翌朝の誓約庁は、味噌のように静かだった。塗りの廊下を靴が一度だけ鳴って、すぐに音が吸い込まれる。肩の高さに移した常夜灯が二度だけせわしく明滅して、二、二、三の落ち着きに戻る。会議室の畳はまだ夜の冷えを抱え、座ると背筋が素直に伸びた。

「開会します」

 篝が短く告げ、机上の紙束を三つに分ける。左は常世側、右は帝都側、真ん中に白羽起案の改稿版——今日の主題、「記名の責」を正式の条にする案だ。右頁の第三行目に、墨の新しさが艶を残している。〈自署と読み上げの二重有効化。印璽単独では発効せず〉

 会議は公開。市場・工房・孤児院の代表、寺社の祠官、配水局に残った正規の吏、そして春配所の使いも列席している。使いは硬い顔で座り、机の上に宮中某局の私印の写しを置いていた。目を上げるたび、ただ一言だけを繰り返す。

「上意である」

 言い置く声が、部屋の壁で跳ね返って痩せる。綾女は瓶を胸に置き直し、白羽栓の震えを喉の奥でなぞった。二、二、三。第二紋が首筋の内側で鈍く疼き、言葉の中にある“名の空洞”を指し示す。

「上意ならば、灯下で読み上げられよう」

 篝が穏やかに言い、使用人が常夜灯を部屋の中央へ運び入れる。灯が点り、明滅が二拍三連に落ちる。肩の高さで光が呼吸を始めると、春配所の使いの喉が乾く音が、綾女の耳へはっきり届いた。声は押印、灯は拍の物差し。今日からそれが制度になる。

「手順は三段」

 篝が掌をひらき、凪雪が白羽で机の縁を一度だけ撫でる。

「一、書き手の自署。筆を持つ手の息継ぎを灯下で見せること。偽名は呼吸が続かない」
「二、読み上げ。条文を読み、人々が三行合唱で応答する。合唱が乗らなければ、法は場へ降りていない」
「三、白羽押印。常世側の押印は羽根の震えで判定される。拍が狂っていれば押印は沈む——無効」

 言い切るたび、灯が小さくうなずくように明滅する。肩の高さの光の下で、言葉が椅子を得て座りだす。凪雪は人の姿のまま、背の光の羽線を半ばだけ展開し、輪郭の薄さを拍で支えていた。声は厚い、輪郭は薄い——今の彼はいつもその矛盾を黙って引き受けている。

「事務負担が過大だ」

 春配所の使いが短く反論した。声は乾いて、紙の端を引っ掻くみたいな音になった。
「現場は忙殺される。押印だけで足りる」

 綾女は簿記帳を開き、数字の列を灯下へ押し出す。紙の冷たさを、肩で持つ。
「声の押印を試行して以降、怒りと恥の滞留は——週次で十一パーセント減っています。数字が答えです。歌える式は現場に馴染み、怒りは泡になって小さく砕けます」

「歌で法が立つと?」

「声は押印です」

 綾女の言葉は短く、台所で湯気を吸うみたいに落ち着いていた。

 篝が改稿版を読み上げる。右頁第三行、〈記名の責〉。自署と読み上げの二重有効化。押印は最後。灯下で息を合わせること。合唱は「嘘をつかぬ」「名を奪わぬ」「春を急がぬ」の三行で行う――。

 市場代表の女主人が手を挙げる。頬に粉の白さを残したまま、前に出た。
「読み上げは、すでに値札でやってます。“原価三行/祈り三行”に合唱が乗らない値札は、誰も手に取りません。——“声の押印”は、もう街の癖になり始めている」

