る輪の手前でくるりと旋回し、端で弾かれた。薄く、乾いた音。春配所の偽暦盤はまだ息をしている。

 人々の視線が空へ集まるあいだ、篝が耳元で囁いた。
「上奏の支度、整った。白羽起案を帝都—常世の連名で太政へ。——同時に、宮中某局の私印の真正を争う。灯下で」
「灯下で」
 綾女はうなずく。瓶の中の哀しみは静かで、怒りは小珠、恐れは細い糸に、恥は乾いた布。数字は場に混ざり、香りと一緒に制度の隙間へ沁みてゆく。

 柚が大鍋の火を落とし、木杓子で表面を一度撫でた。
「最後の童謡、いける?」
「いける」
 綾女は孤児院の子らと輪になって、童謡を歌いはじめた。欠拍のところで、沈黙を置く。沈黙は布の裏みたいに手触りがあって、歌の形を内側から支える。灯がひと呼吸ぶん長く明滅し、風鈴が一度、遠慮がちに鳴る。

「返すは見えるところで」
「名は声で呼ぶ」
「春はみなで待つ」

 最後の沈黙が、広場全体の胸に落ちる。言葉を言わない、というひとつの強さ。拍はそこで、変わらず続く。息が整って、夜は深くなる準備に入る。

 祭の片付けは、台所と同じ順番で進む。布を外し、器を拭き、灯を肩の高さからそっと下ろす。子どもが黒点のスタンプをハンカチに試し押しして、笑って叱られる。笑いは短く、叱りも短い。短いものは日常に残りやすい。

 柚が湯を持ってきて、綾女に差し出した。
「熱い?」
「ちょうど」
 湯気は薄い線になって上がり、二、二、三で消える。湯飲みの縁は厚手で、唇にやさしい。

 凪雪は床几に腰を下ろし、背に半ばだけ光の羽線を展開して、夜空をしばらく見上げた。紙鳥はもう見えない。けれど、歌える三行は広場の石の目に、薄く、確かに残っている。人の足が明日また踏む場所に、静かな言葉が敷かれた。

「——上」
 綾女が小さく繰り返すと、凪雪は頷いた。
「灯を持って行く。肩の高さで」
「声を押す。三行で」
「名の椅子を増やす。嘘の座る場所を減らす」

 篝が紙束を小脇に抱え、控えめに近づいた。
「明朝の掲示、用意した。白羽起案の上奏日程。広場で読み上げ、三地区で合唱を回す」
「了解」
 短い言葉が、それぞれに深く座る。

 帰り際、柚が屋台の白布を畳みながら振り向いた。
「ご馳走は、祭りが終わってからも続けようね。塩は、待てる」
「待てる」
 綾女は笑って瓶を抱え、白羽栓を掌でそっと鳴らした。二、二、三。
 広場の灯がゆっくりと消え、肩の高さから夜に戻る。
 風は香りを少し連れて歩き、通りの角でふいに止まって、また進んだ。

 沈黙が残した余白は、扉のかたちをしていた。次の章のための、静かな入口。
 ——第6章「国の味を変える—三行は法になる」へ。数字で骨を固め、灯下で印影を洗い、上へ届く言葉の高さを決める。最後の妨害が来ても、歌える三行で受け止める。台所の湯気を冷まさずに。