白い塔は、灯台のかたちに似ていた。けれど海はない。あるのは境だ。
 常世と帝都を分ける結界の縁に立つ門楼は、夜明け前の薄青を大きな布で掬って、そのまま塗ったように白かった。白は冷たく見え、冷たく見えるほど、触れたときの微温(ぬく)さを、綾女は想像してしまう。
 白に近寄る前に、風が頰の皮膚を撫でて、指先のささくれを数えた。ささくれが一枚剝けて、痛みが遅れて追いかけて来る。昨日、誓約の間の白布の上で眠ったせいか、体の重心がいつもより低い。低い重心は、長く歩くための姿勢を思い出させる。

「門は、拍で開く」

 先に立つ凪雪が、振り返らずに言った。
 胸の白羽の紋は、呼吸と常夜灯の二拍三連に合わせて、ごくわずかに上下している。人の呼吸と、灯の拍と、門の拍が、同じ場所で合うのは、見ているだけで落ち着く。合わせること自体が、祈りに似ているのだと思う。

「拍は、季節配当の律。春夏秋冬の無理のない交代を保証する、暦の心臓だ。心臓には、早送りの歯車は付かない」

「……だから、門は勝手に開かない」

「うむ」

 近づくほど、門楼の白は粗密を帯びる。遠目には滑らかだった壁面に、風で磨かれた小さな凹凸があるのがわかる。凹凸は、指で読める文字のように並び、手のひらを当てれば、季節の順番をゆっくり復唱してくれそうに思える。
 楼の中央に、円い盤が嵌っていた。大盤。黒の縁、白の地。円の内側に、ごく細い金線で季節の符(ふ)が描かれている。春は薄い曲線、夏は太い直線、秋は細い折れ、冬は小さな点の連続。金線が、じわり、と動いたように見えたのは、眼の錯覚ではない。拍に合わせて、盤は遅い呼吸をしている。

「帝都からの要請に応じて、門を夜だけ僅かに開け、水と風の配分を調整している。『調整』は『調子』と同じ字だ。音に合わせて触れる。触れた跡を残さない」

 凪雪の説明はいつも短い。短さに甘えると置いていかれるから、綾女は言葉の余白を、自分の経験で埋める。
 孤児院の鍋を思い出す。泡の音を見張る夜。煮立ち過ぎれば、塩は固い味になる。足さずに、待って、火を少し落とす。待てば、塩は勝手に丸くなる。
 門も鍋に似ていた。蓋を開けすぎたくなるのは、目の前の空腹に押されるからだ。押し返す力は、拍の側にある。

「干ばつは、門を開けば、解決するのでは?」

 言って、すぐに後悔した。問いは正しくても、タイミングが未熟だった。
 凪雪は振り返らず、首だけを横に振った。否定はゆっくりで、否定の中に責めはない。

「春を急げば、夏が痩せる。短期の潤いは、長期の飢えを生む。春に配るべき雨を、春のうちに前借りすれば、夏の骨は乾く。骨が乾けば、秋の刃物は鈍る」

「だから三誓の第三は重い」

「そうだ」

 言葉が、門の白に吸い込まれる。白は、声を飲む。飲むけれど、なくさない。飲んだ声が、あとで、風になって返ってくる。ここは、そういう場所だ。
 門楼の下には、低い社(やしろ)がいくつも並んでいた。社の前には、木札が積み重なっている。名を記す札とは別に、昨日、内庭で見たのと同じ麹紙の札。こちらは「願い札」だ。