 工房代表の女職人が続いた。
「印は肩で押す。灯の高さで押すと、手首が円になる。貸与の印は速すぎる。——二拍、待たせれば分かる」

 孤児院の柚は、台所の布を両手で握ったまま頷いた。
「読み上げがある日は、喧嘩が半分眠くなります。子どもが合いの手を覚えて、待ち時間の“怒り”を歌で寝かせられる」

 寺社の祠官は静かに言葉を添える。
「神前の宣言も同じです。声が届かぬ誓いは、誓いではない」

 春配所の使いは、それでも口を噤まなかった。
「上意である」

 そのときだった。末席にいた若い吏が、椅子を鳴らして立ち上がった。顔色は紙より青く、指先が震えている。彼は胸元から封紙を抜き、机に叩きつけた。宮中某局の細い印と、乾ききらない墨。

「私は——二度目の名を、持たされた」

 綾女の第二紋が鋭く疼き、若者の喉の奥で拍の乱れが走るのが分かる。凪雪が白羽を軽く持ち上げ、空気の縁を二拍、整える。若者の喉がそれに合わせて上下し、声がようやく通る。

「空白の伝票を、束で渡されます。老名で署名しろと。上意のもと、若い手で古い名を書く。責任は過去に逃げる。——私は、自分の名を読んだことがない」

 広間がざわめいた。篝はすぐに声を置き直す。
「証言、記録。——灯下で読み上げる」

 手順は変わらない。若い吏の言葉を短い節に区切り、篝が読み、綾女が合いの手を入れる。「あなたの名は、あなたの器」「奪われてはならない」。群衆の合唱が優しく重なり、声が若者の肩から恥を落とす。怒りは哀しみに変わる。哀しみは寝かせられる。綾女は瓶の栓を半分開け、哀しみを薄く流した。若者の眼に滲んだ涙は、ゆっくり落ち、畳の目に吸われる。

「上意である」

 春配所の使いがなおも言い張ると、灯が短く不規則に明滅した。会議室の空気が一瞬、ひやりとする。春の前借りの匂いは薄いのに、文言だけが“速い”。歌えない三行は舌に引っかかり、言葉が自分の重さで崩れる。

「——常夜灯の下で、読み上げられますか」

 篝の問いに、使いは視線を落とした。彼の喉仏が上下して、しかし声は出ない。灯の下で座りの悪い言葉は、立たない。

「採決に入ります」

 祠官が進行を引き取り、白羽起案・右頁第三行の改稿版について、挙手を促す。市場、工房、孤児院、寺社、配水局の正規吏。手が上がるリズムは奇妙に揃い、二、二、三の間で決まった。反対は春配所の使い一名のみ。
 ただし、一週の試行を置いたうえで本施行——留保が付く。篝は紙の角を意図的に丸めてから、控えの欄に〈一週試行〉の朱を入れた。

 春配所の使いは「上意確認」を口実に退室した。灯は彼の背中を照らさない。灯の外で読まれない言葉は、紙の上では強そうに見えても、場には降りない。

 会議が解け、人の輪が廊下へ流れる。市場の女主人は「合唱の時間を増やす」と言い、工房の女職人は「印の講習を三日に一度」と短く決め、柚は「孤児院の読み上げは午后の粥の前」と紙に書いた。日常の手は、すぐ予定表に落ちる。

「——終わった?」

 廊下の角で、柚が綾女に声を掛ける。木盆の上で湯飲みがふたつ、薄く湯気を立てている。受け取ると、湯の温度が掌にやさしい。
「終わった。けど、始まった」
「うん。いつもそう」
 会話は短い。短いぶんだけ、体温で馴染む。

     *

 外は薄曇り。誓約庁の前庭では、子どもたちが小さな読み上げの練習をしていた。板に書かれた三行を指で追い、「嘘をつかぬ」「名を奪わぬ」「春を急がぬ」を、ひと文字ずつ舌で味わうみたいに言っていく。
「声、押してる」
「押してる」
 彼らの肩の高さの灯は軽く、しかし確かに明滅した。