 綾女は一枚、指先で持ち上げた。紙の表面に、指の水分が薄く吸われ、すぐ乾く。字は丸い。丸い字は、声にするとき、舌の筋肉に優しい。

——「子が、今夜だけでも熱が下がりますように」
——「水を、今だけ多めにください」
——「明日、夫の怒りが薄まりますように。私の怒りも」

 純粋な願いだ。純粋なものが、いちばん重たい。綾女の胸の奥で、黒い小瓶が微熱を帯びる。
 願いは、穢れではない。ただ、願いが競合するとき、穢れに似た乱流が生まれる。さっき、凪雪が言った「嘘は穢れを乱流に変える」という理は、願いにも触れる。真っ直ぐな願いと真っ直ぐな願いが、同じ流れに入ると、互いの体積をうまく測れずに泡立つ。泡立ちは美しいが、腹はふくれず、喉ばかり乾く。

「札に書くこと自体は、悪くない」

 綾女は、独り言のように言った。
 凪雪は社の列を横目に見ながら、うなずいた。

「声にすると、願いは場に降りる。降りた願いは、重さを持つ。重さがあれば、並べられる。並べれば、順番ができる。順番ができれば、拍が生まれる。——問題は、名だ。名のない願いは、輪郭を持たない」

 名は器の輪郭。輪郭がなければ、こぼれる。こぼれると、拾う側の指が濡れて、紙は破れる。
 綾女は札を戻して、もう一枚取った。字は尖っている。尖った字は、こすれる音がする。

——「あの家より先に、うちの畑に」

 たぶん、これが、競合の始まりの小さな炎だ。炎は小さいうちに美しい。美しいから、見惚れてしまう。見惚れている間に、火は紙を舐める。
 綾女は札を置き、黒い瓶の栓にそっと触れた。栓は浮いたまま。押し込めば、重さは軽くなる。けれど、軽さは、扉の蝶番に油を差しすぎることに似ている。軽くなりすぎた扉は、風で勝手に開く。

「……」

 門楼の脇で、低い足音が重なった。凪雪が目だけで向きを変える。篝が、白ではなく灰の装束で、小走りに近づいてくる。息は上がらない。上がらないのに、軽い砂埃が足元で跳ね、砂の跳ねかたで急ぎの度合いがわかる。

「下町から使い。孤児院の井戸が枯れ、倒れた者がいる」

 綾女の喉の奥で、細い金属音がした。噛み合っていた歯車から歯が一枚欠けたときの、乾いた音。
 胸の瓶の栓が、半拍分ずれた。白い羽根が、一枚、黒く縁取られるのが見える。見えるものは、たいてい、ほんとうのことだ。
 足が前に出る。出た足を、凪雪の手首が掴んだ。掴み方は強くない。強くないのに、止まる。

 白い羽根を、凪雪が指先で軽く叩く。「二拍」。
 拍は、遅れて整う。整うまでの遅れが、綾女の喉に痛みを残した。遅れは恥ではない。けれど、痛みは、置き場所を間違えると、瓶の底を曇らせる。

「瓶は、“誰か一人”の強い感情であふれる。贄の器は、優しさで壊れる」

 凪雪の声は、叱りではなく、説明だった。叱りは心に刺さり、説明は骨に触る。

「優しさを手順に変えるのが、私の役だ」

 手順。
 綾女は、ゆっくりと息を吸った。四、八、十二。吐く。
 孤児院の井戸は、朝の音の中心にある。井戸が枯れると、朝が遅れる。朝が遅れると、子どもの腹が鳴る。腹が鳴ると、誰かが怒る。怒りは悪ではないが、怒りの泡は寝かせないと昼に持ち越す。
 行きたい。いま。走りたい。
 走ったら、拍が崩れる。崩れた拍で触れた門は、門ではない。

「規定内で開ける」

 凪雪は門楼の盤に掌を当てた。白の中に細い影がいくつも走って、影が規則正しく消える。
 盤が横に呼吸し、常夜灯の明滅が半拍だけ柔らかくなる。白い塔の内側で、見えない鎖がほどける音がした。
 砂の上に、白い露が落ちる。砂は露を飲み、露は砂の中の古い道を通って、帝都の地脈へ降りていく。直接、井戸へは落ちない。落とせない。
 綾女の歯が、静かに噛み合った。噛み合いの一箇所が、まだ痛む。
 すぐさま全部を解決しない選択は、残酷に見える。残酷さは、選んだ者の肩に先に乗る。先に乗る重さを、どう寝かせるか。寝かせ方が、そのまま、街の寝かせ方になる。

「今夜、門をもう一度、規定内で開ける。昼に開けないのは、拍が壊れるからだ」

 凪雪の言葉は、門の白ではなく、綾女の骨に吸い込まれた。骨の中の管のような場所に響く。
 篝が短く頷く。

「孤児院へ使いを走らせます。香り包み、臨時の配水、近隣の桶の時間割を差し替え。——彼女は、向かわない」

 綾女は、自分が頷くのを感じた。頷きは、首の骨を通って胸に降り、胸の瓶の栓の浮きを、ほんの一つだけ沈めた。
 遠くで、井戸の蓋が鳴る音がした。朝の音ではない。昼前の、腹が空き始める時間の音だ。

      *

 昼をやり過ごすための手順は、紙の上では単純だ。香り包みを解き、鼻から吸って、口からゆっくり吐き、四、八、十二。怒りの泡は寝て、哀しみは座り、恐れは揺れの周期を長くし、恥は乾いて風で飛ぶ。
 けれど、紙の上の単純さは、場の複雑さで簡単に裏返る。
 孤児院の門の前で、子どものひとりが倒れたと聞いたのは、午後の拍が少し乱れた頃だ。倒れた子は、前の晩から食が細かった、と後で書類に記されるだろう。
 綾女は門楼の白に背を預けて目を閉じ、遠くの音を拾った。声はよく通る。噂は薄く漂って、重さを持たない。泣き声は重い。重い声は、瓶の底に落ちる。落ちたものは、勝手に座る。
 黒い瓶の栓が、音を吸って少し冷えた。冷えは悪くない。冷えは熱のための場所を空ける。
 凪雪は門楼の大盤に片手を置き、もう片方の手で、常夜灯の格子を軽く叩いた。二拍三連。叩く手の甲に、古い紙で切った細い傷。紙で切れる神の手。切れるという事実が、綾女を安心させる。世界に切れ目があるなら、縫い目もある。縫い物は、綾女の手のほうが、凪雪より速い。

「夜まで、持たせる」

 凪雪は、断言はしない。ただ「持たせる」の一語に、拍を置いた。
 篝は、門楼の陰に歩み寄り、紙束を差し出す。紙の端には、細い朱の印。印は、二重に揺れている。揺れは、息の乱れだ。

「配水局の署名はそろった。次の“春の小切手”を——」

 篝の口から出た低い言葉は、風の位置を変え、白い塔の影の長さを変えた。
 綾女は、拾った音の意味を、すぐには結べない。けれど「名を偽る」術に触れる音だけは、はっきり拾える。拾えた音が、胸の内側で不快な雑音になって残る。雑音は、瓶の壁に当たって反響し、瓶の壁を薄くする。
 黒装束の人物が、門楼の陰で篝とすれ違う。装束の裾は短く、足音は軽い。軽いのは若さではなく、立場の軽さだ。立場の軽さは、言葉を重く見せる。

「……『名』を、借りるのは、返す前提がある場合に限られる。借りた名で押す印は、灯下で読み上げられなければ、無効だ」

 篝は相手に向けてではなく、自分に向けて言った。紙の人間は、紙に向かって言うことで、言葉を自分の骨に戻す。
 黒装束は黙って頷いた。黙って頷く者は、二種類いる。理解した者と、理解していないが頷くことを覚えた者。
 綾女の首筋が、針先で軽くつつかれた。白い羽根の中心が「今は聞くな」と合図する。合図は、恐れの味ではなく、慎重の味がした。