 篝が書記台の前でそろばんを弾く。数字は冷たいが、読み上げの声に乗ると、背骨に変わる。
「今日の臨時施行で、Rの見込みはさらに二パーセント」
「二は小さい?」
「骨になる数字は、たいてい小さい」
 篝が笑った。彼の笑いは薄口の出汁のようで、言葉の輪郭だけを残して去っていく。

     *

 夕刻。綾女は凪雪の居に戻った。障子を開けると、薄い光が畳の目に沿って滑り、床几の上に彼の輪郭を薄く置く。背の光の羽線は、昨日よりもさらに霞んで見えた。それでも、声は厚い。

「白羽、貸して」

 綾女が近寄り、白羽栓を彼の肩口にそっと当てる。拍を合わせるだけで、部屋の空気が一段深くなる。
「人の姿、どのくらい」
「春が来るまで、持たせる」
「急がない」
「ああ。急がせない」

 会話は石畳の上の靴音みたいに短く続いて、すぐに静けさに戻る。綾女は瓶の栓を指先で確かめ、三度目の息継ぎを長くした。四で受け、八で束ね、十二で寝かせる。哀しみが深い椅子に座り、怒りは丸い石になって足元に戻る。恐れは細い糸になって梁へと渡り、恥は乾いて薄い布に変わる。

「今日、彼が言った“二度目の名”」

 綾女が口にすると、凪雪は目を細めた。
「名の椅子が足りないと、余所の名に座る。椅子を増やすのが、お前らの条文だ」
「増やす。声で支える椅子。——“記名の責”、一週の試行を越えて骨にする」
「骨になれば、折れにくい」

 窓の外、屋根樋ネットを渡った薄い夜露が、工房の桶に音もなく落ちた。白羽の刻印がゆるく光る。柚が厨房で器を重ねる小さな音がして、続いて薬味の香りがひと筋、部屋へ流れ込む。香りは暮らしの押印だ。紙の冷たさを、台所の湯気が包む。

「次は祭だ」

 綾女はひとりごとのように言った。声は落ち着いて、しかし小さく震える。「場の拍を喜びへ転調する。制度の骨を、人の口で固める」
「“反攻の祭”。——供出とご馳走」
「うん。返すと食べるを、同じ台の上に並べる」

 凪雪の輪郭が、灯の中で一瞬ほどけた。綾女は思わず身を寄せ、白羽栓を深く当て直す。拍が合う。彼は短く息を吐き、目元だけで笑った。

「お前の声は、押す」
「あなたの沈黙は、支える」

 甘い台詞のはずなのに、湯飲みの温度みたいに静かに沈む。柚が戸の向こうから「粥、よそっていい?」と声をかける。
「香りだけ、強めで」
「りょうかい」
 台所の明かりがすこし揺れて、二、二、三の拍で戻る。

 夜の終わり際、篝が控えの紙束を持って現れた。扉の前で短く会釈し、紙を綾女に渡す。
「明朝の掲示。『記名の責』、一週試行の段取り。読み上げの時間割は——市場が朝、孤児院が昼、工房が宵」
「ありがとう」
「灯は、三つとも肩の高さに」
「肩で押す」
 篝は微笑んで去り、廊下の足音がすぐ消えた。

 綾女は白羽栓を自分の胸に当て、静かに息を整える。
 二、二、三。
 数字は声に乗り、声は灯に支えられ、灯は肩に置かれる。
 紙は立ち、名は落ちない。
 明日は祭の準備に着手する。返すことと食べることを、同じ歌で包む。
 急がぬ。急がぬが、進む。

 窓の外、禁区の上空にうすく残る光輪は、まだ速さを手放していない。けれど、室内の拍は暮らしの方へゆっくり傾き、台所の湯気は今日もやさしく上がる。
 綾女は瓶を抱き、白羽栓を一度だけ鳴らした。
 二、二、三。
 その小さな音に、遠くの常夜灯がわずかに応じた。歌える三行に、明日を渡す合図のように。