      *

 夕刻。
 門楼の上で、暦盤の金線が、少しだけ長い呼吸をした。長い呼吸の分だけ、門の白の内側に湿り気が増え、湿り気は露になって、静かに落ちる。
 その露は、直接、孤児院の井戸には落ちない。落ちないけれど、落ちた先の砂の道が、井戸の底に繋がっているのを、綾女は想像する。砂は覚えている。覚えている砂は、足跡を消さない。消さないから、辿れる。
 夜の始まりの風が、願い札の端を少し持ち上げ、札が重なっていたところに隙間を作った。隙間が、音になる。音は、誰かの胸に入って、拍を一つだけずらす。
 綾女は、薄い声で歌を差し入れた。歌は、二頁三行の、子どもたち向けの短いもの。
 ——嘘をつかぬ。
 ——名を奪わぬ。
——春を急がぬ。
 声にすると、文は身体に降りる。降りた文は、重さを持つ。重さを持った文は、他の重さと並べられる。並べると、順番ができる。順番は、拍を呼ぶ。拍は、門を動かす。

 門楼の影で、篝が動いた。黒装束の肩の布に、指先が一瞬触れる。触れたのは止めるためではない。拍を合わせるためだ。
 綾女は、二人のやりとりを遠い雑音としてしか拾えない。拾えない自分に、わずかな苛立ちが立ち上がる。苛立ちは、嫉妬に似た匂いがする。
 嫉妬は、瓶を跳ねさせる。跳ねる前に、寝かせる。
 四、八、十二。
 柑の皮の小さな香り包みを鼻に寄せ、息を吸う。柑の皮は、夏の名残の香りがする。夏を急がなかった記憶の香りだ。

      *

 夜。
 常世の空気は、昼より一段透明で、透明であるほど、綾女は自分の中の濁りを見つけやすくなる。見つけやすいのは、悪いことではない。見えなければ、寝かせもできない。
 凪雪は、門楼の大盤に手を当てたまま、視線だけを綾女に投げた。その視線は「いる」とだけ言う。いる、と言われることが、いまの綾女にはいちばん効く。
 遠くで、孤児院の庭の土が、水を吸う音がした気がした。実際には聞こえないはずの音だ。けれど、身体は覚えている。土が水を獲るときの低い溜息のような音。
 柚が釣瓶に油を差す音。夜の台所の、鍋蓋がずれる音。寝返りの布の音。
 音の層が静かに厚みを増し、その厚みが瓶の内側から綾女を支えた。支えるものがあると、人は人を支えようとしなくて済む。支える手の半分は、手順に預けられる。

 門の白は、拍のぶんだけ薄く開いた。薄く開いた裂け目から、白い夜露がひと筋降り、砂を湿らせ、砂は音を立てずに飲んだ。
 凪雪の肩が、ほとんどわからないくらいに緩む。緩む瞬間に、彼がどれだけ力を出していたかがわかる。見えない場所で力を使った者は、見える場所で力を誇らない。
 綾女は、黒い瓶の栓に軽く触れた。栓は、今夜は動かない。動かないのは、良い兆しだ。動かない栓は、明日、必要なときに軽く動き、必要のないときに動かない。

「——ありがとう」

 誰への「ありがとう」か、言葉は決めないまま口から出た。
 凪雪は、返事をしなかった。しないことが、返事だった。
 篝は、白の陰に筆を滑らせ、今の拍と露の量、帝都の風の流れ、配水局の受理簿の読み上げ回数、裏口の板札の位置、そこに書かれた字の息継ぎ、全てを書きつけていく。書くことは、寝かせることの一部だ。紙は、時間の鍋に似ている。

      *

 翌朝、帝都の空は、洗い上がりの布の色に少しだけ近づいた。近づいただけで、届いてはいない。届いていないことに気づけるうちは、まだ大丈夫だ。
 孤児院の井戸の水面は、浅いが、確かに揺れた。柚は、釣瓶のロープの繊維を指で撫でて、繊維の中の水分を確かめた。繊維は、夜の露を飲んで、ほんのわずかに膨らんでいる。
 倒れた子どもは、昼前に目を開けた。開けた目に、光が入って、光が痛くて、けれど、痛みの裏に薄い笑いがあった。笑いは、痛みを薄める。薄めた痛みは、眠りに適う。

 綾女は遠くの音を拾って、瓶の中で報告書を折るみたいに情報を畳んだ。畳むと、机が広くなる。机が広くなれば、鍋をもうひとつ置ける。
 門楼では、凪雪がいつも通りに拍を合わせ、篝が紙を乾かし、白い布が風に揺れた。揺れは素直で、逆らわない。逆らわない揺れは、楽器の弦に似ている。
 その弦の上に、薄い濁りがひと筋だけ走った。濁りは、音ではなく、匂いに近い。
 黒装束の人物が、また現れた。昨夜と同じ足音。同じ裾の長さ。
 篝は、今度は帳面を渡さず、受け取った。受け取った紙の角は、角であることを忘れたように丸い。丸い角は、何度も手で撫でられた証拠だ。撫でられた紙は、人に似る。
 綾女は、音の輪郭をまた拾えない。拾えない不快は、薄い雑音になって、胸の中で鳴り続ける。
 拾えないものを、拾わない。拾えないものの代わりに、拾えるものを拾う。
 彼女は、願い札の前に立ち、昨日読んだ札の場所を目で探した。——「子が、今夜だけでも熱が下がりますように」。札は、札のままだ。札の裏に、誰かの手の脂が薄く残っている。脂は、名の代わりにはならない。けれど、名の手前で、名の気配になれる。
 綾女は、札の上に、香りの薄片をひとつだけ乗せた。焙じた出汁の、穏やかな苦み。苦みは、甘みとよく結ぶ。甘みは、痛みとよく結ぶ。痛みは、寝かせとよく結ぶ。結ぶ線を、昨日より一本増やす。それが、今日の仕事の半分。

      *

 午後。
 門楼の白の前に、小さな影がひとつ、ふたつ、増えた。下町からの使いが、交代でやってくる。報せは短い。短い報せほど、重い。
 配水局の前で、列の拍が半日持った。持ったが、裏口の板札が新しくなった。新しい墨。昨日よりも呼吸が揃っている。揃っているのは、学習だ。学習は悪ではない。ただ、悪に学習が加わると、面倒になる。
 篝は、板札の拓本を取り、呼吸の箇所に薄く朱を差した。朱は血ではない。けれど、血の代わりに街を走る。

「“春の小切手”という言い換えが使われ出した。文言は柔らかいが、意味は硬い」

 篝の声に、凪雪が静かに答えた。

「柔らかい言葉は、灯下で読み上げると、骨が見える。骨が見えない柔らかさは、布だ。布は、濡れると重くなる」

 綾女は、瓶の栓に触れず、白羽の小旗を握り直した。手の汗で、木の柄が少し湿る。湿った木は滑らない。滑らないが、重さを感じやすい。
 白い布の隙間から、黒い羽根が一枚、ひょい、と顔を出した。風に逆らう揺れ。昨日と同じ。
 綾女は、見て、見ないふりをした。見ないふりは、逃げではない。まだ、見てはいけないものがある。まだ、見ても寝かせられないものがある。寝かせられないものは、見ないで置く。見ないで置く場所を用意するのも、仕事だ。

      *

 夜の入り際。
 門楼の白が、まばたきをした。大盤の金線が、ほんのわずかに跳ね、その跳ねが拍に吸収される。吸収した分だけ、門がわずかに開いた。
 帝都の方角に、薄い音の帯が伸びる。帯は、井戸の縁、屋根の樋、寺社の鈴をゆっくり撫でて、音の上に音を置いていく。置かれた音は、明日の朝の目覚ましになる。
 綾女は、白羽の小旗を膝に置き、掌を開いた。掌の中央で、昨日沈んだ白羽が、温度ではなく音で触れてくる。音は、皮膚の裏を通って、骨にあたる。骨に触る音は、眠気を連れてくる。眠気は、眠りと違う。眠気は、眠りの前の儀式だ。儀式は、手順だ。
 凪雪は、黙っていた。黙っているのに、門の拍は、彼の肩に集まる。集まった拍は、彼の肩で形を変え、白い塔の内側へ返っていく。返っていく拍を、綾女の身体は少し分けてもらっている。分けてもらった拍は、明日の朝、子どもの呼吸に混ぜて返す。

「——綾女」

 名を呼ばれて、綾女は顔を上げた。
 凪雪は、名だけを呼んだ。用件は言わない。名だけで足りる場面が、ときどきある。名は、用件の器だ。器が先に置かれれば、あとから中身は決められる。

「いる」

 綾女は、自分でも驚くほど小さい声で答えた。
 いる、と言うことは、嘘ではない。いる、と言える場所にいる。そのことが、今日、いちばんの仕事だったのかもしれない。
 門の白が、夜の深さに合わせてひとつ呼吸し、灯が二拍三連で合図し、願い札の紙が、薄い音で順番を保ち、黒い瓶の栓が、浮かず沈まずの高さに留まった。
 どこか切ないのは、いつでも、正しい方向が、今ではない場所にあるからだ。今は今でやることがあり、正しい方向は、明日、正しさを減らすかもしれない。だから、拍だけを信じる。拍は、今日と明日のあいだで、唯一、嘘をつかない。

      *

 常世の夜半。
 篝は門楼の陰で、帳面を閉じた。墨はまだ湿っている。湿り気の重さで、紙が少し沈む。沈んだ紙の端から、黒装束の手が現れる。
 声は低く、短く。

「配水局の署名はそろった。次の“春の小切手”を」

「……灯下で読み上げる」

 篝は、言葉を返した。紙を渡すのでも、受けるのでもない。言葉を返す。
 黒装束は沈黙した。沈黙は、合図ではない。ただ、終わりだ。
 綾女は遠くの石段の影に立って、二人のやりとりの音だけを拾った。拾えたのは、名の気配。名が、誰かの口の中で、舌の位置を見失っている音。名前は、舌の位置で呼ぶものだ。位置を見失った名は、声帯の上でバウンドして、喉に落ち、胸に届かず、腹の手前で乾く。乾いた名は、恥とよく似ている。
 首筋が、もう一度だけ疼いた。針先で、一回。
 綾女は瓶の栓に触れず、白羽の小旗を胸に当てた。旗は軽い。軽いものほど、重い場所で効く。

 明日の朝、帝都の広場で最初の合唱が始まる。その前に、眠る。眠りは、仕事だ。寝ることに罪悪感を抱くと、拍が歪む。歪んだ拍で開いた門は、門ではない。
 綾女は白布の上に横たわり、息を整え、四、八、十二。
 耳の奥で、小さな水音がした。井戸の底で、水が石に触る音。触って、離れる音。
 その音が、常世と帝都のあいだに細い橋をかけた。橋は見えない。見えない橋を渡るには、拍が要る。拍は、眠りのあいだも、白い塔の天辺で、きちんと刻まれている。

 ——戻る。

 意識の端で、昼間と同じ言葉が、白い塔の壁に吸い込まれた。
 吸い込まれた言葉は、夜露に混じって、明日の朝、たぶん、井戸の縁に薄く残る。薄く残ったものだけが、長く残る。長く残すために、急がない。
 綾女は、眠った。拍を胸に、黒い瓶を腕に、白い羽根を首筋に。名前は、半分だけ交換され、半分は自分に残したまま。残した半分が、彼女の輪郭を守る。輪郭があるから、配れる。配れるから、支配しない。支配しないから、配当は、配当でいられる。
 常世の門は、夜通し、静かに呼吸を続けた。拍は嘘をつかず、白い塔は嘘を吸い、朝は、少し遅れて、しかし必ず、やって来る。